私の山岳“徒然草”


  【雑感・覚え書きリスト】(各文は閲覧上の便宜を考慮し、記述年月日の新しい順に配列しました)


思いがけぬ出会い・ある映画シナリオ
 今日は折角の週末ながら、家庭の所用で何かと忙しく、残念ながらたとえ短時間にしろ山に訪れる望みがないので、合間の時間を利用して、久々につい最近の「思いがけぬ出会い」について記してみたいと思う。それは今を去ること30年近くも前になる昭和50年代の初め、新田次郎原作、森谷司郎監督の映画『聖職の碑』が封切り・公開されたが、その当時に出回った同映画のシナリオブックにまつわる話である。
 というのは、私は同映画の公開当時、そのシナリオブックを入手し損ねて以来、長いこと古書店等でこれを探し続けてきたが、インターネットオークションに数回出品されたのを目にした以外、全く発見することができず、最近ではほとんど入手を諦めかけていたのだが… それがつい先日の晩、全く「思いがけず」その現物が私の手元に舞い込んできたのだ!
 由来、私はこの『聖職の碑』という作品には、以前掲載した、「山に関わる映画の話を少々…」という小文の中にもちょっと記した通り、少なからず思い入れがあるものである。それは、この作品が私の故郷長野県を舞台としていることはもとより、確か小学校5〜6年の頃、たまたま当時の担任教師が、授業の合間に新田次郎によるこの作品の素晴らしさについて話してくれ、一部朗読してくれたりしたことに端を発している。そしてまた、そのことは、私がまがりなりにも今日まで「山」を続けてこれたことの、ひとつの重大なきっかけを提供してくれた出来事でもあったのだ。
 当時、私は担任教師の話や朗読の内容から、子供心にも是非その作品を全て通しで読んでみたいと思い、帰宅後に親父にそんな話をしたところ、何故か親父はそれをすぐに買ってきてくれ(他の物を頼んでも大概故意に無視するくせに!?)、早速、期待と共に読み始めてみたところ、担任教師の言葉に嘘はなく、私はたちまちその世界に惹き込まれ、一気に読破。そんなきっかけで、引き続いて同じ作者の『八甲田山死の彷徨』なども読み始め、おかげで私は山が好きになり、井上靖の『氷壁』など、他の作者の作品まで手を伸ばし、さらには「山」に限らず文芸全般の素晴らしさについて自覚していく端緒となったものである。
 私が先に「少なからぬ思い入れ」と記した所以は、実にそこにある。もっとも今にして思えば、ただ文芸のジャンルだけ好きになっていれば何も余計な苦労をしなくても済んだものを、わざわざ「山」などという趣味に入れ込んでしまったことに、いささか複雑な念がないでもないが…
 それはともかく、私が同書を読んでからしばらくして、同作品は上述の通り、森谷司郎監督によって映画化され、しかも同映画は当時の文部省の推薦映画にもなったので、早速同級生と二人で映画館に足を運んだ。と… それは当初の期待通り、原作の良さを損なわない脚本、かつ素晴らしいカメラワークによる映像美とで、当時中学生の私をして大いに感動を覚えさせるに十分なものであった。
 私は同映画の鑑賞後、興奮さめやらぬうちに映画館の窓口に行き、映画のパンフレットを買い求めようとした。が、何と既に売り切れとの答え(!)。当時はビデオもない頃のこと、パンフレットは映画鑑賞後にそのストーリーやシーンを思い出すための貴重な媒体だったので、私が大変悔しい思いをしたのは言うまでもない。また、なまじ感動が大きかっただけに、ないと言われても、にわかに諦め切れるものでもなく… 私は、しばし映画館から立ち去り難い思いのままに、窓口のあたりを行きつ戻りつしながら、何の気なしに窓口の奥の机に目をやると、そこに墨痕鮮やかに「聖職の碑」と記された、一冊の冊子が置かれてあるのを目にした。
 それが、私がこの映画のシナリオブックの存在を意識した最初であった。
 普通、映画の公開に際してシナリオブックが出回ることなど、あまり聞かないので、私はそれからしばらくの間、一体あれは何だったのか、何故あそこにあったのか、パンフレットと同時か又はパンフレットの代替品として頒布されたものだったのか、等、消えやらぬ悔しさと共に疑問を抱いていたが、そのうち私は、中学校の図書室の書架に、思いがけずそのシナリオブックが立ててあるのを見出した。私は驚いてそれを手にしてざっと目を通してみたところ、その内容は確かに映画で観た通りのシーン、台詞、情景描写であり、かつ、それが映画の公開前に、よりよい映画にするための意見募集等に役立てるための「非売品」であったことを知ることができた。ただ残念なことには、それは「貸出不可」で、受験だ何だと多忙な中学生活の中では、ゆっくり目を通すほどの暇も得られず、また「非売品」として、当時一体どのような形で出回ったものかも不明なままであった。
 ともあれ、その時以来、私は、古書店等でずっとそのシナリオブックやパンフレットを探し続けてきたものである。が、大学時代に東京・神田の古書店街で、同映画のパンフレットだけは何とか入手することができたものの、シナリオブックだけはどこを探しても、ずっと見つからず、はたまた図書館などで目にする機会にも再度恵まれることもなく… わずかに時折インターネットオークションに出回っているのを目にしたものの、全く面識もない相手方と、ただ電子媒体のみを通じて行う契約行為に対する一抹の不安と抵抗感もあって、結局応札することもないままに経過してしまい、最近では実のところ半ば入手を諦めかけていたところだった。
 ところが… つい先日の晩、前述の通り全く思いがけず、このシナリオブックが私の手元に突如として届けられたのだ!
 それは、たまたま私が『聖職の碑』など新田次郎作品に触れたことが一つのきっかけとなり、山にのめり込むに至ったという話を偶然伝え聞いた、親父の学生時代の同級生の方の格別の御好意によるものだった。私は中学生時代に学校図書館で出会って以来、実に29年振りにその現物を手にし、久方ぶりに興奮してページを開いたなり、そのまま時間も忘れて読み始めてしまい、気がついたら翌日の午前2時過ぎになってしまっていたほどであった。実際、読み進めるにつれて、映画の各シーンが鮮やかに脳裏によみがえり、読後感はまるで私が中学生時代、初めてこの映画を鑑賞した時のようにフレッシュなものであった。
 それにしても、この映画、私にとってはある意味、結構「つれない」映画で… シナリオブックやパンフレットが当初手に入らなかったことはおろか、ビデオの方までもが、なぜか長いこと商品化されず(同じ原作者・監督の『八甲田山』は複数回製品化されているにもかかわらず)、その点でも私は長いこと悔しい思いをしてきたものだった。ただ、私の高校時代に一度だけテレビ放映されたことがあり、当時はビデオもなかったことから、全内容をカセットテープレコーダーで録音を採り、折にふれて再生しては、全編の台詞をほぼ丸暗記してしまうほど聞き込んでいたものである。もっともこの作品、林光の音楽も非常に美しく聴き応えがあり、音だけでも相当程度に満足できたものだが… どうせなら音だけでなく、是非映像も観たいと思っていたところ、ようやく平成17年12月21日になってDVDが発売されたことは、先の「山に関わる映画の話を少々…」にも記した通りである。
 が、念願のDVDの発売後も、なお私の頭の片隅には、どこか満たし切れない想い(あのシナリオのこと)があったことは言うまでもない。それが学生時代の強烈な思い出に由来するものであるだけに、なおさら私にとってはその感が強かったのであろう。それゆえ今回の「思いがけぬ出会い」は、実にそんな30年近くに及ぶ久しい想いが成就したという、私にとっては特別の意義ある出会いであったことから… 今回、いささか多忙の中であることもあえて厭わず、ここに一筆してみた次第である。
 実際、思えば今日に至るまで、私にとってこの『聖職の碑』にまつわる諸々の出来事は、今回のシナリオブックとの対面はもちろんのこと、小学校時代の担任教師の情報提供から、親父が買ってきてくれた本との出会い、映画館で墨痕鮮やかな「聖職の碑」の文字のある冊子を見出したこと、中学校の図書館でのシナリオブックの発見、東京・神田の古書店街でのパンフレットの発見、ようやく発売されたDVDの発売日当日中の購入… と、いずれもがまさに「思いがけぬ出会い」の連続であった。そして私にとって最も重大かつ喜ばしき出会いこそ、この作品を含む新田次郎の一連の作品群を通じて、私がいつか「山」を志すようになっていったことであったろうと思う。
 おそらく今後、件のシナリオブックは、、私にとっては「山」への初心を思い返させてくれる一つの貴重な媒体として、また学生当時の私の感動を、私の子供達にも伝えていくための大切な資料として、末永く役立っていってくれることであろう。
 (平成19年12月8日記)
 

    



 状況が情けない〜〜里山の現状を憂う
 山では時折「思いがけぬ出会い」があるからワクワクするのだとか、森には“癒し”効果があるとか、「山登り」は立派な社会教育活動であるとか、山城址の山も改めて見直すと良いものだとか、山は子供の脳の発達にも好影響をもたらすとか…
 このところ、公私共に多忙で、なかなか“徒然草”の方にまで手が回らずにいたが… 久々に書いてみる気になって過去の拙文を改めて読み返してみたら、ざっと上記のような美辞麗句が並んでいたが…
 そもそも「山」というものが 〜 特に最近私が惹かれている「里山」について 〜 そのように素晴らしい場所であるならば、放っておいても大勢の人が訪れそうなものなのだが…
 現実には、決してそうはなっていないと言わざるを得ない。そんな状況が、何やら異様にすら思われるのは、私だけだろうか…?
 本HPを立ち上げて、はや数年。その間、里山見直しの機運が高まりつつあるとかいう話は方々で良く聞くし、実際に千曲市の鏡台山とか、坂城町の虚空蔵山とか、茅野市の小泉山など、ピンポイントでは登山道や頂上の整備が素晴らしくなされている山も多く見掛けるところではあるが…
 その割には、あまりに荒れている山の方が多すぎるような気がする。それも、過去に一度整備されたにも関わらず、訪れる人が少なくて、いつしかまた荒れてしまったというような所を結構見受けるのだ。少なくとも私の目には、大袈裟な話「宝の山」にすら見えるほどの山々がである。
 何故なのだろう? 今は中高年を中心とした登山ブームのはずではないのだろうか?
 そういえば、その肝心の中高年登山者を、最近私が訪れるような里山ではろくに見掛けた例がない。
 一体、彼等はどこに行っているのだろうか…?
 多くの人々が身近な里山の良さに気付き、至極気軽に身近な山に訪れてさえいれば、結果として夏の薮が伸びる時季の里山でも、多くの人に踏まれて道もしっかりしているだろうに… また、そんな山であればこそ、各自治体も厳しい財政状況の下であれ、何らかの整備の手立てを考慮する余地もあるであろうに…
 然るに現実には、目を覆うばかりの惨状を呈している山が多過ぎる。情けない限りだ。
 どうしてこんな有様になってしまったのか、原因として思い当たる節がないではない。
 例えば、深田久弥の「日本百名山」はじめ「○○名山」の類が極度に世間に蔓延してしまったこと。実際、私の知人の中には「○○名山」でなければ山ではないと思っているとしか見えない向きが実に多いのだ。もっとも、そういう私自身、山を始めたばかりの頃は、その「○○名山」詣でに血道をあげていた者ゆえ、あまり人のことは言えないと思っているが…
 また、昨年あたりを中心に最近やたらと大騒ぎされた一連の「熊」の出現騒動も、あるいは近年の里山見直しの機運に水をさしたかも知れない。あの時はマスコミがこぞって、これでもか、これでもかとセンセーショナルな報道を繰り返したので、私のように元々感覚が麻痺している者はともかく、にわか趣味のツアー登山愛好型の登山者には相当精神的効果があったろう。それにしても、その報道の過熱ぶりたるや、あまりにも執拗であったので、私など、かえって逆に勘ぐり、それら熊出現情報の何割かは、地元の人々が「茸山」を他人に荒らされたくないがために「ガセ」情報を相当多数流したのではないかと疑ってしまったほどだ。
 いずれにせよ、それらの一種偏った情報に踊らされて、多くの人々が里山の価値を見失ってしまうとしたなら、それは私が思うに、我々の社会にとって、きわめて大きい損失であるように思われてならない。
 一体、多くの「登山」趣味の人々にとって、「山」とは何なのだろう?
 私は最近、山を歩くたび 〜 特に里山を歩けば歩くほど 〜 感じる。以前はただ薄暗くて鬱陶しいとしか感じなかったような薮の中にまで、四季折々の「賑わい」を。あるいは一種のオーラとでも形容すべき「輝き」を。
 春の芽吹き、流れ出す清流、眠りから覚めた蝶の舞… 夏の草薮、木の根方の花々、群れをなす色とりどりの蝶… 秋の紅葉、その下に静かにたたずむ路傍の石仏、変わった形や模様の露岩… 冬の樹氷、雪上に点々と残る動物の足跡、豪雪に変形した芸術的ですらある木の幹…
 それらはいずれも、決してナントカ名山ばかりの専売特許ではない。
 むしろ、意外と身近な里山の中にこそ、真に情緒豊かでバラエティに富んだ風物が見られるように思うのだが…
 まあ人それぞれ「好み」もあろうから、あえて積極的に人に里山歩きを推奨する必要もないようにも思えないでもないし… また里山の場合、訪れる人が少ないからこそ、ナントカ名山の類の山のように混雑もせず、自分だけで楽しめるエリアが得られることが喜ばしいと言えなくもないのは確かではあろうが…
 それにしても… だ。
 少なくとも山を志していながら、里山を「山」として見ることのできない人達こそ、本当に気の毒な人達だと私には思えてならない。
 里山といえど、いや里山なればこそ、興味をもって歩きさえすれば、様々な方面の学習のきっかけになることは間違いない。高山植物や昆虫の知識しかり、また山城址にまつわる戦国乱世の歴史や、個々の山と密接にかかわりあう地域の郷土史しかり… しかも、そのような絶好のフィールドが、その気になりさえすれば、本当に自分に身近な所に得ることが可能なのだ。そのようなことは、高くて遠い山には決して望めない。
 要は、そんな里山の機能に、個々の地域や人がよく価値を見出し得るかどうかということなのだろう。
 そして、その価値をうまく生かせたとすれば、あるいは当該地域に里山を中心とした「町おこし」「村おこし」のきっかけを提供することになるかも知れないのだ。ただでさえ市町村合併が進み、周辺地域などにその弊害が指摘されがちな今のような時代にあってみれば、なおさら、そのようなきっかけを通じ、自分達の住む地域の良さを知ることのできる試みが有益なはずだ。
 ただ、そうかといって最近の「風林火山」みたいな安直なブーム便乗観光開発につながるのも面白くないし… また、いかに里山興しの意図をもってする試みであっても、「里山百名山」の類を新たにこしらえるようなことは論外であろう。一歩間違えれば、今の「(日本)百名山公害」を里山レベルにまで持ち込むことになりかねないからだ。特に里山の場合、先にちょっとふれた「茸山」ではないが、むしろ安易な観光宣伝がかえって悪影響を及ぼす恐れをも十分に考慮しなければならないだろうし。
 まあ色々、突き詰めて考えると難しいもので… かく、何やら複雑な気持ちと共に自己流の山行を続けている今日この頃である。
 (平成19年11月8日記)
 

