月夜棚(つきよだな/飯田城址)・飯田秋葉山(いいだあきばさん)
 〜ロマンチックな地名に心惹かれる〜標高1,014m(月夜棚)・860m(飯田秋葉山)〜
 白馬村神城にある北アルプス前衛の峰々。
 「月夜棚」は、北アルプス小遠見山から天狗岳あたりの山嶺の前衛に、あたかも棚の如く平坦な地形を見せている一角の総称で、山麓から見上げても背景の山の方に気を惹かれて、あまり目立たない山域だが、その何ともロマンチックな響きをもった地名は特筆ものだろう。東信地域の荒船山の近くにある「星尾峠」などと同様、名前から連想する限り、月夜にその「棚」の上から見上げる美しい星降る夜空の情景などが自然にイメージされてきて… 筆者などはどうしても自身の目で確かめたくなってしまったほどのものだ。もっとも、いざ訪れてみると、「棚」の上は結構密な樹林に覆われているので、実際にこの棚上で夜を過ごしても、そうスカッとした星降る夜空が楽しめるかどうかはわからないが…
 また、そのような地形からして、中世にはこの地に必然的に城館が置かれた。「飯田城址」(「月夜沢城址」ともいう)がそれで、往時はいずれも仁科氏配下にあって、付近の飯森城(一夜山)三日市場城(大宮山)と連携結束して防御体勢をとろうとしたものであろう。実際、かくも広大な「棚」状地形は、城館の構築にはうってつけであったと思われる。ただ、実戦において相応の成果をあげ得たかといえば、必ずしもそうではないらしく、弘治元年(1555年)頃から始まる甲斐の武田氏の侵攻に対しては、特に有効な反撃もできないまま壊滅したもののようだ。
 ところで、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡分布図では、この城址の範囲を、地形図上「月夜棚」と表示されている一角の北側の、1,013.5m三角点を中心とした稜線部一帯としている。しかし、その後発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第7巻 安曇・木曽編』(戎光祥出版刊)では、1,013.5m三角点峰付近に何の遺構も見当たらないことから、「飯田城」を同三角点峰の北西の988m標高点峰付近とする一方、三角点峰の東約400mの神社表示のある峰(飯田秋葉山)付近を「飯田城秋葉山砦」として別の城址扱いにし、これら2城は全く別の意図で造られたと見る方が良さそうだとしている。(もっとも宮坂氏は、両城が同じ山にあるため、無縁であったとは考えにくいともしている。そのため本項では当面、あえて2城には分けず、一括して「飯田城」としておくこととする。)
 さて、この城址に訪れるには、まずは白馬村神城へと向かう。山麓の飯田集落あたりに車を走らせ、旧千国街道沿いの「飯田犬川端庚申塚石仏群」のあるあたりから数百m南に行ったへんで大糸線の鉄道をまたぎ、そこから尾根通しの道を上がる。登り始めてすぐ鳥居をくぐり、ほどなく「秋葉神社」などの祠がある峰に達するが、現地案内板によれば、このあたりを「飯田秋葉山」という。道は祠の裏手にさらに続いており、山城址らしく数条の空堀を乗り越え、さらに尾根通しに高度を上げていくと、そのうち無線施設を通過するへんから、道の両側から迫る薮が鬱陶しい登行となる。それでも踏跡は一応はっきりしているので、とにかく枝をかきわけながら登り続け、どうやら平坦な尾根上に飛び出ると、そこが三角点地点。例によって案内看板もない静かな雰囲気の場所だが、片隅の樹幹には、外れかけた「トレッキングコース」の古い道標があるので、以前は良く整備されたルートがあったものの、利用者が少なくて荒れてしまったものらしい。なお、付近の最高点は三角点地点よりやや奥の尾根上にあるが、樹間から小遠見山方面の白銀の山嶺が望まれる以外、やはり特に目につくものもない、静かな雰囲気の場所。(注:ただし、地形図上では三角点地点と同じ等高線の範囲内にあるので、本項では混乱を避けるため、三角点地点の標高を「月夜棚」の標高として記したところ。)以上、尾根の取付から飯田秋葉山経由で飯田城址の最高点までの所要時間は、片道1時間半程度。
