山の不思議・恐怖体験


  【不思議・恐怖体験リスト】(各文は閲覧上の便宜を考慮し、記述年月日の新しい順に配列しました)

 眼前で忽然と消えた車道
 この話は、考えようによっては「山の」不思議・恐怖体験というより「道の」不思議・恐怖体験と取れる面があるかも知れないが… それでも体験場所は平地ではなく山中の道路だし、また、そもそものきっかけが、例によって山登りを企てて遠走りをした帰り、たまたまその道を通過していったことだったので… まあ「山」の体験として特に違和感はなさそうだから、ここに概略を記してみたい。
 もう10年ほども前の話になるが、ある休日、私は職場の先輩と天城山に日帰り登山しようと企て、先輩の車に同乗して未明に出立した。天城といえば有名な伊豆半島の雄峰、期待に胸躍らせながらの道中だったが… 目的地に近づくにしたがって空模様がおかしくなり、山麓にさしかかる頃にはついに本格的な雨降りになった。南無三! 折角遠路はるばる来たのに… と思ったが、こんな天気の下、無理して登っても良い思い出になどなるわけがない。で、先輩と協議の結果、やむなく山登りはやめ、代りに伊豆半島の観光に切り替えることにした。
 早立ちしてきたので、時間は十分ある。で、どうせなら最南端の石廊崎まで行ってみようという話になり、伊豆半島の東岸を南に車を走らせたが、その途中通った下田で、かつて江戸時代末期に日本が開国した頃、アメリカ総領事に仕えたばかりに以後数奇な生涯を送ることを余儀なくされた、ある薄幸な女性の菩提寺である某寺に立ち寄っていった。
 先輩はともかく、私の方はその女性にまつわる話の事前知識があったので、自然、厳粛な気持ちと共に参拝し、次いで併設の資料館を見学していったが、その途中、私は資料展示のガラスケースの中に、異様なものを見出した。
 それは、この寺で撮られた小さい写真だった。が… 画面上に何やら印がしてあるので、よく見ると… 何と、そこに無気味な顔のようなものが写っているではないか…
 げっ、これは、心霊写真じゃないか!
 私が思わず背筋に寒気をおぼえていると、脇にいた先輩も複雑そうな表情で、言った。
 「こりゃ、観光気分で立ち寄るような場所じゃなさそうだね…」
 私も同感だった。我々はそれを機に、同寺を辞し、さらに最終目的地の石廊崎方面に向かったが、それからというものは薄暗い雨模様の空の下でもあったせいか、どうも気分のすぐれない道中が続いた。傘をさして歩いた石廊崎も、雨で視界が悪くて期待したほど印象には残らず… 結局、一番印象に残ったのは、例の寺で見た心霊写真だったという(!)、どうも妙な巡り合わせのまま、半島を折り返して北上に移った。
 さすがに日帰りの遠出も度が過ぎたか、まだ伊豆半島から抜け切らないうちに周囲に夜の帳が下りた。我々は、もやもやした気持ちを振り払うべく、適当な所で夕食を摂って気分転換、それから私が車の運転を代わり、さらに箱根越えの道へとさしかかっていった。
 「天下の険」とはいえ、晴れてさえいれば山岳道路としては比較的走り易いはずの箱根の道も、この日ばかりは、ひどく視界が悪かった。皮肉なもので、そこまで行った頃には雨は止んでいたが、その代わりに濃い霧が巻き、いずれにせよ気ははやれど、スピードを出せない鬱陶しい進行が延々と続いた。長時間ドライブで、さすがに疲れも出てきていたせいか、先輩との会話も次第に途切れがちになり… 折角、先刻明るい所で食事をして大分晴れた気分も、また少しずつ妙なものになりつつあった。
 「よっしゃ、じゃ、景気付けに、ひとつ歌でも歌いながら行きますか!」
 私はこう言い放つと、景気付けだから勇壮な曲がいいといって、軍歌だの応援歌だのの類ばかり、先輩と2人して思いつくままに大声で歌いまくった。これはさすがに効果があり、たちまち高揚してきた気分のままに、運転にも心なしか調子が出てきた。乏しい視界の中、霧の中にぼうっと浮かび上がる路面に目を凝らしつつ、連続するカーブを右に左にハンドルを切りつつ進む。スローイン、ファストアウトもスムースに決まるようになった。
 こんな状態で、どれほどの間、走り続けたろうか…
 私は相変わらず口から出任せの歌に大声を張り上げつつ、数え切れないほどのカーブの連続の中、またひとつのカーブを抜けた所で、今度は比較的直線的な路面が霧の中にぼんやり浮かび上がったのを見た。私は自然、やや強めにアクセルを踏み込んだ。
 と… 次の瞬間だった。突如、助手席の先輩の凍りついたような絶叫が車内に反響した!
 
「ウワーッ!」
 な、何事だ!?
 瞬間、事情を全く理解できないままに、それでも私は驚愕と共に、反射的に急ブレーキを踏んでいた。
 すさまじいスリップ音とともに、車はエンストして停車… ここで我に返った私は、眼前に信じられない光景を目にした。何と、車は本来の道路を大きくコースアウトして、路肩との間の砂利のスペースに突入して停まっており、しかも、そのわずか先には、崖が迫っていたのだ!
 ど、どうなっているんだ、これは…?
 私は、額の脂汗を拭いつつ、狐につままれたような気持ちだった。何故なら、あの直前、私の眼の前には、確かに直線的な道路が浮かび上がって見えたのだ。それでハンドルを直して、アクセルを踏み込んだのだ。それが、何故…?
 「運転交代しよう!」
 まだ、いい加減こわばったままの表情で、先輩が叫ぶように言った。
 私は、ふらふらと運転席から外に下り立ち、改めて車の前方の空間に目をやった。そして、今更ながらに身の毛がよだつような思いを味わった… もし、あの瞬間、先輩が大声で悲鳴を上げていなかったとしたら、今頃、我々はどうなっていたことだろうか…!?
 しばらくして、先輩の運転で、車は何事もなかったかのように発進し、やがて、箱根を無事通過した頃には、さしもの濃い霧も嘘のように消え去っていった。おかげで大分、気分も落ち着いた頃、先輩が諭すように私に言った。
 「山ちゃん、激務で疲れてるんだ、山もいいが、たまにはしっかり身体を休めた方がいいぞ」
 私はうなずきながら、まだ釈然としない思いだった。が… この調子では、先輩に事情を話したところで、どうせ霧の中、疲れで前が良く見えなかったがための錯覚か、さもなければ瞬間的な居眠り運転かに片付けられるが落ちだと思ったので、特に弁解はしなかった。ただ… あの時私は大声で歌を歌っていた。また、濃い霧の中でもあったし、運転中は歌を歌いながらも前方に集中し目を凝らし続けていたのだ。少なくとも、断じて居眠り運転などではない。また、疲れゆえの錯覚だったとしても、それにしては、えらく明瞭な印象として直線的な路面が見えたのだが…?
 ともあれ、我々は無事、その日のうちに家に帰り着くことができた。が… 例によって、この話には後日談がある。
 戻った数日後、あのドライブの途中で撮った写真の現像ができたので、私は早速それらを見てみたが… 石廊崎で撮った写真の中に、どうも妙なものが混じっていた。というのは… 被写体の前に赤い無気味な光が写り込んでいるものが、何故か複数枚あったのだ。
 まさか… 光線の加減で、たまたまこんなふうに写っただけだよな…? と思ってはみたものの、ここで例の、下田の某寺で見た心霊写真のことが、にわかに連想されてきた。まさか、まさか… いやいや、冗談じゃない。あの寺は無関係だ。そんな筈はない、祟られるわけがない…
 結局、何故そんなふうに写ったかの理由は不明のままだったが… どうも気味が悪いので、それらの写真は、そのうち全て処分してしまった。
 以上、またひとつ、私の不思議・恐怖体験を書き記してみた次第だが… 今でも私は時折、思うことがある。そう、あの日、霧の中、我が眼前に浮かび上がった幻の道、ぼんやりとではあるが、しかし今もなお我が脳裡に奇妙に明瞭な印象を残しているその道を、あの時、もし仮に、そのまま走り抜けて行っていたとしたら… その先には、一体どのような情景の世界が我々を出迎えてくれたのだろうかと…
 (平成18年 1月18日記)

    