    



 山に関わる映画の話を少々…
 私は自他共に認める多趣味人間で、ある程度ジャンルは限られてはいるが映画鑑賞という趣味もある。当然、山を舞台にした映画を観るのも大いに好きなのだが… ここ数日、そんな山の映画に関する、いくつかの出来事(それも、ある意味で私の山登りのルーツに関する)があったので、ちょっと記してみたい。
 たまたま昨日(12月22日)の新聞を見ていたら、アメリカの作家トレヴェニアン氏の訃報が目に飛び込んだ。はて、どこかで聞いた名だが… と思いつつ記事を読み進めると、はたして然り、映画にもなった『アイガー・サンクション』の原作者だった。なるほど、道理で記憶の片隅に残っていたわけだ。
 もっとも私は映画の方しか観ていないので、以下の話は映画に限ってのことになるので御了承の程を… この『アイガー・サンクション』、山をやる向きなら御存知の方も多いと思うが、題名の通り、スイス・アルプスの名峰アイガーの北壁を舞台に繰り広げられる物語で、ストーリー自体はアメリカのCIAがからむ殺し屋の話だが、何といっても名優クリント・イーストウッドが実際にアイガー北壁で文字通り命を張って撮影に挑戦した大迫力の登攀シーンの数々! 幸いビデオも発売されており、私はストーリーなど二の次、かのアイガー北壁の貴重な映像の数々を目にすることができるだけでも手元に置く価値十分、というわけで、当然ライブラリーの内に揃えてある。
 ところが… 私はこの映画の中に、ちょっと気になるシーンを見出した。それは、イーストウッドらがアイガー北壁に挑んでいる間、親日派として知られる名脇役のジョージ・ケネディがその様子を望遠鏡で観察しているシーン。ケネディの脇に一人の女性が近づき、概ね次のような言葉をかけるのだ。
 
「男の人が山に登りたがるのは、劣等感の代償作用でしょうか?」
 私はこのセリフを聴いて(正確には字幕で観て)、一瞬ドキリとするものがあった。それというのも、私は幼少時からスポーツというとまるで苦手で、野球の守備ではエラー連発、サッカーでは自軍のゴールにボールを入れるわと散々で、結局、遭難しない限りは誰にも迷惑をかけず文句を言われることもない「山登り」に走った面が少なからずあったからだ。
 ただ、その直後のケネディの切り返しのセリフが、また大いにきいていたのだが… まあここでは、それを記すのはよしておこう(!)。
 次は映画『聖職の碑』DVDの発売情報。この作品のビデオ・DVD商品化としては、おそらく初だろう。一昨日の12月21日に発売になったばかり(発売元:潟Xバック、税込み4,800円)。
 『聖職の碑』は、新田次郎の同名小説を映画化した森谷司郎監督作品としては『八甲田山』に次いで2作目の映画で、鶴田浩二、北大路欣也、三浦友和ら錚々たる顔ぶれが出演。私は中学生の頃、映画館に行ってこれを観て、少なからず感銘を受けたものである。しかし、これまでなぜか一度もビデオが発売されたことがなく、製作元の「潟Vナノ企画」に製品化要望のメールを送ってみたりしたのだが、それから長いこと何の動きもなく、実は半ば諦めていたのだ… そんな矢先の発売だっただけに、大変嬉しいことだった。
 当然、私はこれを発売日のうちに手に入れ、早速鑑賞したが… 観ているうちに感極まり、途中から(年のせいか?)やたらと泣けてしまって仕方がなかった。これほどの名画が、なぜ今まで発売されなかったのかと不思議に思われるほどだが、ただ私は、実は既に小学生のうちから、当時の担任教師に勧められ、『八甲田山死の彷徨』とか『聖職の碑』など、新田次郎の原作本を何篇も読んでいたので、より思い入れが強かっただけかも知れない… これで、後は大映の『氷壁』(井上靖原作、増村保造監督作品/『聖職の碑』と同様、これまでビデオ・DVD未商品化)でも発売されれば、最高なのだが… そういえば、井上靖といい、先の新田次郎といい、原作本から映画まで、小中学生の頃から彼らの作品にやたらと接してきたことも、今日までの私が山登りを継続してきた遠因として、多大に影響していることは紛れもない事実である。
 以上、ここ数日の間に、たまたま山の映画に関する出来事が重なったので、「つれづれなるままに」書き記してみた次第。
 (平成17年12月23日記)
 

    



 山は子供の脳の発達にも好影響をもたらす
 ずばり、表題の通りのようなのだ。
 この話の元ネタは、最近聴いた信州大学の寺沢宏次助教授の講演。最近、この種の聞きかじりネタが多く恐縮だが、それでもやはり、青少年による異常な事件が頻発している近年の社会情勢の下、これは是非、多くの人に知っていただきたいと思うので、次にその概略を記してみたい。
 (注:ただし、これは、私が寺沢助教授のお話をお聞きした際、備忘のために要点を書き留めたメモを基に再構成したものであるため、万一、私の誤解や表現力不足等の至らぬ点があったとしたら御容赦願いたい。)
 人間の脳は生まれてから、まず興奮過程(いわばアクセル)が発達し、次いでその抑制過程(いわばブレーキ)が発達していく。言い換えれば、小さい頃にはしばしば感情の抑えがきかなくても、成長するにしたがい自分自身の感情を適切にコントロールすることができるようになるということだが、このことは逆に言えば、まず興奮過程の発達があって、はじめて抑制過程の発達が可能になるということでもある。
 ところが、最近の子供は昔の子供に比べて、なぜか、その発達が遅い傾向にある。
 この傾向は、いわゆる「Go/No-Go」課題(例:「赤ランプがついたらスイッチを押せ(Go)、黄ランプの時には押すな(No-Go)」等)の正答率の比較によって明らかとなった。当然、興奮過程が発達し抑制過程の発達未熟な子供ほど間違いが多い傾向にあるが(黄ランプでも、抑え切れずにスイッチを押してしまう)、長年にわたる実験データの集積結果によれば、現在の子供は、30〜40年前の子供よりも4年ほど脳の発達が遅くなっており、ことに興奮過程の発達のピークが、30〜40年前は小学2年生くらいだったのに対し、現在の子どもは小学6年生あたりにきている。つまり、感情にブレーキがきかない子どもの年齢が高年齢化しているということで、これが近年の「キレる」子どもの増加につながっていると考えられるのである。
 このことは、すなわち近年の子どもが前頭葉をきたえる教育を受けていないことを示している(脳磁計等での計測によれば、前頭葉46野に生じる電位が人間の感情抑制に関与していることが判っている)。では一体、30〜40年前の子供と現在の子供とでは環境的に何が変化したのか?
 その第一は(検証の詳細については長くなるので略)、30〜40年前の子供は「動的」遊び(野外遊び、スポーツ等)を主に行っていたのに対し、現在の子供は「静的」遊び(TVゲーム、TV、ステレオ視聴等)を主に行っているという点である。むろん、静的な遊びは読書とか将棋など、以前からも存在はするが、最も異なるのはTVの視聴時間で、現在の子どものTV視聴時間は30〜40年前の子供のそれの実に3倍にも達している。
 しかし、それがなぜ現在の子供たちの「荒れる」「キレる」「学校崩壊」等につながっていくのか? 一般にTVやTVゲームが、現在の子供たちの異常行動の元凶とみなす向きが多いが、果たして本当に全ての原因はそれだけなのか?
 これに関して、興味深いデータがある。幼児に「じゃれつき遊び」をやらせている某幼稚園があるが、そこで例の「Go/No-Go」課題を園児にやらせてみたところ、その成績は何と一般の小学2〜3年生並みであった(!)。ちなみに、同園の保育士の言によれば、「じゃれつき遊び」をさせると「子供たちの目が生き生きと光る」という。
 似たような例は、動物実験や医療現場においてもみられる。たとえば、いくつかのグループに分けたウサギに、同じ高脂血症になりやすい食事を与え続けた上、毎日遊んでやったグループと、遊んでやらなかったグループとで比較すると、高脂血症への罹患率は後者の方が実に60%も多かったという。また、余命2年程度と診断された乳癌患者を2グループに分け、一方は従来の化学療法と放射線療法のみ、もう一方はそれら療法に加えてグループセラピーを導入したところ、後者の平均生存期間は前者のそれの3倍にも達したという。
 これらの事実は、すなわちコミュニティが人間に及ぼす影響がいかに大きいかを示している。
 他者とのコミュニケーションの中で、初めて思いやりの心などが芽生えてくる。それが文明の基礎となり、共生(狩)、農耕、さらには集団による攻撃にまで発展してきたものである。また、コミュニケーションの有力な手段である言葉は「第2の遺伝子」と呼ばれるように、知識経験を他者と共有させ、さらに時超伝達させていくことを可能とするものである。そして、このような人間同士のつながり(コミュニティー)が、あたかも家族のように形成される場合、それは個々の人にとって、自分の居場所があるということであり、そこにいると何となく温かく、また難しい状況でも力を合わせて乗り越えていけるということにもなる。
 ところが、現在の子供たちのように運動せず、ゲームなどで家にこもってしまうと、子供同士コミュニティを作らず、コミュニケーションもせず、ひいては脳を働かせる機会まで失う。その結果、子供の運動能力は日に日に低下するのみならず、子供の脳の前頭葉46野の機能低下をきたす。例えばネコによる実験では、手足を全く動かさないネコは脳も発達しない。人間でも体力がある方が「Go/No-Go」課題の間違いが有意に減少するが、これは歩数が増えて人と会う機会も増えることによる会話数の伸びが、ひいては脳の活性化につながっていることを示唆している。そもそも人間同士の会話における「聞く」「話す」過程は、瞬間的に行われるので普段は気付かないが、実際には耳で聞いた言語を脳が認知し、脳から指令が伝達され口で話すに至るまで、きわめて複雑な制御過程を伴っており、この正常な働きを維持するためには、適当に作動させておかなければダメ。
 また、サルによる実験では、群から隔離すると、3ケ月で群に適応できなくなり、半年で自己防衛できなくなる。さらに1年間隔離すると、しばしば自傷行為に及ぶようにもなり(!)、これは、いわゆる「リストカット」ときわめて似た現象といえる。狼に育てられた少女とか、長期間の監禁事件の被害者の例などをみても、一定期間社会から隔離されてしまうと、最早社会復帰は難しい。つまり、社会と人が断絶することが、いかにその人にとって厳しい状況であるかということである。
 この点、確かにTVやTVゲームは、知らず知らずのうちにコミュニケーションを失わせる面があり、多かれ少なかれ子供に悪影響を及ぼしていることは疑いない。が… 実際に「Go/No-Go」課題で実験してみると、確かにTVやTVゲームの時間が多い子供ほど間違いは増えるが、その増加比率は15%程度と意外に少なく、このことは、全てをTVやTVゲームのせいばかりにできないことを示している。つまり、TVやTVゲーム以外にも、30〜40年前の子供と現在の子供とで著しく差異が生じている何らかの要素があるはずだということになるのであるが、では、その要素とは一体何か?
 それは、案外、現在の子供たちには家庭における「お手伝い」が減少していることなどと、無関係ではないのではあるまいか?
 子供たちにとって、現在のように受験戦争が激化した社会情勢下にあっては、かつては農耕作業など「お手伝い」の時間だった部分の多くが「勉強」に変わってしまった。お手伝いが減少するということは、それだけ親子関係が減少していることをも意味する。親と子が接する機会が減り、当然のごとく親が子供に体験をもって教える機会も減った結果、経験不足で、例えば「つららは冷たい」ということを知識として知ってはいても、実際に触ったことがなく、実感としてはまるで判っていないような子供ができてしまう。近年、ある子供同士の刃物による殺傷事件で、加害者の児童が「まさか本当に死ぬとは思わなかった」と言ったというのは、その最も典型的な事例といえる。
 以前、横浜ベイスターズの権藤監督は、過程(プロセス)が大切、汗をかいて獲得したもの(経験、体験)はかけがえのない宝物であり、それは生涯失わないものだと語った。然るに現代社会の状況はどうか。
 日に日に利便性が向上していく日常生活の現状は、あたかもそれに反比例するかのように、子供たちの経験、体験の機会を失わせていく。考えず、教えず… 以下はその例。電卓ばかり叩いていて、計算できなくなる。ワープロ愛用の結果、漢字が書けなくなる。カーナビゲーションに頼り過ぎ、道を記憶できなくなる。さらにはインターネットやメールにのめり込み、身体を動かさなくなる。きわめつけは携帯電話で、これは以上の機能を全て併せ持っている。便利ではあるが、度が過ぎると特に子供には重大な結果を来すということを認識すべきである。
 以上から、現在の日本の子供を取り巻く環境は、残念ながら、非常に憂慮すべき状況だと言わざるを得ない。子どものお手伝いがなくなり、勉強時間が増大し、遊びはTVに変化。これでは当然、親子体験も欠如する。お手伝い、コミュニケーション、体験が欠如した結果、前述のように「つららは冷たい」と知っていても真に理解できていなかったりする。山はエレベーターでは登れない。経験、体験を経なければ、前頭葉は発達しないのだ。
 では、そんな憂慮すべき現状を打開すべく、必要な対策として考えられることは何かだが、それには当面、次のようなことがあげられよう。
 @ 
子どもにお手伝いをさせる (家族の絆ないしコミュニケーションを強める)。
 A 
野外遊びなど動的な遊びを復活させる (子供同士の絆ないしコミュニケーションを強める)。
 B 
TVやTVゲームを、止めろとは言わないまでも減らしてみる (家族・子供の絆ないしコミュニケーションを強める)。
 C 
日常の便利を、あえて不便にしてみる (人間同士の絆ないしコミュニケーションを強める)。
 D 
汗をかいて目的を達成するように努める (社会の絆ないしコミュニケーションを強める)。
 ここまで、少し長くなったが、寺沢先生の講演の概略をざっと記してみた。さて、御感想はいかがであったろうか?
 以上の内容を踏まえた上で… 本題に入ろう。私は最近の山行において、可能な限り(半ば強制的に!)子供を同伴させるようにしているところであるが、このことは、寺沢先生の提案される上記@〜Dに照らして、多少なりとも有益なのかどうか。
 まず@の「子供にお手伝い」。私は子供が「行きたくない」と駄々をこねても、時として無理矢理連れて行く。大体「お手伝い」なんて、子供にとっては積極的にはしたくないものだし、それに… 嘘をついても仕方がないので、この際白状するが、私が無理に子供を連れて山に行くのは、女房が家事や子育て等で多忙の状況下、その負担軽減に協力するという口実で、堂々と山に行けるという魂胆も少なからずある(!)。となると、私の子供たちは自己の意に反して、私の山登りに付き合わされるわけで、これはある意味、立派に親の「お手伝い」をしているともいえるのではないか(!?)。
 次にAの「動的遊び」。山登りがこれに合致するのは言うまでもない。
 次にBの「TVやTVゲームを減らす」。山登りの間はTVもTVゲームも当然できない。
 次にCの「便利を不便に」。これまた言うまでもなく、山登りの間は日常生活に比べてずっと不便なものだ。
 最後にDの「汗をかいて目的達成」。山登りとは、それ自体、しばしば人生にも例えられるように、自ら努力し汗を流さなければ目的を達することができないものである。
 以上のように見てくると、私が子供を連れて山に登るという行為は、一見、寺沢先生が提案される上記@〜Dのいずれにも合致しているように見える。とすれば、これは実に理想的なことではないか!
 が… 私は、こう考えているうち、ふと一つの問題に思い当たった。
 それは、寺沢先生が提案される上記@〜Dに共通のキーワード「コミュニケーション」に関することだ。親子のコミュニケーションという点では申し分ないとしても、私が最近好んで目的地に選定する人気のないような山においては、山行中に他人に出会う機会は極度に少ない。これでは、子供同士とか人間同士、社会の絆ないしコミュニケーションを強めるという点では不十分ではないのか…? と。
 しかし… ここでまた、次のように思い直す。
 何事も、全て完全などということは、まずないもの。「山登り」という行為を介して親子のコミュニケーションが図れて、子供たちにも適度の運動となり、さらにはその過程で普段することのできない実体験を数々することができ、また山中で全く人に出会わない訳でもなく、しかも多くの人は山道ですれ違う際、私の子供たちを見て「坊や、頑張ってるね!」等と声をかけてくれる。等々… とすれば、少なくとも登らないよりは確実に有益なはずだ。そして足りない面は、また山登りとは別の場面で補えばいい。
 要するに、早い話、自分自身の山登りを正当化するための理屈を、また一つ見出すことができたというわけ。かく自身の趣味に属することに、明確な動機付けないし良さの理由付けができるというのは、実に気持ちが良いことではある。で… そんな高揚した気分のままに、やや長い話になるのも厭わず、ここに参考までに書き記してみた次第。なお、参考ついでに追記すれば、寺沢先生は上記講演内容に関連する内容の著書『メンタルリリース』も発刊しておられ、講演会場でも若干部数が販売されていたが、講演終了後あっという間に売り切れてしまい、私はいまだ手にしていない。近日書店に注文し、是非一読してみたいと思っている。
 (平成17年10月31日記)
 

