城山(じょうやま/久米ヶ城址)
 〜今はサンセットポイントとして有名な地〜標高733m〜
 飯田市山本にある、中世の山城址(久米ヶ城址)のある山。
 頂上一帯は城址公園として整備され、南西山麓の「大須」集落あたりからほとんど頂上まで車で上がれるという手軽さ。頂上には物見櫓を模した展望台があって、飯田市の俯瞰など展望的にも相応に優れており、また付近には城山稲荷社や、松尾多勢子の歌碑がある。さらにここは最近では「山」や「城址」としてよりも、むしろサンセットポイントとして有名な地でもあるらしく、そんなこんなで地域の人々にとっては実に好適な憩いの場所となっているようだ。
 この城址の来歴に関しては、『長野縣町村誌 南信篇』の「米川村」の項には特に具体的な記述がないが、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の備考欄によれば「松尾城支城、松尾城小笠原貞宗の弟貞長を初代として建武以後200年の居城。」とある。また郷土出版社刊『定本 伊那谷の城』も基本的にこれを踏襲しつつ、応永七年(1400)の大塔合戦で当時の城主であった小笠原氏長とその子満長が討死したと推察される旨、またその後の小笠原氏は深志・松尾・鈴岡の三家に分裂して内訌を繰り返した挙句、明応年間(1492〜1501)に至り、深志の小笠原長朝が松尾の小笠原定基の松尾城を落とした際、支城である久米ヶ城も落城したと考えられる旨、記載している。なお先述の大塔合戦とは、当時信濃の国の守護に任ぜられた小笠原長秀に地元の豪族団が「大文字一揆」と称して激しく反抗した戦で、筆者の住む長野市の川中島あたりで戦われた結果、守護小笠原方の大敗に終わったと伝えられる。ちなみに筆者の自宅にほど近い北市には、この戦で討死したという市村左馬之助の墓といわれる五輪塔があるが、久米ヶ城の城主父子も、飯田から守護方に属して、はるか北の善光寺平に出陣し、市村左馬之助らと共々討死したのかと思うと、筆者には何やら感慨深いものがある。

 ← 久米ケ城址の城山を望む(三遠南信自動車道飯田山本IC付近より)

【緯度】352746 【経度】1374651