 薄暮の霊山〜神秘の儀式
 今回、私がここに書き記そうとしている奇妙な体験については、実は発表すべきかどうか、若干躊躇したのである。というのは、私にとっては「不思議体験」の類ではあるが、それに直接関係している者にとっては、不思議でもなんでもない、単に敬虔な信仰心に基づく真剣そのものの行為であったかも知れないからだ。しかし… 私にとっては、噂にはそういうことを行っている人々がいるとは聞いたことがあるが、実際にそれを目にしたことは、少なくとも現時点でこれが唯一の体験であり、その意味でも、きわめて特異な体験であったことは確かなので、思い切ってその体験の概要を次に書き記してみることにする。ただ、上記の観点から、関係者に御迷惑を及ぼすことは私の本意とするところではないので、体験場所については、ここでは近畿地方の某霊山とのみ述べるにとどめておくことを御了承願いたい。
 ある年の11月某日、午後…
 私と女房は、たまたま、旅行でこの方面を訪れていた。既に先に幾つかの観光スポットを巡り、午後2時を回っていたが、日が短い季節とはいえ、まだ宿に入るには早い気がしたし、折角来ているのだから、どこかもう1箇所くらい回りたいものだと思った。そこで、ガイドブックで訪問先を物色した結果、ちょうど近くにある某霊山の由緒ある寺に参拝してはどうかということで話が決まった。
 何故、そのような時間から、山の中の寺などへの参拝を思いついたかといえば、それは結局、私の山登り趣味が多分に影響していたことは言うまでもない。もっとも実のところ、同寺への参拝の過程においては、特に「頂上」と称する地点に立つわけではなかったのだが、しかし、所詮は観光旅行の途中に思いついた程度の話だし、その時点での私には、ともかく「山」と名のつく所に行けるだけでも儲け物だと思っていた。
 我々は早速、その登拝口に車を走らせて駐車し、寺の本堂まで登って参拝。これで一応目的を果たし、さて帰ろうかと付近を見回すと、何やら道標がある。何だろうと確かめてみると、どうもこの寺、さらに上に「奥の院」のような場所があるようで、そこから先へと誘うように山道が続いている。
 私はそれを見て、むらむらと好奇心が胸中に湧き起るのをおぼえた。時間も気になるが、これは是非、行ってみたいものだと思った。女房はあまり乗り気でないようだったが、そんなに時間はかからないだろうと希望的観測を述べ、そのまま有無を言わさず先へ進み始めた。
 が… この希望的観測、やはり甘かった。結構汗をかいた末に、ようやく目的の「奥の院」めいた堂の前に着いた頃には、周囲は既に薄暗くなりかけていた。我々は慌しく参拝を済ますと、足早に元来た道を戻り始めた。もっとも、何とか足元が見えなくなるより先に本堂まで戻れば、後は登拝口まで灯篭の明かりがあるはずだったので、比較的気は楽だったが。
 と…
 ちょうど、本堂までの中間あたりまで戻った頃だろうか、何やら、高い歌声のような、不可思議な響きが、どこからともなく聞こえてきた。
 ん、何だろう…?
 我々は耳をすませた。すると… その奇妙な音声は、次第に暗くなりつつある樹林の中の空気を鋭利に引き裂くごとく、遠いが、しかし異常に通りの良い響きをもって聞こえてくる…
 我々はまた歩き出しながら、首をひねった。これは聞く限り、明らかに人声だ。それも男女入り混じった複数人数の。こんな時間にこんな所に、一体何故、こんな声が聞こえてくるのだろう? ちなみにそれが、どんな音声だったのかといえば… あえて例えるなら、そう、学校の合唱部か演劇部が、高い声で発声練習をしているような感じ。しかも、進むにしたがって、その声は次第に大きくなってくる。私は確信した。間違いない、これは麓からではない、明らかにこの付近の林中から発せられている音声だ。
 私は先を急ぎつつ、自身の学生時代の経験に照らし合わせて、考えた。最近は変わったことをする連中が多いからな… 案外この声は、どこかの学校の合唱部か演劇部の連中が、この付近の山中で「合宿」か「コンパ」か何かに来ていて、そのついでに「宴会」前の発声練習でもしているのではないか、と。実際、私も学生時代、山岳のコンパで山の中でしこたま飲み明かした経験があることだし(それも崖の上で!)。しかし、それにしては時間的に妙な気もするが… そも「霊山」の山中で合宿などできるものなのか…?
 そんなことを考えながら歩いているうち、我々は途中、右に小道が分岐している所に出た。何か案内標識があるので、薄暗がりに目を凝らして見ると、どうもその小道の先に神社があるらしい。寺の山中に神社とは、神仏習合の名残かなと思ったが… さて、ここで、またまた私の悪い癖が出た。折角来ているのだし、その神社をちょっと一目見てきたくなってしまったのだ。
 私が早速その気持ちを披瀝すると、女房は当然のごとく、もう暗いし、やめましょうよと言った。しかし、私の好奇心は抑えようもなかった。とはいえ、先刻無理に「奥の院」まで付き合わせた経過もあり、私もこれ以上女房に同行を強制し難いものがあったので、やむなく、
 「わかった、じゃ、すまんが、ちょっとそのへんに腰掛けて待っててくれ、すぐ行ってくるから」
 こう言い含め、私は小走りで、その小道に入っていった… それが、運命の「出会い」への第一歩だなどとは思いもせず。
 わずか歩くと、もう前途に、何やら神社らしい建物が見えた。したり、これならすぐ戻れそうだ。私は息をはずませながら、その方向に向かった。が、その時私は別のことにも気付いていた… 急げば急ぐほど、神社だけでなく、例の声も、どんどん近付いてくるのだ!
 しかし、私はまだその時点では、どうせ合唱部の合宿の類という先入観が多少あったゆえ、それほど奇妙には思わなかった。が… 神社の社殿前まで、後20mほどかと思った頃、私は何気なしに右方の林中を見て、愕然とした。何と、灯り一つない薄暗い林中に、5〜6人の男女が円陣を描き、空に向けて両手を差し延べている姿が目に映ったのだ。しかも、件の高い声は、彼等によって発せられているではないか!
 な、何なんだ、こいつらは!?
 私は思わず、その場に立ちすくんでいた。こりゃ、合唱部のコンパなどではない。以前TVか映画かで見たことのある、魔法か降霊術の類だ!
 ヤバイぜこりゃ、えらい所に来合わせちまった…
 私は弱った。目的の神社は目の前にあるが、参拝すべきか、しないべきか… はたと迷っているうち、私の脳裏には、以前観た『悪魔の追跡』というオカルト映画の筋が連想されてきた。すなわち、キャンピングカーで旅行途中の2組の夫婦連れが、夜間、妖しい集団の黒魔術の儀式を覗き見てしまったばかりに、その集団にどこまでも追い掛け回され、ついには逃げ切れずに殺されてしまうという…(!)
 じ、冗談じゃねえや!
 私は、今にして、無理にこんな所へ来てしまったことを後悔したが、もう遅かった。また、一人待たせてある女房のことも、遅ればせながら心配になってきた。私は慌しく善後策を考慮した。もちろん、衝動的な気持ちとしては、一刻も早く、この場から逃げ出したい。しかし… 例のオカルト映画の筋の連想が、それを阻んだ。というのは、もし、このまま、こそこそと逃げ出したところを連中に見つかったりすれば、それこそ連中の目には、一種のスパイ行為に映るに違いないからだ。そして、その結果どうなるか…(!) 想像するだに恐ろしい。
 然らば… 私は瞬間、決心した。えい、もう、何食わぬ顔で目の前の神社に堂々と参拝して、堂々と歩いて立ち去るのだ! 大体「隠すより表れるはなし」と言うではないか。彼等に疑念を抱かせないためにも、これが最善の方法だ。これしかない。
 そう覚悟を決めると、私は、わざと意に介さぬふりをしつつ、神社前に歩んだ。女房のことも気になるし、一刻の猶予もならぬ。
 と… 次の瞬間、それまで声高に聞こえてきていた声が、ぴたりと止んだのだ!
 「……」
 思わず、背筋に寒気が走った。連中が声を殺して私の方を伺っている気配が、ひしひしと伝わってくる。しかし、ここまで来てしまったら、もう予定の行動をするだけだ。私は、そのまま社殿前に立ち、二礼二拍手一拝。拍手の響きが、しんと静まり返った薄暗い林中に反響する。そして… 型通りの参拝を済ますと、私は、あえて落ち着き払ったふりをして、ノンビリ元来た道を戻り始めた。
 「……」
 額に、先刻の小走りのためばかりではない汗が、じっとりと滲んでいた。彼等が木々の向こうに隠れて見えなくなるまでの時間の、何と長く感じられたことか! 彼等が見えなくなってから、私は少しずつ足早になり、最後は走っていた。ようやく女房の待つ分岐まで戻ると、我々は直ちに本堂方面に向けて早足に下っていった。
 「さっき、あなたが行って、ちょっとしたら、あの変な声が、急にぴたっと止まったけど、何かあったの?」
 歩きながら、女房が私に聞いた。さすがに私の顔色が変わっているのに気付いたらしい。私は、今、状況を説明すべきかどうか、一瞬躊躇した。だが次の瞬間、私はそれまでの焦燥が、幸いにも杞憂に過ぎなかったらしいことを理解した… また、例の発声が、先と同様に再開したからだ。
 それでも、なおしばらくの間は、私は後方の暗闇の気配を気にしていた。が、特に何者かが後をつけてくる様子もなく、ほどなくして無事本堂に戻れて、私は、一気にそれまでの緊張が解け、ほっと一息つくことができた。そして、ここで初めて私は先刻の状況を女房に語りつつ、さらに灯篭に照らされた道を登拝口へと下っていった…
 さて、以上の体験を記しながら、私は、改めて肝に銘じざるを得ないものがあった。「山」とは、確かに我々の興味を惹くネタの宝庫ではあるが、好奇心も度が過ぎると、時として災難を招く。確信が持てない場合は、あえて中止ないし退却する勇気も必要なのだということを…
 それにしても… あれは一体、何の儀式だったのだろう…?
 (平成17年 7月15日記)

    