    



 最近、感銘を受けた話など
 以前、この“徒然草”に、山登りは立派な社会教育活動だとか書いたことがあるが、それに関連して、最近聞いた講演の中で、私が大変感銘を受けたものがあったので、その概略を次に記してみたい。
 題して「ヒトは自然の中で人に成る」。講師は、群馬県立「ぐんま昆虫の森」園長の矢島稔先生。
 ここで片仮名の「ヒト」とは、学術用語で多種多様な地球上の生物の中における一つの動物の種類としての人類を意味し、また漢字の「人」は、単なる動物のレベルにとどまらず、知性・理性・思いやりの心を身につけた、いわば万物の霊長として発達をとげた人間を表す。
 では「ヒト」が自然の中で「人」になるとはどういうことか?
 一例をあげれば、私は幼い頃、よく虫採りや魚捕りをして、それを飼ったり、互いに戦わせたり、その生命を奪ったりしてきた。時には大変残虐な仕打ちを虫などに対して行ったことすらあるし、逆に一寸の虫にも五分の魂、虫などから思わぬ反撃を食らい、幼な心に辟易したこともある。今にして思えば、そんな体験を積み重ねる中で、自然、相手を思いやるとか、身体や心の痛みを理解するとかいう、いわば「人間らしさ」や、また自身に将来迫らんとする危機に対する管理能力など、人にとって欠くべからざる種々の能力を培ってきたように思う。
 然るに、最近では、危険だとか可哀想だからとかいう理由で、学校で生徒に虫採りなどを禁じている所すらあるという。また、特に都会を中心に、子供たちが直接自然に接する機会が激減し、そのため私くらいの世代にとっては常識であることを、都会の子供たちは全く知らないという、由々しき事態が生じつつあるという。例えば、私は以前「国立信州高遠少年自然の家」の森田勇造所長のお話をお聴きした際、最近はアウトドアクッキングか何かの際に、燠(おき)を握って悲鳴を上げる子供がいるという話に唖然とさせられたことがあるが、実際我々が聞けば「まさか」と思うようなことが、現実に起こっているのだ。さらに… 最近の子供たちの体力低下の傾向がおさまらないこととか、また近年青少年を当事者とした異常な事件が続発していることなどは、全て子供たちが自然と関わらなくなったことに端を発しているといっても、決して過言ではなさそうなのだ。
 そこで、先の矢島稔先生によれば、群馬県立「ぐんま昆虫の森」設置の最大の狙いは、そのような現代社会において減少した子供たちと自然とのふれあいの場を提供し、ひいては後世を担っていく青少年たちに単に「ヒト」としてでない、真に「人」としての能力を身につけていってもらうところにある、ということだった。
 私は、これを聴いて、大変感銘を受け、かつ共感するものがあった。つまり、矢島先生の講演の趣旨は、私が今、子供たちを極力山行に同行させている意図、すなわち山登りは立派な社会教育活動であるという信念と全く同じ趣旨であったからだ。
 「山登り」という体験活動の中には、上記のような動植物との関わり合いはもとより、適度な有酸素運動を通じた体力増進、すれ違う登山者と自然に交わす挨拶や困っている人への援助などを通じた初対面の他者とのコミュニケーションの体験、また転んだり滑り落ちたりの経験を通じて身辺に潜む危険を自覚することや、さらには自ら身体を動かし努力することによって、初めて到達した頂上において味わうことができる達成感など、人間生活上様々な面で有益な体験が凝縮されている。実に、山登りは究極の社会教育活動の一つであるとの思いを、私は矢島先生の講演を通じて新たにしたのであった… それゆえ、この内容は、是非、皆様方にもお知らせ致したく、ここに簡単に一筆した次第。
 それにしても、最近の世の中の傾向は、どこか妙であるように私には思われてならない。
 上述したような、可哀想だから虫を採ってはいけないなどというのは、その「妙」な典型的事例であろう。大体、虫を採ったからといって、子供たちが採った虫を全て残虐に殺しまくって最終的に殺人鬼に成長していくというわけでもあるまいし… 採った虫を一生懸命世話をして飼ったけれど、結果として死なせてしまい、悲しい思いとともに、庭の片隅に「お墓」を立ててやるとかいう経験も当然含まれているはずなのだし… そのような、人間としての思いやりの心を培う折角の機会ともなり得るものを、ただ単に「可哀想」という名目の下、十把一絡に虫採りはまかりならぬなどというあり方が、果たして真の意味での「教育」と言えるだろうか?
 似たような意味で、山登りと話は別だが、私が納得いかない事例が他にもある。それは、山田耕筰作曲の歌曲「赤とんぼ」にまつわる話だ。
 「赤とんぼ」は、その哀愁あふれるメロディーと歌詞によって、日本人なら誰でも知っていて口ずさんだことがあるであろう代表的な童謡の一つだが、これが、平成元年度の小学校の学習指導要領には含まれていたが(6学年の観賞の共通教材として)、現在の指導要領からは何故か外されている。もっとも、過去をふりかえってみれば、同曲が学習指導要領から外れたのは今回が初めてではないのだが… 問題は、今回同曲が指導要領から外れるに至った理由として巷間ささやかれている話だ。
 それによれば、何でも同曲の歌詞「十五で姐やは嫁に行き お里の便りも絶え果てた」が、女性蔑視の人権侵害にあたるものだとの主張が一部の者からなされたことから、文部科学省でもその意見に配慮して、結果外されるに至ったというのである。
 これは、あくまで巷間の説によるものであり、真偽の程は定かではないが、私はその信憑性は高いと思っている。大体、私は本件について少なからず疑問を感じたため、数度にわたって文部科学省に経過等について問い合わせのメールを送ってみたのだが、最初の問い合わせから既に1年近くなるにもかかわらず、いまだに何の回答もないことからして、何か本件の背景に窺い知れぬ深い闇があるように思えてならないのだ。
 結局のところは… 役所にしばしばありがちな、当たり障りのないところに落ち着けようというので、童謡は他にも星の数ほどあるのだし、いっそ別の曲にしてしまえばよい、という程度の話なのだろうが… しかし人権問題がその背景にあるのかも知れないとなると、あながち黙って座視するわけにもいかないことのように思う。つまり、問題になりそうだから、ただ外せばよいというようなことでは、根本的な問題解決につながるはずがなく、まして同曲は童謡の各種人気投票で必ず上位を争うといわれる、いわば国民的歌謡なのだ。むしろ、その歌が生まれた当時の時代背景をも含めて子供たちに教え、考えさせることにより、真の意味での人権問題解決につなげていくのだという発想が、どうしてできないのだろう?
 まあ、この件については、問題をつきつめれば本題から外れるし、また前後の状況からの推測に基づく話なので、これ以上の論評は措くが… もし、本件に関して別の事情を御存知の方があったら、どんな些細なことでもよいので、是非御教示願いたい。ただ、少なくとも言えることは、「赤とんぼ」に歌いこまれているような情景は、いわゆる「里山」という言葉から連想される、最も美しい情景のひとつであり… それゆえ私としては、たとえ学校教育がどうあろうと、子供たちには「赤とんぼ」をはじめ古くから歌い継がれてきた童謡の数々を、しっかり伝えていこうと思っている。そうすることがまた「社会教育」の努めなのだと確信しつつ…
 (平成17年3月27日記)
 

    



 山城址の良さを再認識
 例によって、あまり天候が芳しくなさそうで、家でぶらぶらしている暇に、最近感じていることを、ちょっと一筆。
 最近の私の山歩きは、幼少の子供同伴の家族での山歩きが多く、それゆえ「山」としては、技術的にも標高的にも体力的にも、比較的易しい所に多く訪れるようになっているが、そんな中、改めて「山」としての価値を再認識してきたのが、いわゆる里山の中でも、特に戦国時代の城址であった山々だ。
 私がまだ山を始めたばかりの学生時代には、日本アルプスとかの有名な山々にばかり関心が惹かれ、山城址の山々など、せいぜいトレーニングの場程度にしか考えられなかったものだが… それが最近、はからずもそうした山々への訪問が主体となり、しかも幼少の子供同伴だから当然歩くペースも遅く、じっくり落ち着いて周囲の事物を見ながら歩くようになってみると、なかなかどうして、山城址の山も「山」として捨て難い魅力があるのだということに、今更ながら気付いてきたのだ。
 その魅力とは… まずもって、築城の場所に選定されるだけあって、頂上は大体展望良好で爽快であること。また、要害の地として有利な場所が選ばれているところから、山容もそこそこに険しさを有する所が多く、標高の割には登りでがあるし、かつ歴史探訪の地でもあるところから、遊歩道として道がしっかり整備されている所が多く、家族連れでも特に心配ない場合がほとんどであること。さらには、人里近くて古くから里人に愛されてきた山々として、山中にはその名残である素朴な社とか石仏とかが多く見られて心がなごむこと。などがあげられる。
 山名的には、単に「城山」と呼ばれていたり、時としては山名自体が地形図上からは全く不明確な場所もあるが… それでもこの際、そんなことは大した問題じゃない。要するに、そこに訪れて、楽しくて、心地良い汗を少々流せて、普段あまり気にもかけない歴史も学べて、相応の充実感を抱いて帰れるのなら、「山」として、それに越したことはないのだから。
 そういえば、話は変わるが、この間(3/6)、上田市の戸石城址(注:砥石城址とも書く。山名は例によって地形図上では不明だが、地元では「砥石山」と呼ばれているようだ。)に家族と共に訪問した際、ちょっと疑問に感じたことがあったので、折角の機会だから、ついでに備忘のために記しておくことにしよう。
 同城址は、戦国時代の歴史ファンならよく御存知の、いわゆる「武田の戸石崩れ」の舞台として有名な場所だ。甲斐の武田晴信(後の信玄)が、川中島の戦いより前の天文19年、村上義清の拠るこの城の攻略を企図して兵を進めたが、同城の堅固な防御の前に、もろくも崩れて敗走したという歴史を有する。あの武田が大敗したということ自体驚きだが、それ以上に不思議なのは、武田といえば、かの有名な「風林火山」の旗印がすぐ頭に浮かぶほど「孫子」の教えを信奉していたはずなのに、何故その武田が、要害堅固な戸石の山城に対して直接力攻めなどしたのだろう? という点だ。というのは、「孫子」をよく読んでみれば「その下は城を攻む」とて、攻略戦において城を直接攻めるのは戦法として最低だとしっかり書いてあるからだ。晴信がそのへんをちゃんと読んでいたのか、いなかったのか… まあ結局のところ、相手の力の見立てを誤ったがための思いがけない敗戦であったことは、まず間違いないだろう。
 そういえば、今年は日露戦役後100周年にあたるそうだが、その日露戦における「旅順」の戦いでも、堅固な堡塁に対して無謀にも正面突撃を敢行した結果、第一次総攻撃だけでも1万5千名以上という膨大な戦死傷者を出している。「孫子」の教訓は、近代にまで生きていたというわけだ。要するに、いつの世でも、物事をなめてかかると大怪我のもとというのは変わらぬ法則ということなのだろう。
 ちなみに、この戸石城、「戸石崩れ」の翌年の天文20年、晴信配下の武将真田幸隆の謀略により、ほとんど無血のまま、あっけなく落城してしまったというのは、何とも皮肉…
 で、話を元に戻して… つまるところ、こんな具合に種々興味も大いにわいてくるわけで、この際当分の間、信州の山城址に特に注目して歩いてみようか… などと思い始めている、今日この頃である。
 (平成17年3月12日記)
 

