城山(じょうやま/小松原城址)
 〜一般の注目度は低いが興味深い一大山城址〜標高541m〜
 長野市街地の西、犀川狭窄部の「小田切ダム」の真南あたりにある、戦国時代の山城址の山。別掲の吉窪城址の城山とは犀川を隔てて対峙する。その位置関係からして、いかにも要害の地といった感を受けるが、その割には吉窪城址の城山などに比して山容が凡庸であるせいか、山としても城址としても注目されることが少ないようだ。実際、筆者の手元にある文献中にもあまり関連記事がなく、せいぜい『長野縣町村誌 北信篇』の「小松原村」の古跡の項に「村の西南の方にあり。東西二十間、南北廿間、嶺上一平地にして、四方嶮峻、堀切あり、某の城址たるか不詳」とあるのが見出せるのと、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の中に最低限の記事を見ることができる程度。もっとも、後者の報告書では同城の構造を「単郭」としているが、実際に登ってみると単郭どころか、南北2峰に分かれた頂上部のうち、北の峰に物見の砦とおぼしき遺構、また南の峰には主郭と、それに付随する幾つかの郭の遺構があり、さらに両峰の中間あたりには往時「水の手」だったらしい池があるなど、どう見ても複郭の、きわめて壮大な規模を有する一大山城址だ。(注:この点については、筆者としても気になったので、念のため長野県教育委員会文化財・生涯学習課を通じ、宮坂武男氏著『図解山城探訪』第十集所収の平成12年調の縄張調査図の写し等を入手し、確認したところ。なお、先の長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の分布図上の遺構範囲は北の峰寄りに表示されているところからして、どうも同書の調査時点である昭和54年〜57年当時には、南の峰まで詳細調査が及んでいなかったのではないかと想像される。)
 さて、この山に登るには、前述の通り注目度の低さが災いしてか、少なくとも筆者の訪問時点では付近に全く案内看板も見当たらず、やむなく筆者の場合は山麓の「小松原神社」から歩き始め、途中の果樹園で農作業中の人に道を尋ねた上、北側の山稜からまず直上の北の峰に登り、次いで稜線伝いに南の峰に登った。が、このルート、特にはっきりした道があるわけではないので、一般には東側山麓にある「天照寺」の裏手の山道伝いに登るのが最も適当だろう。道は何箇所か分岐があるが、とにかく上を目指して登れば、自然と北の峰の直下の山城址らしく矢竹の繁茂や石祠のあるあたりに出られる。後は南に稜線伝いに進めば、前述の通り往時の「水の手」だったらしい池塘を右下に見つつ、さらに眼前の斜面を登り切り、そのうち明瞭な段郭の遺構を見出せば、頂上の主郭址はすぐそこだ。以上、山麓から頂上までの所要時間は1時間もみておけば十分。ちなみに筆者の訪問時点では北・南の両峰共に史跡の標柱すら設置されていなかったが、遺構は比較的明瞭なので、まあ見誤ることはないだろう。
 なお、東側山麓からこの山の方面を見上げると、北の峰寄りの中腹に一見東屋とおぼしき建造物や、またそこに通じる一見遊歩道とおぼしき道が目につくが、地元の人の言によれば、これらはいずれも私有の施設とのことゆえ、決して立ち入ってはならない。また、全般的にこの山の山腹は果樹園が多いので、それらに許可なく立ち入って地元の人に迷惑をかけることのないよう、これから訪れられる向きには十分留意されたい。

 ← 小松原城址の城山を望む(右手の盛り上がりが北の峰、その左奥が主郭のある南の峰)

【緯度】363654 【経度】1380735
(「小松原トンネル」のすぐ南の540.8m三角点の峰が、本項で紹介する小松原城址です。)