 幕営〜恐怖の一夜
 もう大分前の話(昭和61年)になるが… 私は南アルプス南部の聖岳方面に訪れようとした際、実に恐ろしい体験をした。私の山行は、現在はからずも日帰り主体となっているが、この体験は、そうなるに至った、ひとつの精神的遠因をなしているもので… 今回は、その体験の内容を、自身の備忘の意味も含め、当時の記憶をひもときながら、以下に書き記してみたい。
 時季は9月の初め。私は、長野県下伊那郡南信濃村の遠山川沿いに、旧森林鉄道の軌道敷だったという細い道を、幕営用具一式を収めた重い荷を背に、延々と東にたどった。
 今は本格的登りの基点となる「西沢渡」まで車道が延びているようだが、当時はまだ「易老渡」のやや手前の辺までしか車が入れない頃で、しかも当時の私はまだ自動車の運転免許を持っていなかったから、飯田線の平岡駅から南信濃村の「梨元」のバス停までバス利用、後は「北又渡」「易老渡」経由で「西沢渡」まで歩いていくより他になかった。
 私は、当初計画段階から、初日は「易老渡」付近にて幕営と決めていた。(注:時間的には「西沢渡」まで入るのも十分可能だったのだが、実はこれより以前に、やはり聖岳を目指して、同じ道をたどったことがあり、その際、たまたま前夜が夜通し雨で、朝、雨がやんだ直後に入り込んだのが運のツキで、「易老渡」〜「西沢渡」間の道において、足元から這い上がってくる無数の「ヤマヒル」に全身総毛立ち、それ以上登る気が失せて逃げ帰ったということがあったため(!)… うっかり「西沢渡」あたりで幕営などして、夜露にでも濡れたりしたら… と考えると、当時の私としては、とてもじゃないが気味悪くてたまらず、結果「西沢渡」を幕営場所に選定するのを敬遠したものである。)
 その日は、遠山川源流沿いのせいか、さほど残暑も厳しくなく、天候も高曇りながら周囲は明るい光に満ち、明日の厳しい登りに備えて英気を養うには比較的良好なコンディションだった。むろん、辺りには私の他、誰の姿もなく… 私は遠山川源流の川原の一段上の平地にテントを設営し、早めの炊事などをしながら昼下がりの刻を過ごし、やがて夕刻を迎えた。
 このまま、何事もなく就寝して翌朝を迎えていれば、特に何の変哲もない、ごく平凡なテント泊の一夜で終わったことだろう。
 ところが…
 家の柔らかい敷布団に慣れてしまった身には、シュラフの中とはいえ、大地の床はやはり硬く… 今一つ安眠といかないままに、うつらうつらとした刻を過ごしていた私は、ふと、あることに気付き、にわかに目が覚めた。
 時刻は、既に深夜零時過ぎだったろうか。
 私は、しばし息を殺して、周囲に聞き耳を立てた。というのも、夢か現か定かならず、何かテントの外に人の気配がしたからだ。
 何だろう?
 私は、耳をすませた。と… 聞こえた! はっきりとは聴き取れないが、明らかに人声だ。それも、若年から年配まで、最低2〜3人の女性とおぼしき者たちが、ぼそぼそ話し合っているような声が聞こえてきたのだ。しかも、彼らの身体の動きにつれて、服が擦れるような音までが、ありありと聞こえてくるではないか。距離的にも近い!
 ど、どういうことだ、これは!? おかしい、周囲には誰もいないはずだ…?
 思わず、背筋に寒気が走るとともに、額に、じっとりと脂汗がにじんでくるのが、我ながらよく判った。迫りくる恐怖の中で、私の頭脳は、今起こっていることに何らかの納得のいく説明をつけるべく、めまぐるしく回転していた。
 おかしい、付近に幕営者は全くなかった。とすれば、あれは何だ? 夜間登山者の人声か? それにしては、いっこうに遠ざかっていかないのが妙だ。大体、こんな深夜に、こんな深山で、女性の声ばかりがするなんて、そんなこと、あるものだろうか?
 さては幻聴か? と、改めて聞き耳を立ててみる。と… その不気味な物音と気配は、当初にもまして、より明瞭に、我が心身に迫ってくるかのようだ。
 『ボソボソ… ボソボソ… サワサワ…』
 やめろっ、やめろ、やめてくれ!
 私は、直ちにその場から逃げ出したい衝動にかられた。が… ここは「易老渡」。「梨元」から数時間も遠山川源流を遡った地。まさかこれから、この深夜の漆黒の闇の中を、例えようのない恐怖にかられつつ、テントをたたんで「梨元」まで逃げ帰るなど論外だった。そも、実際テントの外に出てみようという勇気すら出しようもない。ほんの1mmあるかないかのテント生地の外側に何があるかと想像すれば…!?
 私は、単独での幕営が、かくも恐ろしいことだとは、実際この時まで想像すらしたことがなかった。半ば錯乱した意識の中、私が過去に聞かされた山の怪談の数々や、またつい最近、他ならぬ同じ山中のやや上流で自身が体験した、泉鏡花の小説『高野聖』に出てくるごとき恐怖のヤマヒルの襲撃の記憶などが、アットランダムに我が脳裏に交錯する。
 恐怖も度が過ぎると、思考が一種空白状態に近くなる。そんな中、今度は、どこからともなく、別の音が聞こえてきた…
 何だ何だ、今度は?
 と、その、どこか聞き慣れた響き… 間違いない、あれは救急車のサイレンの音だ!
 一体、何で、こんな所に救急車の音が…? 沢筋の山肌に、下界の音が反射して伝わってきたのだろうか? しかし、それにしては、いやに音が明瞭だが!?
 私は、この打ち続く奇妙な現象に、最早耐え切れなかった。訳も判らず、逃げられもせず… それでも私は、乏しい思考能力の中にも、この場の恐怖から当座逃げ出すのに、現状で最も有効な手段を思い付いた。
 私は、あわただしくルックザックの中から、本来山の上で飲むつもりだったウィスキーのビンを取り出し、蓋をねじ切るが早いか、ストレートのまま、めちゃくちゃに一気に飲み干した。そして、汗拭き用のタオルも取り出し、可能な限り耳を覆い隠すように鉢巻をした。
 幸い、このストレートのウィスキー一気飲みはさすがに効いた。周囲の音も、耳元にタオルが擦れる雑音で、さして気にならなくなった。よし、今のうちだと、私は再度シュラフの中に深く潜り込んで横になった。そして、いつしか、深い眠りの中に落ちていった…
 かくて、恐怖の一夜は明けた。
 はっと気が付くと、周囲は既にかなり明るかった。しまった、寝過ごしたかと時計を見ると、何と既に午前9時過ぎ。計画では、5時間も前に出発しているはずだった。
 二日酔いで、いささか痛む頭を抑えながら、私はテントの外へ出た。周囲には昨日と同様全く人気はなかったが、まるで昨夜の出来事が嘘であったかのように、付近には長閑な晩夏の雰囲気が満ちていた。
 私は、気を取り直すかのように、すぐ近くの渓流で顔を洗い流した。そのとき既に、この後どうするか、私の腹は決まっていた… 昨夜の恐怖体験に、アルコールも加わった心身の憔悴が著しく、私は、とてもそれ以上、登っていく気にならなかったのだ。
 私は、テントをたたみ、ルックザックに収納すると、足元をふらつかせながら、元来た道を引き返していったが… 途中、蛇抜けを突っ切っている途中で落石には遭うわ(50cmほどで危うく避けたが…)、はたまた、まるで蛇みたいに太いミミズは目撃するわと、最後まで全く気を抜けない、不気味な山旅であった。
 ただひとつ、幸いだったのは… 命からがら家に戻って、何気なしにテレビニュースの天気予報を見ていたら、日本のはるか南洋上にあった熱帯低気圧が、いきなり台風に変貌した上に左へ進路を変え、日本列島直撃の構えを見せていたことだった(さして大きい台風でもなかったように記憶しているが)。もし、あれで引き返していなかったら、少なくとも聖岳への登りの途中で雨くらいには遭い、結果、またまた例のヤマヒルの猛攻を受けていたかも知れず… まぁ、今回の山は、どっちみちダメな巡り合わせであったのだろう、と自らを慰めるより他になかった。
 そして… 私はこれ以来、単独で山に行く際は極力登山口から日帰りの計画とし、やむなく泊りで行く場合は迷わず山小屋利用を選択することにしたのは言うまでもない。
 (平成17年 2月 6日記)

    