    



 一番好きな山は?
 この週末は、例によって、どうもあまり天候が良くなさそうだ。
 実際、今日(平成16年10月30日)、我が家の外では雨音が響いており… いくら山が好きでも、わざわざこんな時に無理して登りに行くほど酔狂でもないので、特にこれといってする事もないままに、ノンビリとした刻を過ごす中、たまたま「山」に関して想いを巡らせたことがあったので、自身の備忘の意味も含め、御参考までにその内容を次に書き留めておく。
 その、想いを巡らせたこととは… ずばり、「自分の一番好きな山はどこか?」ということだったのだが… これがまた、一見簡単なクエスチョンのようでいて、案外返答が難しいもので… せめて「最も好きな部類に属する山々」ということなれば、複数の山々をピックアップした上、比較的楽に返答も可能だが、どこか一つの山を選べということになると… さすがに、我ながら安易に答えを導き出し難いものがある。
 さればとて、折角想いが及んだこの機会に、自分なりの「一番好きな山」の目安となるキーワードでも見出すべく、まずは同じ問いに対する過去の山の大先輩方の回答内容を参考にしてみることに。
 まずは『日本百名山』の著者、故・深田久弥氏の回答。彼は同書の後記の中で、次のように述べられている。
 「一番最近に行ってきた山である。その山の印象がフレッシュだからである」
 次に『わが遍歴の信州百名山』の著者、故・清水栄一氏の回答。同書中「飯綱山」の項に、次のような記述がみられる。
 「私は躊躇なく飯綱山と答えた。実際この山ほど、故郷から朝な夕なに眺め、春夏秋冬の姿を知り、いろいろのコースから登りつくした山はない」 うぅむ、なるほど…
 で… 以上を参考に、私自身の答えをどうするか、の問題に戻る。が… どうもやっぱり、難しい質問だな… これは。何もそんなに深く考えなくても、先の大先輩方の回答のどちらかを借用すれば楽なのだろうが… しかし、こと「山」となると、どうも安易に解決する気にもなれぬ。
 然らば、先の大先輩方の回答を自分自身にあてはめて検証してみよう。
 まずは深田先生の回答だが…
 私の場合、開発が進行してしまった一種都会的雰囲気の山にも結構訪れるが、それらは「山登り」としての満足度からいえば、どうしても、かなり劣っていると言わざるを得ず… 仮に「一番最近に行ってきた山」がそうした山だった場合、私としては、どうも、それをもって「一番好きな山」とするには難しいと感じる。何故ならば、そうした山の印象は、たとえ訪れた直後であっても、決して私自身にとってフレッシュとはいえないからだ。
 しかし、深田先生の場合は、そうした山も等しく「山」として認め、深い愛情をもって、それらの山にも接しておられたので、上のような回答が可能だったのだろう…? もっとも、彼ほどの「山登り」なれば、おそらくは毎回、相当のレベルの山に登っておられたはずだから、「一番最近に行ってきた山」という回答で十分通用したのだろうが… 逆に、深田先生は、そのような開発の進行した山は、「山」の概念から除外されていたのだと考えられなくもない。が… まさか、そんな事はないと思うのだが…
 次に、清水先生の回答だ。
 これは、私としても、同じ長野市の住人として、大いに共感できる答えである。実際、私自身、聞かれてそのように答える確率も高い気がする。が… 深田先生の有名な言葉「百の頂に、百の憩いあり」とすれば… 回答の時点における自身の山行の進展具合や、また価値観等に左右されることは間違いないので… もし、私が回答するとすれば、「現時点で」一番好きな山だという条件を付することになろう。
 こう考えてきて… ようやく、私にとっての「一番好きな山」の定義めいたものが、次の通り頭の中に整理できた。
 「私にとって、現時点において、『山』としての印象が最もフレッシュである山」
 うん… これなら、まぁ適当に辻褄が合いそうだ。よし、私の場合、当面の間は、これでいくことにしよう。
 次に… いよいよ具体的な山名だが… 上の定義に照らせば… うーん、やっぱり「浅間山」あたりってことになるのかなぁ…?
 と… ここまで考えたところで、ふと、私は思った。
 ちょっと待てよ… 考えてみれば、一番好きな山を決めるなんて、一体全体、何のために必要なんだ? 自分は、ただ単純に山が好きで、山と名が付けば、登れそうな所は機会があればどこへでも行き、それぞれの山相応の雰囲気を味わって、それだけで十分満足なのだ。登る難易度の格付けならともかく、どの山が良いの悪いのなんて評価など、本来、私自身には全く必要ないことではないか。そうだとするならば、そもそも一番好きな山を答えろなんて質問自体がナンセンスなんだ。馬鹿馬鹿しい、措こう…
 深田先生も、清水先生も、本来そう思っておられたはずだ。だとすれば、両先生の答えは、一種その場しのぎの方便的意味もあったであろうことは想像に難くない。が、それにしても… さすがに両先生の答えは、明快かつ万人をよく納得させうるだけの説得力を兼ね備えている。それに比べれば、先刻の私なりの定義など、所詮は些細な言葉尻をあげつらうがごとき、言葉遊びの類に過ぎなかったようだ… やれやれ、とんだ無駄頭と時間を遣ってしまったわい…
 (平成16年10月30日記)
 

    



 「山登り」は立派な社会教育活動である
 つい最近、たまたま所用の過程で、「国立信州高遠少年自然の家」の森田勇造所長のお話をお聴きする機会に恵まれた。
 そのお話の内容たるや… 私としては全くもって久々に「目からうろこが落ちる」ような思いを味わったほど、有意義かつ痛快な内容であった。
 これは、是非、他の多くの方々にも、その内容を知っていただきたく… 以下、その要旨を御紹介してみるものである。
 (注:ただし、これは、私が所長のお話をお聞きして大変感銘を受け、後で備忘のために要点を書き留めておいたメモを基に採録したものであるため、万一、私の誤解や表現力不足等の至らぬ点があったとしたら御容赦願いたい。)
 現在の日本の教育には、良い社会人を育成するという目標に欠ける。
 社会教育活動にしても、活動すること自体が目標化してしまっている。
 目標のない教育など、いくらやっても無駄。
 特に、日本では、他国に比して「日本民族」としての共通文化を、後の世代に伝えていく面での教育が貧弱。
 ここで「民族」とは、共通する文化の有無による区分であって、肌の色など外見による区分を意味しない。
 人種構成などがどうあろうとも、国ないし地域に根ざす共通文化を子孫に伝えていくこと… それはまさに、その国ないし地域の社会秩序の中にあって「良き社会人」を育成する行為に他ならない。
 より判り易く言えば、親が自分の子に、自分が良いと思うことを伝えていくこと… 私は世界各国を回り見てきたが、どこの国でも等しくこれを行なっている。
 然るに、現在、日本は学校教育に関しては世界の中でもトップクラスであるのに… 地域社会における教育や家庭教育が極端に衰退してしまっている。
 このような国は、世界広しといえども、日本だけである。
 現在起きている青少年がらみの悲惨極まりない事件などは、ほぼこれが原因とみて間違いない。
 人間教育は、学校教育だけではできない。地域社会の後継者を育てるのが、社会教育の目標。
 学校教育も必要だが、社会を成り立たせるには、まず健全な社会性を身に付けた良き社会人を育成せねばならない。この意味で、諸教育の中において、社会教育は最も重要といえる。
 したがって、社会教育がうまくいかないと、社会は弱体化する。現在の日本ほど、社会不安を抱えた国はない。我々の将来を保障するのは、あくまで「人」であり、厚生年金などの制度ではない。そのためには、まず日本を安定した社会にしなければならない。
 それには、社会教育がぜひとも必要。仮に学校がなければ、教育するのは地域・家庭であろう。その地域がダメになったら、一体どうするのか?
 本施設の目標は、生活体験を通して、日本、もしくは地域社会の後継者の育成を図ることにある。
 後継者を育成しなければ、将来の保障はない。
 私が本施設で各種体験事業を一生懸命推進するのは、究極的には自分自身のためであるといえる。
 さて、いかがであったろうか?
 このお話の内容は、実は私としても、普段より漠然と感じてきたことに、そのまま通じる内容であったのだが… しかし、私がそれまで抱いてきた思いなど、所詮は単に漠然とした社会教育に対する期待感といった程度のレベルにとどまり… 社会教育の「目標」を明らかに見失っていたと言わざるを得なかった。
 それが… 今回、森田所長さんのお話をお聴きしたことから、私は真実、前述の通り「目からうろこが落ちた」思いだった。
 地域社会の後継者を育てるなどといえば仰々しく聞こえるが、その第一歩は、親が我が子に、あるいは地域で若い世代に、自分たちが良いと思うことを伝えていこうとするところから始まるのだ!
 で… かくして本題の「山登り」にようやく話が及ぶ。
 最近、私は、自身の山行に極力、家族、特に子供たちを同行させることにしている。
 無論、それは私なりに種々の「ねらい」があってのことであり、それらの「ねらい」は全体的概念としての「山」が有する種々の特徴ないし性質に応じたものであることは言うまでもないが… 要するに、それらの大部分は、子供たちに対し、親としての私が、良いことだと信じて疑わない「山登り」を経験させてやりたいということに集約される。
 だとすれば… ずばり、本文の標題に掲げたごとく、
「山登り」は立派な社会教育活動であるといえるではないか。
 もっとも、最近では、特に長男あたりが、知恵がついてくるにしたがって、山に行くというと気が進まないようなそぶりを見せることがままある。が… 私は大抵の場合、それでもあえて彼等を山に連れて行く。「かわいそうに…」と言う向きもあろう。実は私も多少そう思っている。が… いざ頂上に到達した際の子供たちの表情は、いつも生き生きとして目は輝いており、その都度「やっぱり、連れてきてよかった」と思う。
 そういえば… いささか話題が飛躍するようながら、有名なテレビアニメ『巨人の星』に登場する、主人公星飛雄馬の父・星一徹の極端なスパルタ教育ぶりを思い出す。偏執狂だの家庭内暴力だの子供の人権侵害だのと、何かと批判的に捉えられることが多い「一徹オヤジ」にもかかわらず… それでもやはり、実際にそのドラマを観ている中で、最も自然と泣けてきたエピソードは、やはり父と子〜一徹と飛雄馬のからみの部分であった。何故か…? 今はその理由が私にははっきりと判る。そう、一徹オヤジはその極端なキャラクターゆえに往々にして誤解されがちだが、ドラマをよく観てみれば、別に性格異常者でもなんでもなく、自身が正しいと信ずる価値観を、強固な意志をもって子の飛雄馬に伝えようとしてきたまでではなかったか。この点、一徹オヤジも立派な「社会教育者」であったのだ。
 私は別に一徹オヤジの真似をして、我が子を山に登らせているわけではないが… それでも森田所長さんのお話の中にもあったごとく、現代社会は連続する青少年の悲惨な事件などに代表される名状し難い社会不安の下だからこそ… 明日の世代を担っていく我が子たちには、是非「山」などを通じて健全な心身と社会性とを培ってほしい… 私は、こう強く願っている。
 (平成16年10月26日記)
 

    



