鶴ケ峰(つるがみね/陣場ケ原)・大城山(おおじょうやま/大城址)
 〜「日本中心」を標榜する長閑な山々〜標高1,270m(鶴ケ峰)・1,027m(大城山)〜
 両峰とも岡谷市との境付近の辰野町側に鎮座する山。
 うち鶴ケ峰は、この山にほど近い守屋山が「本州中央」を標榜するのと同様、「日本中心」を標榜し、頂上付近には立派な「日本中心の標」なる石碑まで設置されている(!)。厳密な測量の結果なのかどうかは知らないが、日本地図を見れば、少なくともこのあたりが北海道から九州までを含めた範囲での、ちょうど真ん中へんに位置していることだけは確か。「中心」だけに雰囲気はそれなりに明るく、頂上には立派な展望台まで設置されているが、展望的には周囲の山々が邪魔をして、そう豪勢な眺めというわけにもいかない。
 そんな物足りなさを補ってくれるのが、鶴ケ峰のやや南に位置する大城山。こちらは標高的には鶴ケ峰に若干劣るが、その名が示す通り、戦国時代の山城址(大城址)であり、『長野県上伊那誌 歴史篇』によれば、宮所の城山(注:竜ケ崎城址、別掲)に対する大城ともいうとのこと。実際、竜ケ崎城とは横川川を隔てた対岸に位置しているので、竜ケ崎城と共に横川川沿いの谷筋の狭窄部を抑える要衝であったことは間違いなかろう。そんな山だけに、展望的には辰野市街の俯瞰はじめ南側が明るく開けて爽快。また頂上平地の一角には石祠などもみられ、山麓の人々の信仰の様子も垣間見ることができる。
 さて、これらの山々に登るには、実は辰野駅のすぐ近くから林道を車でたどれば、両峰ともほとんど歩かずに頂上に立つことができてしまう。この点「山」としては少なからず物足りないのではあるが、反面、家族同伴での森林浴程度の訪問には大変適しているといえる。筆者も、ある晴れた一日、家族とともにビニールシート持参で鶴ケ峰に訪れ、しばし長閑な刻を過ごしたことがある。ところで国土地理院の地形図を見ると、鶴ケ峰の展望台ピーク(1,270m)のすぐ南東に、1,277mとわずかに高いピークがあり、筆者は一度、そちらが真の頂上かと思って薮をかきわけて登ってみたことがあるが、そこは展望もなく、ただ周囲を雑木に覆われているだけの何の変哲もない場所だった。やはりこの山の頂上は、展望台付近だとみなしてよさそうだ。
 なお、鶴ケ峰直下の緩傾斜の南側斜面一帯は「陣場ケ原」といい、林道通過時にその旨の標柱等を見ることができる。筆者は当初、付近には特に山城址の遺構らしきものも見当たらないし、また「陣場ケ原」なる呼称のイメージからしても、城というよりは戦国時代に地元豪族の調練場でもあった場所かと思っていたが、後に長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』を見たら、かつて木曽義仲の家臣の砦があった地と伝えられているとあるのを見て納得。これが本当だとしたら、この地に砦があったのは戦国時代よりもずっと古い鎌倉時代以前の話なので、特に目だった遺構がなくても不思議はないわけだ。(注:空堀や郭、土塁などを顕著な形態として伴う山城が出現し始めるのは、普通南北朝期から室町期にかけての間といわれている。) ちなみに『長野縣町村誌 南信篇』中「三里村」の「古跡」の項には「木曾義仲城地」として、「村の申酉に方り、人家隔絶して村を距離する。三里に下だらず、幽谷中二里四方の隍跡あり。目今樹木、篶、繁茂すと雖、古城の近傍桃の古樹干今存せり。且瓦物或は矢ノ根等適拾ひ得る者あり。里老言傳ふるに、義仲一夜城と稱す。按るに久壽二年父義賢於武州、悪源太被討取、三歳爲孤、畠山重能に被救、齋藤實盛をして中原兼遠に愛育せられ、木曾と稱し、爲敵避此所に潜匿の支城と見へたり、又今横川に田中の社あり日本武の命木花咲夜姫尊二ケ神を祭るなり此二ケ神は駒王丸産神にして、生國駿河に祭りしを以、此所に勸請するものと見へたり。實に如斯深山の城跡殆ど稀なり。」と、かなり詳細な記述をしており、信州が生んだ英傑木曽義仲と、そのゆかりの地に対する、当時の人々の敬慕と愛着の念が偲ばれる。

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【緯度】360058 【経度】1375922
(緯度・経度は鶴ケ峰に合わせてあります。大城山はその南に位置しています。)