城山(じょうやま/寺尾城址)
 〜目立たぬ山ながら実戦を経験した山城址〜標高450m〜
 長野自動車道の長野ICのすぐ東の脇にある、尾根状の里山。別掲の金井山などと同様、あまりに小さく身近な存在ゆえ、普段はほとんど目につかない山のようだが… しかし御多聞にもれず、ここは戦国時代の山城の址(寺尾城址)で、しかも南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、実は天文19年、有名な武田の「戸石崩れ」(武田信玄が村上義清の戸石城攻略に失敗し、甚大な損害を被った戦)の際、武田方についた城主・寺尾重頼を村上勢が攻撃し、武田方の真田幸隆が救援に出陣したという、立派な実戦場だったのだ。このように、常日頃は特に気にも留めないような身近な場所にも、調べてみると案外、意外な歴史性が秘められていたりするもので、そのような知られざる真価を自ら発見していく喜びを強く体感できるあたりが、既に人口に膾炙した有名な山では味わえない、里山の見逃し難い魅力なのだと感じる。
 そんな意味で、この山など、行く前と行った後との印象の違いが、きわめて大きい山の一例といえる。登り口は南の末端の愛宕社への石段からだが、この社殿の正面上には迫力ある天狗の面が掛けられており、いきなり度肝を抜かれる。登り口の説明看板によれば、永禄年間に創建されたという由緒ある社で、現在の社殿は再建・改修を経ているが、位置的に松代城の鬼門除けとして意義を有するとのこと。愛宕社から先は、道が今ひとつ明瞭でないが、短距離なので適当に歩き易い所を選びつつ、高い方に上がっていけば、そのうち明瞭な郭や切岸を見出し、最後に「寺尾殿之墓」と記された墓碑だけがある静かな本郭址の頂上に達する。低山ながら展望に優れた頂で、樹間から長野市街の俯瞰はむろんのこと、その背景の飯縄山や戸隠連峰などの眺望が素晴らしいが、反面、往時の実戦においては、真田の援軍が間に合わず落城したという歴史を有する場所なので、やや複雑な感も禁じ得ない。先の寺尾殿の墓碑のたたずまいとも相俟って、「国敗れて山河あり…」などという漢詩の一節を思わず思い出してしまうような場所だ。なお、山としてはきわめて小さいので、所要時間は登山口から最高点まで往復しても、別掲の金井山と同様、せいぜい1時間もあれば十分。
 (注:なお、この山の名については『長野縣町村誌 東信篇』の「東寺尾村」中「山」の項には「
城山」とした上、「其の形富士山に似たるを以て、或は寺尾小富士の稱あり」とあり、『長野市誌 第九巻 旧市町村史編 旧更科郡 旧埴科郡』の第12章「寺尾」中「寺尾城跡」の項や、郷土出版社刊『定本 北信濃の城』、新人物往来社刊『日本城郭大系 8 長野・山梨』でも同じく「城山」としているが、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)や清水長久氏著『山城紀行』(印刷:中央プリント株式会社)では「赤塚山」としている。本項では当初、ただ「城山」では他に類例が多すぎ、いささか味気ないと思われたことから「赤塚山」の名で紹介していた。しかし、その後、筆者自身が地元で調査した結果では、「赤塚山」の呼称が地元で必ずしも定着しているとはいえないように思われたこと、また2013年に発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』では、やはり「城山」としているとともに、「赤塚山」の呼称については一切触れられていないことから(注:また同書では、同山上の城址の別称を「車山城」としており、むしろこの山に「車山」という、全く別の呼称があることが知れる)、本項でも同書の発刊を機に確実な「城山」に改めることにした次第である。この点、御了承をお願いしたい。)

 ← 愛宕社の社殿(寺尾城址の城山中腹にある)

【緯度】363433 【経度】1381224
(松代温泉のすぐ西の440m標高点の南西の峰が、本項で紹介する寺尾城址です。)