箱山(はこやま/箱山城址)
〜頂上より北西の稜線上が山城址の核心部〜標高772m〜
旧丸子町(現:上田市)中丸子の東南東にある、戦国時代の山城址(箱山城址)の山。
南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、ここは戦国時代に箱山氏の城址で、村上氏か武田氏が攻略したとある。また『長野縣町村誌 東信篇』中「中丸子村」の「古跡」の項「箱山城」を参照すれば「丸子氏物見の跡なり。」とある。おそらく、このいずれも伝承としては正しいのだろう。(注:長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の「築・在城者」の欄には、箱山氏と丸子氏の両者を列記してある。)
この山の名については、例によって国土地理院の地形図上には表示がないが、先の『信州の城と古戦場』によれば「箱山」とある。また『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表には、箱山城址の所在地を「字箱山・城窪」と記載しており、さらに『長野縣町村誌 東信篇』中「中丸子村」の項に所収の字地名にも「箱山」があるので、山名は「箱山」で差し支えないだろう。
ただ、この山城址、『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図では、立科町との境の峠付近にある「箱畳公園」にほど近い772m標高点峰一帯に表示があるのだが、実際にはこの城址の最も顕著な遺構が集中している核心部は、むしろ同書の分布図上に表示されている区域より外の、箱山頂上から西北西に派生する尾根が中途でやや平坦になっている箇所にある。(注:『長野縣町村誌 東信篇』中「中丸子村」の項に掲載されている図解も明らかにこの部分が描かれたものである。) しかし、頂上周辺にも、明らかに人工的に削平された郭とおぼしき遺構や石積、さらに物見櫓でも建てた土台とおぼしき比較的顕著な土塁(注:この上が箱山の最高点)が見られることから、『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図表示は決して誤りではないと思う。もっとも、箱山頂上部の土塁は、その形状から古墳のようにも思えるが…
この山に訪れるには、下から歩いて登るよりは、中丸子あたりから「箱畳公園」への車道を駆け上がり、「箱畳池」の近くから徒歩で772m標高点峰=箱山頂上から南東に派生している尾根をたどるのが最も判り易かろう。駐車場は「箱畳池」の畔にある。最初は牧場のような雰囲気の中、車も通行可能な轍が深くついた道を上がり、広い道が尽きた先は薮がちな踏跡程度の道を少々たどれば、難なく頂上に達する。そこには前述の通り、古墳のようにも見える土塁が2つ3つ目につき、中で最も大きいものの上が最高点。単に「山」としてなら、これで一応登頂は果たしたことになるわけだが、そこは樹林の中で展望もなく、これだけではいかにも味気ないので、どうせならここから標高差100mほど北西に派生する稜線を下り、箱山城址の核心部の何条もの空堀や郭の顕著な遺構を見に行きたいもの。ただ、この山の北寄りにはいくつも尾根が派生しているので、別の尾根に入り込まないよう注意を要するが、基本的には、最も西寄りの尾根を下るよう心がけていれば問題はない。
下り始めてすぐ左手の斜面に留意して見ていると、いくつもの郭とおぼしき削平地が目につくとともに、尾根の中途には小規模ながら石積もみられる。これらはいずれも、箱山城の後詰の役割を担った砦の遺構であろう。多少急斜面を下ると、ほどなく伐採地に出て、そこからは美ヶ原や間近に依田城址の峰(御嶽山)などの眺めが良い。そのすぐ先で最初の空堀が現れると、後は顕著な空堀と郭の遺構が進むにつれて次々に出現するので、それぞれの興味に応じて適宜それらを見て回るとよい。主な遺構は、あたかも虎口のごとく岩が露出している切岸のへんで尽きるので、そのあたりが元来た道を引き返すポイントになるだろう。
以上、「箱畳池」から772m標高点峰=箱山頂上経由、箱山城址の核心部の遺構まで歩いて往復するに要する所要時間は、1時間程度も見ておけばよかろう。
← 箱畳池(右背景が箱山)
(「箱畳池」の北東の772m標高点地点が、本項で紹介する箱山です。)