萩野山(はぎのやま/萩野城址)
 〜木曽義仲守護仏旭観音ゆかりの地〜標高850m〜
 上水内郡信州新町の山穂刈萩野にある山城址の山。別掲の天狗山のすぐ北に位置し、「山」としては一般にはあまり知られていない存在ながら、実は意外な歴史性を有する地なのだ。その概略を、現地の東屋に設置されている由緒書を転載して次に御紹介してみたい。
 「萩野山の由緒 維時、寿永三年(注:1184年)正月二十日昼の頃、京の都は鎌倉軍の放った戦火の渦に包まれ、義仲公祈願所玉泉寺もすでに焼け落ちようとしていた。将にこの時、何処から飛び着けたのか仁科軍の家臣竹村兵部とその郎党は、猛然と火炎の中へ突入し、遂に主君の守本尊観音像を無事抱え出し、後をも振り向かず郷里信濃路を求め走った。進路は近江から尾張路へ、木曽川沿いに信濃を指したが、この頃すでに鎌倉側の詮索は厳しくなり、野宿の夢も虚しい逃避行を続け乍ら下諏訪に着き、金刺氏(注:後に諏訪大社上社側の勢力と度々争うことになる下社側の一族)の庇護のもと主君義仲公の遺児力寿丸を擁する樋口、手塚の一隊と合流することができ、安曇の最北蕎麦粒山で鬼無里安吹屋へ向う一行と別れ、兵部らは未だ残雪深いこの萩野山へと辿り着いた。そして心温かい郷人たちの協力のもと、数年後には小さい乍ら堂宇と観音堂を建立すれば、義仲公への敬慕もありこの地方善男善女の篤い信仰を集めるに至った。やがて時が過ぎ、仁科氏興隆の時代となり北信濃を睨む前進陣地萩野城築城えと世は移って行った。平成七年十月二十、二十一日 筏史蹟研究会 第七回全国義仲サミット開催記念」
 以上のような伝説を事前知識として心に留めた上、現地に立ってみれば、別に歴史ファンならずとも、また感慨は格別ではないか。
 この山へのアプローチは、別掲の天狗山の場合と同様、信州新町の中心街の東にあたる国道19号線「奈津女橋」の交差点から小川村方面への峠道に入り、途中でさらに「萩野高原」方面に折れ、越道を経由し、さらに奥の山穂刈方面に道なりに走り、「萩野森の家」又は「萩野池」方面への道標を見出す。萩野高原近くでは道は次第に細くなり、分岐があって一部わかりにくい箇所もあるが、「萩野池」の畔に出れば、ほどなく道なりで「萩野森の家」の前に達する。その付近に駐車して、森の家の前の案内看板で周辺の状況を把握し、またその脇にある「よしなかの錦に染る萩野山 この世を護る観世音」の歌を記した「第13回木曽義仲ゆかりの会全国大会」の記念碑を見たら、以後は徒歩で「敢えなくも敗れ落ち来し萩野山 旭観音この地を照す」の碑や、「寶秘山玉泉寺開山之地 旭観音菩薩堂跡」の碑を見ながら歩くと、ほどなく「眺望(にらみ)台」の東屋に着く。そこが先の碑にある「旭観音菩薩堂」の跡といい、東屋には旭観音にちなんだものと思われる観音像がガラスケースの中に安置されている(注:旭観音は木曽義仲公の守護仏であったといい、木曽日義の徳音寺の宝物館にも同様のものが展示されているのを見たことがある)。また、「痛恨の極、京都敗北の痛みに耐え乍ら、仁科盛遠はこの台上に立って北信濃平定を策しつゞけたと謂う」旨の説明書きがあって、先の萩野山の由緒もここに設置されている。そこから頂上まではわずか200mほどなので、頂上まではほんの15〜20分程度も登れば十分。

 ← 萩野山と萩野池(萩野池畔より)

【緯度】363527 【経度】1375637
(萩野集落の北の846m標高点の西約200mの峰が頂上の「萩野城見張台」です。)