旗古山(はたごやま/小野平城址)
 〜文献上には謎も多いが明瞭な山城址〜標高1,167m〜
 長野市小田切の「小野平」集落付近にある、戦国時代の山城址(小野平城址)の山。別掲の陣場平山から東に派生する稜線上に位置する1支峰で、例によって地形図上は山名が表示されていないことから、一般にはほとんど「山」として認知されることはないと思われるが、直下の小野平集落あたりから見れば、浄蓮寺の左上に結構目立つ山容を見せていることや、また実際に登ってみても、頂上にはしっかり三角点標石が据えられ、さらに樹林越しながら飯綱山や戸隠連峰方面が望まれるなど、なかなかどうして、相応に登りごたえのある山だ。
 この種のマイナーな山の場合、まずもって山名から調べなければならないのが面白くもあり、また面倒なところでもあるが、この山の場合、小田切地区への入口にあたる道路脇など数箇所に設置されている同地区観光協会の案内地図看板上に「
旗古山」の名が見出せること、及び『長野縣町村誌 北信篇』の「繁木村」の「疆域」の項に「西は七二會村と耕地を以て界し、祖山村と畑古山の頂上を以て界す。」とあることから、「旗」と「畑」の字の違いこそあれ、とにかく両者が同一の山であることだけは確認できる。となると、後はこのいずれを当面の紹介用の山名に採用すべきかであるが、これについては、『長野市誌』第12巻資料編の「第3編 城館跡・条里」の一覧表中「小野平城跡」の項に、「『旗古城跡』とも呼称されている。」とあることから、これとの整合の観点により「旗古山」とした次第。また山名の読み方については、『長野市誌』第8巻旧市町村史編の「第14章 小田切」の城館跡の項中「旗古城」にハタゴジョウとルビが付されていることから、「ハタゴヤマ」でよいと思われる。
 以上の通り、山名の方は割と難なく解決がついたのであるが… 次にこの山にある城址について調べるに及び、実は筆者は少なからず混乱してしまったのだ。以下、大方の御教示を請う意味もこめ、多少の間延びは承知の上で、その「混乱」の概略を記してみたい。
 「混乱」その1。この城址に関し、まず現時点で筆者の手元にある最も詳細な信州の城郭に関する参考文献である長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』を参照したところ、城館跡一覧表中の小野平城の項の備考欄に「別称―天神山城」とあるのを見出し、早くも頭をひねってしまった。「天神山城」という城なら、同じ小田切の「仏工伝」集落付近にある「天神山」(別掲)にあるそれと同名だが…?(注:ちなみに仏工伝付近の「天神山城」の方は『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』にはなぜか掲載されていない。) それに、実際に現地に訪れてみた限りでは、ここで紹介する旗古山の周辺には、特に「天神」に関する祠の類も見当たらなかったのだが…?
 「混乱」その2。先の『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表では、この山城址に関する文献として『長野縣町村誌』があるとのことだったので、早速同書の「繁木村」や「祖山村」の項を参照してみたが、何故か何の記述も見当たらない(注:もしかしたら先の「天神山城」で載っているのかとも思ったが、『長野縣町村誌』の記事中、小田切あたりの町村で「天神山の城」が掲載されているのは「塩生村」の古跡の項だけであり、それだと、ここで紹介する旗古山とは場所が明らかに異なる)。それで、さらに同書中を調べてみると、「七二會村」の古跡の項に「波多古城址」として「ク社の東北坪根峯の頂上にあり。某の居城なるか不詳。」とあるのが見出せた。これについては『長野市誌』第8巻旧市町村史編の「第16章 七二会」の城館跡の項に同一表記の城址が掲載されており、かつ「波多古」にハタゴとルビが付されていて、前掲した同書中「第14章 小田切」の城館跡の項にある「旗古城」の読み方と同一なので、おそらく「波多古城」と「旗古城」は同一の城址のことであろうと思われる。ただ、一抹の疑念も禁じ得ず… というのは「七二會村」の古跡の項をよく見ると、城址を全て「○○古城址」という書き方をしているので、それだと先の「波多古城」も、ハタ
ジョウではなくてハタジョウということになってしまう。また、坪根集落は確かにここで紹介する旗古山に近いのだが、同じ「七二會村」の中なら、坪根集落よりむしろ瀧屋集落の方がここで紹介する旗古山には近いはずであるので、そうなると先に引用した『長野縣町村誌』中「七二會村」の古跡の項にいう「ク社の東北坪根峯の頂上にあり。」の記述から考えて、もしや「波多古城」は「旗古城」とは別物か? との疑念が生じてしまうのだ。然るに『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』のみならず、『長野市誌』においてもまた、小野平城に関する文献として『長野縣町村誌』を挙げており、だとすれば先の「七二會村」の古跡の項にいう「波多古城」以外に該当しそうな記述は見当たらないのだが… 筆者の見方が悪いのか… はたまた筆者がことさら細かいことに拘り過ぎなのか…?
