若神子の城山(わかみこのじょうやま/松原城址)
 〜川中島合戦時に上杉氏により焼討されたという〜標高570m〜
 長野市の西、中条村にある、戦国時代の山城址(松原城址)のある山。
 この山、国土地理院の地形図を見ると、そのものずばり「城」という地名の表示があるだけで山名表示がなく、関係文献に当たっても、特に参考になる記事はないため、城址としてはともかく「山」としては特に地元呼称がない模様。ただ『長野縣町村誌 北信篇』中「日下野村」の「古跡」の項中「松原城墟」を参照すると、この城、別名を「若神子城」というとあるため、ここでは当面の呼称として「若神子の城山」で紹介した次第。(注:地形図上「若神子」の集落は、松原城址のやや北にあり、現在直接の地名は前述の通り「城」なのだが、「城の城山」と呼称したのでは妙だし、また城址自体の別名呼称も「若神子」であることを考慮。なお本当なら「松原の城山」とした方が、より判り易いと思われるが、「松原」という字地は現在地形図上も、また『長野縣町村誌』の「字地」の項でも確認できない。いずれにせよ、今後別の呼称等が判明した場合は随時修正したい。)
 長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表中「松原城」の備考欄には「春日氏関係の境目城の一つか。城の平は居館があった地と推定される。」とある。また『長野縣町村誌』によれば「(前略)里老の傳に延徳年間、春日大膳大夫築く所にして、春日修理大夫迄居城し、川中島合戰の時、上杉氏の爲に焼討せらるると云ふ。」とのこと。春日氏の事跡については、別掲の笹平城の項に若干詳述してあるので、興味のある向きには、そちらも併せて参照願いたいが、要するに、村上義清が甲斐の武田信玄に敗れて越後の上杉謙信の元に走った際、春日氏は武田氏に降っており、その報復を蒙ったということであろう。
 訪れるには、国道19号線を長野から松本方面に向かい、「笹平トンネル」の手前で左に折れて中条村方面へ。しばし走り「中条隧道」の脇から「城の平」方面への道を行くと、じき「天明山中騒動集合の地」を経て城址の入口に達する。地元の人の迷惑にならないよう慎重に付近の狭いスペースに駐車し、標識に従って山中に踏み込むと、すぐに顕著な郭や空堀、切岸の遺構が出現する。それらを見学しつつ、頂上部の主郭址とおぼしき平地まで歩くのに要する時間は存外短く、ほんの5分ほど。主郭は筆者の訪問時点では例によって標識一つなく、今は樹林の中の地味な場所と化しているが、かつては土尻川沿いの山麓の監視には格好の地であったろう。

 ← 松原城址の峰を望む(中条村中心部に近い田越集落付近より)

【緯度】363659 【経度】1380257
(若神子集落の南、「城」の地名表示のあるあたりの峰です。)