霊諍山(れいしょうざん)・寺山(てらやま)・矢崎山(やさきやま)
 〜土俗信仰の名残の石仏が立ち並ぶ〜標高490m(霊諍山)・530m(寺山)・430m(矢崎山)〜
 千曲市の稲荷山から聖高原の方向へと車を走らせていくと、そのうち道の左手に小高く盛り上がっている里山があるのが目につく。それ自体はごくありふれた里山景観ゆえ、一般には特に注意を惹くでもなく、見過ごされている一角なのであろうが… 実はこのエリア、郷土史ファンなどにとっては実に興味深い地であるのだ。
 「大雲寺」という禅宗寺院の北から西にかけて背景をなすこの山稜は、古来「一重山」と称されてきた。『長野縣町村誌 北信篇』中「八幡村」の「山」の項を参照すると、「一重山」として「村の西の方にあり。高さ周囘未だ實測を經ず、全山本村に屬す。該山に矢崎山、糠塚山と云ふ小名あり。山脈南は姨捨山に連る。樹木少し。登路一條、西の方字郡より上る。高さ十三町二十三間、易路なり。」とある。この文から判る通り、「一重山」とは「矢崎山」「糠塚山」など複数の小峰を総括する山域の全体呼称であり、実際に現地に訪れてみると、東の「矢崎山」から「霊諍山(れいしょうざん)」「寺山」「糠塚山」と、大雲寺を囲むように順次連なっている。(注:ちなみにこの大雲寺、今は「八幡山大雲寺」であるが、かつては「一重山大雲寺」と称したという。) ただ本項において、これらの峰々を「一重山」として一括紹介するか、それとも個別の山名で紹介するかは若干迷ったところなのだが… 同じ北信エリアの千曲市内にある「屋代城址」の峰も同様に「一重山」と称すること等から、こちらはあえて個別の山名により紹介することとした次第。
 これらの山々に訪れるには、やはり「矢崎山」から山稜をたどるのが順路であろう。アプローチは前述の通り、千曲市の稲荷山から聖高原方面に向かって南西に延びる道を行けば、1kmほどですぐ左手に尾根の末端みたいな里山が見えてくるので、そのへんで左に折れて「郡」集落の方に入る。登り口もその末端部にあり、石碑などがあるのですぐに判るが、付近に駐車場がないのがネック。登り口手前にかろうじて1台分程度のスペースがあるので、そこに地元の人の迷惑にならないよう慎重に駐車して行くしかあるまい。ともあれ最初の目標の矢崎山頂上には、ほんの10〜15分ですぐに達する。伊勢社など幾つもの祠が祀られ、明るい雰囲気の頂上からは、山麓の街の俯瞰はもとより、次なる目標の霊諍山や寺山方面の山稜もよく見渡せる。(注:なお、この山の名について、たまたま筆者が尋ねた地元の方は「矢先山」と教えてくれたが、先に引用した『長野縣町村誌』の記述には「矢崎山」とある。本項では一応、文献で裏付けが取れる「矢崎山」で紹介しておくが、地元呼称レベルでは「矢先山」でも別段差し支えあるまい。)
 次いで霊諍山に向かう。矢崎山頂上から緩く下り、ほどなく達する鞍部には「大雲寺郷土環境保全地域」の案内看板がある。鳥居をくぐり、良く整備された道をゆっくり上がっていくと、やがて大国主命などが祀られているという社のある頂上に着く。矢崎山頂上からここまでの所要時間は約20〜30分程度。社の周囲には意外にも多くの石仏が立ち並んでおり、しかもそれらの中には、歯をむき出した脱衣婆の像や、犬や猫を浮き彫りにした像など、他ではあまり見られないユニークなものが散見されて興味深い。然るにこの山、なぜか先の『長野縣町村誌』の中には、山名も含めて一切触れられている箇所がない。これだけの民間信仰の拠点であれば、何らかの記述があってもよさそうなものなのだが… しかし実際には、例えば山麓にある「大雲寺」の項を見ると、「本村の西の方山の半腹にあり。〜(中略)〜北に矢崎山、南に糠塚あり、〜(後略)」という具合に、まるで霊諍山の部分の記述を意図的に避けているかのようにさえ見える。それゆえ、この山に関して本文記述時点で筆者が有している情報は、実際、頂上に設置されている案内看板の説明書だけという有様であり… かく情報量僅少の山ゆえ、この際一般の参考にも供すべく、頂上の案内板の文言を、参考までに次に全文引用紹介してみることにする。
