城山(じょうやま/大蔵城址)
 〜信州の歴史上最も悲惨とされる落城史あり〜標高450m〜
 旧豊野町(現:長野市)大倉にある、戦国時代の山城址(大蔵城址)の山。本文記述時点で国土地理院の地形図上には山名表示がないが、小日向集落のすぐ東西南北に位置する450m等高線のある峰がそれ。
 この手の山の場合、「山」として紹介するには、まず山名自体から調べなければならず、しかもえてしてそれに手間取る(あるいは全く不詳)であることも少なくないのだが、この山に関しては幸い、『長野縣町村誌 北信篇』の「大倉村」の項に「城山」と明記されている。なお、この山の北西に「城山」という名の集落があるが、おそらくは大蔵城に由来するものであろう。
 天正10年(1582年)4月、織田信長配下の森長可が海津城に入った際、上杉景勝の支援を受けた地元豪族・芋川親正らの一揆が蜂起し(注:郷土出版社刊『探訪 信州の古城』や『長野市誌』第16巻歴史編年表等によれば、一向一揆の類としている。)、長沼城を襲ったが、逆に森長可の討伐を受け、大蔵城に籠ったものの激戦の末落城し、在城の妻子も含めて2,450人余という夥しい戦死者を出したといわれる。しかもこの森長可、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)等によれば、同年6月に織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた報を聞いて京都に急行する途中、川中島方面から連行してきた人質を「猿ヶ馬場峠」で全て殺害したといわれ(注:その人質は上述の一揆討伐の際に捕縛されたものであるともいう。)、きわめて性格残虐な者であったらしい。もっとも彼はその後、羽柴秀吉が小牧山で徳川家康と戦った際、秀吉方について討死してしまったそうだが、先の『信州の城と古戦場』には「どうせ、地獄へ落ちこんだに相違ない。」と手厳しいコメントが記されている。ただ、上述した芋川親正はからくも越後に逃れ、後に牧之島城の城将となったという。
 そんな歴史を伴う地だけに、訪問に際しては自然、一種の緊張感をおぼえてしまうであろうが… 純粋にここを山城の遺構として見た場合、空堀や郭などの遺構の保存状態はかなり良好で興味深い。殊に「二の郭」上部の石積の遺構や、また「井戸郭」にある井戸の遺構などが珍しく、400年以上も前に構築されて今日まで風雪を経てきたものとは思えないほど。
 この山に登るには、長野市から国道18号線を北に向かい、堀の三叉路(中野市方面と信濃町方面への分岐)から、なおも国道18号線を信濃町方面へ2kmほど進んだへんで国道から分かれて右の道に入ると、すぐに「長野市史跡 大倉城址登り口」の案内看板がある一角に出る。特に駐車場はないが、わずかに駐車可能なスペースがあるので、地元の人に迷惑をかけないよう駐車し、標識に導かれて、細い農業用水路沿いに少し歩くと、ほどなく右に登る道へと入る。途中、「黒姫山鵜川神社」の石祠を見たりしつつ、急登を登りつめたところが空堀になっていて、そのすぐ上が「三の郭」。さらに進んで「二の郭」に行くと、上述の通り石積の遺構や、また石仏などがみられる。最後の深い空堀を通過し達したところが本郭址の頂上で、そこには石祠や五輪塔、石仏、地元公民館で建立した「大倉城址」と刻まれた石碑、昭和57年11月の「落城四百年祭」を記念した石碑などがみられる。上述した「井戸郭」の井戸遺構は本郭址のすぐ北西側の直下にある。
 以上、登り口から頂上までの所要時間はさほど長くなく、30〜40分程度もみておけばよいだろう。

 ← 大蔵城址の城山方面を望む(登り口の案内看板前より)

【緯度】364401 【経度】1381658