城山(じょうやま/尾野山城址)・孫台(まごだい/孫台)
 〜この付近は平将門の戦跡との伝説が残る〜標高734m(城山)・644m(孫台)〜
 旧丸子町(現:上田市)にある、中世の山城址のある山々。いずれも次に述べる通り、意外に深い歴史をはらんでおり、「山」として以上に「歴史巡り」の探訪地として、非常に高い価値を有するエリアであろう。
 まず「尾野山城址」であるが、尾野山集落の南背後にある稜線上にあり、稜線の末端の駐車場所から「愛宕社」経由で本郭址の頂上に至る。「三峰社」の祠と案内看板があるだけの地味な場所だが、その案内看板等によれば、この城址、度々戦禍に巻き込まれ、天文10年(1541年)の海野平合戦では落城も経験しているとのこと。
 次に「孫台」については、尾野山城址の北東、間近に位置する三角点地点であり、現在通用している城(址)名と地名が同じ「孫台」であるという、珍しい場所である。(注:長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の所在地欄において、現・旧とも「字
孫台としている。」) 実際に訪れてみると「山」というより丘陵といった趣の場所であり、『丸子町誌 歴史編 上』(旧丸子町刊)や宮坂武男氏著『図解 山城探訪 第三集 改訂上田小県資料編』(長野日報社刊)等によれば、尾野山城の支城の一つであるとしている。また、三角点標石が埋設されている小高い盛り上がりは、どうやら古墳であるらしく、この地が古くから人々によって開かれてきたことが知れる。
 そればかりでなく、この場所、さらに意外な歴史をはらんだ地であるらしいのだ。ここで筆者が訪問時に現地で見た、文字が消えかけた案内看板の文言を、そのまま次に転記掲載してみよう。
 「
平将門戦跡案内 天慶二年関東を平定した平将門は尚、勢力を保つ従兄弟の平貞盛が上京しようとするを追って信濃路に入り当高台(尾野山地籍俗称高孫代)を背に北方の斜面に敷陣する貞盛勢を千曲川を渡り攻め激戦の上敗走せしめた、此の場所は真に由緒ある地点である。
 筆者はこれを目にして、実際、驚いた。というのは、まさか信州のこの地で「平将門」の名を目にするとは思いもしなかったからだ。平将門といえば、武蔵の地において自ら「親皇」と名乗って時の朝廷に反旗を翻し、最終的には朝廷の討伐を受けて天慶3年(940年)に戦死する、平安時代の武将であるが、筆者にとってはかつてのNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門役の加藤剛が見せてくれた好演が今でも脳裡に焼きついており、謀反人というよりは英雄といったイメージの方が強く、それゆえ筆者は「孫台」においてその名を目にして、何やら奇妙な嬉しさにも似た感慨をおぼえたものである。
 然るに、TVドラマでとりあげられるほど有名な武将にまつわる話なら、もっと広く知られていてもよさそうなものなのにもかかわらず、少なくとも筆者はかつて平将門が信州で戦ったことがあるなどとは、現地に訪れるまで全く知らなかった。それゆえ、あるいは先の案内看板の内容は、もしかしたら現地のみに伝わる出典不明の単なる言い伝えの類に過ぎないのではないかとも思われたので、帰宅後に手元の参考文献を再度ひもといてみたところ、『角川日本地名大辞典 20 長野県』中「尾野山」の項や、『長野県の地名 日本歴史地名体系 20』中「尾野山城跡」の項に、いずれも出典を『将門記』とした上で、同様の記事が掲載されているのを見出すことができ、おかげで現地看板の記述内容も、あながち荒唐無稽なものではないという一応の裏付けを得ることができたのであった。『将門記』の記述内容が真実かどうかはともかく、少なくともこんな、思いがけない隠れた歴史に接することができるのが、実に里山巡りの醍醐味の一つといえよう。
 さて、これらの歴史性豊かな城址の山々に訪れるには、しなの鉄道「大屋」駅近くの国道18号線「大屋」交差点から国道152号線に入って西(旧丸子町)に向かい、「東郷橋入口」交差点を右折して尾野山集落方面に上がる。「信州国際音楽村公園」あたりを目指して行けば進行方向の目安になるだろう。尾野山集落に入ったら、「下ノ池」のすぐ東の高台に「孫台」がある。車道は細いながらも三角点地点付近まで通じている。「孫台」上からは南東に浅間山など、結構展望が良い。後述の「尾野山城址」の方は樹林の中で、あまり良好な展望は得られないのとは対照的だ。三角点標石は上述の通り古墳とおぼしき盛り上がりの上に埋設されており、その古墳の脇は墓地になっている。
 「尾野山城址」へは、山麓の「龍泉寺」あたりから南に山腹をトラバース気味に上がっている細い車道を行けば、尾根の末端部で「愛宕社」への登り口を見出せるので、そこから「愛宕社」経由で本郭址の頂上を往復する。頂上には上述の通り「三峰社」の祠と案内看板がある。樹林の中で展望は得られないが、本郭址より先にも数条の空堀の遺構などがあるので、それらを見つつ、さらに北西に稜線をたどっていけば、場所によっては浅間山や籠ノ登山などを樹間に見渡せるポイントを見出すことも可能であるので、興味のある向きには、そちらにも足を延ばしてみるとよい。「愛宕社」の登り口から本郭址の頂上までの所要時間は20〜30分ほどもあれば十分。
 なお、これらの城址の「山名」についてであるが、まず、「尾野山城址」については、『長野縣町村誌 東信篇』の「生田村」の「古跡」の項中「尾山氏の城址」に「尾野山組未の方山上にあり。
城山、城平の字存して、太刀の折れ、矢の根等を出す事有り。」云々とある他、『丸子町誌 歴史編 上』中「尾野山城跡」の項にも「生田字城山にある山城」とあり、『長野県の地名 日本歴史地名体系 20』中「尾野山城跡」の項にも「小字城平の城山にある山城」とあることから、山名は「城山」で差し支えなさそうだ。
 また「孫台」だが、こちらは『長野縣町村誌 東信篇』の「生田村」の「古跡」の項中「孫臺」の記述内容によれば「佐久、小縣の方言、古墳ありし地を臺と稱す。」とのことであり、すなわち「孫台」の「台」とは、「山」というよりは「古墳」の意味であるようなのだが… 他に適当な山名を示す資料があるわけでもないので、ここでは便宜上、この「孫台」を「山名」扱いとしても使用・紹介させて頂くことにしたい。

 ← 夕刻迫る尾野山城址を望む(孫台付近より)

【緯度】362137 【経度】1381607
(緯度・経度は尾野山城址に合わせてあります。それより1km弱北東の644.3m三角点が孫台です。)