 神々の集う山・皆神山
 今度は、いわゆる「心霊」的体験でない、また別の意味での「不思議」をひとつ… これは体験記というよりは、むしろ不思議スポットの紹介的要素の方が強いかも知れないが、多くの話を羅列する中には、若干変わった趣向もあってよかろうと思い、あえて書き記す次第。
 さて、本稿でとりあげる「皆神山」(長野市松代町)は、長野県宝指定の「熊野出速雄神社」社殿や、全国的にも珍しい低標高地のクロサンショウウオ産卵池(いずれも皆神神社境内)、また第二次大戦末期に地下壕を掘ったとか、松代群発地震の震源地がこの山だった等、歴史的かつ自然的にみて大変興味深いエリアであるが、それらにもまして私などが興味を惹かれるのは、この山、一部の人々の間で、世界最大・最古のピラミッドであるとか、天地八百万の神々が集う聖地であるとかいわれていることだ。
 そう言われると、確かにこの山、何やら土盛りをしたみたいな奇妙な形で鎮座しており、そんな山容ゆえに、一見小火山の類にも見えるが、実際に現地に訪れてみると、素人の私が見ても明らかに火山性の地質ではなく、何だか不自然なのだ。
 また、この山の頂上部には、夜間に時として不思議な発光現象が見られることがあるという。
 そうした事実等からすれば、この山について、ピラミッドだの神々の聖地だのといった説が自然発生的に生じてきたのも、真否はさておき、ある意味うなずけなくもない。そして、そんな山だからこそ… 一度この山を訪れてみれば、しばし異界に迷い込んだかのような、一種不可思議な刻を過ごすことができるはずだ。
 この山に訪れるには、車で行くなら、頂上の一角にある「皆神神社」前まで車道が通じており、ほとんど汗もかかないうちに登頂してしまうのであるが… しかし、その皆神神社の参拝者駐車場に車で走り込んだ途端、眼前に設置されている大型の案内看板に記されている内容に、まずは度肝を抜かれてしまう。これまた真否はともかく、大変興味深い内容であるので、御参考までに、その全文を次に引用してみたい。
 引用開始〜なお、実際の看板上で「ルビ」の部分は、ここでは掲載の便宜上、当該語句の直後の(  )内に読み仮名を記してあります。
 世界最大で最古の皆神山ピラミッド
◎ 皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による)となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮揚させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。(したがって現在でも皆神山山塊だけが非常に軽く負の重力異常塊となっています。)
◎ この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じこの磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる《天の羅摩船》(アマノカガミブネ)等がこの飛行体です。
 謎の皆神山ピラミッド物語
◎ 皆神山は古い古墳時代や弥生時代更に遡っての縄文時代やエジプト・インダス・黄河・シュメール各文明よりずっと古い、今から約2〜3万年前(浅間山・焼岳ができたころ。飯縄・妙高・富士は約九万年前。)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。(人口造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャ語源で三角型のパンの意。)
◎ この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(スサノオノミコト/自然主義的な科学技術者の集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした。(旧人ネアンデルタール人系)
◎ では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。
 皆神山ピラミッドの祭神は知力・体力の神
◎ 超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の4神です。
○ 熊野出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)
 宇宙船《天の羅摩船》(アマノカガミブネ)等の航行の技術・管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神
○ 少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)
 宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命(オオクニヌシノミコト)の参謀集団
○ 泉津事解男神(ヨモツコトサカオノカミ)
 皆神山航行基地をはじめ…全宇宙基地を管理した集団
○ 速玉男神(ハヤタマオノカミ)
 地球周回軌道の人工衛星(宇宙航行の中継基地)の技術者の集団
◎ このように皆神山は、神々が活躍した基地であり、宇宙船で現れたり姿を消したりしたので自然人たちは神聖な山=高天原(タカマガハラ)として崇(アガ)め、後世に伝えたものです。
 引用ここまで。
 本文の内容に関し、私は、ここではあえて論評はしないこととするが… これを読んで、抱く感想ないし印象は、無論、人によって様々だろう。が… 少なくとも、これを読んだ者のほとんど全てが、多かれ少なかれ、一種世の常ならぬ感覚をおぼえるのではないか。そして、そんな機会を持つこと自体、今日のように科学的・合理的論理ばかりが跋扈して「夢」が育まれる余地の少ない、無味乾燥な世相の下にあって、きわめて貴重かつ立派な「不思議体験」といえるような気がするのだ。
 この他にも、この山中には、興味深いスポットがいくつもある。興味のある方は、是非一度訪れてみてはいかがだろうか?
 (平成16年11月15日記)

 ← 皆神山を望む(長野自動車道の長野IC付近より)


    



 突如光り出したカメラのフラッシュ
 今よりまだほんの3年ほど前の、10月下旬のある日。新潟県の名峰、粟ケ岳に登った時のこと…
 その日は、登行開始前の時点から、空が曇り加減で、数時間後の天候変化が予測されたが、それでも、まだまだ雲は高そうだったし、何とか下山まで天候はもつだろうと期待し、あえて登り始めた。
 この山、標高はさほどでないが、他の多くの新潟県の山の場合と同様、登山口の標高が低いため、結構登り甲斐がある。途中、目指す粟ケ岳の北峰・中峰・本峰の3峰が良好に望まれるピークを乗り越え、さらに、脇に遭難碑のある岩稜を鎖で慎重に通過するなどしながら、ただひたすら登り続け… 4時間ほどの後、どうにか無事に頂上に到達できたのだが… 皮肉なことに、何とここで早くも顔に最初の一滴が当たった。
 さてはと、あわてふためいて下山を開始したが… 時すでに遅し。雨は次第に本降りになった。
 私は、ある時点で腹をくくった… こうなったら、まだ下に岩場もあることだし、濡れた路面に足を滑らせないよう、一歩一歩、慎重に下っていくしか手はない。私は、気休め程度にパーカを着用すると(注:着たところで、汗かきの私の場合、パーカの内側が汗と結露で、どのみちずぶ濡れとなるのは目に見えていた)、はやる心を抑えつつ、ゆっくり歩を進めた。
 やがて… 前述の遭難碑のある岩稜にさしかかった。自然、高まる緊張感と共に、慎重に鎖を伝い、どうやら無事に通過。ほっと一息つきながら、ふと私は思った… 10月下旬という時季的に、この雨、下手をすると雪に変わる恐れもあったところ… 実際、数年前に、この山に近い御神楽岳に同時期に登った際には、結構積雪が見られたほどだったから。それが、ここまで雨のままで経過してくれたのは幸いだった… 先の岩場の遭難碑建立の背景となった遭難事故も、あるいは、そのような天候変化を背景としたものであったのだろうか…?
 そんなことを、漠然と考えていた時だった。
 一瞬、私の周囲にピカッと閃光が走った。
 私はギクリとして歩を止めた。したり、さては雷が来たか、と思った。しかし、もう大分下った樹林帯の中だし、まず直接雷撃を食らうことはあるまい、それに、こんな雨天下なら、突発的に雷が発生することもあろうし…
 思う間もなく、またしても周囲に走る閃光!
 私は驚いた。やゃ、これは、もしかして、本格的な雷の到来か…!?
 と、またしても、私の周囲が一瞬、ピカリと光る。
 な、何なんだ。これは…!?
 私は唖然とした。しばらく、自身の周囲で何が起こっているのか、にわかに理解できなかった… というのも、あろうことか、例の閃光は、短い間隔をおいて、音もなく、連続的に発光し続けていることに気付いたからだ。
 おかしい。雷なら、音がするはずだ。それに、等間隔の光とは…!?
 私はあわてて、周囲を見回した。そして… ややあって、私は、かの奇妙な光の発生元を見出した… 何と、それは私が首に掛けているカメラのフラッシュの光ではないか!
 私は呆然として、カメラを首から取り去り、手にとって眺めた… と、それは、依然として短い等間隔でもって、音もなく光り続けている…
 そぼ降る雨の下、私は一人、雨音ばかりが耳につく、薄暗い樹林帯の山中で、自身のカメラのフラッシュの閃光に等間隔で照らされるという、一種異様な刻をしばし過ごしていた…
 私は慌しく考えた。これは一体、どういう加減でこうなってしまったのか…? ちなみに、そのカメラとは、コニカの自動焦点カメラ「現場監督」。その名の通り、それこそ工事現場のごとき過酷な条件下でも、よく使用に耐えるという評判のカメラであり、実際その前評判通り、それは、これまで私の多くの山行における最良の相棒として、大概の風雨をものともせず、大いに働いてくれた名品だった。それゆえ私としても、今やこれに、ひとかたならぬ愛着を覚えると共に、絶対の信頼感を抱き、今回の山行における不時の雨天に際しても、何らの懸念もなく、そのまま首に掛けたままにしておいたのだったが…
 それほどの優秀なカメラが、今、かくも異常をきたしている。これは果たして…?
 ここで、ふと私の脳裏には、つい先刻通過して来たばかりの、例の岩場の遭難碑のことが連想されてきた… そういえば、異常が生じたのは、あそこを通過してすぐのことだった。いやいや、まさかねぇ… しかし、現に…
 私は、にわかに全身が総毛立つのを覚えた… 既に異常発覚から、相当の時間が経過している。単なる故障なら、普通に考えれば、これだけ発光し続けていれば、とうに電池切れになっていよう。然るに、我がカメラは、ここに至っても、なおも光り続けているではないか…!
 かく考えが及び、私はついに、全身一種本能的な恐怖感にとらわれた。いささか大袈裟なようながら、もともとエンギをかつぎやすい性質の私のこと、この時の焦燥感といったら… 実際、何とも筆舌に尽くし難いものがあった。真っ先にわが心身を支配せんとするのは、とにかく、一刻も早く、その場から逃げ出したいという衝動だ。が… やたら慌てては、思わぬ事故を招来しよう。まずは、じわじわと体内に分泌するアドレナリンを抑制せねば… と思った。そうだ、それにはまず、この不気味な発光を遮断することだ!
 私は、すぐに背負っていたサブザックを下ろして収納口を開き、そこに件のカメラを納めようとした。と…
 次の瞬間、私は別の意味で唖然とした… かくも不気味な発光現象は、それまでの景気良い連続発光がまるで嘘であったかのごとく、何故か、申し合わせたように、ぴたりと止んだのだ…
 私はこれで、ただ何とはなしに、ほっとした。
 が… その後、試みに、件のカメラの動作確認のため、付近の情景を撮影しようとしてみたところ… 我が愛するカメラのシャッターは、ついに落ちることはなかった。
 やれやれ、とうとう壊れたか…
 私は、こう思うと、何かやり切れない心持とともに、そそくさと、その場を後にした…
 下山後、私は、早速カメラを修理に出した。しばらくして、それは無事に直って私の手元に戻ってきたが… その際にカメラ屋が言うことには、
 「何度も山に行かれているうちに、結構汗に濡らしたりしていたでしょう。大分腐食している部品もあったんで、多分そこから雨の水が滲み込んで、回路が短絡してフラッシュが光ったんですよ」
 私は、それを聞いて、ひとまず安心した。なるほど、それなら、あれは別に超常現象の類ではなかったのだ。
 反面、一抹の疑問も残った… それにしては、えらく長時間にわたって発光し続けていたが…!? まあしかし、カメラ屋もああ言うことだし、単なる私の気のせいに過ぎなかったんだろう…
 ところが…
 この翌年、早くも我がカメラは再度壊れ… そして今度ばかりは、二度と再び私の手元に還ってくることはなかった…
 その原因は、奇しくも既に御紹介した東北の姫神山での雷遭遇事件時のことで… 頂上で雷に遭い、慌てふためいて風雨の中にカメラを放っぽり出して逃げた際、衝撃のためかカメラの内部に著しく水が浸入し、最早修理不能なまでに機構が錆び付いてしまったためだった。
 私は、修理不能の宣告をカメラ屋から告げられて、思った… あのカメラ、これまで随分長く俺の酷使に耐えて働き続けてきてくれたもんな… きっと、もう休ませてほしいということだったんだろう… と。
 が… 後で私は別のことに気付いた。
 そう、原因は別にしろ、粟ケ岳の際も東北の姫神山の際も、雨天下だったという点と、周囲に走った「閃光」という点で奇妙に一致する。ということは… 案外、粟ケ岳で生じた発光現象は、後に私が姫神山で遭遇することになる雷の危険の予兆あるいは警告の類だったのでは…?
 え? そりゃ考えすぎ?
 (平成16年10月 2日記)