 なお、地形図上「月夜棚」と表示されている一帯は、上記の飯田城址のある1,013.5m三角点峰から、さらに南にかけて拡がっており、堀切状の結構深い谷(注:これは純然たる自然地形のようである)を隔てて、1,000m等高線で囲まれた広い峰、さらにその南の1,008m標高点にまで及んでいる。『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』は、この1,008m標高点峰を「沢渡城」であるとしており(注:しかも同書の城館跡一覧表では、「沢渡城」を「神城村大字沢渡字
月夜棚」としている)、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)も同様の記述になっているので、筆者は当初ここを「沢渡城址」であると理解し、本項でも当初はそのように紹介していた。もっとも筆者が実際にそこに訪れた際、城址の遺構的には目立って特徴的なものはなく、あまり高くも深くもない土塁や空堀が目につく程度であることに疑問を感じないでもなかったが、なにしろ信州の城館のバイブル的な文献に明記されているのだから、あえて疑う必要もないし、遺構が少ない理由としては、そこは戦闘用の城というよりは、むしろ緊急避難用の館でも設けられていたのではないかと考えたのである。実際、そのあたりは飯田城址の1,013.5m三角点峰あたりとは比較にならないほど広大な平地になっており、多くの人々が非難可能な居住施設を設けるには格好の場所と見える。(注:現に館の遺構まで見られる山梨県の要害山城の本郭の様子から連想。)また、そこへの登行ルートである沢筋の中途から「棚」上にかけて、井戸の遺構らしきものが複数目についたことも、筆者の想像をより強固なものにした。これほど規模の大きい城館エリアなら、かなりな量の水の貯えも必要であったと思われるからである。そして南原公平氏著『信州の城と古戦場』において沢渡城が「北安随一の城」と紹介されているのは、おそらくこの広大さを指しての形容であろうと解釈したのである。
 しかし、その後発刊された上記宮坂氏の『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第7巻 安曇・木曽編』では、「沢渡城」をそれより更に南の尾根上とし、1,008m標高点峰の方は「月夜棚空堀遺構」と別の名で紹介している(!)。しかも宮坂氏によれば、これを中世の城砦の遺構と見るのは無理があるという。確かに、そう言われて見ると、現地に城址らしい遺構とおぼしきものがあまり目につかないことは厳然たる事実だし、何より上記宮坂氏の著書が、現時点における信州の城館址研究の最新かつ最高の成果であることは論を俟たない。それに考えてみると、「沢渡城」に関しては、『日本城郭大系 8 長野・山梨』(新人物往来社刊)では「三日市場城」と混同しているように見えるなど(注:「三日市場城」には「沢渡城」「宮原城」「大宮城」といった別名があり、紛らわしいことは事実)、文献によって混乱していることを認めざるを得ず… そのため、筆者もこの際宮坂氏の著書に従って本項の記述を改め、「月夜棚」の関係山城址から「沢渡城」を除外した次第である。また「月夜棚空堀遺構」については、上記のとおり城砦の遺構と見るのは無理があるようなので、これを新たな見出しに加えることも、当面見送ることとした。
 とはいえ、あるいはこの1,008m標高点峰の方に訪れてみたいという向きもあるかも知れないので、参考までに筆者が訪れたルートを次に記しておく。筆者は地形図上で検討の結果、沢渡城址の峰の南の直下の砂防堰堤あたりまで通じている林道を利用し、後は谷筋を登りつめて「棚」の上に出た。実際、砂防堰堤の先の谷筋には昔の道形らしきものもある。このルート、上部では結構急傾斜になるが、所要時間的には先の飯田城址のある1,013.5m三角点峰よりは短く、砂防堰堤付近の取付から「棚」上まではほんの30〜40分程度。最後の急登を強引に登り切った先には、前述のとおり広大な平地が眼前に拡がる。樹林が障害となって展望はきかないが、その分、そんな林中をのんびり逍遥しつつ、しばし往時に想いをはせてみるのもまた一興であろう。

 ← 広大な「棚」状地形(「月夜棚」上部にて)

【緯度】363914 【経度】1375017
(1,013.5m三角点が飯田城址、その東約400mの神社表示が飯田秋葉山です。)