 あまり思いがけなくない? 野生動物との出会い
 10/ 9〜11の3連休は、出鼻をまたしても日本を直撃した台風に挫かれ、ようやく10日の午後から例によって家族を引き連れて、比較的近所の里山探訪レベルの山歩きに出かけてみたが… 10日はまだ大気の状態が不安定で、途中降雨で無念退却、11日は山自体には登れたものの、期待した北アルプスの展望は厚い雲がかかってダメ… と、今ひとつ物足りない結果に終わってしまった次第。
 どうも、この間の山陰〜京都の旅あたりから、こと山に関しては巡り合わせが悪いゆえ、それでもまあ、11日にまがりなりにも1峰だけでも登れたのは幸いだったが… ただ、今回は「実りの秋」の山でもあったせいか、案外2日連続で野生動物に遭遇できたのが、せめてもの収穫。
 まず、最初(10日)、上田市の東太郎山にて遭遇したのが、下に紹介した画像のカモシカ君。カモシカ自体は、最近は大分数が増えて… 私の自宅のある長野市近郊でも、見たいと思えば、行けばまず十中八九見れるほどのスポットもあって別段珍しくもないのだが… 状況がいつもと違っていたのは、たまたま幼少の長男(5歳)と次男(4歳)を引き連れている途中で遭遇したこと。2人とも、多少は驚いたようだったが、それでも動物園でしか見たことのなかったものを、生まれて初めて間近に目にして、幼いなりに感じるところはあったようだ。またいずれ書くつもりだが、「山登り」とは単に「スポーツ」とか「レジャー」のレベルにとどまらず、確固とした目的意識を持って行なう限り、それは多くの可能性を秘めた、最高レベルの「社会教育」活動のひとつでもあるというのが私の信念である。その意味で、この日は後に驟雨に見舞われ、退却を余儀なくされたとはいえ、我が子たちへの教育という面では、十分効果があったと思っている。
 然るに、翌日(11日)、二ツ石峰(2004山行記録帳に
山行記掲載してあります)での遭遇には、さすがに少なからず肝を冷やすことになった…
 というのは… 家族と共に二ツ石峰に登って無事登山口の保福寺峠に戻り、車に乗り込んで、さあ家に帰ろうと走り始めたところ… じきに我々の車よりほんの10mばかり先の車道脇から、右手の樹林の中に、割と大きく丸めな体をした、真っ黒い動物が消えて行くのを目にしたからだ(!) ほんの数瞬の出来事で、当然、写真撮影の暇もなし。私は一瞬、ウソだろ、カモシカだよな… と思った。が、助手席の女房の顔色が変わっているのを見て、それはやはり、カモシカではなかったのだと確認できた… そう、まごうかたなき、あれは熊だったのだ!
 もっとも、こっちは車の中だから、全く襲われる心配はなかったのだが… にもかかわらず、女房の顔色が変わったのには、実はもう一つ訳があった。女房によれば、二ツ石峰からの下山中、たまたま私がデジカメ写真を撮っているか何かしている間に、しばし先行して私と離れていた際、尾根の左下方の林中でガサゴソと薮をかき分けるような不審な物音がしているのを聞いたという。その時は、大方、誰か他に茸採りの人でもいるのだろうと思ったが、それにしては峠に自分たちの車の他に1台の駐車車両もなかったし、妙だと感じていたのだとか。それが… 峠付近で熊に出食わしたものだから、さてはあの物音は…! というわけ。
 無論、山なんだから、どこに行ったって熊の1頭や2頭はいよう。それが、かく人前に姿を現してくれるからには、それだけこの周辺の自然が良く残っているという証拠だ。喜ばしいことだ、と私は思った。が… 女房は違った。私を横目で睨みつけて言うことには、
 「いくら自然豊かっていっても… もっと、安全な山に連れて行ってよ、子供たちも一緒なのよ!」
 「なぁに、大丈夫だ、北海道の熊と違うからよ、大勢で歩きゃ、向こうで近くに寄って来んよ」
 私はこう笑い飛ばしてみたが、すかさず女房に切り返された。
 「え? それじゃ、熊よけに、私たちまで一緒に山に連れて行くわけ?」
 「違うって、お前、この間の信濃毎日新聞見ただろう、青少年の体力また低下、って。うちの子供たちまでそうならないように、大自然の中で健全な心身を養ってやりたいという親心が判らんか」
 私は半ば真面目になって、こう反論してみたが… とどめは女房の次の一言、
 「でも、私、死にたくないからね!」
 さて弱った。次の週末、もし天候が良かったら、何といって山に連れ出したらいいやら…
 (平成16年10月14日記)

 ← ニホンカモシカ(東太郎山山中にて/無愛想な奴で、カメラを向けると顔をそむけてばかり。)


    



 単なる自己満足の世界?
 先の山陰・京都の旅から戻った後、私には「ぎっくり腰」だの、折角の週末が野暮用と悪天候で山に行けないだのと、どうも心身共に不調の日々が続いている…
 そんな状況下での、せめてものストレス発散法としては、結局、本ホームページの細工でもしたりしながら、心の憂さを晴らす程度のことしか手がないもので、何とはなしにトップページのデザインなどを少々いじくってみたところ… これが案外、それまでのイメージが一新され、ずいぶんと派手なページに出来上がった。
 そこで、私、早速、女房にそれを見せ、自慢して言った。
 「見ろ、結構グレードアップしただろう!」
 と、女房、こちらの案に相違して、まるで感心した様子を見せなかったばかりか、にこりともせず、何やら白けたような調子で、言った。
 「それも、結局、自己満足の世界だねぇ…」
 「!!!」これには、参った。
 が… ややあって気を取り直すと、私は思った… まぁ、いいや、大体、ホームページだけじゃない、山登り自体、いや、およそ世の中のありとあらゆる趣味の類なんて、所詮みんな本質的には自己満足の世界なんだろ… エッ、そうだろ、オイ?
 (平成16年10月 3日記)
 

    



 思いがけぬ出会い・鏡餅キノコ正体判明と良き旅館
 先日、虫倉山でたまたま発見し、鏡餅のミニチュアみたいで正体不明として掲載したキノコについて、早くもその後、どうも正体とおぼしきキノコが浮かび上がった。
 その名も「コシロオニタケ」。テングタケの種類に属すものだそうで、色が白く、かさの上に尖ったイボイボがあることなど、特徴が共通することから、まず間違いなさそう。どうも私が虫倉山で見たそれは、成長過程でたまたま鏡餅みたいな形だっただけらしいのだ。
 何故、かくも早く手掛かりを見出し得たかといえば… 実はそれまた、全く「思いがけぬ出会い」の類だったので… それを次に記してみよう。
 9月18日〜20日の3連休、私は家族旅行で山陰から京都を巡ったが、初日の晩は、鳥取県の伯耆大山の麓の「とやま旅館」に宿泊した。
 この宿、当初は別に意図して選定した宿ではなく、たまたま女房が比較的安価の宿ということで予約しておいてくれた所だったのだが… しかしこれが、偶然とはいえ、何度でも訪れてみたい、素晴らしい宿だったのだ。
 まず、周囲の環境がいい。下界から離れ、清涼な山懐に抱かれた中にあって心身が落ち着く上、すぐ上が伯耆大山への登山口。同山に登ろうとする場合、これ以上に絶好のベースはあるまい。
 次に、食事がいい。さすがに大山の麓だけに、夕食に出てきたキノコの天ぷらは何と天然物の舞茸! また、同じく天ぷらの中の一品として出てきたカレイは、海にも近い土地柄らしく、米子の沖合あたりで獲れたという一夜干し。天ぷら粉を薄く表面に塗り、からりと揚げただけのものながら、頭から骨まで全く抵抗なく食べることができ、一度食べたら忘れられない香ばしさ! 私はカレイが、かくも美味い魚だとは、それまで知らなかった… 他にも、この旅館で手作りという胡麻豆腐の独特な食感の味わいなど… 実際、今もこれを書きながら、あーまた泊まってみたい… と思いつつ、生唾がこみあげている次第。
 ちなみに、かの天然舞茸は、旅館の御主人の息子さんが山で採ってきたものなのだそうで… 話をしていると、どうも彼は相当キノコに詳しい様子。そこで、もしかしたらヒントだけでも得られるのでは…? と思い、私が例の虫倉山で見た鏡餅みたいなキノコの話をしてみたところ、彼、おもむろにヤマケイのキノコの図鑑を持ち出してきて、頁をぱらぱらとめくり、
 「これじゃありませんか?」
 と指し示した。それが「コシロオニタケ」だったというわけ。
 私は驚いた。写真を見たわけでもなく、ほんの少し特徴を聞いただけで、あの膨大な数のキノコが掲載されているヤマケイの図鑑の中から、すぐにその頁を開いてみせる。御本人は謙遜されていたが、よほど勉強していなければ、おいそれとできることではない。
 しかも… 彼をはじめ旅館の方々と話をしているうち、訪問前には予想すらしなかった、すごい事実が明らかになった。
 実はこの旅館、女性として初めてエベレストに登頂した有名な登山家で日本山岳会会員でもある、田部井淳子氏がよく「お忍び」で訪れられる宿なのだそうだ(筆者注:この件については、田部井氏御自身が『週刊文春』にこの旅館の紹介記事をお書きになっておられるのを、旅館の女将さんに見せて頂いたし、特に伏す必要もなさそうなので、御紹介する次第)。そう言われてよく見ると、食堂の壁いっぱいに貼られた伯耆大山の写真の中に、さりげなく田部井氏の写っている写真がある。
 「この写真見ても、誰も最初は気がつかないんですよ。みんな私の写真だと思うみたい」
 そう言って笑うのは、この旅館の女将さん。確かに眼鏡をかけておられるので、田部井氏と似て見えないこともない(?)。そんな女将さんが着ておられる服は、かの有名な、ピッケルを携えた女性登山家の刺繍が胸にしっかりと縫いつけられた、いわゆる「TABEI(田部井)ブランド」のそれ。
 「これ、先日、田部井さんが贈ってくれたものなんです」と、女将さんは嬉しそうに話された。
 また、他にも興味深い話を伺った。何でも、御親戚の方だかの中に、スキーで三浦雄一郎氏などと共に相当活躍された方がいらっしゃったとか… ただ、こちらの話の方は、既に結構ビールに酔った状態でお聞きしたせいか、残念ながら詳細を忘却してしまったが…
 いずれにせよ… 私は、久方振りに泊まって楽しい、心休まる宿を発見できた気がした。そして今から決心している。来年もまたここに来よう。そして、その時こそは是非、伯耆大山に登頂を果たそう、と。
 (筆者注:実はこの翌朝未明、私は伯耆大山への登頂を目指して勇躍出発したのだが… この機会に効果的なダイエットを図ろうなどと余計な発想をし、朝飯抜きで登り始めたりしたのがたたって、御多分に漏れず途中でバテバテとなり… 挙句の果てには5合目で雨に遭い… ついに登頂を断念、引き返すに至ったのだった… 旅行日程上の時間的制約や、前日登った岡山県の那岐山の疲れも若干あったとはいえ、久々の敗北に残念至極。いわゆる「夏山登山道」から攻めたのだが、急傾斜の上に木階段が延々と続いていたのも誤算だった。階段道では一歩一歩足を持ち上げるのに、通常の傾斜面に比べて余分な体力を要するので、ことに私のような体重のある者には甚だ厄介な代物なのだ… しかも、こういう場合に限って、下った後にえてして晴れるもの。前日の那岐山とか、翌日の京都の愛宕山では、終始周囲が霧に覆われ、しばしば鬱陶しい雨滴さえ周囲に降り注いでいたくせに… こうなると余計、悔しさがつのる。しかし… これで大体様子は判ったので、次回は万全を期し、山行時間を1日フルに取って再挑戦してみよう。どんな山でも、適切な体調管理とペース配分さえすれば、登れないことは絶対ない。それに、今回登れなかったおかげで、また近いうちに「とやま旅館」に訪れる口実ができたというもの。今から大いに楽しみにしていることである。)
 (平成16年 9月24日記)

    



 思いがけぬ出会い・自然の造形〜鏡餅?
 昨日(9月11日)、中条村の虫倉山に登った際、登山道脇で面白い形のキノコを見かけた。
 私は、それを見るなり、なんだこりゃ、鏡餅のミニチュアじゃないか、と思った。キノコにもいろいろな形のものがあるが、少なくとも私はこれまで、かくも鏡餅にそっくりな形のものは見たことがなかった。
 話はただそれだけながら、これまた山における「思いがけぬ出会い」のひとつ。これだから山は面白い。
 (なお… この後、家に帰って図鑑にあたってみたが、何という名のキノコか皆目判らない。どなたか御存知の方がありましたら御教示下さい…)
 (平成16年 9月12日記)

 ← 御覧の通り、鏡餅のような変わった形でした(ホコリタケか何かの変形でしょうか…? うーん…?)


    



 H16.9/1 浅間山噴火の報に想う
 昨晩(9月1日)、仕事から家に帰り、ネット情報で初めて浅間山噴火の報に接した。とうとう、来るべきものが来たなと思った。それにしても、前掛山まで登山禁止が解除されてから、わずか数年。この山、つくづく、我々「山登り」につれない山だなと思うと同時に、いつドカンといくかわからない活火山というものの恐ろしさを、今更ながら再認識させられた思いだ。
 その後の報道によれば、昨晩爆発した後は小康状態で、主として群馬県側に若干の降灰が見られ、その付近のキャベツなどの高原野菜が被害を受けたとのことだが、何はともあれ、人的被害がなかったことは不幸中の幸いだった。今後も十分に注意を払い、いまだ記憶に新しい雲仙普賢岳の二の舞だけは避けねばならない。
 しかし… いずれにせよ、これでまた当分、この山には登れまい… 被害を最小限度に抑えることが最優先とは言いながら、我々「山登り」の因果か、被害の大小もさることながら、それ以上に登山の可否の方に、どうしても関心が向いてしまうのは勘弁願いたい。
 つまるところ、この手の山は、やはり登山禁止が解除になった時点で、速やかに登っておくに限る。噴火してしまってからでは以後いつ登れるようになるのか見当もつかないからだ。たとえば前述の雲仙普賢岳など、下手をすれば、最早私の存命中には登山解禁にならないかも知れず、私は今もって、残念、もっと早く登っておけば良かった… と思っているが、所詮は後の祭り。
 似た例として、昨年登った岩手山もそうだった… もっともこちらは、条件付きながら比較的早く登山禁止が解除になったから良かったが…
 もっとも、考えてみれば、ここは世界有数の火山国、日本。まるで想定されていなかったところで、突如として火山活動が起こる例もしばしば報告されているし… そうなると実際、活火山であろうとなかろうと、現時点で登れる山は早く登ってしまうに越したことはないということか…
 そういえば、私がまだ学生時代。親のスネかじりの身分で、山に行きたくても思うように行かせてもらえなかった頃のこと。私の山に行きたい気持ちを当座諦めさせるために、我が親父が頻繁に用いた「殺し文句」があった。
 「そんなに慌てるな。山はそこにある。逃げやしないよ」
 当時の私は、なるほど、それもそうだなと納得していた。が、今の私は、最早この言葉が大嘘であることに気付いている。
 そう、
山は、登れる時に登らなければ、必ず逃げる。
 そも、山登りに限らず、人生の中において、多かれ少なかれ自身の努力を必要とする事柄は、その努力を怠れば怠るほど、確実に自身から遠のいていくもの。私は今、浅間山噴火の報に接し、何故かそんなことを痛感しているのだ… 一体どうした加減だろう? 前はこんなこと、さして深刻に考えもしなかったのに… それだけ、歳を食ったという証拠でありましょうか…!?
 (平成16年 9月 2日記)

 ← 小浅間山より望んだ噴火の約3ケ月前の浅間山(長閑な情景、嵐の前の静けさ?)


