八王子山(はちおうじやま/八王子山砦址)
 〜小峰ながら意外なまでに歴史性に富む〜標高510m〜
 信州有数の温泉地として知られる戸倉・上山田温泉の北に張り出している尾根上の峰。一般には山登りの対象として見向きもされなそうな小峰ながら、岩峰特有のそこそこに険しい山容を見せ、ちょっと気になる山だ。
 筆者がこの山の名を初めて認知したのは、同山のすぐ北東山麓にある「佐良志奈神社」の由緒書を偶然目にしたことによる。以下御参考までに、その由緒書をそのまま次に御紹介してみよう。
 「佐良志奈神社由緒
 祭神 誉田別命(応神天皇) 息長足姫命(神功皇后) 大鷦鷯命(仁徳天皇)
 延喜式内神社は当時更級郡の中に十一社あったが、その中の一社で、創立年月日等は宝徳二年(一四五〇)本殿火災のため焼失し、古文書等はそれ以後のものしか現存しない。
 社説語伝は允恭天皇の皇子黒彦王の勧請であって、大鷦鷯命は冠着山支嶺(八王子山)に祀ってあったが、仁和三年(八八七年)の地震で現代の八王子組(当時千曲川原)に崩落したため、麓にあった若宮八幡宮に合祀した。現在でも祭神四体(一体は祭神名不明)が現存している。
当時佐良志奈神社の摂社八王子社(祭神国之狭槌命)は、今も八王子山に現存している。
 正平年中(一三四六〜一三七〇)後醍醐天皇の皇子宗良親王御潜居のおり暫時御所とした、その節の逆襲塚があり台石に『信州若宮永和二年丙辰六月十五日契約従衆四五人』と刻んである。
 氏子は若宮組三組「黒彦・若桜宮(現在の若宮)・柴原(現在の芝原)」のなかでも黒彦組は戸数多く、市も立って栄えていたが、天文十一年(一五四二)、慶長二年(一五九七)、同十六年(一六一二)等度々の水害にあい、千曲川の両岸に移住分村して現在に至っている。
 明治十五年十月七日郷社に列せられる。
 佐良志奈神社々務所」
 この山へのアプローチは、国道18号線から西の戸倉・上山田温泉方面に折れ、千曲川に架かる「大正橋」(注:「万葉橋」の北)を渡るのが一番判りやすい。「大正橋」を千曲川左岸に渡ったところに「佐良志奈神社」があるので、まずはそこに訪れるとよい。というのは、同神社の駐車場付近にあるウォーキングの案内看板に、上記由緒書の文中にある「八王子社」への道が明示されているので参考になるからだ。また、上記由緒書からも明らかな通り、佐良志奈神社と「八王子社」とはきわめて関係が深いことから、事前に参拝していく価値は十分にある。案内看板に従い、佐良志奈神社の脇の細い車道を車で上がっていくと、ほどなく平らな一角に出る。その片隅に目につく小さい社が「八王子社」。一見ただの古ぼけた小屋のようだが、正面に回って内部を除くと、小屋は覆屋で、内部に小さいながらも立派な八王子社の真の社殿があり、寺社巡りファンならずとも一見に値しよう。「八王子山」は同社のすぐ背後に、前述の通り小さいながら相応に目立つ鋭利な山容を見せている。筆者の訪問時点では特に登山道を示す標識はなかったが、そのまま岩稜伝いに踏跡をたどって登ればいい。道は一部急な箇所もあるので、落葉期などは斜面の落葉が滑って足元不安定なので注意(注:自信がなければ、八王子社から直接取り付かず、さらに奥に延びている林道をたどって、裏手から登頂する手も考えられるが、それではあまり面白味がないだろう)。途中、山の神らしい石祠を見て、ほどなく頂上に達する。八王子社前の駐車場から頂上までの所要時間は15〜20分程度。頂上には筆者の訪問時点ではやはり何の標識もなく、また周囲を樹林に囲まれ、山容の割に展望も今ひとつだったが、付近には明瞭な郭の遺構が認められるので、ここもまた山城址であったことが知れる。(注:『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』には個別の記載がないが、少なくともこの山のすぐ近くにある城山の荒砥城の一部か、またはその支城砦であったことは間違いないと思われる。2013年に発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』(戎光祥出版刊)でも、個別の砦址として扱っており、本項でもそれに従い紹介しておきたい。)
 以上の通り、この山、小さいながら意外なまでに歴史性に富んだ峰なので、もっと注目されてもよさそうな気がする。所要時間的にもきわめて短くて済むので、別掲の城山(荒砥城址)などとセットで訪れるのもよいだろう。

 ← 八王子山を仰ぐ(「八王子社」付近より)

【緯度】362904 【経度】1380821
(戸倉温泉のすぐ脇の八王子にある510mピークが、本項で紹介する八王子山です。)