城山(じょうやま/替佐城址)
 〜武田氏関係というが詳細不詳の「謎の大城郭」〜標高460m〜
 中野市豊田にある、中世の山城址(替佐城址)の山。一般には「山」としてよりは「山城址」として知られ、特に奥信濃にあっては随一といって差し支えないほどの城郭規模を誇り、遺構の保存状態もきわめて良好という、歴史ファンにとっては必見の場所であろう。
 もっとも、そんなに優れた山城址なれば、必ずや歴史上重要な位置を占めるポイントであったのだろうと思いきや… いざ手元の文献をひもといてみると、意外にも、どうも判然としないのだ。ちなみに『長野縣町村誌 北信篇』の「豊津村」の「古跡」の項には「對面城」として紹介されているが、歴史については「築城年月不詳。小畑上總介なるもの居城せしと云ふ、事跡不詳。土俗傳に小畑氏は木曽義仲の幕下根々井行親の臣と云ふ、信じ難し」と記述されているのみ。ちなみに南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)には「武田信玄が永禄七年築城。上杉の押さえ。」とある。また、郷土出版社刊『定本 北信濃の城』には「奥信濃随一の巨大山城」等の見出しが付された上、「右岸の壁田城とともに、戦国時代武田方により築城ないしは修築され、飯山城に備えたものと推定される。伝承では武田方の将、小幡上総介が城主と伝え…」とあるが、この点に関し、信濃史学会編『信州の山城』(信毎書籍出版センター刊)は「ちなみに武田信玄に臣従した小畑泉竜斎憲重と同一人物であるか不詳」としている。なお、信州の城に関する最近刊である郷土出版社刊『探訪 信州の古城』も、ほぼ『定本 北信濃の城』の記述内容を踏襲しているが、同城の項の見出しを「謎の大城郭」としており… 結局、今日に至るまで、この見出しの表現こそが同城に関する歴史考証の現状を最も端的に示しているもののようである。
 訪れるには、上信越自動車道「信州中野IC」からなら、ICから出てすぐに突き当たる県道29号線を左折し直進、「立ヶ花橋」で千曲川を渡ってすぐに右折、国道117号線に入る。また長野市街地から向かうには、国道18号線を北上し、旧豊野町の「浅野」交差点で国道18号線と離れ、国道117号線に入る。いずれのルートを採るにせよ、国道117号線に入ったら、後はそのまま飯山線「替佐」駅付近まで車を走らせる。登り口までの道は少々狭いが、山麓には適当に案内標示があるので、さほど迷うことはないだろう。登り口には駐車場所があるので、そこに車を駐め、以後は徒歩で標識に従い、深い空堀や急な切岸、広大な郭の遺構を眺めつつ、頂上の本郭址を目指す。上述の通り、その規模の壮大さには、別段歴史ファンならずとも、少なからず驚かされることだろう。駐車場所から頂上までは、ノンビリ歩いても15〜20分程度も歩けばよい。
 なお、山名については、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表の旧地名に「豊井村字
城山」とあり、信濃史学会編『信濃史学会研究叢書 3 信州の山城』(信毎書籍出版センター刊)でも、所在地の字を同様に「城山」としているので、ここではそれらに従って紹介しておきたい。

 ← 替佐城二の郭址方面を望む(替佐城本郭址より)

【緯度】364616 【経度】1381853