鳥羽山(とばやま/鳥羽城址)
〜山麓の「立岩」は古くから知られる奇観〜標高844m〜
旧丸子町(現:上田市)にある、戦国時代の山城址の山。別掲の「鳥屋山」(鳥屋城址)と依田川を隔てたすぐ東向かいに位置し、小規模ながら岩稜も伴う結構堂々たる姿を見せる山。同山の西麓に沿って流れる依田川が凝灰岩の山体を侵食し「立岩」と呼ばれる奇観を形成していることで知られ、付近には「鳥羽山洞窟」なる縄文遺跡もある。そんな様相がまた、奇岩渓谷美を景勝地として好んだらしい昔の人々の趣味にも適合したものとみえ、『長野縣町村誌 東信篇』の「腰越村」の項には「山」「古跡」「名勝」のいずれにも詳細な記述があるなど、この地域では昔から注目され、かつ親しまれてきた山であることが知れる。ちなみに同書の古跡「鳥羽山城址」の項によれば「里俗傳に、鳥羽氏の居城たり、事跡不詳。天文中福島肥後守之に居る。雑記に、天文中武田晴信の幕下、福島肥後守とあり。依田信守の組下なりしと見ゆ。」とある。(注:なお、この福島肥後守は、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、後に佐久岩尾城で戦死したとある。)
この山に登るには、いくつかルートがあるが、筆者の場合は「信濃二十八番札所 龍頭山竜福寺」の近くの「諏訪宮」境内の裏手の尾根を急登して稜線上に出て、次いで右(南)へ稜線をたどって頂上に達した。ただこのルート、一応踏跡はあるものの、やや薮がちな箇所もあり、また途中で結構急峻な岩稜も突破しなければならないので、岩場に自信のない向きや高所恐怖症の方には避けた方が無難かも知れない。その岩稜の取っ掛かりは、頭上を岩稜が取り囲み、進行方向に当惑する一角で、筆者の場合、そこは右にルートを採り、露岩もある急登を樹木にすがりつつ慎重に登り切って、ほどなく石祠のあるピークに達し、さらに南へ岩稜伝いに頂上を目指したが、そのあたりが本ルート中の最も危険な箇所で、西側はほぼ垂直に近く切れ落ちて依田川側に落ち込んでいる痩せ尾根のため、進行には相当の注意を要する。もっともその分、ここがこの山中で最も展望良好なスポットとなっており、殊に前述の「鳥屋山」(鳥屋城址)の端整な姿などには心惹かれるのだが… この岩稜、うっかりそのまま上を進むと先で大変なことになるので、落ち着いて進路を判定しつつ、左手から慎重に巻いて通過する。ここさえ突破すれば、後は樹林の中の穏やかな道なので心配はない。そのうち明瞭な山城址の郭と土塁の遺構を見出すと、そのすぐ上が鳥羽城主郭址である頂上。「諏訪宮」境内からここまでの所要時間は、コンディションにもよるだろうが1時間半程度はみておきたい。頂上は『長野縣町村誌』に詳しく記述のある山の割には案外地味な場所で、筆者の訪問時点では特に標識もなかったが、三角点標石と鳥羽氏を祀る石碑がある他、周辺に明瞭な郭の遺構がみられる、いかにも山城址らしい場所。
なお、筆者がこの山に訪れたのは諸事情により午後で、下山にかかる頃には既に薄暗くなり始めており、そんな中を例の危険な岩稜伝いに元来た道を戻る自信がなかったことなどから、帰りはあえて東麓の「深山」集落方面に下ってみたが、こちらは一部踏跡不明瞭な箇所があるものの、少なくとも転落の危険は全くない安全なルートなので、余計なスリルを味わいたくない向きには、登りもむしろこちらから訪れる方がよかろう。もっとも、こちらの道とて、特に登り口に標識があるわけでもなく、また最近では地元の人もあまり登らないとみえて、現地で道を尋ねてもあまりアテにならないと思われるので(注:筆者の場合も、登り口の探索に一旦「深山」集落付近に訪れ、付近で畑仕事や山仕事をしていた地元の人複数に道を尋ねたが、実はすぐ近くに登り口があったにもかかわらず、まるで要領を得ず)、とにかく「深山」集落の中から300〜400mほど車道を上がった右手の、石仏があって細い道が分岐する地点が登山道入口だと覚えておいて行くのがよい。なおこの道、小型車ならさらにある程度までは進入できようが、途中には墓所があるなど、地元の人に迷惑をかけてもいけないので、ほどほどの所にしておく方がよかろう。上部は荒れた作業道みたいな道になるが、とにかく登りつめて鞍部に出れば、後は右へ歩きやすい所を選びつつ登りつめれば頂上に達する。所要時間は先の「諏訪宮」からのルートよりは短くて済むだろう。ちなみに筆者は逆にこのルートを下りにとり、後は車道を歩いて登り口の「諏訪宮」まで戻ったが、それでもさして長時間の車道歩きにはならないので、単なる往復でない周回ルートを採りたい向きには、むしろ適当なコースかも知れない。
← 鳥羽山を望む(依田川を隔てた向かいの「鳥屋山」中腹より)