城山(じょうやま/鷲尾城址)・北山(きたやま/682m峰)
 〜鷲尾城本郭址周囲の石積は圧巻〜標高550m(城山/鷲尾城址)・682m(北山/682m峰)〜
 千曲市の倉科石杭にある、戦国時代の山城址の山。この山で特筆すべきは、やはり鷲尾城本郭址周囲の豪壮な石積だろう。別掲の鞍骨山(鞍骨城址)にも大規模な石積遺構がみられるが、鷲尾城址の方は史跡として比較的整備されているので、鞍骨城址ほど秘境色がない代り、石積の美しさ顕著さという点では鞍骨城址のそれを上回っているといえそうだ。また別掲の天城山や鞍骨山などの一帯とも尾根続きで、鷲尾城本郭址に隣接して県史跡の「倉科将軍塚古墳」という前方後円墳があるなど、この一帯が歴史的に一大文化圏をなしていたのだということが実感される山域だ。
 この山の登り口は、石杭集落の中、城址から南に下る尾根の末端部付近にあり、そこには「比等未奈乃許等波多由登毛波爾思奈能伊思井乃手児我許登奈多延曽祢(ひとみなのことはたゆともはにしなのいしいのてごがことなたえそね)」の万葉歌碑(口語訳:世の中の全ての人の言い伝えが忘れられても、埴科の石井=現在の石杭 にいる美しい乙女の言い伝えは、どうか絶やさないほしい)や、海津城初代城主・真田信之候の次女泰子姫が建立したという大日堂があり、大いに興味を惹かれるが、残念なことには周辺に適当な駐車場所がない。結局、付近住民に迷惑を及ぼさないよう、ある程度離れた場所に慎重に駐車してから登り口まで歩くしかないが、それでもそんな程度の手数を払ってでも、十分訪れる価値はある場所だと思う。大日堂の右より裏手に続く道を登っていくと、そのうち例の山城とは思えぬほど豪壮な石垣が前途に出現する。ここは歴史ファンならずとも、じっくり時間をかけて見学したいポイントだ。
 なお、ここでの「城山」とは、通常この鷲尾城本郭址あたりのことを指すようだが、地図上三角点があるのは、本郭址のわずか東のピークであるので、行ってみると、そこに前述した県史跡の前方後円墳「倉科将軍塚古墳」があり、三角点標石は何とその後円部の上に埋設されている。かなり大規模で顕著な前方後円墳の形態を有しており興味深いが、筆者の感想では、前方部の縁の部分は切岸状に整形されている上、そこから更に東に尾根をたどったへんにも堀切状の地形がみられたので、戦国時代には古墳地形をそのまま活用して鷲尾城本郭の後詰の郭として利用していたのではないかと思われる。そこで、ここでは本郭址よりも、倉科将軍塚古墳の後円部にあたる三角点ピークの方を城山の頂上とみなすこととした。そこからは晴れていれば西に北アルプス後立山連峰あたりの展望が良く、山としての雰囲気も十分味わえるからだ。
 なお、筆者はここまでのみでは物足りなかったので、試みにさらに東に山稜をたどり、「No.2」送電線鉄塔の付近の682m標高点のピークまで上がってみた。その頂上自体は樹林に囲まれているだけの地味な場所だが、樹間に別掲の天城山や鞍骨山方面の山稜が見られ、そこそこに高度感もある。残念ながら明瞭な山名不明のピークだが、倉科集落の中ほどで地元の人に聞いたら「普通、北山って言ってるけどね」という答え(注:倉科集落の北側にある山との意)だったので、ここでは当面「北山」としておくが、後日別の山名が判明したら書き換えようと思う。いずれにせよ、どうせ行くなら鷲尾城址だけでなく、心地好い汗を流す意味でも、ついでに訪れてみるとよいだろう。山稜の途中には人工的とおぼしき平地もみられ、先の鷲尾城はもちろん、尾根続きの天城山城や鞍骨城との関わりも想像してしまう興味深いエリアだ。
 以上、登り口から城址、古墳経由で北山こと682m峰までの往復所要時間は3時間ほど。

 ← 倉科石杭の城山を望む(鷲尾城本郭址のある峰)

【緯度】363211 【経度】1380940
(石杭集落の北の尾根上の549.8m三角点ピークが城山です。北山はその北東の682m標高点です。)