御嶽山(みたけさん/依田城址)
〜木曽義仲が一時拠ったという山城址〜標高805m〜
旧丸子町(現:上田市)の御岳堂集落の背景をなす山。一見、ごくありふれた里山のようながら、頂上には木曽義仲が木曽で旗挙げの後、一時拠ったという「依田城址」があり、また山麓には義仲が戦勝祈願をしたという「岩谷堂観音宝蔵寺」があるなど、単なる里山にとどまらない豊かな歴史性を有する上、頂上から主として東の方にひらけた展望の良さは全く事前の予想を超える素晴らしさで、眼下に拡がる依田川流域の俯瞰はもとより、その背景に重厚に連なる、四阿山、烏帽子岳、籠ノ登山、浅間山、といった上信国境のおもだった山々が一望! 単に「山城址」としてのみならず、「山」としても一級品の風格を有すると言って決して過言でない地といえる。
そんな山にもかかわらず、この山の名については、例によって国土地理院の地形図上には表示がないが、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば「金鳳山」という、ずいぶん立派な山名が紹介されており、また長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の依田城の項の備考欄には「呼称―城山」とある。然るにいずれの山名も、なぜか『長野縣町村誌 東信篇』中「御嶽堂村」の項には記述がなく、裏付けが取れない。殊に「金鳳山」などという立派な山名であれば、多少記述がありそうなものなのだが…
しかし、『角川日本地名大辞典 20 長野県』(角川書店刊)の小県郡丸子町の「現行行政地名」の項中「御岳堂」の項を参照すると、「御嶽山山頂に木曽義仲挙兵の根拠地となった依田城があり、そのふもとに居館跡推定地がある。」との記述があり、これなら少なくとも麓の集落の名と合致するという点で、筆者のごとき素人目にも信憑性が高い。そこで、本項では当面この「御嶽山」の名で紹介しておくこととした次第。無論、今後新たな事実等が判明し必要が生じた場合は修正したい。(注:筆者の本音では「金鳳山」の方が余程味があっていいと思っているが… ちなみに宮坂武男氏著『図解 山城探訪 第3集 改訂上田小県資料編』(非売品/長野日報社刊)では、「金鳳山」「城山」の2種類の山名が記されてあり、「御嶽山」の名はない。宮坂先生が書かれているくらいだから、一般にはやはり「金鳳山」としておくべきなのかも知れない。)
この山に登るには、上田市大屋から旧丸子町方面に向けて国道152号線を南下し、中丸子のあたりで右折し「依田川橋」を渡って依田川の左岸側に出て、曹洞宗の「湧泉山宗龍寺」へ。同寺への入口からわずか車道を上がると、すぐに左に細い車道が分かれていて、そこに依田城への道標がある。車はこのあたりのスペースに駐めていくとよいだろう。その道を少し登ると「宗龍寺」の裏手に出るが、そのすぐ先で車道から左に分かれて沢筋を上がる小道がルートで、ここからは山道らしい道となる。やがて登りが一段落したへんで道は右に曲がっていき、少し行くとまた「依田城跡登山口」なる道標があるので、そこで右手の尾根に取り付く。後は上部では露岩もある急な道をひたすら登れば、一汗かいた頃合に待望の頂上に躍り出る。と… いかにも岩峰らしい狭い頂上からの眺めたるや、前述した通りの素晴らしさで、これには義仲ならずとも、実に雄大な気分をもって頂上での憩いの一時を過ごすことができるのではないか。
以上、「宗龍寺」付近の登り口からの所要時間は、往復1時間半程度。なお、下山後に時間が許せば、前述した木曽義仲ゆかりの「岩谷堂観音宝蔵寺」にも是非立ち寄ってみたいもの。その名から想像される通り、岩壁の縁に張り付くように建つ本堂の奥には岩屋があり、中には観音石像が安置されている。また、本堂前から少し石段を登った所にある東屋からは、浅間山方面などの眺めが良好。同寺の案内看板によれば、木曽義仲が北陸方面に向けて出陣するに際し、戦勝祈願をした地であるということのほか、平家の猛将・悪七兵衛平景清及びその寵妃「楓の前」のゆかりの地であるともいい、さらには江戸時代の力士・雷電為衛門も寄進したという寛政年間築造の大石垣がみられるなど、実に歴史性豊かな、大変興味深い地であるので、依田城址に訪れる場合、この「岩谷堂観音」はまさに併せて必訪ものの地といえよう。
← 湧泉山宗龍寺(背景が依田城址のある御嶽山)
(御岳堂の南の804.6m三角点ピークが依田城址のある御嶽山です。)