蕎麦粒山(そばつぶやま)
 〜特徴ある山名と意外な歴史性に惹かれる〜標高1,072m〜
 小川村と旧美麻村(現:大町市)の境にある寂峰。その意味あり気な山名や、また地形図上で見ても、めったに人が訪れそうに見えない秘境的イメージを受けること等から、筆者のような寂峰趣味の者には、実に見逃し難い存在の山。
 この山を最初に広く世に紹介したのは、おそらくは伊部高夫氏著の名ガイドブック『長野県北信・東信日帰りの山』(章文館刊)が最初ではないかと思う。それゆえ筆者がここに紹介する登行ルートも、基本的には同書を参考として訪れたものであるが、同書の場合は山麓の「李平(すももだいら)」集落から、地元の方に挨拶して畑の脇を通り、山稜に取り付くようになっているのに対し、筆者の場合はルートファインディング上の単純さ等を考慮し、峠から直接山稜に取り付いて登った点が異なる。ルート的には、筆者の選択したルートの方が判りやすいだろうが、その代わり余計なアップダウンを経なければならない。これから行かれる方には、どちらを採るかは各々の好みにお任せしたいと思う。
 さて、この山、単に山名が面白いというだけでなく、実は意外な歴史性を有する山でもある。というのは、別掲の信州新町の萩野山(萩野城址)の「眺望台」の案内看板によれば(注:同山の項に全文を引用紹介してある)、何でも寿永3年(1184年)に木曽義仲が京都粟津ケ原で敗死の際、仁科家家臣の竹村兵部とその郎党が、主君義仲公の守本尊旭観音像を火災の中から抱え出して信州に走り、途中で義仲公の遺児力寿丸を擁する樋口、手塚の一隊と合流の後、安曇の最北蕎麦粒山で鬼無里の安吹屋(注:現在「木曽殿アブキ」と呼ばれる地)へ向う一行と別れ、萩野山に辿り着いたというのだ。この「安曇の最北蕎麦粒山」とは、無論ここに紹介する蕎麦粒山のことに間違いないので、そんな事前知識を有した上でこの山に訪れてみれば、かくも奥深く険しい地まで鎌倉方の追手から逃れて人目を忍ばねばならなかった義仲公遺臣一行の苦衷に想いが及び、また感慨もひとしおであろう(もっとも、筆者の勝手な想像では、現地の複雑で険しい地形を見れば、実際にはこの山の頂上というよりは、この山の近くのどこかの峠あたりで二手に別れたのではないかと思えるのだが…)。
 この山へのアプローチは、長野市街地から国道406号を旧鬼無里村(現:長野市)と小川村との境まで行き、その付近から左の「李平林道」に入って、李平集落の手前の峠まで上がる。ここで筆者の場合は右(南西)の山稜に直接取り付いたわけだが、そうでなく李平の集落経由で登りたい場合は、峠から山稜の左手(南)に緩く下る道があるので、そちらに行くとよい。筆者と同様のルートをたどる場合は、当初は特にはっきりした踏跡があるわけではないが、適当に歩き易い所を選びながら、左下に李平の集落を見下ろしつつ行けば問題はない。2つほどアップダウンを経たところで、李平集落からの道と合流すると、以後は踏跡も明瞭になり、さらに3つほどの小さいアップダウンを経て進む。行くほどに、前途に台形状の特徴ある容姿の峰が見えてくるが、それが目指す蕎麦粒山の頂上なので進行の目安になるだろう。最後に短いながら猛烈な急登を登り切ると、三角点標石のある頂上に達する。峠から頂上までは、所用時間片道約1時間。その間、全般的にはずっと樹林の中の道なのだが、落葉期なら樹間に戸隠連峰、飯縄山、四阿山、虫倉山、高戸谷山などの眺めが得られるポイントが適当に見出せる他、頂上では北アルプス後立山連峰方面の眺望がいきなり眼前に展開して驚かされるだろう。無論、それも樹林越しゆえ、そうすっきりした眺めとはいかないが… それでも、かくも人気の稀な秘境色濃い頂上にしては、予想以上の立派な眺望ではないか。ことに唐松岳の屏風のような山容がいい。

 ← 蕎麦粒山を望む(小川村李平付近の林道より)

【緯度】363845 【経度】1375441