 「混乱」その3。別掲の「甲山(甲山城址)」の項にも触れてあるが、「小田切観光協会」の案内地図看板では、なぜか旗古山ではなくて甲山の位置に「旗古城」の表示がある。筆者は当初、これをよくある単なる誤記の類程度に軽く考えていたのだが、その後、もう30年以上も前に昭文社で発行した「大判都市地図 長野市」の「長野市全図」を参照したら、何とこれまた小田切観光協会の案内看板と同様、甲山の位置に「旗古城」の表示がされてあるではないか(それも赤字で!)。となると、一概に誤記と推定するのは早計ということになるのだが… 果たして…?
 とまあ、ざっとこんな具合で、実際、本文記述時点で、筆者にとってはまだ完全にこれらの謎は解決していないというのが実情なのだ(注:何故こんな妙なことになっているのか、自分なりに想像している結論めいたものはあるのだが… あくまで現時点での想像ゆえ、ここではそれを記すのはあえて避けておきたい)。それゆえ、ここでは『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』及び『長野市誌』の記述を総合して単に「小野平城」と紹介するにとどめ、もし後日、新たに何か判明したことがあったら、その都度内容を追記・訂正することとしたいが… 少なくとも、旗古山の頂上のすぐ西側の鞍部が善光寺平と戸隠との境の峠になっていることから、この山城がその押さえの役割を担っていたものであることだけは確かであろう。
 さて、いささか余談が長くなってしまって恐縮だったが… この山に登るには、別掲の甲山の場合と同様、まずは長野市街地から旧鬼無里村方面へと向かう国道406号線を行き、「裾花大橋」の手前で左に分れる車道(県道入山・小市線)に入る。千木集落付近を抜けてさらに少し進み、途中の分岐で長野市小田切支所方面への道と分れて右折し、小野平集落へ。ここで無雪期なら、さらに坪山方面に続く林道に入って、下祖山地区との境の峠の分岐を左に進めば、目指す旗古山のすぐ直下まで車で入れてしまうのだが… 筆者の場合は幸か不幸か、林道に積雪があったため、小野平集落にある「浄蓮寺」から歩いて登った。それでも比高は浄蓮寺から200mもなく、所要時間はせいぜい40〜50分程度だし、さらに浄蓮寺の境内には、平維茂が鬼女紅葉征伐の途中に小野平に立ち寄って詠んだという「駒疲れ仮の宿りの小野平 富士を南に北は戸隠」の歌碑や、「親鸞聖人戸隠の歌」なる「戸隠の杉間に月のうつらふは 心の玉をみがけとぞ思ふ」の歌碑などがあり、なかなか興趣も深いので、どうせなら、まず同寺に参詣してから登るのも面白かろう。道は同寺の左手から上がっている。少し登ると、じき林道に突き当たり、左に進めば、すぐ上が下祖山地区との境の峠の分岐点。筆者はここで左手の山稜に這い上がり、後は稜線伝いに頂上までたどった。特に明瞭な道はないが、季節のせいか薮は少なく、進行には特に支障はなかった。また途中、明らかに人工的な削平地や堀切が見られ、特に頂上の北約50m直下のあたりに見られる郭とおぼしき地形は、半ば自然地形かも知れないが、きわめて広大で驚かされる。もっともそこから頂上までの間には、急傾斜のせいもあってか特に遺構めいたものは見当らないが、その急登を登り切って頂上に出ると、そこには明らかに物見櫓を立てた跡と思われる一段高い土塁があり、その上が最高点で三角点標石もある。ちなみに筆者の訪問時点では特に標識や史跡の説明看板等の類は付近に見あたらなかったが、それでも頂上から西に延びる稜線上にはかなり顕著な郭が見られ、素人目にもそこが明らかに山城址であることだけは一目瞭然だ。
 
(付記:本項の山名の読み方について、筆者は当初『長野縣町村誌』中に「旗古山」を「畑古山」と別表記した記述が存在することから、「旗」は「ハタ」で間違いなく、かつ「ハタ」は「旗」の訓読みであるので、「古」も訓読みで統一すべきとの考えの下、「ハタフル」というものと判断し、本項でも当初はそのように表記していた。しかし、その後参照した『長野市誌』第8巻旧市町村史編には、複数の箇所において「ハタゴ」と明記されており、この記述内容を尊重すべきと考えるに至ったので、「ハタフル」から「ハタゴ」に修正した次第。なお、この件については、他の疑問点の解決のための努力と併せ、今後も引き続き確証を得るよう現地調査等により検証していきたいと思う。)

 ← 旗古山を望む(右下は「浄蓮寺」/「小野平」集落付近より)

【緯度】363909 【経度】1380551
(小野平集落のすぐ西の1,166.9m三角点峰が、本項で紹介する旗古山です。)