 ← 粟ケ岳(加茂市側からの登山道より/左から、北峰・中峰・本峰)


    



 夢の不思議〜ある山行の予兆
 今回はちょっと別の角度からの、不可思議な話をひとつ…
 それは、私の女房が就寝中に見る「夢」に関するものだが… 実は、それがしばしば「正夢」あるいは「予知夢」の類であるものだから(!)、そんな夢を見た経験のない私としては、今度は女房が一体どんな夢を見るのだろうかと、密かに恐れているのだ…
 その実例を数え上げれば、結構な数にのぼり… しかも本ページのテーマである「山」に関することでも、その「予知夢」が現れたことがある。
 女房によれば…
 まず、私(山崎)を含む集団が、雨降りの中、山に登っている光景が見えた…
 さらに上を目指して登っていくと… いつしか辺りの光景は、長閑な陽光あふれる、何とも明るく美しい雰囲気の山稜上の情景に変わっていた… 行く手に大きい三角形の山が見えた… その山は、右と左の傾斜が非対称で、右が急、左はなだらかな線を描いていた…
 それから道は、いつしか下山に移っていった… 途中までは、とても綺麗な山なみの情景の中を歩いていたが… そのうち、次第に周囲の雰囲気が妙になっていった… 辺りがいつしか薄暗くなり、道に迷うようになった… 気が付くと、何やら、幕がトンネルのように張りめぐらされた中を進んでいる… しかもその道、行く先々で行き止まりの連続… さらには、その過程で会う人々の様子がどうも普通でないのに気付いた… 大人も子供も、何か… まるで生きているといった感じのしない、暗く、虚ろな感じなのだ…
 困ったなぁ、どうしよう… と、何とも後味の悪い感じを余韻として残したまま、夢は終わった…
 私は初めてこの話を聞いた時、こりゃまた女房は、えらく不気味でエンギのよろしくない夢を見たものだなと思った(注:その頃はまだ、私は女房の見る夢がしばしば正夢だということに気付いていなかった)。しかし… その夢の中で私は最後にどうなったのかと女房に聞けば、別にどうともならなかったと言うので… まあそんなら、特別気にする必要もあるまいと思った。
 ところが…
 それから、ほんの数ヵ月後。私は、思いもよらず、母校(高校)の100周年記念登山のメインスタッフとして白馬岳に登ることとなり… その準備に大童だったある日、ふっと、例の女房の見た夢の話を思い出した… そういえば、白馬岳って、南側の稜線上から見れば、右が急で、左がなだらかな山容だったよな…?
 しかも… いざその白馬登山の本番になってみれば、何と初日の白馬大雪渓の登りは終始雨天、2日目の白馬岳から栂池への縦走では、前日の悪天候が嘘のような美しい晴天… といった具合で、天候に関しては、まさに夢の通りの経過をたどったのだ(!)。白馬岳の例の左右非対称の山容も、2日目には雲が切れ、白馬山荘側から夢の通り、長閑な陽光の下に極めて鮮やかに望まれた。
 私は、少なからず驚いた。単に山の形だけならともかく、集団で登ったこととか、天候が雨から晴に推移したことなど、夢と現実とが奇妙な符合をなしていたからだ。
 無論、最初は私も単なる偶然だろうと思った。しかし… 前述の通り、それ以後も様々な場面で女房の夢と現実との符合がみられたことから… 実際私には、最早単なる偶然とも思えなくなりつつあるのが偽らざる現状である。
 ただ、疑問も残る… 下山時の妙な雰囲気というのがどうも謎だ。実際の山行時には、別段妙な人々とは出会わなかったし、道が行き止まりになったりしたこともなかったのだが…? 大体、後味悪い感じを残したまま夢が終わったということ自体気になる… が… これらはある意味、この種の大掛かりなイベントにおける、多くの場合の結末を象徴しているものだと解釈できないこともないなとも思う。ちなみに私は、例の記念登山で、最終的には女房の夢の通り、別にどうともならずに無事山行を終えることができたのだが… しかし、山行本番はもとより、それまでの準備から、下山後の後始末に至るまで、その慌ただしかったことといったら…(!?) いずれにせよ、私はこれで、ほとほと懲りた。したがって、今後はもう団体登山の引率など、頼まれても一切引き受けまいと思っている(!)。
 (平成16年 9月13日記)

    



