外石峰(といしみね/真那板城址)・768m峰(真那板城根小屋址の峰)
 〜興味深い伝承をはらむ一大城郭群〜標高760m(外石峰)・768m(768m峰)〜
 小川村にある、戦国時代の山城址(真那板城址)のある峰々。
 この城址、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図によれば、小川村の下末集落と駒越集落の間に南北に横たわる、地形図上768m標高点のある峰一帯に城址範囲の表示があるものだが、『長野縣町村誌 北信篇』の「高府村」の「古跡」の項中「眞那板城墟」を参照してみると、「本村北の方山の中段にあり。北は嶮岨にして東西二百餘間の中に、中の城天神城と云あり、嶺續き長き城なり。北東に當つて五町有餘、谷川を隔て根小屋あり、地名下垂と云、又霜末。(後略)」という記述があり、これと地形図とを付き合せて検討してみると、『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図に示された城址範囲は「根小屋」の方で、戦闘・防禦用の城址は「谷川」(注:地形図上「薬師沢」)を隔てた南西の山稜上に別にあることになる。実際、地元の人への聴取調査結果でも同様の結果が得られたし、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)を参照すると、そちらには「外石峰」という山名もある模様。(注:確かにこちらの峰のすぐ近くには「外石」集落があること等から、本項では当面この山名で紹介しておきたい。もっとも、他文献等からは本文記述時点で確認できない山名であるため、後日別の事実が判明した場合には修正する場合がありうるので、その節には御容赦願いたい。)
 まずは、その「外石峰」への訪問ルートから述べよう。このあたり、地形図上で目立つ峰は最高点の760m等高線の峰と、そのすぐ東に750m等高線の峰の2峰あるが、これら峰々のすぐ下には「馬事公苑」があり、その上に馬道が開かれているので、それをたどれば難なく登ることができる。もっとも付近に行っても、馬事公苑の案内標識は特に見当たらないので、同公苑に隣接する「明松寺」を併せて探しながら行くとよいだろう。登り口には同寺の西から左に分かれる細道に入って上がれば、すぐに馬事公苑の上方に出られ、難なく馬道の入口に達することができる。馬道は小型車なら通行可能なほど広いが、実際馬と鉢合わせする恐れがあるので、車ではそれ以上決して進入しないこと。道脇のスペースに邪魔にならないよう駐車し、以後は馬道を徒歩でたどれば、ほどなく道が二手に分かれる。ここで右(東)に行けば750m等高線峰へ、また左(西)に行けば760m等高線峰へ、それぞれ訪問できるが、いずれの峰にも筆者訪問時点では城址を示す何の標識もなく、ただ、中途にみられる土塁や切岸の遺構とおぼしき地形から、確かに往時そこが城址であったのだろうと想像できた程度で、最高点の760m等高線峰の頂上も植林の中で展望もない存外静かな場所。もっとも、そんな地味さの埋め合わせには、下山後に車道を少々西へ、中村集落付近まで走らせれば、そのあたりからは北アルプス後立山連峰の面々の大展望に遭遇することができる。ともあれ、馬道入口から750m・760m両峰に訪れても、時間的には1時間も要しない。
 ちなみに、馬事公苑に隣接する「明松寺」については、川中島合戦当時、大日方民部直政の嫡子・直忠の男子5人のうち、長男の直經が自立して武田に従わなかったため、弟4人で直經を誅殺したところ、祟りがあったため、それを恐れて親類内で申合せ、古山城址に「金吾大善神」の祠を祀るとともに、明松寺を開基したという言い伝えがある。時間があったら参拝していくとよい。
