玄蕃山(げんばやま)
 〜公園化しているが歴史性豊かな一角〜標高594m〜
 上信越自動車道の上田菅平ICのすぐ脇に、展望台のある小高い丘がある。これが玄蕃山。一帯は「玄蕃山公園」として整備され、近隣の人々にとって格好の憩いの場、また健康増進の場となっているようで、筆者が訪問した際にも、ウォーキング中の人々が多く遊歩道を行き交っていた。また、南側の斜面は、すぐそこまで住宅街が迫っていて、実際「山」として紹介するのが若干ためらわれるほどの様相を呈しているのだが… それでもあえて、ここでこの「山」をとりあげたのは、この地が意外に豊かな歴史性を有しているからに他ならない。
 この山の名の由来は、山中にかつての上田城主仙石家の重臣荒木玄蕃夫妻の墓所があることによるという。頂上からやや西側に下ったあたりに、忠魂碑や柵をめぐらした古い石塔が立ち並ぶ一角があって、傍らに案内看板がある。次にその案内看板の文面を参考までに紹介してみることにする。(文中、原文ルビの部分は、本項では便宜上、括弧書きの中に片仮名にて記した。)
 「玄蕃山(ゲンバヤマ)
 この場所は古くから玄蕃山(ゲンバヤマ)と呼んで親しまれてきた。
 上田城主仙石家の重臣荒木玄蕃夫妻の墓のあったことによる。墓碑は『荒木氏鴻臚(コウロ)公之墓』『荒木氏鴻臚(コウロ)公夫人古田氏之墓』と刻まれている。(玄蕃(ゲンバ)と鴻臚(コウロ)とは同義) 玄蕃は荒木氏二代目で諱(イミナ)(実名)を千之(チユキ)といい、父勝重の代から仙石家に仕えた。玄蕃千之は慶長三年(筆者注:1598年)に生れ、正保元年(筆者注:1644年)亡父の跡目千五百石を相続し、仙石政俊の重臣として終始仕える。寛文四年(筆者注:1664年)九月八日六十七歳で没した。『荒木家略譜』には『信州小県郡長島村山中に葬り奉る』とある。藩士の墓は、普通城下町の寺院墓地にあり、俗名によりここに葬られた理由は判然としないが、荒木家は長島村にも知行地を持っていた関係があると思われる。これにより、当時この付近一帯は山中であったことがわかる。
 夫人古田氏は、千阿子といい、仙石秀久(仙石家初代)の娘が古田山城守重嗣(京都近郊西岡城主)に嫁して生れた秀久の孫に当る。大阪の役后、母、子とも仙石家に召し預けとなっていたもので、荒木千之の夫人となった。
 荒木家は、玄蕃の子、恒重の代(宝永三年)(一七〇六年)に、上田城主仙石政明の移封に従って他の家臣ともども兵庫県出石(イズシ)に移った。
 『仙石氏史料』による。」(注:以上原文のまま)
 また、頂上には展望台の脇に巨石の露出した盛り上がりがあるが、これは「陣場塚古墳」とのこと。古墳としてはさほど大きいものではなく、また後世の破壊が著しいようだが、それでも石室の遺構が明瞭に残されている。
 以上の通り、この山は、遠く古代から、この地域の人々と密接な接点があったことを窺い知ることができる。
 さて、この山への訪問は、「公園」だけにきわめて楽で、実際、東の駐車場からなら、ほとんど歩くことなしに頂上に立ててしまうのであるが… 多少なりとも「山」の気分を味わいたい向きには、西側山麓の駐車場から遊歩道を歩いて上がるとよい。上田菅平IC付近から車を西側山麓に走らせれば、すぐ駐車場に着く。そこから、「玄蕃山公園 花と緑と太陽と」と刻まれた碑の脇を通り、ほんの10〜15分も歩くと、難なく頂上の展望台のある広場に達する。頂上一帯は明るい広場になっていて、別段展望台に上がらずとも十分眺めは良く、烏帽子岳や太郎山、戸石城址等がよく望まれる。

 ← 荒木玄蕃夫妻の墓所など(「玄蕃山」の名の由来となった/玄蕃山頂上付近にて)

【緯度】362440 【経度】1381706
(上田菅平ICのすぐ南隣にある、594.1m三角点表示のある山です。)