城山(しろやま/海ノ口城址)・1,334m峰
〜狭い露岩の頂上から望む爽快な展望〜標高1,358m(城山)・1,334m(1,334m峰)〜
南佐久の南相木・南牧両村境上に位置する山々。「城山」はその名の通り、戦国時代の城址(海ノ口城址)がある山で、付近に別掲の御座山や男山などがあるためか、一般にはあまり目立たない存在の山ながら、地形図を見ると結構等高線も密集しており、なかなかどうして、見逃し難い存在感を有している。しかも、城址自体も立派に実戦歴を有し、それも一の郭址の説明板等によれば、甲斐の武田信玄の父・信虎が大軍で攻めたが陥ちず、やむなく引揚げの際、当時16歳の信玄が殿(しんがり)を願って数百の兵を率いて引き返し急襲、折しも武田勢後退を見て備えを解いていた城では有効な反撃ができず、ついに落城、これが信玄初陣の手柄となったとのことで(!)、歴史的にも相当の転機となった地であったことになる(注:もっとも、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、この話の出典は内容に脚色箇所が多いことで知られる『甲陽軍鑑』とのことゆえ、全く鵜呑みにするわけにもいかないらしいが)。ただ、厳密に言うと海ノ口城の本郭址は同山の三角点頂上ではなく、その西約700mほどの峰にあるので注意が必要。ちなみに筆者は訪問前の先入観で、本郭址=頂上、と思い込んでいたため、一度城址に訪れた後に地形図を見ていて間違いに気付き、翌日もう一度行って登り直すという二度手間の失態を演じてしまった。そのため、筆者の場合は城址の方は南麓の大芝集落付近から標識に導かれて登り、三角点頂上の方は大芝峠側から稜線伝いに登るという二本立ての山行になってしまったが、城址からは三角点頂上に向かって踏跡が延びているので、一般には両方つなげての山行として特に差し支えはないだろう(注:筆者も初回訪問時に城址の堀切等の遺構確認のため、少なくとも三角点頂上とのほぼ中間点にあたる1,300mピークまでは足を延ばしており、かつ、それより先にも踏跡が延びているのを確認済み)。
ところで、この山で面白いのは、頂上の三角点。筆者は頂上に達した際、長年の習性から三角点標石を探したが、なぜか見当たらない。しかし、過去の測量用のポールや固定用の針金は残っていたし、地形図上で検討しても、そこが頂上であることは間違いないので、どうも腑に落ちない気分と共に周囲を見回していると… ふと頂上脇の露岩の角に黄色ペンキで妙なマークがしてあるのに気がついた。よく見ると、それは「○」に「+」印だし、先の過去の測量ポールの残骸も、このすぐ脇に寝ていたので… さてはこれは三角点標石の代用なのではないか、と思われたのだ。実際、この頂上は狭い露岩となっているので、三角点標石を埋設しようにも、岩盤に阻まれて設置できなかったのかも知れない。しかし… この際そんなことはどうでもいい。露岩の頂上だけに、そこからは近くの御座山や男山、天狗山などの展望がすこぶる良く、とても一般にはあまり知られぬ山とは思えないほどの爽快感にひたれること請け合いの頂上だからだ。
登りの所要時間は、大芝集落付近〜城址、大芝峠側の車道〜三角点頂上、のいずれも片道1時間程度。仮に城址と三角点頂上とをつないで歩いたとしても、城址からプラス30分もあれば十分ではないか。なお、大芝峠側の車道から三角点頂上のみを目指して登る場合は、その車道を隔ててすぐ南に1,333.7m三角点峰があり、これもまた結構顕著なピークをなしているので、折角だから併せて登ってみるとよい。こちらは車道から10〜15分もあれば頂上に達する。静かで落ち着いた頂上だが、残念ながら現時点で山名不詳。それゆえ現時点では「1,334m峰」としておくが、後日別の山名が判明したら書き換えようと思う。
← 城山方面を望む(頂上は左奥の峰/大芝集落付近より)