城山(じょうやま/矢沢城址)
 〜神川合戦に際し戦功、武名高き山城址〜標高650m〜
 上田市の矢沢にある、中世の山城址(矢沢城址)の山。現在「山」や「城址」というよりは「公園」として整備され、一般には「矢沢公園」の名で近隣住民に親しまれている地だが、いざ訪れてみると、山城の遺構はかなり顕著で、歴史ファンにとっては興味津々。殿城山(殿城山城址)を背後にひかえ、西側正面には虚空蔵山(伊勢崎城址)と間近に対峙する位置関係にあり、往時は各城間で何らかの連携があったものかも知れない。
 登り口にある案内看板によれば、この城、甲斐の武田氏に属する真田幸隆の弟、矢沢綱頼の居城で、天正13年(1585)の上田(神川)合戦の際には、綱頼の子三十郎頼定が800の守兵で依田源七郎ら1,500の軍勢を退けたとあり、なかなかどうして、武名高い城の一つであったようだ。ちなみに真田幸隆といえば、信濃の勇将・村上義清に属する難攻不落の戸石城を謀略で陥落させるなど、数々の武功を立てた智将として知られており、その弟が守った城となれば、さもありなんとは容易に想像される。あるいは件の戸石城攻略に際しても、この城が硬軟取り混ぜて何らかの役割を果たしたやも知れぬが(注:この城は戸石城にも距離的に近い)、現時点で筆者の手元にある文献資料からは、そのあたりの事情をうかがい知ることはできない。『長野縣町村誌 東信篇』中「殿城村」の「古跡」の項にも、「矢澤氏城跡」として「本村矢澤組より辰の方三町にあり。石壘存す。二の郭方十間、西北又郭の跡ありて、回字形なり。該地一丘高く基を異にす。南に大澤あり、左口澤と云ふ。北に堀切一條、四面より登りて要地なり。これ矢澤薩摩守綱ョ、天文中築く所にして、其子但馬守ョ幸までの居城なり。平常の居館は今の村中に在しと云。本郭に神明社あり。」との記述があるのみであり、そもそも「天文中」というのが、戸石城の落城前なのか、それとも後なのか、判然としないのだ。
 さて、この山は前述の通り、今は公園として整備されているので、訪れるのは存外楽。西側山麓から上がる道と、東側の貯水池のあるあたりから上がる道とがあるが、どちらをとっても時間的に大差はなく、15〜20分もあれば頂上に達することができよう。頂上周辺には明瞭な郭や空堀、石積等の遺構があり、いかにも山城址らしい場所であるが、頂上の本郭址は筆者の訪問時点では特に標識の類もなく、松の木が数本生えているだけの草付きで、存外地味な場所であった。その代わり、西側一段下の郭に祀られている神社(注:上に引用した『長野縣町村誌 東信篇』の文中「神明社」とある神社。なお、同書中「社」の項には「皇大神社」とあり、祭神は大日靈命、創建年月不詳とある。)や、また北側の郭にある「城山遊園記」の碑(注:これにより、この地が「城山」と称されていることが判る。)など、他にも見所は多い。随所に地域の人々の古くからのこの地への愛着がうかがえるのが、またこの地が「公園」たる所以なのであろう。

 ← 矢沢城址にある神明社の祠(矢沢城址の城山頂上付近にて)

【緯度】362444 【経度】1381836
(矢沢集落のすぐ東にある神社表示のある地点が、本項で紹介する矢沢城址です。)