 次に、もう一方の「根小屋」には、下末集落上部まで車で入り、その先に通じる山林作業道とおぼしき道をたどって行くことができる。杉林の中をしばし登ると、じきに明らかに人工的に整形されている郭のような平地や、切岸のような斜面、また虎口のような土塁などが目につくようになるが、付近には例によって標識一つないため、素人の筆者には、それが城址の遺構なのか、はたまた後世の畑か何かの跡地なのか、どうも判断をつけ難かった。ともあれ頂上部は地形図上南北2つの峰に分かれているので、「山」としてはこれらの峰の双方の頂点に立った上で下山するとよかろうが、北側の峰の山稜を少し北に進んだ所には、浅いながら空堀とおぼしき地形も見られたから、往時はこのあたり一帯が一大城館をなしていたものと想像できる。訪問に要する時間は一帯を周回しても、やはり1時間もかからないだろう。
 なお、この城址については、本文記述時点で存外情報量僅少と思われるので、先にも少し引用した『長野縣町村誌 北信篇』の「高府村」の「古跡」の項中「眞那板城墟」の記事の全文を参考までに次に引用掲載しておくことにする。一部不可思議な内容もあって、なかなか面白い。
 「本村北の方山の中段にあり。北は嶮岨にして東西二百餘間の中に、中の城天神城と云あり、嶺續き長き城なり。北東に當つて五町有餘、谷川を隔て根小屋あり、地名下垂と云、又霜末。天文年中大日方民部讃岐入道直政四男四郎内膳正直龍爰に居す、其子直明武田晴信に屬す。其子直房其子直充、其子直智、元和年中眞田伊豆守信之に從ひ二百石を下さる、足輕十人を預けられ代々下末に住す。根小屋の東に當り墓所あれども只梵字などあり、又五輪の塔にて空風火水地と彫りたるまでなり。此家に代々安置ある毘沙門天は信玄尊敬の靈神にして、永祿年間信玄構への丑寅に堂宇建立有之重き軍議の時は、必此堂にて軍議有之處、天正十年甲州沒落の節此靈神捨置難きに付、大日方直明毘沙門天を背負奉り且戰ひ、且走つて信州へ歸國せしに、水内郡舊青木村迄來る處夜に入り、且は勞れ相揩オ該村常源寺なる寺の竹藪へ隱し置き、我身許り歸城なし勞れを養ひ、又行き見れば此尊像無難にてまします故、歡喜の餘り常源寺に立寄り、右の話に及びければ和尚拜禮して此因縁により尊像の形を刻み、該寺に納め猶今歴然す。大日方宅へ安置せる毘沙門へは、甲州又は佐久郡邊より折々尋來り立願の者あり、毘沙門殿閣或時焼失す。其後は居宅に安置候ては神慮に不應事もあらんとて、舊椿峯村眞言宗高山寺へ納め候處住僧俄に亂氣の体に相なり、毘沙門の口説斗り申すに付、早々大日方家に返し、法印夢の覺る如く本体に至りしとなん。又舊夏和村正法院と云山伏へ本尊を納めしに異哉亂氣狂言す、故に又返せしに平然として山伏常体に至る。又或時々毘沙門の間に人々寢るに靈ありて西に頭をして寢るに、翌朝は頭東にあり、南に頭をすれば、又頭北にあり、傳言に枕返しと云、因て人々恐れをなし之を尊敬す。家主直澄なる者至て活氣にて、常々酒を好むこと酒顛童子の如く、或時酒氣に乘じ門百姓、駒越村磯右衛門と云者と、此毘沙門に行水させんとて古盥に入れ洗ひ、厨子へ又入れんとすれども倒れて入らず、其中に兩人狂亂し、家内の者恐れて高山寺住僧をョみ、祈念して漸々厨子に納め、兩人も本氣となり強氣の直澄も恐れしと云。大日方境内に竹木の古きあり、松城侍從好みに依つて進せしに、茶杓花活になされしと云。此仁幸貫也、古木は神代の杉也と云。是大日方直恕の家なり。」
 (注:同書によれば、この地方は小川古山城主の小川氏が代々領していたが、応仁2年に村上顯國に攻められ滅亡したため、以後、顯國の幕下であった大日方弾正忠長政が領するようになったといい、先の引用文中の大日方民部讃岐入道直政とは長政の子であるという。)

 ← 真那板城根小屋址のある768m峰方面を望む(外石集落寄りの車道より)

【緯度】363738 【経度】1375850
(緯度・経度は外石峰に合わせてあります。768m峰はその北東の標高点峰です。)