日向山(ひなたやま/620m峰)・野杭山(のくいやま/620m峰)
 〜全く無名の峰々ながら歴史性豊か〜標高620m(日向山)・620m(野杭山)〜
 長野市街地の西、国道19号線を長野から松本方面に向かう途中で通過する「笹平トンネル」の東出口のあたりから上方へしばし車を走らせたへんにある「塩」という集落のすぐ南東に点在する、目立たない山々。地形図上、山名が明記されているわけではなく、また山城址等として知られているわけでもなく、ただ標高620mの等高線の地点が地形図上にいくつか目につくだけという、一般には到底山登りの対象になどなり得ないような山々だが… しかし筆者がこれらの峰々に訪問後、試みに尋ねてみた地元の方は、きわめて明瞭に山名を教えてくれた。
 すなわち、「塩」集落の南東、609m標高点のある一帯に、620m等高線のある峰が2つあり、さらに道を隔てたその南にもう1つ、同じく620m等高線のある峰があるが、前者の2つの峰のあるあたりを俗にノクイヤマ(注:「野杭山」=野に杭が立っている山という意)、またもう一つの峰をヒナタヤマ(注:「日向山」=日向にある山との意)と呼称しているとのことだった。これらの山名、『長野縣町村誌 北信篇』の「七二會村」の項を見ても一切記述がなく、あくまで地元の俗称にとどまるものであろうが… しかし、筆者としては、たとえ口伝の俗称の類でも、このような地元の方による呼称は民俗学的見地からも大いに尊重したいので、ここでも、当面それらの山名により紹介するものである。
 これらの山々に訪れるには、一般には「塩」集落付近の峠からまず「野杭山」に上がり、次いで一旦道のある鞍部に下って登り返し「日向山」に至るというのが順路であろうが、筆者の場合、たまたま「日向山」の方に全く偶然に訪れ、その翌日に調査を兼ねて「野杭山」に訪れるという二度手間となった。然るにこれらの山々、全く無名でありながら、案外歴史性豊からしい山域であるようで、全く偶然の発見にしては、大いに興味深いものであったので… ここでは筆者の訪れたルートを順次紹介してみたい。
 まずは「日向山」だが、例の「笹平トンネル」東出口のあたりから少し上方へ車を走らせ、途中で左に折れて尾根の左(西)側に回り、山腹の畑の上部のスペースに駐車、近くにあった小道をたどって尾根上に出て、後は尾根伝いに踏跡をたどって登頂した。時間的には、駐車場所から頂上まで30分弱くらいのものだが… ここで不思議だったのは、しばし尾根を登って、一旦平坦になったあたりが、見ようによっては郭の遺構のようにも見え、さらにすぐ先には空堀の遺構とおぼしきものがあったり、またその先の斜面を登りつめて頂上らしき所に達すると、そこもまたきれいな平地となっていて、周囲にはやはり郭とおぼしきものがあったことだ。筆者は当初、ここもまた山城址かと思いつつ下山したが、後で家に戻って資料を見たら、そこには城址の印も何もないのだ。では、あの郭や空堀らしきものは何だったのだろう。先入観でそう見えただけに過ぎないのか…?
 それで腑に落ちなかったので、翌日改めて地形図を確認の上、「塩」集落付近の峠に上がり、「野杭山」に訪れることになったわけだ。というのは、前述の通り、「日向山」にしろ「野杭山」にしろ、地形図上では最高点はいずれも620mの等高線のある地点になっているが、2万5千分の1地形図上では等高線の間隔は10mもあるので、同じ等高線の地点が付近に複数ある場合は、実際に訪れてみないと、どれが真の最高点か判らないからで… 結果を先に言えば、「野杭山」よりは「日向山」の方が若干高いようだった。
 それはともかく、「野杭山」へは、峠の脇にある半鐘の櫓のへんから登り出し、ほどなく最初の620m等高線の峰の頂上部に出ると、すぐ先に小広い平地状の地形があり、その周りを囲むように丘状の峰がある。向かって右(南)がもう一つの620m等高線の峰で、そちらの方がわずかに高いようだ。そこまで行くと、樹林越しに「日向山」が見える。さらに左に周回するように歩を進めると、そのうち石祠のある一角に出るが、この石祠は、例の地元の方の言によれば「守田神社」旧社地の祠で、一帯はジンデン(神田=神の田の意)とも呼ばれているとのことだった。(注:当初はこれも口伝かと思ったが、後でよく『長野縣町村誌 北信篇』の「七二會村」の項を見たら、「社」の項に実際に「守田神社」が載っていて、「(前略)往古守田社、本村南の方にあり、弘安元年五月社地拔崩れ、同年今の地に遷し慶長六年再建す。至今舊社地に石祠存す。(後略)」とあり、完璧に裏付けが取れた。このことから判断するに、「日向山」とか「野杭山」という山名の方も、おそらくは地元呼称として確実なものであろう。) なお、以上の周回コースを歩いている間、左下方には常に前述の小広い平地が見えているが、この平地、よく見ると縁が明らかに人工的に四角く整形されているので、当初は記録されていない中世の城館址かと思い驚いたが、後で例の地元の方に聞いたところでは、そこは数十年前まで畑で、桑などを栽培していた場所であったとのことで、どうも城址ではないようだった(注:それにしても、「日向山」の山城址の遺構とおぼしき地形の方が何なのかは、まだ疑問は残るが…)。ともあれ、峠から以上のとおり「野杭山」一帯を周回して戻るまでの所要時間は、時季にもよるだろうが、薮が深くなければ30〜40分もみておけばよかろう。
 さて、以上の通り、これらの山々、筆者としては全く偶然に発見した山にしては、予想外に歴史性豊かな地であった。広い信州、おそらくは他にもこのような知られざる山々が数多く存在することであろう。そして、そのような山々を、自ら発見していくことのできる喜びこそは、まさに寂峰趣味の最大の醍醐味といったところだ。
 ちなみに、例の地元の方には、かなり御高齢のようであったが、他にもいくつか興味深い話を伺った。例えば「塩」という集落名は昔、岩塩を採ったことに由来するとか、峠のあたりは「塩」の中でも特に「大芝原(オオシバラ)」と呼ばれている地であるとか、この地の西側には「釜塚」という地名があり、それは昔そこで岩塩を煮詰めたり、紙の原料の楮を煮たこと等に由来する地名であるとか… これらの貴重な情報が、いつか忘れ去られ、消え去ってしまわないよう、多少長文となることは承知の上、あえて克明に書き記してみた次第。

 ← 「野杭山」頂上(背景は「日向山」方面)

【緯度】363705 【経度】1380439
(「塩」集落の南東、609m標高点のある一帯が「野杭山」、「日向山」はそのすぐ南です。)