 避難小屋で死者発見顛末記〜根名草山にて
 上掲した守門岳の避難小屋での体験記中に、その後、日光の根名草山への途中の避難小屋で死者を発見してしまった旨、記したが、本件についても、万一皆様方も同様の状況に遭遇してしまった場合の対処等への参考のため、経過等の概略について、当時の我が「山日記」をそのまま抜粋転載し、御紹介することにする。(なお、これについては、別ページ“徒然草”に「思いがけぬ出会い」の一つとしての収録も考えたが、私としては「出会い」というよりも「恐怖」の要素の方が強かったので、今回はあえて本ページに収録した。後日、考えが変わったら“徒然草”へ移転するかも知れないので、この点御容赦の程を。)以下、1994年(平成6年) 山日記より引用…
 【11/20 (根名草山行) 詳細】
 早朝、午前 5:15、長野発。目標、根名草山。
 日光周辺のおもだった山々を登り尽した私にとって、この山は、いささかマイナーながら、その辺りで登ってみたいと思う、数少ない残存山岳のひとつだった。時期的に、そろそろ雪も来そうで、今のうちでないと、また来年に先送りになってしまうと思い、あえて今回登る事にしたのだが、この山、日本○百名山でもなく、また山渓の「日本の山1,000」にも載っていないに拘らず、私にとって、おそらく一生忘れ得ないであろうと思われる位、強烈なインパクトを残す山となってしまった。
 沼田市に入り、椎坂峠近辺まで車を走らせた所で無情なる雨。〜(中略)〜 登山口の金精トンネル入口(日光側)着がAM10:00頃。雨は相変わらずなるも小降りのため、あえて登る事に。天候は西から変る。長野県側が晴で、対する東側のこちらが雨でも、そのセオリーからすれば必ず天候は回復すると思ったからで、パーカを着込み、更にその上にカサをさして、勇躍登行開始。
 「金精峠」までの道は、途中からガレ場を右へ巻き気味に「新道」なる所を急登 〜(中略)〜 20分〜25分の後に「金精峠」着。金精神社はコンクリート造で風情には今一つ欠けたが、中の「金精様」はハッキリ拝む事が出来た。
 雨には時折みぞれが降り混る。これは上で雪になるのでは 〜(中略)〜 案の定、金精峠から湯泉岳近くまで樹林中の単調な登りを高度を上げて行くと、雨はいつしか雪へと変わった。湯泉岳を巻く辺の笹原の伐り開きで、登山靴が湿って行くのには閉口したが、しかし総合的には、雨より雪の方が余り濡れずに済むから、私としては有難い。
 「温泉平」とか「白樺見晴し」とかいう一寸した平に、「金精峠60分、念仏平15分」との標識あり、果たしてそれから15分程で、極めて正確に、念仏平避難小屋前着。11:50。
 この頃には天候は完全に雪だった。私は小屋で地図上ルート確認をしながら、食事をとろうと思い、小屋入口の壊れかけた木ハシゴを登り、ガラリと入口の扉を開けた。すぐに、室内右手の上床に、布団が積み重ねてあるようなのが見えたが、最初はそれが人が寝ているとは思わなかった。
 サブザックをおろし、地図に見入り、ヤア、頂上まではまだ1時間半もかかるかと確認し、ふと足許を見ると、登山靴が1足ある。
 オヤ、誰か泊っているのかと、もう一度件の布団を見ると、どうやらその中で人が寝ているようだと思われた。しかし、それにしては全く動かない。息をしていれば多少は動く筈なのに、微動だにしない。変だと思い、更によく見ると、布団の周囲にはスプライトのペットボトルやら、プラスチック製のカップやらが置いてあり、明らかに人が宿泊中と見えたが、しかしこの様子はどういう事か。荷を置いて、根名草山にアタックしているのかとも思ったが、靴があるのが妙だ。靴を2足も持って来る訳ないし、そもそも今日はサンダルなどで登れる状態ではない。一面、雪で真白だ。とすれば、どうも布団の中に誰かいるとしか思われぬ。私は、薄暗闇をすかして眺めたが、人体の一部らしきものは確認出来ず。それでも、誰かもし寝ているとすれば、余り大騒ぎして起こしても悪いし、とりあえず小屋を出て、先へ、頂上を目指すことにした。
 直に、「念仏平」という、広大な樹林帯に入る。その異様な光景に見入りつつ登行を続けているうち、また先程の避難小屋の妙な情景が思い返された。
 〜考えてみれば、登山靴はカラカラに乾いていた。おかしい。土、日は悪天気味で、今日もこの有様、昨日あたりあの小屋に着いて泊まったとして、靴があそこまで乾く筈はない。それに、数日も泊るような場所ではないし、第一身動きしないというのは変だ。おかしい…
 そんな事を考えながら歩いていると、いつしか露岩のある、展望良さそうな尾根に出た。すると、西の方が案の定天候回復し、眼下に菅沼がよく見渡せるようになった。霧の彼方に次第に明瞭になるその清冽な水面に、しばらくは先程の疑問も念頭から消えた。頂上はもうすぐ目と鼻の先で、頂上まで樹林に覆われた地味な山だったが、とりあえずは三角点の傍に腰を下ろし、簡単に食事をとる。そうしているうち、北の鬼怒沼山方向も晴れ渡り、来たかいがあったと思ったが、それも、帰る際には再度霧の彼方に姿を隠してしまった。頂上着12:45、頂上発13:05。シャッターチャンス待ちのムダ時間5分。13時ジャストの出発とならず。
 さて、問題の念仏平避難小屋前まで戻ったのが、13:45頃。ここで、もう一度中に声をかけてみるか否か、しばし迷った。根名草山頂を往復するみちみち、考える程に疑問はふくらみ、もうその頃にはいい加減気味悪くなっていた〜天候とも相俟って〜ため、いいや、このまま行っちまえと、一旦はほとんど足が進みかけた。しかし、〜(中略)〜 結局立ち去るのは思いとどまり、とりあえずは小屋の中に聞き耳をたててみた。〜(中略)〜 ところが、雨だれの音の外、何も聞えず。
 そこで、ついに意を決し、再度小屋の中に踏みこんでみる事にした。その際、私は、ワザと中の人を驚かすように、勢い良く扉をひきあけ、「ちわー!」と大声をかけた。普通ならこれで寝ていても起きる筈。
 ところが、起きないのだ。もう一度「ちわー!」と大声をかける。やはり何も変化なし。
 そもそも2時間前に立寄った時と、内部の様子に全く変わりはなかった。
 いよいよ変だと思い、思い切って、手にしたカサの先で、布団の端をまくり上げて見る事に決す。気味悪かったが、布団は意外と薄かったため、もしかすると人はその下にはおらず、単に布団が積み重ねてあるだけかも知れないと考えられた。人の方は、ケガか何かして、装備品を全て残して担ぎ下ろされたのかも知れない。そう願いつつ、カサで早速、布団をまくり上げてみた。
 すると〜せいぜい手か足が出る程度だと思ったのに〜いきなり人の顔が出た。マズいと思い、一旦カサをひっこめた。こりゃ、安眠を妨げたと怒られるぞと覚悟した。素手でするならともかく、カサでやるなど、そもそも失礼な話ではある。
 数瞬おく。何事も変化はない。普通、あの位されりゃ起きる筈だ。
 ここに至り、私の胸中には、あるひとつの確信が、ハッキリ形をなし始めた。そして、それが完結したのは、再度思い切って、カサで布団をまくり上げ、その人の顔をのぞき込んだ時だった。〜(中略)〜 全身、冷水をかぶった如く、ゾーッとした。
 それでももう一度、彼の耳元の板を握りこぶしでたたいてみたが、もとより起きる訳はなかった。間違いない〜死んでいる(!)
 私は、後も見ずに避難小屋の戸を閉じ、半ばパニック状態で雪の登山道を温泉岳方向へ向けて駆け登り始めた。様々な憶測、思考が脳裏に交錯する。
 私の見たアレは、一体何だったのか、夢か、うつつか、まさか、こんな、TVにでも出て来るような、殺人ドラマの典型的死体発見シーンの如き事が、他ならぬこの我が身にふりかかるものなのか?
 手で触れて確認した訳じゃない、だから、ひょっとしたら… しかし、前後の様子から、確かに、彼は死んでいた。とすれば自分は、これから先どうしたらいいのか? それにしても、ここは、金精峠をはさんで、奥白根山と相対する位置関係だ。まだ、完全に冬期に入ったという訳でもないのに、人が通りかかって発見するという事はなかったのだろうか? そんなに人通りの少ない所なのか? そんな筈はないように思うのだが。登山靴の乾き具合からみて、少なくも4〜5日は経っていたようだ。なのに、誰も彼を見付け得なかったのか? はたまた、見付けはしたが、関わりになるのを恐れて、黙って下りてしまったのか? ならば、私もそうすべきか。どうせ小屋の中、傷む心配もないし、いずれ誰かが発見しよう。しかし、私が知らせなければ、また少なくとも数日、遺体発見は遅れるやも知れぬ。私は一体どうしたら良いのか… 判らぬ。 
 こんなことを考えながら、あわてて走っているうち、温泉岳東面のトラバースのクマザサの伐り開きで、足をとられて転倒しかけた。そこで、ようやく我に返った。
 落ち着け、落ち着いて考えよう…
 気分を鎮めると、幾らか考えが論理的に、かつ冷静になって来た。〜(中略)〜 今、この事実を、誰よりも早く、また誰よりも正確に、下界に伝え得る人間は、正にこの自分自身より他にないのだ。頑張れ、気を確り持て〜
 こう考えると、大分私も気がラクになった。そして、不思議なもので、それまでの、背後から死体の男がまるで追いかけて来るかのような切迫感も一気に薄れた。とにかく、落ち着く事。
 私は、一歩一歩慎重に、下山を続けた。いずれにしても、放って、何食わぬ顔で帰るなど論外だ。腹をくくった。
 車に帰着したのはPM3:05頃。小屋から意外と早く到着。そこで、すぐにパーカを脱ぎ去り、〜(中略)〜 さあそれから、もうスピード違反は承知の上で、すぐ下の菅沼の売店まで車で急降下。
 車を停めるや、売店の売り子の所へ駆け寄って、
 「オイ、遭対協か何かの事務局ないか? さもなきゃ電話貸してくれ、この上の小屋ん中で人が死んでるんだ、早く報せたい」
 と言うと、何と公衆電話は、この売店が11月一杯で閉じるため、それに先立って下におろしてしまったという。
 愕然としていると、その売り子、向こうの建物に、店長がいるから、そこから下へ無線で連絡してもらえという。そこで、早速そちらへ行って事情を話すと、彼ら、
 「アンタ、今日は帰れないよ、やっぱりこないだも遭難さわぎがあってねえ、それで、その小屋は群馬県側か、それとも栃木県側かい?」
 と聞くので、早速持参の地図を広げる。
 すると地図上で見る限りは、群馬県側に見えたため、じゃ群馬県警に連絡するとて、早速無線でコールを始めた。
 さて、警察が到着するまでには1時間近くかかるというので、私は、その間に公衆電話で自宅に連絡をとろうと考え、念の為売店に名刺をおき、車で飛び出した。ところが丸沼畔にも電話なし(後で、スキー場の方へ行けばあったと判明した)、仕方がないから更に白根温泉の方へと下って行く途中で、1台のパトカーとすれ違った。ヤア、遅かったわいとUターン、すぐにそのパトカーを追いかけると、そのパトカー、じきにハザードを出して道の途中で停止した。〜(中略)〜 それからは、先に行き過ぎてしまったスキー場まで戻り、早速事情聴取と相成った。相手は、片品の鎌田の駐在さん。
 とりあえず状況と、住所氏名、連絡先等をきかれ、そこの公衆電話で本署と連絡をとり、更に本署の人間が到着してからは、場所を代えて更に詳しく状況をきかれ 〜(中略)〜 「ツーンと鼻をさすようなにおいはしなかったかね」「顔色はどうだったかね、真っ白だったかね」「おたくの判断として、確実に死んでると断言出来るかね?」等きかれた。それらに対し一々応答すると、そのうち係長らしき人が遭難救助隊らしき人に電話をかけ、
 「これから、この人に案内してもらって、生死だけでも確認して来たいんだが」
 などと言い出した(!)。おい、マジかよ、この寒いのに真っ暗な中、またあんな気味の悪い所へ登らにゃならんのかい、とウンザリしたが、しかし、そうなることはある程度覚悟していたので、もしも頼まれれば、無論、行くつもりだった。ところが、結局、もう夜遅いし、これから上がっても、確認出来るだけで、死体を下ろす事は出来ないし、こちらは遠方からお越しだから、調書だけとったらお帰り願おう、という事で、再度現場へ連れ戻されるのだけは免れた。
 それでも、最後に、確かに死んでいるという確信は如何かときかれたため、まず間違いないと思う、と答えると、その場はそれで終わり、〜(中略)〜 その後、片品村の鎌田の駐在所まで下り、そこでPM8:15頃まで「供述調書」をとられるハメとなった。〜(中略)〜 調書は、私の「供述」をもとに、ほとんど彼が書いてくれたが、ただ、現場の見取図のみ自分が作成した。
 調書はB4版4〜5枚にもわたり、書き終わった後、駐在さん、
 「一応私が書く所を山崎さん見られてるから良いと思いますが、もう一度朗読しますので、図を描きながらで結構ですが、きいてて下さい」
 と読み始めた。内容は非常に正確で、さすがは職人芸。〜(中略)〜 ともあれ、後で件の人の生死だけでも知らせてくれとお願いし、ようやく家に帰れる事になり、駐在さんとは丁重に礼を言って別れた。〜(中略)〜 帰りは鳥居峠経由、結局長野着は翌日の午前1時前後となり、月曜日の午前中は職場を休むハメとなった。
 追伸
 23日に鎌田の駐在よりTELあり。その時点で、身元不明、捜索願も群馬、栃木双方にまだ出ておらず、〜(中略)〜 21日は7時半発予定が11時半頃に。(問題の小屋は、地図上群馬側かと思ったが、実は栃木側だったため、栃木県警に引き継いでいたため。群馬からも応援出動したそうである。)死因も不明、衰弱ではないかとの旨。
 山日記の引用はここまでだが、その後、その年の12月下旬に、御親族の方からのお手紙を受け取り… 身元の確認も取れ、無事、父母の眠る墓に納められた旨。合掌。
 (平成16年 9月5日記)

