虚空蔵山(こくぞうさん/虚空蔵山烽火台址)
 〜烽火台として格好の地の利〜標高774m〜
 佐久市の根岸地区の背景をなす、戦国時代の烽火台があったと伝えられる山。全国に数多い「虚空蔵山」のひとつ。(この東信エリアの中でさえ複数同名の山があるが、幸いいずれも戦国時代の山城址があるので、山城址の呼称で区別が可能。) 「虚空蔵」というくらいだから、当然虚空蔵菩薩と関係が深い。そのあたりの解説も含め、山麓の「虚空山多福寺」の住職さんが記されたという現地の案内看板を次にそのまま引用紹介してみよう。
 「虚空蔵山は蓼科山から北東方向に延びた長い支脈の突端の一つである。山頂は標高七七三.六メートル、尾根の高さをほぼ水平にたもちながら平地にもっとも張り出した地形で、佐久盆地の大半と四方の山々を一望におさめる地の利を得ている。
 寺伝によれば、文治二年三月(一一八六年)西行法師が善光寺参拝の後、布引から御牧野に至り、仏の夢のお告げにより、大切に所持していた虚空蔵菩薩の像をこの山に安置して虚空蔵山と名づけたといわれている。
 戦国時代に武田信玄の将兵が虚空蔵山の前を通ると落馬する事故が続いたため山頂の虚空蔵菩薩像は寺に移され頂上を烽火台にしたという。
 頂上の南側と西側には土塁が作られ前山城に通じる南側の尾根は帯状の馬場となっていた。
 その後、山頂に三間四面、総欅作りのお堂を建てて虚空蔵菩薩を安置したが昭和二十三年一月、心ない人々の火のふしまつにより焼失してしまった。
 多福寺八十四世澄泓大和尚は弘化三年(一八四六年)三月、四国八十八所のお砂を移して、この山に弘法大師のミニ霊場を作り同時に不動堂、大師堂を建立して、この山を仏様の山とした。」
 (引用ここまで/以上極力原文のまま。)
 この山の登り口は「虚空山多福寺」のすぐ裏手にある。登り口の石仏達に頭を垂れつつ登り始めると、ほどなく上に紹介した案内文にも記されている弘法大師や不動明王を祀ったお堂のある一角を通過、さらに四国八十八所霊場の石仏を拝しながらの登りとなる。道はいくつかあるが、周回ルートをとれるので、いずれを選択しても、登り口からほんの30分ほどで頂上に達する。いかにも中世の烽火台の址らしく、顕著な土塁の遺構がみられるが、それ以上に特筆すべきは頂上からの眺望で、晴天の下に物見櫓に模して建てられている展望台に上がって見渡せば、眼下に拡がる広大な佐久平と、それを隔てて望む浅間山の雄姿などが素晴らしい。実際、この点は今も昔も変わりはないようで、『長野縣町村誌 東信篇』の「根岸村」の「古跡」の項中「虚空藏堂址」においても「頂上は立科、淺間、碓氷、荒舟の諸嶽一眼の内にありて、千曲川の長流一條の白布の如く、御牧野は廣平限なく、春夏秋冬の眺望他に比するなし。」と絶賛している。そして、それだけ眺めが良いということは、周囲からもこの山を望みやすいということに他ならず、全くもって、この山が往時烽火台として格好の地であったことは想像に難くない。

 ← 佐久市根岸の虚空蔵山を望む(山麓より)

【緯度】361403 【経度】1382553
(竹田集落の南背後の773.6m三角点ピークが、本項で紹介する虚空蔵山です。)