 「ここは明治の中頃、千曲市八幡、郡の北川原権兵衛が開山し、八幡中原の和田辰五郎(東筑摩郡筑北村安宮神社の修那羅の大天武の高弟)と共に近郷近在に布教し、信者を集めて「御座たて」という神事が行われ、吉凶を占っていたという。
 現在はそのようなことは行われていないが、春秋の社日・節分・八十八夜など、祭が暦にしたがって執り行われている。
 この社には天神地祇、八百万の神と大国主命が祀られ、『信者が各地の社寺へ参詣せずとも、ここで願いごとを祈れば願渡しをすることが出来る』と、いわれている。
 社殿の周囲に並ぶ石神・石仏は、諸国の著名な社寺から勧請したほか、信者の願果たしの御礼として奉納されたものである。厚い信仰は今も続き数年前に、奇特な方により本殿脇に如意輪観音が祀られた。百余体があり、土俗信仰を知る上で貴重な存在である。
 代表的な石像として、三途の川で亡者の衣をはぎとる脱衣婆像・ヤットコを持った鬼・マントにフンドシ姿の猫・摩利支天・大日如来・文殊菩薩があげられる。
 この一重山一帯は、霊諍山の石仏群、麓にはサクラに囲まれた禅宗寺院の大雲寺。夏にはハスの花が咲き、ナライシダに秋はヤマガキが実るという、歴史的自然環境に恵まれ、県の「大雲寺郷土環境保全地域」に指定されている。」
 引用ここまで。
 以上の文言から想像するに、この山の民間信仰が発生したのは「明治の中頃」と比較的新しいので、『長野縣町村誌』の編纂時点では、いまだ特記すべき伝統的信仰ないし習俗の域に達していなかったのではないか。無論、これは筆者の勝手な机上の推測に過ぎないが…
 さて、霊諍山頂上からは、わずかに下って登り返すと、20分ほどで東屋のある峰に達する。現地には特に山名の表示はないが、麓の大雲寺近くの案内看板を見ると「寺山」とある。おそらくは寺の裏山という程度の意であろう。東屋はちょっとした展望台といった趣で、四阿山方面などの眺めが良好。最高点は東屋の裏手の盛り上がりの上にあり、道はそこを通過していないが、薮は薄いので、気になる向きには挨拶してくるとよい。
 なお、道はここからさらに先にも続いているが、たどってみても、そのうち聖高原方面へと上がるアスファルトの車道に達して終わるだけなので、一般には東屋地点から往路を引き返すのが無難。また、大雲寺方面に下る道もあるので、時間が許せば下ってみるのも一興。
 ちなみに、前記の『長野縣町村誌』の引用文中「糠塚山」と出てくる所へは、大雲寺の入口付近から5分ほどで簡単に登れる(注:標高410m)が、あまりに麓との比高が低い(注:10〜20m)上に、頂上付近は墓地になっていて、どうも「山」という雰囲気ではない。大体『長野縣町村誌』自体、「墓」の項に「糠塚」として「大雲寺の東南にあり。高六尺、周囘十間許、左右溜水あり。遠く之を望めば陵の如し。古來より其名ありて、其謂を知らず。偶村民の發堀するに、古劒、曲珠管珠の類を出せり。往古貴生の人の墳墓なるべし。猶博雅の後考を俟つ。」と記述しているくらいだから、いかに里山好みの筆者としても、ここばかりはどうも「山」として紹介する気になれないので、表題には山名は掲げず、本文中に参考までに記すだけにとどめておきたい。

 ← 霊諍山(右手前)と寺山(左奥)を望む(矢崎山頂上より)

【緯度】363058 【経度】1380457
(「郡」集落付近の尾根の末端部が矢崎山、その南西に各約300m間隔で霊諍山、寺山と続きます。)