 ← 「菅沼」俯瞰(根名草山頂上付近より)


    



 恐怖の雷〜姫神山にて
 平成14年の夏、私は、東北の岩手山の登頂を目指して、はるばる車で岩手県まで車を走らせた。
   しかし、山行予定の日は無情にも雨… しかも、結構雨脚強く… 私はその日の早朝、一応同山の「馬返し」登山口の駐車場まで車で行ってはみたが、雨は一向に止む気配なく、午前8時頃には早々と登山を断念せざるを得なかった。
 折角、貴重な休みを利用して出て来たのに… 私は憤懣やる方なきままに、車載のアマチュア無線機のマイクを手に取り、FMで「CQ、CQ…」とやってみた。
 そうしたところ、折良く地元の局が何局か応答してくれ、私は、かくかくしかじかの事情でガッカリしている旨、話した。と、そのうち、ある局長さんが教えてくれたことには、
 「そんなら、すぐ向かいの姫神山という手もありますよ。あそこなら、車を置いてから頂上まで1時間少々だし、傘さしてでも何とか行って来られるんじゃないですか?」
 私は、すぐこの提案に乗った。折角出て来て、子供の使いじゃあるまいし、何の成果も残さず帰ってたまるか。
 私は、相手局に礼を述べると、カーナビで姫神山付近を目的地に設定し、早速、同山の登山口に車を走らせた。そして、車を駐めると、傘を手に頂上目指して登っていった。
 教えてもらった通り、1時間少々の登り。単調な樹林を抜けると、じきに石祠などのある、明るい雰囲気の頂上に達した。もっとも天候が天候だけに、展望はゼロ。しかも、そこはさすがに頂上なだけに、周囲には雨に加えて結構強い風が吹き荒れているという、最悪のコンディション。それでも、とにかくこれで、はるばる長野から出て来た意味はなしたわけだ。私は、若干の安堵感を覚えつつ、付近の写真を撮ろうとした。
 と、次の瞬間、にわかに強まった風により、私はパーカのフードを背中に吹き飛ばされた。や、しまった。私は元通りフードをかぶろうとした。しかし… 結構風が強くて、うっかりすると今度は傘がキノコになりそうで、なかなかうまくいかない。
 それでも何とか、元通りにフードを被り、いよいよ写真を撮ろうとする。と、何たる事か、またしても一瞬強まった風により、フードが背中に…
 私は、ここにきて、やり場のない怒りが全身に湧き上がるのを覚えた。そうかそうか、岩手山といい、この山といい、この私などお呼びでないという事か、それにしても、わざわざ遠路、長野から出て来た者に対して、余りにも無情極まる仕打ちではないか!
 「ええぃ、ちくしょう!」
 私は、周囲に人がいないのを幸い、思い切りの大声で、あたりかまわず叫んだ。それは、無論、主としてこれまで蓄積した憤懣の発散のためであったのだが…
 次の瞬間、いきなり、周囲の空間がフラッシュのごとく青白くピカッと光った。
 私はドキリとした。ほんの1〜2秒の間、我が脳裡に思索が交錯する。あれ? 誰かフラッシュたいて写真でも撮ったのか? しかし、誰もいない筈だが…?
 思うやいなや、間髪入れず、猛烈な轟音が周囲に響き渡った!
 「バリバリドカーン!」
 私は愕然とした。初めての経験。ヤバイ、雷だ、近い! もうダメか! あまりの恐怖に、私は前後の見境なく、傘もカメラも放っぽり出し、下の樹林帯の方へと転がり込むようにして逃げ込んだ。
 数分が過ぎた。私は樹林の中から、恐る恐る頭を出して、びしょ濡れのまま周囲を見回した。が、雷は何故か先刻の1回だけ。再度すぐに襲ってきそうな気配はない…
 私は意を決して、こそこそと頂上に舞い戻った。そして、先刻放り出した傘やカメラを拾い上げ、あわただしく数枚周囲の写真を撮ると、くわばら、くわばら… と、すぐにその場を後にした。
 下山中、さらに1度だけ、あたりに雷鳴が響いた。が、それを最後に、2度と雷が鳴ることはなかった。
 ずぶ濡れ状態で、ともかくも車に戻り、気分が落ち着いたところで、私は考えた… 何だか、妙だ。さっき、私が「ちくしょう!」と大声で叫んだ途端、それまで何の気配もなかった空に、いきなり閃光と雷鳴がとどろいたのだ。タイミングが良すぎる。しかも時刻は、午前10時前後だった。長野あたりじゃ、いくら雨が降っていても、そんな時間に雷が鳴るなんて、考えられないが… まさか、私が発した大声のエネルギーが電気エネルギーに変換され、雷になったなんてこともあるまいし… あるいはこれは、先刻の私の不遜な叫びに対する、山か空の神様の怒りの表れででもあったのだろうか…?
 後で聞いたところでは、関東北部から東北地方、それも那須あたりより北では雷が多く、午前中でも安心できないということだったが… 私は以後、山行中に雨天となった場合を除き、雨降りの山に行かないようにしたことは言うまでもない。
 なお、これも後で知った話だが… 姫神山は、そのピラミダルで端正な容姿から、太古日本のピラミッドだったなどと主張する人々が一部いるらしい。あまつさえ、この山の上空ではUFOの目撃報告が多く、宇宙人の基地かも知れないなどと言っている者もいるらしいのだが… してみると、あの雷を呼んだのは…?
 というわけで、この話はこれでおしまい(!?)。
 (平成16年 6月19日記)

    



 避難小屋で見た白い人影
 とある年の初秋、越後の守門岳に登った時のこと。
 登っている途中から、今にも泣き出しそうな空だったが、事もあろうに最高峰の袴岳の頂上で最初の1滴が顔に当たった。あわてて引き返したが、時すでに遅く、大岳からの下りでは、登山道に川みたいに水が流れるほどの大雨になった。
 雨に濡れ、ともすれば足が滑りそうな地面の状態の中、道に設置された人工的な階段を、この時ばかりは心底有難いと思った。一歩一歩必死に下り、ようやくにして登山口近くの「保久礼小屋」あたりまで戻ってきた頃には、周囲は既に薄暗くなりかけていた。
 やれやれ、どうやら無事に終わった… 私は、ほっと安堵の息をつき、小屋の前を通過しかけたのだが…
 ふと、何物かの気配を感じ、私は、はっと小屋の方を振り返った。
 すると… 開け放たれた、その小屋の入口あたりに、白くぼうっとした人影らしきものが、静かに佇んでいるのが一瞬、私の目に映った。
 ん、何だ?
 しかし、次の瞬間には、その人影は、さっと小屋の奥へと引っ込み、姿を消してしまった。
 誰だろう…?
 それだけのことだった。しかし… その気配に、私は何故か本能的な身の危険を漠然と感じ、思わず全身がゾーッとした。当然、その白い影の何たるかを確かめるような勇気も起こらず、私は足早にその場を後にした…
 その後、年末までの間、私の身辺には、何故か様々な災難ばかりが降りかかった。どうも釈然としない日々を過ごしていくうち、とうとう日光の根名草山への途中の避難小屋で、はからずも死者を発見するに及び… まさか、あの守門岳の麓の小屋で見た白い影は、今回の事件の予兆だったのでは… などと、根拠もないままに思わず結びつけて考えてしまった次第。
 無論、白い影など、気のせいだったのかも知れないし、一連の災難も単なる偶然の結果に過ぎなかったのかも知れない。が… 少なくともこれだけは断言できる。山であろうと下界であろうと、妙なものを見た時には重々気をつけた方がよい。そういう時は、たぶん心身が疲れていて、思わぬ災難に遭う場合がありうるのだということを…
 (平成16年 6月19日記)

 ← 守門岳を望む(浅草岳より)


    



