城山(じょうやま/岩尾城址)
 〜徳川に対抗した大井氏の奮戦で有名〜標高660m〜
 佐久市にある、中世の城址(岩尾城址)の山。もっともこの城址、麓からの比高的には大分低く、「山城」というよりは「平山城」に分類される城址であり、果たしてこれを本HPのテーマである「山」として扱ってよいものかどうか、些か迷ったのではあるが… それでも本HPに掲載している他の山々を個々に見た場合、麓からの比高が低い「山」はいくらもあるし、また『長野縣町村誌 東信篇』中「鳴瀬村」の「森林」の項に「城山林〜(中略)〜岩尾城跡、岩尾組の中間にあり。」等と記されているところからして、別段ここを「山」扱いとしても悪いことはないだろうと判断し、あえて掲載してみることにした。(注:なお、山名については、この『長野縣町村誌』の記述を尊重し、当面「城山」としておくこととするが、後日、別の情報が得られれば、状況により修正したいと思う。)
 無論、掲載したい理由はそればかりではなく… この城址、天正11年(1583年)、徳川家康の意に沿い降伏することを潔しとせず、寡兵にして果敢に立ち向かった城主・大井行吉らの奮戦で知られており、最終的には力尽きて開城のやむなきに至ったとはいえ、それまでに何と徳川方攻城軍の主将・依田(芦田)信蕃と、その弟までを鉄砲で撃ち倒すという力戦をやってのけたというのだ。そのせいもあってかどうか、この城址、長野県史跡の指定まで受けているほどなのだが、その割には一般にこの城址の知名度は、さほど高くはない模様であり… 折角、あの天下取りの徳川の手勢を相手に、それだけの大活躍をしたというのだから、筆者としては一種「判官びいき」的な感情とも相俟って、是非、このような歴史を有する城址を、広く世に吹聴したいという思いもあった次第である。
 さて、この城址に訪れるには、上信越自動車道「佐久小諸JC」から中部横断自動車道に入り、「佐久中佐都IC」か「佐久南IC」から西に走り、鳴瀬集落あたりを目指すのが最も手っ取り早いだろう。付近まで行けば、適当に案内標識もある。城址のすぐ南下には庚申塔や石灯籠などと共に「岩尾城主大井一族祈願所 龍登山観音院高岩寺 再興予定地」なる看板の立つ所があり(注:平成15年に寺の建物は解体撤去されてしまったそうで、近時再興を期する旨)、車を駐めるには、この横のスペースが適当そうである。ただし、すぐ脇に一般の民家が建っているので、念のため駐車の可否を確認した方がいいかも知れない。ともあれ、そのあたりの斜面には、いかにも城址らしく矢竹が茂っており、その脇に上がる小道を行くと、すぐに「伊豆箱根三島神社」の鳥居の前に出る。そのあたりを「台曲輪」といい、そこと三の郭との間には、かつて武田流の三日月堀が設けられていたという。鳥居をくぐり、石段を上がると三の郭址で、依田兄弟はこの郭の境界塀付近で狙撃され戦死したとのこと。素朴な狛犬の出迎えを受け、「伊豆箱根三島神社」社殿の右手を回ると二の郭址、さらにその奥の、祠がいくつか祀られた土塁遺構の先が本郭址となる。本郭址の千曲川側は縁に立つと思わず足がすくむほどに切り立った急崖で、これなら、たとえ比高は低くても攻めるに難く、寡兵よく勇戦敢闘できたというのにも納得できることであろう。またここからは、佐久の名峰・茂来山をはじめ、南八ヶ岳連峰、北八ツ天狗岳、蓼科山等の眺めが良いのが嬉しい。あえて難点を述べれば、浅間山側が樹林に遮られて良く見渡せないことくらいであるが… それでも前述のような信州人にとっては快哉ものの歴史に触れられることだけでも、たまたま近くに訪れて時間に余裕がある場合など、ちょっと時間をさいて立ち寄っていく価値は十分ある場所だと思う。

 ← 岩尾城址を望む(西麓より)

【緯度】361513 【経度】1382538