早落山(はやおとしやま/早落城址)
 〜あまりに早く落城し「早落城」の汚名を被る〜標高778m〜
 松本市洞にある、戦国時代の山城址(早落城址)の山。
 「早落」などと、城にあるまじき名だが、その由来は中信エリアの「一夜山」などと同様、敵の攻撃にあまりに早く落城したことによるとのこと。『日本歴史地名体系20 長野県の地名』(平凡社刊)の「洞村」の項には、『信府統記』からの引用として「洞村山ノ古城地
早落山ノ城ト云ヒ伝フ 〜(中略)〜 早落山ノ号、城ニハ忌ヘキ名ナリ、此城日アラスシテ落城セシコトアリケル故、山ノ号トシテ称ヘ来レルニヤ」と記されている。これからすると、この城址のある山の名は「早落山」でよさそうだが、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の備考欄には「別称−洞山砦」とあり、また南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)では同城址名を「洞山城跡」としている。本項では一応、現地案内板の城址名と整合を取る意味で「早落山」の名で紹介しておきたい。また、山名の読み方については、『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』では「はやおち」とルビが付されているが、『長野縣町村誌 南信篇』の「岡本村」の「古跡」の項には「早落シ城趾」として掲載されていること、また『信州の城と古戦場』でも「稲倉出城の一つ。武田軍の侵攻に本城とともにあまり早く落ちたので『早落とし城』という名がつけられたそうである。」とあること等を考慮し、当面「はやおとし」としておくことにする。(後日、考えが変わった場合には修正する。)
 この山の城の落城の経緯については、上記『長野縣町村誌 南信篇』には「本村寅の方にあり。東西九間、南北不明、回字形をなせり。赤澤氏の出丸たり。部下林小太郎と云ふ者に之を守らしむ。天文二十二年武田晴信の大軍、赤澤貞庸を攻撃するの日、押寄せ戰ひしが、暫時に敗れて落去す。依て早落の名を負ふと云ふ。」とあるが、一方で「本郷地区景観整備委員会」が平成9年11月に設置した現地案内看板には、「中世、稲倉城の支城、赤沢氏の持城で洞城と言ったが、小笠原氏は奪って岡田郷の井深城主後庁氏に与えた。天文十九年(一五五〇)武田氏が林城を攻略した際に赤沢氏はいち早く攻め落としたので早落城と呼ばれるようになった。赤沢氏は家臣の林氏に守らせたが、天正一〇年(一五八二)に廃城となる。尾根に三つのくるわと四条の空堀が残る。」とあり、話が合わない。
 この点に関しては、『信州の城と古戦場』によれば、天文19年(1550年)に小笠原氏の本拠「林城」とその属城群が武田氏の掌中に落ちた際、「稲倉城」などもあっさり降参を申し出たとあるので、稲倉城支城の早落城もこの際に同時に落ちたと考えるのが自然であり、どうも現地案内看板の記述内容の方が確かなようだ。ちなみに『長野縣町村誌 南信篇』が落城年として主張する天文22年(1553年)といえば、甲斐の武田信玄がついに村上義清の本拠「葛尾城」を落とした年であり、同じ年には葛尾城の落城に先立ち、中信エリアでも別掲の「鷹巣根城」などが落城しているから、同書の編纂時点においては案外それらと混同されてしまったものかも知れない。
 さて、この山に登るには、「早落ち」というくらいだから存外楽で、山麓の「住吉神社」から上がれば、せいぜい20分も歩けば頂上の本郭址に達する。山城としては、やはり山麓からの比高が足りなさ過ぎたのであろうと思われる。もっとも郭や空堀など、山城址の遺構は結構顕著に残っていて見応えは十分。また登り口近くには「耳ききさま」と呼ばれる耳の病に霊験があるという祠などがあって興味深い。

 ← 空堀の遺構(早落城址にて)

【緯度】361640 【経度】1375907
(南洞集落のすぐ西にある778m標高点の峰が、本項で紹介する早落城址です。)