    



 思いがけぬ出会い・志賀旭山
 昨日(8月29日)、たまたま訪れた山で、例によって「思いがけぬ出会い」があったので、御紹介したい。
 場所は、志賀高原に多く点在する池沼のうちのひとつ「一沼」の脇に小高く盛り上がる「旭山」(同名の山が全国各地に存在するので、標題では「志賀旭山」と記載)。折しも、台風16号接近中で天候が今一つはっきりせず、貴重な休日ながら一定レベル以上の山行を断念し、せめて山の雰囲気だけでも味わうべく、家族と共に何となく「一沼」に訪れ、沼の水面に咲くヒツジグサの白く可憐な花々などを眺めつつ、付近を散策していたことが、今回の「出会い」の発端だった。
 散策中、私はたまたま現地の標識に「旭山」に800mとあるのを目にした。これなら距離的にも近く、時間もさほど要しない。どうせ今日は山はダメだと諦めていたところ、まがりなりにも「頂上」に登れるなら儲けもの。むろん、何の迷いもなく、家族も誘ってそこへ一気に駆け上がった。
 ほんの20〜30分程度で、美しい白樺林の中の頂上に到着。その場に立ち、私は少なからず意外な感にとらわれた。というのは… この山、少なくとも私の手元のガイドブック等の類には、何らの紹介もなされていない(それゆえ私も、志賀高原に「旭山」という「山」があるという事実を、実は今回初めて知ることとなったのだ)にもかかわらず、いざ訪れてみた頂上は、前述の通り美しい白樺林の下にあり、樹間からは、南に坊寺山、北東に焼額山あたり、西に善光寺平を望み、さらに頂上の縁に立てば、眼下に「琵琶池」を俯瞰できるなど、展望的にも結構優れ、ごく短時間で登頂可能なマイナーな山にしては、静寂で落ち着いた、実に良好な雰囲気の場所だったからだ。
   もっとも、ただそれだけなら、単に「灯台下暗し」の類で、信州にはまだまだこうした隠れた良い山が数多くあるという事実の、一つの証左程度の出会いにとどまったろう。が… 今回の場合、話はそれのみにては完結せず。すなわち、この山は、意外にも山岳史上に残る重要な地点であることが、頂上に設置されている「記念碑」により、私にとって初めて明らかになったからだ! 以下、その記念碑の内容を、御参考までに、そのまま記してみることにしよう。
 
秩父宮様御夫妻・高松宮様 来山記念碑
 (当時の写真)
 左から 秩父宮雍仁殿下・勢津子様御夫妻、高松宮宣仁殿下
 昭和4年8月6日秩父宮様御夫妻は、新婚旅行もかねて高松宮様と旭山に来山し記念植樹をされ、翌日に岩菅登山が行われたことにより志賀高原の名を全国に広く紹介するきっかけとなりました。

 そして、この周囲には、記念植樹によるものらしい何本かの針葉樹(モミ)が、今ではかなり成長した姿で立ち並んでいた。
 私は、これを見て、少なからず驚いた。現在の皇太子殿下と同様、山好きで知られた秩父宮殿下が昭和4年に岩菅山に登られたことは、私も既に知ってはいたが、その前日に旭山に登られて、記念植樹までされていたということなど全く知らなかったからだ(!)。
 それは、前述の通り私の手元にある文献中に、このことについて記したものが皆無だったためであるのだが… それにしても、自宅にほど近く、この十数年の間、他に行く所がなければ、いつも迷わず車を走らせ、足を向け続けてきた志賀高原の山域の中、かくも手軽な場所にあるにもかかわらず、これまでその存在を知らずにきた山があったということに、私は、自身の不勉強を痛感せざるを得なかったのだった…
 ただ… 弁解がましくて恐縮ながら、様々な場面において、時として、こんな劇的な「出会い」を我々に提供してくれるところが、私にとっては実に「山」の最も良いところなのだ。私の敬愛する登山家・丸山晴弘氏の言葉に「山は教材の宝庫にして千思万考の教室」というのがあるが、これなどは山における多くの「出会い」が、いつも新鮮で、かつ限りないということを、最も端的に表現しているものといえよう。
 (平成16年 8月30日記)

 ← 琵琶池俯瞰(志賀旭山より)


    



 思いがけぬ出会い・ある童話本
 最近、たまたま古書店を見ていて、思いがけず面白そうな一冊の童話本を見つけた。値段も安く、迷わず買って帰り、早速一読してみたところ、期待に違わず、実に興味深くて面白い内容であった。そこで、参考までに同書を御紹介してみたい。
 
くさぶえの童話 『まっ赤な武甲山』 (市川栄一・編、田中皓也・絵、けやき書房・刊、1992年)
 内容は、表題作「まっ赤な武甲山」(市川栄一・作)のほか、「ロックモッスのポポ」(横田ひろ子・作)、「雄太とギボシ」(内田映一・作)、「昇龍島の金沢先生」(中島とみお・作)、「秩父の椿姫」(山崎みね・作)、の4編の童話が収録されているものである。
 これら各編の童話は、それぞれ埼玉県秩父地域を舞台とし、同地域の風光や歴史を確りふまえた上で書かれており、それだけでも好感が持てるものだが、それ以上に、私がひとしお共感を覚えたのは、全編にわたって、自然環境や歴史環境の保護を明瞭なテーマに据え、各話がそれぞれに、読者の心に訴えかけてくるものである点だ。
 特に、私にとって興味深かったのは、全5話中3話(「ロックモッスのポポ」「雄太とギボシ」「まっ赤な武甲山」)までが、秩父を代表する名峰武甲山の石灰岩採掘による変貌をテーマないし背景にしていることであり… 私個人的にも、本HP中の別項「山の不思議・恐怖体験」の冒頭に収録した小文
「秩父の名峰武甲山の「山の声」?」に記述した通り、武甲山においては一種特異な思い出があり、またそれゆえに、同山には少なからざる思い入れを有しているので… 実際、私は同書を一読して、まさしく「我が意を得たり!」の思いであったのだ。
 ちなみに、同書の初版発行は1992年の1月で、私が武甲山に訪れたのは、それよりも3年ほど後の1995年の1月だから、いずれにせよ、はや10年ほども前の話になるのだが… 今、現地の状況はどんな具合になっているのだろうか? なお、現時点で私が直接目にした最後の同山の姿は、2003年の1月、武川岳の頂上から望んだものであったのだが…
 同山の石灰岩採掘を、自然破壊だとして批判することは簡単だ。しかし、現実問題として、秩父地方の多くの人々が、その事業で生活しているのもまた厳然たる事実なので… そこにこの種の問題の解決上の難しさがある。その点、同書は単に自然環境保全ばかりを声高に叫ぶにとどまるものではなく、そうした現実にも正面から向き合った上で、話の筋を構築している。こうした客観的な視点を有していることもまた、私としては同書に好感が持てる理由の一つだ。
 こうした問題は、ひとり武甲山のみにとどまらず、全国各地に存在する。それらの解決に向けて、果たしていかなる方向がベターであるのか、じっくり考えてみる機会を提供してくれるという意味において、同書は素晴らしい本だと思う。多くの本が氾濫する現在、久方振りに本当に面白いと感じた本に出会えた気がする。これから同書を読んでみようという方々のため、各話のあらすじめいた事の記述はここでは一切避ける。なにしろ10年以上前に発刊された本なので、現在なお発行されているかどうかは不明だが… 機会があれば、是非多くの人に読んでほしい本だ。
 (平成16年 8月30日記)

 ← 山犬(日本狼)の石像(武甲山頂上直下の「御岳神社」にて)


    



 幻の蛇「ツチノコ」考
 この狭い日本列島の中、時折マスコミをにぎわす不可解な未確認動物として、幻の蛇ツチノコとか、四国剣山の大蛇とか、絶滅したはずのニホンオオカミとかがある。それらの目撃談だけは今に至るまで絶えず報告されているようだが、それらが実際、単に未確認なだけで本当に生息しているかも知れないなどと想像するだけで、何か夢があっていいものだ。(現実には、生物学的にほとんど有り得ない話なのだとしても、それを言ってしまってはお終い。いいじゃないですか、「夢」なんだから。)
 それらの中でも、幻の蛇「ツチノコ」については、生物学的には大きさが常識的で、外国にも似た形態の蛇がいるという点、また民俗学的にも、全国各地に各種の名称で記録されていることもあり、最も存在の可能性が高いとされているのだが… まだ残念ながら筆者は、これまで20年余の山歴の中で一度もお目にかかったことがない。
 およそ、何故人が山に登るかということを考えるに、その動機の多くの部分が、あらゆる意味における未知なるものへの憧憬によって占められていることは明白であり、この点、多くの未確認生物たちもまた、そんな憧憬の一部をなしていることは間違いないといえるが(注:はなから信じてない人はどうか知らない)、しかし、20年余も、通常人よりは多くの回数山に行き続けてなお、見たことがないとなると、やはり… 少々首をかしげざるを得なくなってくる。
 ツチノコの正体として、巷間よく語られる仮説は、マムシなど普通の蛇がネズミなど太いものを飲み込んだ姿を誤認したというもの。一応説得力はあるが、それにしても、それならそれで見分けがつきそうなもの。まあ、蛇というと普通のを見ただけでもパニックに陥る人は多いから、とても見分けるどころではなかったとすれば、多くのケースがこれで説明がつくのかも知れないが、それにしても目撃報告を検証すると、コブラの頭のように平べったく広がったというのもあり、全てのケースをこの仮説のみで説明する訳にはいかない。
 ちなみに筆者は、食い過ぎた蛇の誤認のケースを除くツチノコ目撃談の多くは、ハクビシンの誤認ではないかと思っている。というのは、筆者は以前、とある林道脇の法面を超スピードで駆け上がるハクビシンを目撃したことがあるのだが、その姿たるや、あまりに素早くて足は見えず、頭も三角形でマムシの頭を大きくしたみたいで、尻尾が若干長めな点を除けば、全体的な形態はツチノコそのものだったからだ。実際の目撃談の中にも、これと似た状況の報告が見られるし、ハクビシン自体、タヌキやキツネに比べれば、あまり一般的でない動物なので、知らなければ、慌てた頭で「ツチノコ!」と思い込んでしまったとしても、別段不思議はない。
 しかし… だ。それにしては、全国的に記録が多すぎはしないか。それもかなりの昔から。全国でツチノコと同種と思われる動物もしくは妖怪の名称をピックアップしてみれば「バチヘビ」「ドコ」「コロ」「ノヅチ」「ツチ」「ワラツチ」「ヨコヅチ」「キネノコ」「キネヘビ」「ツチコロ」「ツチコロビ」「ドテンコ」「トッテンコロガシ」「スキノトコ」「トックリヘビ」「ツツ」「コウガイヒラクチ」「タンコロ」「コロガリ」「バチアネコ」… と、いやになるほど地方名が多く、こういうケースは他にあまり例があるまい。(参考文献:笹間良彦著『図説 日本未確認生物事典』柏書房刊 P96)
 それなら、多くの目撃談のうち、その何分の一かは、もしかして…? などと、どうも筆者は夢を捨てきれないまま… 相変わらず山に行き続けているのである。
 (平成16年 6月26日記)

    



