古城山(ふるじょうやま/川田古城址)
 〜麓の温泉の賑わいとは対照的な静けさ〜標高544m〜
 長野市若穂川田にある、戦国時代の山城址(川田古城址)の山。有名な大室古墳群の裏山の一つにあたり、別掲の霞城山などとも近い山だが、一般には「山」としても、また「山城址」としても、興味のある者を除いてはほとんど意識されていない存在のように見受ける。『信州の城と古戦場』によれば、ここは川田氏の城で、村上氏に属し、後に武田氏に降ったとある。現在、川田小学校があるあたりが川田氏の館だったとのことなので、古城山はこの後詰の砦として活用されたものか。もっとも、特に目立った実戦歴はないようなので、余計に注目されにくい存在なのだろう。おまけに山城名、山名とも複数の呼称があって、注意しないと混乱を来す。
 まず山城名については、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』や郷土出版社刊『定本 北信濃の城』『探訪 信州の古城』等では「古城」としているが、南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)では「川田城」、新人物往来社刊『日本城郭大系 8 長野・山梨』では「川田山城」、また『長野市誌』第12巻資料編には「川田古城」とあって一定しない。(ちなみに『長野縣町村誌 北信篇』中「川田村」の「古跡」の項には「砦跡」とあるだけで参考にならない。) 本項では検討の上、『長野市誌』(注:当初執筆時点において筆者の手持ち資料中の最新資料であった)の「川田古城」の呼称により紹介している。(その後、2013年に発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』(戎光祥出版刊)では、他の多くの参考文献と同様「古城」としており、これにより本項の山城名も改めるべきかどうか迷ったが、他の山城址との区別を明瞭とするための便宜上、本項ではあえて「古城」の前に所在地名を付した「川田古城」のままで当面紹介しておくこととした次第。もっとも今後、状況により考えが変わったら修正したいと思う。)
 次に山名については、『信州の城と古戦場』は「城山」としているが、『長野縣町村誌 北信篇』中「川田村」の「地勢」の項には、「東に小出山を負ひ、南に大星山十二山、
古城山を負ひ、西に千曲川を繞らし…」とあり、また同じく「古跡」の項にも「村の西南方字古城山の嶺にあり。」と記している。そして『長野市誌』も同じく「古城山」としているので、ここは「古城山」の呼称をもって紹介するのが無難な線であろう。ただ、問題はこれをどう読むべきかであって、これについては前記の『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』や『定本 北信濃の城』では、「古城」の古に「ふる」とルビを付しているが、『長野市誌』第8巻旧市町村史編の「第18章 川田」の城館跡の項を見ると「古城山」の古城に「こじょう」とルビを付していて、これまた一定していなかったため、本項では当初、『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』等のルビを尊重して訓読みで統一し「ふるしろやま」として紹介した。しかし、その後発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』を参照したところ、「ふるじょうやま」としていたことから、それを機に本項においても「ふるじょうやま」に改めたところである。(注:少なくとも筆者の手元の参考文献上、「古城」の「城」のルビとしては「じょう」としているものしか存在しないこと、また前記の宮坂氏の著書の凡例によれば、城館名の読み方について、文献や聞き取り調査でも判明しないものには読み方を付さない旨、明言していることから、現時点では同書の情報が最も信憑性が高いのではないかと考えたことによる。なお、筆者自身も引き続き調査し、この点、確信を得たいと思っている。)
 さて、この山に登るには、すぐ北西山麓にある大室温泉「まきばの湯」から山稜をたどるのが判り易い。標高的には平凡で、往復に要する時間もさほどではないので、「まきばの湯」の駐車場の片隅にちょっと車を置かせてもらい、登った後で一風呂浴びていくという算段で行けばよいだろう。「まきばの湯」のすぐ脇からは、さらに車も通れるほど広い山林作業道のような道が上に向けて上がっているが、一般車両進入禁止なので、そこからは徒歩で長野市街地の俯瞰を楽しみつつ登っていく。しばし上がると、そのうち広い道はやや平坦な山稜上に出て、じきに右に巻き気味に続いていくが、そのまま行くと古城山頂上への山稜から外れてしまいそうなので、そのあたりで広い道から離れて左手の山稜に上がり、そこに細く続いている踏跡をたどる。と、やがて山城址らしく明瞭な空堀の遺構をいくつか経て、最後は切岸のような急斜面を登り切って、小広い平地に出る。そこには「No.15 基本 菱形基線測点 建設省国土地理院」と刻まれたプレートのある標柱が丈の低い笹の中にひっそりと埋設されている。菱形基線(りょうけいきせん)測点とは、一定期間おきに4つの測点間の距離を精密に測量し、その変化で地殻の動きを把握するため設置されたもので、地震の予知等を狙いとしたものだそうだが、このあたりは有名な松代群発地震の震源地一帯に含まれるので、あるいはそれとの関連ある遺物なのかも知れない。ともあれそこは件の標柱以外、例によって筆者の訪問時点では標識一つなく、周囲も樹林で展望不良の地味な場所だが、『長野市誌』第12巻資料編の踏査図によれば、どうもそこが主郭址のようだ。したがって「山城址」としては一応そこが頂点となろうが、しかし三角点のある「山」としての頂上は、厳密にはさらに主郭址の背後のきわめて深い堀切を乗り越えた先にある。もっとも、そこまで行っても展望不良は相変わらずで、筆者の訪問時点ではただ三角点標石が埋設されていたのみ。
 以上、「まきばの湯」から頂上までの往復所要時間は1時間少々みておけばよかろう。そして帰りにはもちろん「まきばの湯」で一風呂浴びていきたいもの。ただ、そこは近隣の入浴客で大いに賑わっており、つい先刻までの山中の静けさがまるで嘘のように感じられることだろう。

 ← 夕刻迫る長野市街地俯瞰(夕陽に光る千曲川/古城山中腹より)

【緯度】363548 【経度】1381352
(松代町大室集落のすぐ東、上信越自動車道の上の544.1m三角点峰です。)