城山(じょうやま/笹平城址)
 〜笹平城の詰城址との伝承あり〜標高520m〜
 長野市街地の西、国道19号線を長野から松本方面に向かう途中で通過する「笹平トンネル」のちょうど上の尾根上にある、戦国時代の山城址の山。国道を走っている分にはあまり目立つ山ではないが、「笹平トンネル」の東側入口の手前を左に折れ、中条村方面へと向かう途中、善福寺集落への入口のへんで背後を振り返ると、尾根上に東屋が見える一角があり、そのあたり一帯を一般に「笹平の城山」と呼ぶ。
 もっとも、この山の城址の正式な呼称については、実のところ本文記述時点で筆者の手元にある諸文献中からは不詳。例えば信州の古城探訪のバイブルともいうべき長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図を見ると、この山のすぐ東麓に「笹平城」の遺構範囲の表示があるが、肝心の山の上には何らの表示もない。また『長野市誌』第12巻資料編を見ると、先の『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』にある遺構範囲を「笹平城」とした上、山の上の方は「笹平の城山」として別の城址扱いとしているが、それにしても「笹平の城山」では、城名としてどうも不自然な感を禁じ得ない。そんな城址のせいか、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)には「笹平城」「笹平の城山」共に記載がなく、さらに『長野縣町村誌 北信篇』の「七二會村」の「古跡」の項を参照しても「篠平古城址」として「里俗御屋敷と云ふ ク社の西南の方にあり。今畑地となる、戸屋城主春日某なるや城郭を築き之に移る、事跡戸屋古城の條へ出す。」とあるだけで、山の上の城址のことについては何も触れていない。それゆえ、この山の城名をどういう呼称で紹介するかについては、筆者としてもずいぶん迷ったところなのだが… 先の『長野市誌』第12巻資料編にある「地元では笹平城跡の詰城との伝承がある。」との記述、また本文記述時点で最新文献と思われる湯本軍一氏監修『信州の古城―城跡と古戦場を歩く―』(2007年11月18日郷土出版社刊)の「北信濃の諸城一覧」中には「笹平城」の記述しかなく、「笹平の城山」は別掲されていないことなどを勘案し、当面は東麓の「笹平城」と一体をなす城址とみなし「笹平城」の名で紹介しておくこととした次第。無論、今後新たな事実の判明等状況が変化した場合は修正するつもりである。
 この山に訪れるには、前述した国道19号線「笹平トンネル」の東側入口の手前から中条村方面へと向かう途中にある、善福寺集落から行くのがよい。麓からもよく目立つ東屋があるくらいだから、近隣の人々の憩いの場所になっているであろうことは想像に難くなく、実際、すぐ直下まで細いながらも車道が上がっているので、最上部まで車で入れば件の東屋の前までは5分とかかるまい。東屋のあたりは犀川沿いの谷筋の眺めが良い場所で、山城としては多少高さが足りないようながら、少なくとも物見の砦を設けるには適当な地であったことが理解されよう。また、そのすぐ先には「御神木」の杉の木立の下に「東谷・白山神社」「歓喜天神社」が祀られていて、一種厳粛な雰囲気を醸し出している。もっとも、ここまででは山城址としてはさほど明瞭な遺構は見られないので、興味がある向きにはさらに奥(北)にしばし尾根筋の踏跡をたどってみるとよい。神社の裏手にはすぐ郭とおぼしき地形がみられ、その先のNHKの無線施設を左から回り込んで上に出ると、そこには筆者の訪問時点で山の神とおぼしき朽ちた小祠あり。そのすぐ先の尾根筋が付近で最も高そうなので、「山」として最高点にこだわる向きには、そのあたりを一応頂上とみなしておけばよいだろう。そして最高点から多少進んだへんで最も明瞭な空堀の遺構が現れる。一般にはこのあたりで元来た道を引き返せばよいだろうが、踏跡はさらに先へと続いており、まだ若干空堀の遺構と思われる地形も見られないではないので、興味があるなら行ってみるのも一興。ともあれ、東屋から最高点の先の空堀までの往復だけなら、時間的には30分もあれば十分だろう。
 なお、この城址、一般の文献にはあまり紹介されておらず、情報量僅少と思われるので、この際参考までに、先の『長野縣町村誌 北信篇』の「七二會村」の「古跡」の項を参照して、この城の主とされる「戸屋城主春日某」の事跡だけ要約して次に記しておきたい。それによると、何でも延徳元年(1489年)に春日大膳大夫が故あって越後の春日山から現在の七二会の地に来訪し、当初は「戸屋城」を築いて居城していたが、その後何代目かが笹平(注:当時は「篠平」と称したとのこと)に移って「篠平城」を築き居城したという。後に坂城(注:当時は「坂木」)の村上氏の幕下となったが、天文22年(1553年)に村上義清に従って甲斐の武田信玄と上田原で戦い、敗れて武田氏に降り、武田氏衰亡後は織田氏重臣の森長可に属したと思われるが、織田氏が滅びた後は越後の上杉景勝に降って、なお「篠平城」に居したというが、慶長3年(1598年)に上杉景勝が奥州会津に転封となるに至り廃城となったという… ざっと以上のとおりであるが、この一連の話、『長野縣町村誌』の記述中自体にも「後考を俟つ」「是非を知らず」という注記が随所にあるとおり、歴史的に全て正しいかどうかは筆者のごとき素人には何とも判断し難い。しかし少なくとも、戦国の世を生き抜くには、かかる変転を経ねばならなかったということだけは、確かに言えるようである。

 ← 笹平の城山を望む(善福寺集落への入口付近より)

【緯度】363641 【経度】1380440
(善福寺集落のすぐ東、「笹平ダム」の北西約500mの尾根上の峰です。)