 思いがけぬ出会い・番外編〜不快な山登り
 先日、家族で「上田市民の山」こと太郎山に登った時のこと。まだ小さい幼児もいたので、ルートは比較的楽な坂城町側からの道を選択。その日はうっすら汗ばむほどの晴天で、陽に映える鮮やかなヤマブキの花々や、時折足元に咲き乱れる可憐なスミレの花などに心を奪われつつ、実に良い気持ちで歩いていった。
 やがて、左上に、太郎山頂上と太郎山神社の峰とをつなぐ稜線をすぐそこに見上げる地点に出て、私は、ちょっと子供たちに、山のルートファインディングの体験をさせようと思い、あえて正規の道から外れて、左の斜面を稜線に向けて上がっている踏み跡を拾いつつ、長男を先頭に立たせて、ゆっくり登っていってみた。
 案の定、子供たちには、私にははっきり見える踏み跡が、まるで判らないらしかった(子供は背が低いせいもあるだろうが…)。4歳になる長男は「ねえ、どっち行ったらいいの?」と私にしきりに聞く。それに対し、私は「さあ、どっちだろう、自分の行きたい方に行ってみな」等、なるべく子供に自分の頭で考えさせるように仕向けた。こんな調子で、子供をだんだん山に慣らしていこうという魂胆だ。
 もっとも、時間的には、ほんの数分で上の道に出る程度の間の話だが。私は、心地よい汗を拭いつつ、上の道に飛び出た。と、ちょうどそこに、太郎山神社の方から歩いてきた中高年の婦人3人パーティーが通りかかったが、私たちを見るなり、その中の1人が、挨拶もせずに、次のようにのたもうた。
 「まあ驚いた、がさがさ音がしてるから、何か(野生動物が)いるかと思った!」そして「まあ子供たち、まだ小さいのに、ほんのちょっと回れば、こんな薮の中なんか歩かなくたって済むのに、かわいそうに!」
 私は、これを聞いて、少なからずカチンときた。ほんの少し遠回りすれば、太郎山神社の手前に出て、そこからまともな道が稜線上に上がっていることくらい、当方は先刻承知の上でやっているのだ。余計なお節介を焼くなと思ったが、私はあえて黙っていた。折角の山登り、無用な紛争を招来したくない。太郎山頂上はもう目と鼻の先だ。
 と、その3人組の中の、先刻の発言をしたのと同じ婦人が、頂上の縁あたりまで登っていった所で足を停め、また次のようなことを、殊更に大声で喋った。
 「このレンゲツツジ、やっとこれだけ大きくなったわ。私が植えたのよ。でも毎年毎年伐られちゃって、なかなか大きくならなかったんだけど、このくらいになれば、もう大丈夫ね!」
 私は、これを聞き、また少なからずむっとした。最も問題なのは、どういう経過でレンゲツツジを植えたか知らないが、いかにその場を市民の憩いの場として明るい雰囲気にしたいという気持ちから出たものとはいえ、やたらと山の上に安易な植栽をすることは、場合によってその山の自然植生の破壊につながることだと私は思っている。(注:特にその苗が地元以外のものであった場合、DNAの観点からも、きわめて問題視される行為である。) 植えた本人は、さも自身の手柄のごとく、自分は何度もこの山に登っているのだとの事実と併せて周囲に吹聴したいらしいが、そんなに威張れる話でもあるまいに… 状況からして、第三者の私に聞かせたくて、殊更に大声で喋ったのは明らかだったが、先刻の発言に当方は少なからず腹を立てていたのに加え、下手に反応を示せば相手を増長させるだけだと思ったので、私はむろん相手にもしなかった。
 頂上に着いた。長男は一気に広い頂上の中央の芝生に駆け込み、デンと座って腕を組み「ボクが1番だ!」と力んでいる。その様子に、先刻までの不快感も解消されかけ、私たち家族は、ただ1体この頂上に鎮座しているお地蔵様の前で記念写真を撮り始めた。と、またまた例の3人組がその場へやってきて、これまた先刻と同じ婦人いわく、
 「まあ、お地蔵様に、お金だけじゃなくて、お菓子も供えてあるわ、無駄なことを!」
 これが決定的だった。お金以外は無駄だという、さもしい根性に、私は最早キレる寸前になった。たとえお菓子でも、気持ちを供えたものなのだから、別に構わないではないか(注:なお、そのお菓子は、私の子供たちが供えたものではないのだが、あるいは私が全く相手にしなかったことを根に持って、挑発するきっかけを狙っていたのだろうか?)。それにしても、一体何が狙いでわざわざ山に登っているんだ、こいつらは! 自分たちの自己満足のみ優先して、皆で一緒に楽しい思い出を作ろうという気持ちなどカケラもないのではあるまいか。とうとう下界のみにとどまらず、山の上にまで、こんな偏狭な考え方しか持てないような人種が跋扈するようになったとは、全くもって情けない話だ(もっとも、かくいう私自身、結構偏向した感覚の持主だと自覚しているが… その私をして、かく思わせるとは、余程のことだ)。それより何より、こんな下賎な感覚しか持ち得ない連中と同じ場に身を置くこと自体、全くもって身の穢れだ。
 つい先程登頂したばかりなのにもかかわらず、我が女房はさっさと子供たちをまとめて「じゃ、そろそろ下り始めてるね」と、太郎山神社の方へ向けて歩いていってしまった。私も、まあ何度も訪れている頂上でもあるし、あえて執着せず、写真を撮り終えると、すぐその後を追った。
 女房に追いついて下り出しながら、今度は私が先方に聞こえるように大声で言った。「最近は変な野郎が山に来るようになったからなぁ!」
 一体なぜ、こんな状況になってしまったのだろう? 少なくとも、私が学生のころまでは、こんなことはなかったのに…?
 皆さん、どう思います?
 (平成16年 5月 4日記)

 ← 太郎山頂上にて(御機嫌の我が長女:この場で何があったかも知らず… 子供はいいなぁ…)


    



 森林の“癒し”効果について
 平成16年 3月10日、林野庁から「森林の健康と癒し効果に関する科学的実証調査」の結果が公表されましたが、これは、我々「山登り」にとっても、なかなか興味ある内容です。
 というのは、山登り(=森林浴)が健康に良いとは、これまでも言われてきてはいますし、また実際に山登りを趣味とする我々自身、その効果について漠然と認識してきたことではありますが、その効果を、初めて実証的に検証したものだからです。
 以下、その結果の概略を記してみましょう。
 調査方法:健康な男女20人を被験者とし、都市環境下と森林環境下のそれぞれにおける、被験者の運動前後の血液採取及び気分プロフィール検査(POMS)によるデータ分析を実施(この際、被験者・測定時間・運動量の各条件が両環境下で同じになるよう設定)。
 その結果、森林環境下では、都市環境下に比して、次の効果があることが明らかに認められたとのことです。
 @ 免疫機能を有するナチュラル・キラー(NK)細胞の活性が上昇
 A ストレスホルモンであるコルチゾールが減少
 B 森林環境下では、そこにいるだけで気分がリラックス状態となり、その効果は運動と組み合わせるとより高まる
 うーん、こんな話を聞いてしまうと、山登りを趣味にしていて良かったなぁ… と、しみじみ思いますねぇ。
 (平成16年 4月12日記)
 

    



 「インパク」長野県館「私の好きな日本の山ベスト100」投票結果メモ
 平成13年度開催のインターネット博覧会(インパク)の長野県館「山のおくりもの」の中に、来館者に山の人気投票をしてもらう企画があり、インパク終了直前、その結果(上位よりベスト100)が公表されました。今、その控えが私の手元にありますので、参考までに御紹介してみましょう。
 これを見て感じることは、必ずしも、いわゆる「名山」イコール「好きな山」ではないんだなぁ、ということで… 実際、非常に意外な結果ではありましたが、最近、深田百名山ばかりがクローズアップされているように見える中、多くの人々は思ったほどそればかりに囚われてはいないのだという、一つの証左といえましょう。
 つまるところ、裏を返せば、「○○名山」とか、いわばハク付きの山々以外にも、日本には、まだまだ数多くの良い山があるということで… この点「山登り」としては、心すべきことでありますね。
 (平成16年 4月11日記)

(投票期間:平成12年12月31日〜平成13年11月 1日、投票総数:14,778票)

順位
投票数
山   名
同左フリガナ
所 在
標 高
1
2,011
六 甲 山
ロッコウサン
兵 庫
931.34
2
1,571
畝 傍 山
ウネビヤマ
奈 良
199.15
3
630
ニペソツ山
ニペソツヤマ
北海道
2,012.7
4
492
甲   山
キノイヤマ
大 阪
212.2
5
433
天 香 具 山
アマノカグヤマ
奈 良
152
6
426
耳 成 山
ミミナシヤマ
奈 良
139.67
7
375
瑞 牆 山
ミズガキヤマ
山 梨
2,230.2
8
362
浅 間 山
アサマヤマ
群馬・長野
2,568.3
9
348
二 上 山
ニジョウザン
大阪・奈良
517
10
324
槍 ヶ 岳
ヤリガタケ
長野・岐阜
3,180
11
311
岩 湧 山
イワワキサン
大 阪
897.24
12
272
大 雪 山
ダイセツザン
北海道
2,290.3
13
245
六 個 山
ロッコヤマ
大 阪
395.9
14
237
犬 鳴 山
イヌナキヤマ
大 阪
552.8
15
197
利 尻 岳
リシリダケ
北海道
1,721
16
184
信 貴 山
シギサン
奈 良
437
17
182
三 輪 山
ミワヤマ
奈 良
467.06
18
173
若 草 山
ワカクサヤマ
奈 良
341.83
19
172
金 剛 山
コンゴウザン
奈 良
1,125
20
172
生 駒 山
イコマヤマ
大阪・奈良
642.27
21
171
大和葛城山
ヤマトカツラギサン
奈良・大阪
959.17
22
165
狗 留 孫 山
クルソンザン
山 口
616.3
23
151
一 徳 防 山
イットクボンヤマ
大 阪
540.8
24
146
基   山
キヤマ
福岡・佐賀
404.45
25
144
歌 垣 山
ウタガキヤマ
大 阪
553.47
26
142
槙 尾 山
マキノオサン
大 阪
601.6
27
125
三 瓶 山
サンベサン
島 根
1,126.17
28
123
氷 ノ 山
ヒョウノセン
兵 庫
1,509.82
29
112
白 馬 岳
シロウマダケ
長野・富山
2,932.23
30
105
八 経 ケ 岳
ハッキョウガタケ
奈 良
1,914.6
31
102
白馬鑓ケ岳
シロウマヤリガタケ
長野・富山
2,903.11
32
102
杓 子 岳
シャクシダケ
富山・長野
2,812
33
101
富 士 山
フジサン
山 梨
3,775.63
34
98
カムイエクウチカウシ山
カムイエクウチカウシヤマ
北海道
1,979.4
35
94
唐 松 岳
カラマツダケ
富山・長野
2,695.8
36
90
鹿島槍ヶ岳
カシマヤリガタケ
長野・富山
2,889.08
37
90
五 龍 岳
ゴリュウダケ
長野・富山
2,814.14
38
87
爺 ケ 岳
ジイガタケ
長野・富山
2,669.82
39
81
針 ノ 木 岳
ハリノキダケ
富山・長野
2,821
40
79
戸 隠 山
トガクシヤマ
長 野
1,904
41
76
俎 石 山
マナイタイシヤマ
大 阪
420.04
42
68
大   山
ダイセン
鳥 取
1,729
43
67
湧 蓋 山
ワイタサン
熊本・大分
1,499.52
44
66
鉢 伏 山
ハチブセヤマ
兵 庫
1,221.1
45
66
摩 耶 山
マヤサン
兵 庫
702
46
62
泉南飯盛山
センナンイイモリヤマ
大 阪
384.5
47
58
南 葛 城 山
ミナミカツラギザン
大阪・和歌山
922
48
58
和泉葛城山
イズミカツラギサン
大阪・和歌山
858
49
56
飯 縄 山
イイヅナヤマ
長 野
1,917.4
50
55
金 峰 山
キンポウザン
山梨・長野
2,599
51
55
四 石 山
ヨツイシヤマ
大阪・和歌山
384.4
52
51
高 妻 山
タカツマヤマ
新潟・長野
2,352.8
53
51
五 地 蔵 山
ゴジゾウサン
長 野
2,000
54
50
黒 姫 山
クロヒメヤマ
長 野
2,053.4
55
49
妙 高 山
ミョウコウサン
新 潟
2,454
56
48
斑 尾 山
マダラオヤマ
新潟・長野
1,381.81
57
47
大台ケ原山
オオダイガハラヤマ
奈 良
1,694.9
58
46
小 五 郎 山
コゴロウサン
山 口
1,161.7
59
45
行 者 還 岳
ギョウジャカエリダケ
奈 良
1,546.2
60
43
筑 波 山
ツクバサン
茨 城
875.87
61
42
竜 王 山
リュウオウザン
山 口
613.85
62
40
北   岳
キタダケ
山 梨
3,192.39
63
40
群 別 岳
クンベツダケ
北海道
1,376.27
64
40
背 振 山
セブリヤマ
福岡・佐賀
1,054.55
65
40
三 郡 山
サングンヤマ
福 岡
935.86
66
40
浮   嶽
ウキダケ
福岡・佐賀
805.16
67
40
皇 座 山
オオザサン
山 口
526.7
68
40
高 森 山
タカモリヤマ
大阪・和歌山
284.5
69
38
九 重 山
クジュウサン
大 分
1,791
70
38
大 船 山
タイセンザン
大 分
1,786.2
71
38
三 俣 山
ミツマタヤマ
大 分
1,744.7
72
38
市 房 山
イチフサヤマ
宮崎・熊本
1,720.8
73
38
傾   山
カタムキヤマ
大分・宮崎
1,602.2
74
38
阿 蘇 山
アソザン
熊 本
1,592.39
75
38
根 子 岳
ネコダケ
熊 本
1,433
76
38
道 後 山
ドウゴヤマ
島根・広島
1,271
77
37
西 鳳 翩 山
ニシホウベンザン
山 口
741.85
78
37
桂 木 山
カツラギヤマ
山 口
701.61
79
36
四 阿 山
アズマヤサン
群馬・長野
2,354
80
36
黒   岳
クロダケ
大 分
1,587
81
36
馬 見 山
ウマミヤマ
福 岡
977.84
82
36
小 和 田 山
コワダヤマ
大阪・京都
611.7
83
35
安 蔵 寺 山
アゾウジヤマ
島 根
1,263.15
84
35
三 国 山
ミクニヤマ
大阪・和歌山
885.7
85
34
根 子 岳
ネコダケ
長 野
2,207
86
34
斜 里 岳
シャリダケ
北海道
1,544.8
87
34
英 彦 山
ヒコサン
福岡・大分
1,199.62
88
34
竜 門 岳
リュウモンダケ
奈 良
904.3
89
34
三 峰 山
ミツミネヤマ
大阪・和歌山
575.6
90
33
馬 糞 ケ 岳
バフンガダケ
山 口
985.23
91
33
大 福 山
ダイフクヤマ
大阪・和歌山
429
92
32
御 嶽 山
オンタケサン
長野・岐阜
3,067
93
32
白   山
ハクサン
石川・岐阜
2,702.17
94
32
夕 張 岳
ユウバリダケ
北海道
1,667.8
95
30
黒 斑 山
クロフヤマ
長野・群馬
2,405
96
28
札 立 山
フダタテヤマ
大阪・和歌山
349.3
97
27
弥   山
ミセン
奈 良
1,895
98
27
仏 生 ケ 岳
ブッショウガタケ
奈 良
1,804.7
99
27
釈 迦 ケ 岳
シャカガタケ
奈 良
1,799.6
100
27
大 普 賢 岳
ダイフゲンダケ
奈 良
1,779.9


    



