城山(じょうやま/若槻山城址)
 〜三登山の支稜上にある大規模な山城址〜標高676m〜
 別掲の三登山の南西山腹にある、戦国時代の山城址(若槻山城址)の山。位置的に一見、三登山の山体から派生する支稜上の一ポイントといった感が強く、それゆえ筆者も以前はあまり注意を払っていなかったのであるが、最近たまたま機会があって訪れてみたところ、一気に印象が変わったことから、今回ここに独立した「山」として紹介した次第。
 印象が一変した最大の理由は、事前の想像以上に大規模な山城址の遺構ゆえ。登り口から少々登ったあたりから、既に往時の工作とおぼしき小平地が見られるが、さらに300mほど登り、「五の郭」の標識が現れるあたりからは、最早素人目にも明瞭な郭の遺構が「四の郭」「三の郭」「二の郭」と段状に続き、最後に「主郭」に達して一段落する。そこは周囲を土塁に囲まれ、背後は深い堀切で堅固に護られる結構広い平地で、中央あたりには「史跡若槻山城跡」と達筆で刻まれた碑と案内看板がある。その案内看板によれば、主郭は標高676m。(注:国土地理院の地形図上の標高点は675mとなっているが、主郭周囲の土塁の上に立てば1mほど高いのだろう。本項の標高も同看板の記述に従った。)背後の堀切ゆえに、支稜上のポイントの割には一応ピーク状の地形をなしているので、ここまでの訪問でも十分「山」らしい気分を味わえるだろう。
 この山城の歴史は結構古かったらしく、鎌倉時代、八幡太郎源義家の孫にあたる若槻頼隆が構築したのが最初とのことで、その後応永年間に高梨氏配下で信濃守護代の細川氏と争い、落城も経験した様子である。さらに時代が下った後の有名な武田・上杉による一連の川中島の戦いの過程においては、本城は上杉方に属し整備されたようだが、その際には特に目立った合戦は経験していないらしい(注:以上、主郭址の案内看板の記述より)。なお、この山城址の見所は前述の大規模な郭や堀切の遺構はもちろんだが、それ以上に是非見ておきたいのは、主郭址の中央あたりに散乱している「河原石」。戦国時代に投石防御用に備えられた遺物らしいが、他の山城址では案外目につかないもので興味深い。
 登るには、長野市街地から「坂中峠」方面への道を行き、途中で林道三登山山麓線に入って、しばし進むと、じき林道の左手に城址への案内標識を見出せる。そこから城址まではわずか500m少々、長野市制100周年事業で整備されたという遊歩道はきわめて歩き易く、ほんの20分ほどの登りで難なく主郭址まで達する。なお、主郭址の裏手の稜線をさらに400m弱ほど登れば「番所」という後詰の郭の址があるとのことだが、筆者の訪問時は薄暮だったので、残念ながらそこまで足を延ばすだけの時間がなかった。いずれ三登山と併せて訪れてみたい所である。
 (注:なお、この山の名については、当初紹介時は山城址の名称から特に疑念も感じないまま「若槻山」としたが、その後『長野縣町村誌 北信篇』の「東條村」の項を見ていたところ、「山ノ城」の所在地について「三登山字
城山にあり」と記述されているのを見出したため、気になって再検討してみたところ、どうも件の「若槻山城」とは「若槻山」の城というよりは、「若槻」の山城という意味であるように思われてきた。というのは、この城の近くには同じ若槻頼隆の築城という「里城」もあり、「山ノ城」とは里城に対比する意味をもこめた名称のようであるからだ。それに「若槻山」という名が『長野縣町村誌』の記述の中には少なくとも見出せないこともあり… どうも確信が持てなくなったため、この際、『長野縣町村誌』の記述に従って紹介山名を「城山」と改めた次第。山名的にはいささか味気ない感は否めないが、以上の事情斟酌の上、御了解願いたい。)

 ← 若槻山城本郭址(城山頂上/後方に土塁)

【緯度】364151 【経度】1381247