古峰山(こぶさん/和田城址)
〜旧中山道和田宿の裏山にあたる山城址〜標高1,016m〜
今は小県郡長和町となった旧和田村の中心部、旧中山道和田宿の裏山にある、戦国時代の山城址(和田城址)の山。他の多くの信州の山城址がそうであるように、ここもまた戦国時代当時に甲斐の武田氏の侵攻を受けた地で、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等によれば、ここは武石の大井氏から分れた大井信定の城であったが、当時甲斐の武田氏と敵対していた村上義清と通じたため、天文14年(1545年)に武田氏の攻略を受け、全員討死したという壮絶な歴史を有する。(注:もっとも『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』には、天文19年8月に甲斐の武田氏により落城したとあり、落城年代が合わない。どちらが正しいのかは素人の筆者にはよくわからないが、少なくとも天文年間に落城したことだけは確かだろう。) 現在山麓にある信定寺は、この時討死した大井信定の菩提寺であるという。
ちなみにこの山の名については、先の『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の所在地の項に「大字上和田字上の山」とあり、これが山名ではどうも味気ないと思っていたところ、たまたま最近、上田地域広域連合作成の『信州上田地域トレッキングマップ』を目にしたところ、この和田城址付近の山を「古峰山(こぶさん)」と表示しており、いかにも古跡の山らしい呼称が気に入ったので、本項でも当面これを紹介用の山名として使用することにした。ただ、『長野縣町村誌 東信篇』の「和田村」の項を参照しても、和田城址については「城ノ平」として「本村の西、信定寺の裏山にあり。東西百間、南北十五間、堀切等無之。天文の頃大井信定の砦と云ふ。確證なし。」と至極簡単な記述があるだけで、「古峰山」という地名は同村項中の他箇所には全く登場しないのが多少残念なところではあるが。(注:なお、この『町村誌』の記述中「堀切等無之」とある部分ばかりは、実際に現地に訪れて確認してみる限り、顕著な空堀等が随所に目につくので、どうも疑問を禁じ得ない。)
この山に訪れるには、国道142号を旧和田村方面へと向かい、旧中山道和田宿の入口を右に折れ、旧本陣の前を通り、さらに前述の信定寺の前を右に通過すると、すぐに左手に「釈迦堂橋」と白字で記された大きい石碑が目につく。そこが登り口。狭い駐車スペースのすぐ鼻先に墓所があるので、多少駐車するのに気がひけるかも知れないが、時間的にはさほど長時間を要する山ではないので、他の訪問者の迷惑にならないよう注意して駐車して行けば別段問題はなかろう。ちなみに、登り口のすぐ脇にある標識によれば、和田城址まで300mと意外な短距離が示されているが、それは厳密には小祠のある本郭址とおぼしき平地までの距離で、さらに後詰の砦址とおぼしき1,016.4m三角点ピークまで足を延ばす場合、プラス約400mの歩行を要する。以上、全て歩いてもわずか700mほどの短距離で、道もよく整備されているので、家族でのノンビリしたハイキングなどには好適な山といえる。
登り始めてしばらくは金属製の手すりが設置された急斜面をジグザグに行くが、ほどなく傾斜が緩むと、じきに右に「石尊神社」への道が分かれている地点に出る。ここはどちらの道を進んでも城址に到着するので、どうせなら素朴な天狗の面が奉納されている神社経由で行くとよい。それからほどなくして「和田城址」の標識のある小広い平地に出る。筆者の訪問時点では片隅に小祠が祀られている以外、特に何もなかったが、おそらくはここが主郭であったのだろう。背後に土塁が巡らされ、その後方に深い堀切があるあたりは、松本平でしばしば目にする小笠原氏の城郭の特徴に似ている。遺構的にもここが最も顕著と思われるので、単なる史跡巡りで訪れた向きには、ここで引き返してもよかろう。
しかし、「山」としてここを訪れたのなら、あと400mばかり、さらに随所に空堀が切られた山稜をたどって、後詰の砦址とおぼしき1,016.4mの四等三角点ピークまで足を延ばしてみたいもの。何故なら「山登り」としては、どうも三角点標石を見ないと「登頂」の実感がわかないものだからだ。もっともこちらは筆者の訪問時点では特に標識もなく、また周囲も樹林に囲まれ展望もない、狭くて地味な場所だったが。
以上、登り口から1,016.4m三角点ピークまでの所要時間は、せいぜい30〜40分程度もあれば十分。
← 和田城址のある古峰山方面を望む(山麓の新田集落付近より)
(上町のすぐ西の1,016.4m三角点ピークが、本項で紹介する古峰山です。)