城山(しろやま/塩崎城址)
 〜大塔合戦であわや落城寸前の実戦場〜標高569m〜
 その名の通り、戦国時代の山城址の山。地元では従来「白助(しらすけ)城」と呼ばれてきたようだが、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によれば、応永7年の大塔合戦時、大文字一揆の攻勢に信濃守護の小笠原長秀が逃げ込んだ「塩崎城」(注:あわや落城というところで和議が成立)とは白助城か、又は別掲の赤沢城のいずれかのことであろうといわれているとある。もっとも、同書の後に発刊された信濃史学会編『信濃史学会研究叢書3 信州の山城』(信毎書籍出版センター刊)等によれば、一般に白助城の方を「塩崎城」とし、赤沢城の方はそのまま「赤沢城」としているので、要するに塩崎城の属城ないし一部が赤沢城ということなのだろう。実際、両城は距離的にも近くに位置している。
 で… その「塩崎城」こと白助城址には、稲荷山駅の南西にある信濃十八番礼所の名刹「長谷観音」が登り口。観音堂の裏手の道を、多くの石仏が安置された展望の良い斜面経由でゆっくり上がっていけば、ほんの30分ほどで頂上の本郭址まで達する。そこでまず目を惹かれるのは、本郭の東端にみられる明瞭な物見郭。似たものは別掲の和田之城址などでも見られるが、かつてはこの上に物見の櫓でも組み上げられていたものであろう。また、この物見郭から、二の郭〜三の郭にかけての北の縁の部分には、これまた明瞭な石塁が延びており、さらに三の郭と二の郭との境界面には、かなり規模の大きい石垣がみられ驚かされる。小規模な石積なら、どこの山城址でも結構見られるものだが、この近辺には鞍骨城、鷲尾城、霞城と、比較的大規模な石垣を有する山城址が多数存在しており、ここ塩崎城址もまたその例にもれず。当時それぞれの山城相互間における技術的伝播も想像され、大変興味深い遺構といえる。

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【緯度】363259 【経度】1380543
(長谷集落の寺院の西北西の560m等高線のある地点が、本項で紹介する塩崎城址です。)