 思いがけぬ出会い・佐渡島,金北山
 平成13年 7月のある日。私は、佐渡島の最高峰「金北山」に登りました(例によって、家族旅行の中に登山を組み込んでしまったものですが、さすがにこの時は、登山口の「白雲台」から往復に3時間以上もかかりそうとあって、女房いわく「私、下で待ってる」)。
 もっともこの山、頂上に自衛隊のレーダー基地があり、そこまで自衛隊専用の車道が通じているので(ただし一般車両通行止めのため、頂上までは徒歩)、登山という雰囲気的には今一つ物足りないものがあったのですが、そうは言っても一島の「最高峰」となれば、理屈抜きに登ってみたくなるもの。夏の炎天下の車道歩きなど、実に灼熱地獄そのもので、散々汗を搾られましたが、それでも根性で歩き続けた果てに私が頂上で出会ったものは… 「金北山神社」の厳かな社殿と、その隣に自衛隊のレーダードームが立ち並んでいるという、世にも奇妙な光景でした(!)。
 私は以前、ここと同様、頂上に自衛隊のレーダー基地がある、東北の阿武隈山地の最高峰である「大滝根山」に登ったことがありますが、それにもまして異様な新旧建造物の対照美(?)に、しばしエキゾチック(?)な感覚をおぼえてしまいました。むろん晴天下、周囲の展望も良好でしたが、それよりも印象的な件の光景、例によって、これも私にとっては山における「思いがけぬ出会い」のひとつとなった次第でした。
 しかも… 今回の旅では、もう一つ、意外な形での「出会い」が私に訪れたのです。
 それは、山を下りて、その日の宿「相川やまきホテル」に到着した時のことでした。車を駐めて、宿に入ろうとした時、私はふと、道の向かい側にある一群の石碑に何とはなく気をひかれました。そこで私は翌朝、出発前に、その前に歩いていってみました。と、それらには意外にも、昨日登った金北山はじめ、出羽三山などの山名が刻まれていました。月山、羽黒山、湯殿山、等々。明らかに、山岳信仰の遺物です。
 たまたま、ホテル前にいたタクシー運転手の話によれば、それらは、昔はあちらこちらに散在していたものが一箇所に集められたもので、なぜ集められたか経過は不明とのことでしたが、しかし私は、それらの中に、実に興味深い山名を見出していました… 「戸隠山」。何と、私の郷里信州の山ではないですか!
 実際、まさか佐渡島で、この山名に出会うことになろうとは、想像もしなかっただけに、私は、前日金北山頂上で抱いた異様な感覚とはまた別の、奇妙な感覚にとらわれたのでした。
 そう、これまた「思いがけぬ出会い」(こちらは山の上ではありませんでしたが…)。
 もちろん、山に限らず、人生なんて、あらゆる出会いの集積のうちに進展してゆくものなのでしょうが… それにしても、山における数々の出会いが、私の中で、特に鮮やかな印象として、いつまでも残り続けているのはなぜなのか…?
 ある時は霧の中から荘厳な山容の出現、ある時は見たこともない美しい高山植物の花、ある時はたまたま道連れになった愉快な登山者、ある時は突如として足元に出現したマムシ、またある時は非難小屋の中で凍死した登山者(!)… それらのそれぞれが、私には今も色褪せず、不思議なほど鮮やかな情景として脳裡によみがえってくるのです。
 そして多分、このへんが、何だかんだ言っても、私が山は良いものだと思う、その第一の理由なんでしょう。
 これからも、また新たな出会いを求めて、私は山に登り続けていこう… 静かにそんな決意を胸に抱いた、とある夏の余暇の一刻でした。
 (筆者注:本文は、平成13年12月11日、インターネット博覧会長野県館「山のおくりもの」投稿コーナーに筆者が寄稿した小文に若干の修正を加えた上、再発表したものです。)

    



 思いがけぬ出会い・糸瀬山
 平成13年 5月20日(日)、私は、木曽の雄峰「糸瀬山」に登りました。この山、上松町あたりから見上げるヴォリュームはかなり威圧的で、実際に登ってみても、やはり結構登りがいがありましたが、「イチョウ谷」「胸突き八丁」「山居の鳥屋」「まむし坂」「青なぎ」等、行くみちみち現れるポイントが、その都度気分を新たにしてくれるせいか、比較的退屈しない登りでした。ややマイナーな山らしく、上部では熊笹の薮が若干きつくなりましたが、それでも踏跡と標識とがしっかりしていて全く迷う心配はなく、「青なぎ」の崩壊地の縁からは、東に中央アルプス連峰の展望が実に雄大でした。
 ようやく達した頂上は、鬱蒼とした森林の中の静かなたたずまいで、付近にはオウレンの一種とおぼしき白く可憐な花が咲き、散在する花崗岩の露岩のひとつに三角点が埋め込まれていました。そして、そこから30メートルほど離れた所には、登山口の案内に「必見」と記された「のろし岩」なる巨岩があり、前評判通り、そのインパクトの強さは相当でした。
 さて、その山行の途中、私は、何とはなしに気がついたことがありました。それは、山道の要所要所に、実に丹念に取り付けられている手作りの標識でした。多すぎず少なからず、しかも的確な取付けポイント。私は、これはかなりこの山に精通した人によって取り付けられたに違いないと思いましたが、実は、この山からの帰途、何とその標識の「作者」との思いがけぬ出会いが、私を待ち受けていたのです(!)。
 下山中「胸突き八丁」を下り切り、「イチョウ谷」の標識のあるへんで、私は、登りの際には気付かなかった一つの看板に目をとめました。それには、山道の様子が知りたいので、立ち寄ってほしい旨、及び連絡先が記されてあり、その看板の設置主は「科野信夫」とありました。
 私は、折角だから一報をと、その場から携帯電話で科野氏に電話をしました。と、彼は在宅で、私が道の状況を説明しようとすると、「こちらまでおいで下さい」とのこと(!)。結局、私はそれから大桑村須原駅近くの科野氏の自宅をお訪ねし、彼からいくつかの糸瀬山にまつわる貴重なお話を伺うことになりました。
 糸瀬山中の丹念な標識の多くは、彼が作成し取り付けたものであること、最近は県外からも結構多くの人が訪れるようになったこと、今年度あたりからこの山の整備に村が本腰を入れそうなこと、今年は山頂に祠をおまつりする予定であること、等々… 私が、先週は野尻の飯盛山に登ってきたと言ったのに対し、彼は「私は、やっぱり通い慣れた糸瀬山がいいですねぇ…」とつぶやかれたのが印象的でした。
 歓談数十分、彼の手作りの糸瀬山の写真の小額を記念に頂き、私は家路につきましたが、愛車のハンドルを握りつつ、私は、素晴らしい出会いを提供してくれた今回の山行に、一人すがすがしい充実感をおぼえていました。
 (筆者注:本文は、平成13年 5月23日、インターネット博覧会長野県館「山のおくりもの」投稿コーナーに筆者が寄稿した小文に若干の修正を加えた上、再発表したものです。)

 ← 原生林(糸瀬山頂上付近にて)


    



 「登山付き」家族旅行のすすめ・後日談
 上記「登山付き」家族旅行のすすめ、の小文を、インパク長野県館「山のおくりもの」の投稿コーナー「私の山日記」に寄稿した後、ふとしたことで、それが女房の目にふれました。と、女房いわく、
 「何よこれ、話が違うじゃない。あんたのは、家族旅行に登山を組み込むんじゃなくて、登山に家族旅行を組み込んでいるんじゃない!」
 「!!!」愕然としました。
 さあ弱った。どっちが本当なんだか、自分でもよくわからなくなってしまった…
 (平成13年 3月14日記)
 

    



 思いがけぬ出会い・秩父御岳山
 ある年の3月初め、早朝。私は、ふとしたことから埼玉県秩父周辺の山の雰囲気に触れてみたくなり、その近辺にどこか登り残している山はないかと、ガイドブックをめくってみたところ、「秩父御岳山」なる山が目にとまり、その瞬間「よし、今日の山はここだ!」と、ガイドの内容はろくに読みもしないうちに、車で自宅を飛び出しました。
 途中、渋滞もありましたが、何とか昼ころには登山口着、そこから往復4時間半程度(頂上での休憩込み)で登ってきました(注:正確には平成13年 3月 3日のこと)。
 それは期待通り良い雰囲気の山で、神社がまつられている頂上からの展望は比較的良く、そのあたりの名峰である両神山、雲取山、甲武信岳等の山々が指呼できました。また、頂上だけでなく、登山路も、下部では渓流を木橋で何度も渡り返し、中腹の鬱蒼とした杉の植林、頂上直下では鎖もつけられている岩場の登りと、なかなか楽しむことができました。
 当初、結構適当にこの山を選定したこともあり、良き山に思いがけず出会えたことに喜びを感じた次第ですが、しかし、この山との思いがけぬ出会いとは、実はそれだけではなかったのです。
 というのは、この山「御岳山」という名称からも連想されるとおり、信州の名峰「木曽御嶽山」と極めて強いつながりがあるのだということが、出発前にガイドをよく読まなかったために、行ってみてはじめて判明したのです。
 すなわち、この山、何と木曽御嶽山の王滝口を開山した「普寛上人」によって開山され、しかも、この山の登山口近くにある「普寛神社」付近で上人はお生まれになったのだとか!
 私は「御嶽教」の信者ではありませんが、しかし木曽御嶽山には王滝口から2度登っていますので、この事実には大いに親近感をおぼえました。そしてまた、埼玉県の山に訪れていながら、故郷信州の匂いを少なからず感じるという不可思議さ! このあたり、山に実際に訪れた者だけが体験することのできる、一種異様な感覚といえましょうか。
 ただ登って汗かいて景色を眺めて下りるというだけでなく、こんなささやかな「出会い」すら時として提供してくれる「山」、やっぱり、何だかんだ言っても、山って良いものですネ。
 (筆者注:本文は、平成13年 3月13日、インターネット博覧会長野県館「山のおくりもの」投稿コーナーに筆者が寄稿した小文に若干の修正を加えた上、再発表したものです。)

 ← 「御岳神社」(秩父御岳山頂上にて)


    



 「登山付き」家族旅行のすすめ
 「山に登りたいけど、家事などで忙しくて、なかなか行けない」「子供がまだ小さくて、山に行くなんて言った日には、女房から大ひんしゅくを買ってしまう」などという声を、私の周囲の山好きな方々からは時折聞きますが、そんな場合に、私自身実行して証明した大変有効な山登りの方法を御紹介しましょう。
 その方法とは、ずばり「家族旅行にそれとなく山登りを組み込んでしまう」ことです。私は、これまで何度となく「家族みんなで、大自然の息吹を楽しもうじゃないか、自然に接するということは、健康的で、きっと子供の情操教育上も良いぜ!」などと、言葉巧みに女房をダマして(?)は、ちゃっかり山に登ってきました。それらの試みの中、平成12年7月に実行した、最も代表的な実例を参考までに御紹介しましょう(注:登った山はいずれも深田久弥の日本100名山、また、登山所要時間はいずれも往復3時間以内、同行者は女房と当時生後9か月の長男。なお長男は最終日の山を除き、私が背負子で背負って登りました)。
 第1日目。早朝長野市の自宅発、新幹線とモノレールで羽田空港まで行き、そこから日本エアシステムの飛行機で青森空港まで飛び、空港からはレンタカーで弘前市に入り、岩木山に登頂(津軽岩木スカイラインを終点の駐車場まで行き、そこからリフトで「鳥ノ海噴火口」まで登り、そこから頂上までは、普通なら30分程度でしょうが、この時は子供を背負っていて慎重に歩いたので、1時間ほどかかりました)。下山後、弘前市内に戻り宿泊。
 第2日目。午前中は弘前城など弘前市内の観光、その後東北自動車道を「鹿角八幡平IC」まで飛ばし、「アスピーテライン」経由八幡平に登頂(頂上直下の駐車場から、頂上三角点〜ガマ沼〜八幡沼、と巡る巡回コース、道は登山道らしくないほど整備されており、子供を背負っていても全く苦にならず。ただ、途中夕立に遭い、源太森方面に回れなかったのが心残り、往復2時間程度)。下山後は盛岡方面に向けて走り、御所湖畔の「繋温泉」に宿泊。
 第3日目。「盛岡IC」から東北自動車道を「十和田IC」まで走り、そこから「大湯環状列石」(ストーンサークル)などを見物しながら十和田湖畔へ、有名な「乙女の像」など観光。本来ならこの後、八甲田山を訪れるはずが、十和田湖畔で思わぬ雨天、やむなく八甲田山は最終日とし、その日は新郷村の「キリストの墓」(!)などを見物しつつ、八甲田山麓を田代経由で青森市へと越える(八甲田越えの途中、馬立場の雪中行軍遭難者銅像を見学)。この日は青森市内に宿泊。
 第4日目。また八甲田方面へと車を飛ばし、八甲田山(大岳)を往復(八甲田ロープウェイで「田茂范(たもやち)岳」まで登り、そこから田茂范湿原〜赤倉岳〜井戸岳〜大岳とたどり、帰りは元来た道を戻る。なお、この時だけは、旅行疲れもあり、女房は「登山口で待っている」と言うので、私一人での往復に。それにしてもこの日は、映画などで形成された一般的な八甲田山の「雪と寒さ」のイメージなどカケラもないほど暑く、「陸奥の吹雪」ならぬ熱風にあてられ少々苦戦するハメとなる。山登りを趣味としない女房には行かなくて賢明な判断だったろう…)。下山後は、青森空港でレンタカーを返却、後は初日と逆コースで飛行機・電車を乗り継ぎ長野に戻る。
 以上、私の実行したひとつの例を御紹介しましたが、いかがでしょうか? この程度なら、普段家族の御機嫌を気にして、なかなか山に行きにくい方にも、実行可能ではないですか?
 もっとも、9か月の息子を連れて行ったというので、人には大分「無謀」呼ばわりされましたが。確かにそれを言われると、慎重に歩いたとはいえ、相当程度に弱いものはあるのですが… というのは、岩木山の頂上直下の岩ゴロゴロの急斜面は予想以上で、内心「えらい所に子供を連れてきてしまった…」と思ったのですが、かといって今さら登るのを止める気になれなかったのも厳然たる事実でしたし、また八幡平では、頂上付近で夕立にも遭遇してしまいましたし… この点、お叱りを受けたとすれば、甘んじて受けるより他にないなとは思っていますが。つまるところ、「登山付き」家族旅行としては、選定できる山のレベル等に慎重でなければいけないという、ひとつの教訓ではあります。
 なお、それ以前の話として、家族がこの企てにうまくひっかかってくれるかどうか、が最重要ポイントではありますネ…
 (筆者注:本文は、平成13年 2月27日、インターネット博覧会長野県館「山のおくりもの」投稿コーナーに筆者が寄稿した小文に若干の修正を加えた上、再発表したものです。)