 高原山で出会った不気味な老夫婦
 平成9年5月上旬、私は、那須塩原の名峰、高原山に訪れました。
 その際、私としてはどう考えても釈然としない、不気味な出来事に遭遇しましたので、ちょっと書き記してみようと思います。
 高原山の最高点は「釈迦ケ岳」。標高1,800m弱程度の山ですが、春の長閑な陽光の下、私は頂上からの展望を期待しながら、最後の急登に奮闘していました。
 その道は、鶏頂山との最低鞍部から先はずっと樹林の中の一本道で、道の両側は下層に笹などの繁るブッシュとなっている、適度に陽光が遮られて涼しい道でした。
 あと、5分位で頂上かというあたりでしたか、私はふと上を見上げると、老夫婦の登山者が下りて来るのを目にしました。
 時刻はまだ午前10時前後。私は、あれ、もう下るのかな? ずいぶん気が早い人たちだな、と漠然と思いましたが、その時はさして気にもとめず、また視線を足元に移して、ゆっくり登りつめていきました。そして、ほどなく彼等とすれ違いました。
 「こんにちわ…」
 すれ違いざま、相手の老夫婦が声をかけてきました。私は何気なく答礼しながら、ちらりと彼等を見やりました。と…
 次の瞬間、私は、何とはなしにゾッとしました。
 というのは… 彼らの顔色は見るからに青白く、目も、どこか焦点が合っていないかのように虚ろで、身のこなしも、どこかふわりふわりと宙を舞っているかのような感じで、あまり音も立てずに下っていったからです。
 「何だい、ありゃあ?」
 私は、内心不審に思いました。何故かというに、彼等の様子が、まるで山を楽しみに来たという感じでなかったから… それでも、その時はまだ、まあ、たまには山にも変わった御仁が来るわいと思った程度で、そのまま登り続け、ほどなくして登頂しました。
 「釈迦ケ岳」の名のごとく、そこには大きい釈迦如来像が安置されていました。私は、自然それに一礼し、次いで、すぐ脇に腰を下ろしている、ただ一人の先客の登山者の方に近づいていきました。と、相手の方から先に私に声をかけてきてくれました。
 「こんにちわ、いい天気ですね」
 「そうですね、いい山ですね。今朝早く長野から出てきた甲斐がありましたよ」
 「へぇ、長野から… そりゃまた、ずいぶんはるばると来られたもんですねぇ…」
 こんな調子で、しばし会話を交わす中、私は、ふっと先刻の妙な老夫婦のことを思い出し… それとなく、こんなふうに聞いてみました。
 「そういえば、今すぐその下で、二人連れのパーティーに会いましたが、結構早く下りてったですね、こんないい天気なのに、もったいない…」
 すると、相手は不審気な顔をして、あろうことか次のような返答を私によこしたのです。
 「え? 私はもう1時間以上もここにいますが、誰にも会ってませんよ」
 「はぁ? そりゃ変ですね、だって私、すぐその下で、老夫婦とすれ違ったんですがね…」
 「本当ですか? じゃ、どこか陰にでもいて、見えなかったんでしょうかね…?」
 こんなことを話し合いながら、二人して首をひねっているうち、今度は私の来た道と同じ道から、4〜5人のパーティーが登ってきました。私が登頂してから、ほんの10分ほど経過した頃でした。私は、ああ、彼等なら、間違いなく老夫婦と途中ですれ違ったはずだと思い、彼等が近くに来るのを待って挨拶し、次いで、こう聞いてみました。
 「さっき、老夫婦のパーティーがその道を下りてったですが、お会いになりましたか?」
 すると、彼等は顔を見合わせ、一様に不審な顔をして、こう返答したのです。
 「あれ、そうですか? おかしいな、誰にも会いませんでしたがね…?」
 「……!」  これが決定的でした。
 頂上の先客も、後からすぐ登って来たパーティーも、老夫婦を見ていないという。前述の通り、登山道は一定区間は一本道。まさか、あの密な周囲のブッシュの中に道をそれて入っていったということもあるまいに…?
 私は、改めて全身に水をかけられたかのように、ゾーッとしました。そして… ややあって、元来た道を、恐る恐る下っていったが、もう二度と、例の老夫婦に出会うことはありませんでした。
 あれは、一体何だったのだろう…?
 そういえば、この山行では、もう一つ、不思議なものに遭遇しました。
 下山中、「鶏頂山スキー場」ゲレンデ上部の樹木の枝に、大きいフクロウがとまっているのを目にしました。写真を撮ろうと近づくと、シャッターを切るより先に、いかにも重そうに、しかし大きさの割には敏捷に、いずこともなく飛び去ってしまいましたが… しかしそのフクロウ、大きさが尋常ではありませんでした。実際、一瞬トトロじゃないかと思った位(!)。何しろ、頭の先から足の先まで、1m半近くは確実にあるように見えたのですが… しかしそんな大きいフクロウって、あるものなんでしょうか?
 私は下山後、複数の人にこれらの経験を話しましたが、例外なく、お前、夢でも見てたんだろうとコケにされただけに終わりました。しかし… 誰が何と言おうと、私は見たものは見たのです。とにかく、無事下山するまでの間、何やら異世界に迷い込んだかのような、奇妙な感覚にとらわれながらの山旅でありました…
 (平成16年 6月19日記)

 ← 高原山・釈迦ケ岳を望む(鶏頂山より)


    



 秩父の名峰武甲山の「山の声」?
 ある年の1月下旬、私は秩父の名峰武甲山に訪れました。天候は今一つ、小雪舞う中、登山口に駐車した私は、防寒用にパーカを着込み、雨傘を片手に鬱蒼とした樹林の中を登っていきました。雪はさらさらとした粉雪、しかも樹林の中では、傘に舞いかかる雪もまばらで、存外快適な登行でした。
 しばらく行くと、まるでこの山の主であるかのような太い太い幹の杉の木が立っているポイントを通過しました(後から思えば、どうもこの木を境に、それより上の雰囲気ががらりと変わったように思うのです…)。それとともに、あたりにはにわかに霧が立ちこめ、実に幽玄な雰囲気がひしひしと胸に迫ってきました。
 登りつつ、自身の周囲には誰もいないのにもかかわらず、何やら一種の「賑わい」にも似た雰囲気を周囲に感じるのは、こんな時です。昔の人が「木霊」と呼んだのは、こんな感覚なのではないかと思います。
 そんな中、ふと、どこからともなく、犬の遠吠えのような鳴声を耳にしました。ン、こんな所で、猟犬かな? 気になると余計に耳につき、それからしばらくの間、その、どことなく物悲しい長い吠え声を、私は聞くともなしに聞いていました。が、それも、頂上直下の「御嶽神社」に到着する頃には、どこへともなく消え去っていました。
 私は頂上を訪れるに先立ち、山への礼儀として、まずは神社に参拝することにしました。鳥居をくぐり、社殿に近づいた私は、ふと、その両脇に何とはなしに目をやりましたが、次の瞬間、私の視線は、そこにある物体に釘付けとなりました。
 その物体とは「狛犬」でした。それも… どこの神社にも見られるような狛犬ではなく、「山犬」すなわち「狼」だったのです!
 もっとも、山犬の狛犬は、何もこの山に限ったことではなく、この山に近い両神山でも私は同様の石像を目にしたことがありますし、またこの山の入山口近くの道脇でも似たようなものを既に見てはいたのでしたが、しかしこの時の私には、つい先程まで、どこからともなく聞こえてきていた、例の物悲しい犬の遠吠えのような鳴声と、その狛犬とが、ごく自然に結びつけられ、あたりの幽玄な雰囲気とも相俟って、何か不思議な、まるで超常体験でもしているかのような感覚にとらわれたのでした(むろん、例の遠吠えが、既に絶滅したとされている狼のものであることなど絶対にあり得ない、それは十分わかってはいたのだけれど…)。
 何か妙な感覚にとらわれつつ、神社への参拝を済ますと、私は「頂上」に駆け登りました。しかし、周囲は相変わらずの深い霧で、晴天ならばさぞかしと想像される展望の一端すら望むことはできませんでした。それでも私は、周囲の視界が利かないだけ、むしろこの山の往古の頃の雰囲気じみたものを体感できたような気がして、それなりに満足はしていました。しばし、その場にたたずんで沈思数刻、やがて私は、何ものかをふっ切るかのように、帰途につきました。
 下山途中、あの太い杉の木が近づいた頃、また、例の遠い、物悲しい吠え声が聞こえました… それは、木々に反射して聞こえてくるせいか、一体どの方向から聞こえてくるのか、注意して聞き耳を立てたにもかかわらず、最後までよくわかりませんでした。そして… 例の杉の木よりも下まで下っていった頃には、その声は、まるでテープの再生が止まったかのように、またしても何処かへ消え去ってしまい、その後二度と耳にすることはありませんでした…
 今、私は、以上のような自身の武甲山での体験を回想しつつ、こんなふうに想っています。あの声は、実は「山」そのものの声ではなかったのかと… 武甲山といえば、秩父の名山という以上に、実は別な意味でも有名な山であるだけに。
 つまり、石灰岩質の山の宿命で、採掘進行のため、見る方向によって無残に崩された白い山肌をさらし、よく山の自然破壊の典型的ケースに取り上げられる山なだけに(たしか、小学校の国語の教科書にも、この問題をとりあげた地元少年の作文が収録されていたのを目にした記憶があります)。
 また、この時、私が登った「頂上」というのも、実は採掘の影響で、かつての頂上より大分低くなってしまったと聞いています。そんな山だけに…
 もちろん、石灰岩は我々の生活には必須の資源ではありますので、どこかで採掘はせざるを得ませんし、やむを得ないことなのでしょうが… それにしても、あの鳴声の物悲しさは、それから数年を経た今もなお、異常に明瞭な印象として、私の耳の奥に刻み付けられているのです。どうせ野犬か猟犬の吠え声に過ぎない、そうは思いつつも…
 (筆者注:本文は、平成13年 1月12日、インターネット博覧会長野県館「山のおくりもの」投稿コーナーに筆者が寄稿した小文に若干の修正を加えた上、再発表したものです。)

 ← 山犬(日本狼)の石像(武甲山頂上直下の「御岳神社」にて)