堂城山(どうじょうやま/堂城山城址)
 〜郷土の歴史探訪としては興味深いエリア〜標高461m〜
 千曲市にある、中世の山城址(堂城山城址)の山。冠着山(姨捨山)の北に位置し、薬師堂で有名な「明徳寺」(注:ここもまた中世の館址であるといい、堂城山城はその「詰の城」であるとのこと。なお「堂城」は、麓の寺の修行の「道場」にも通じるように思われる。)の裏手の小峰「堂城山」の上にある、ごく小規模な山城址である。
 この城址に関しては、『長野縣町村誌 北信篇』の「羽尾村」の「古跡」の項中「堂城」を見ると、「村の亥の方堂城山の嶺上にあり。一平地にして東西六間、南北七間あり。東へ二間下りて一段あり、東西十間、南北八間。明治五年土を穿ちて一瓶を出す。又中に瓶あり、唐錢卅錢、唐鏡三面、小石一ツあり。又大刀の折六寸許小太刀の折及び小瓶二つ出たり。」と紹介されているが、往時の事跡や城主等の伝承に関する記述はひとつもない。そのせいなのかどうか、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』には「明徳寺館」の記載はあるが、なぜか堂城山城址については記載がない。後に発刊された郷土出版社刊『定本 北信濃の城』や『探訪 信州の古城』には、堂城山城址についての記述はあるものの、こと伝承に関しては『長野縣町村誌』の内容を超える記事はほとんどないというのが実情である。ただ、両書によれば、ここは南北朝時代までさかのぼる古い山城址であるとのこと。確かに、現地の地形や簡略な構築を見る限り、甲越両軍による一連の川中島の合戦の頃には、おそらく軍事上何の役にも立たなかったろう。
 さて、この山城址への登り口については、筆者の場合、現地に訪れてみたがどうもよく判らず、やむなく西麓の送電線鉄塔のあるあたりから上がってみたが、上部では熊笹の薮漕ぎとなり、低山の割には存外衣服を汚すハメになった。それでもさほど比高のない低山なので、ほんの30分ほどで登れるには登れたが、後で調べたら、南東山麓の「瘡守稲荷神社」(注:疾病平癒に御利益があるという素朴な神社)あたりから登路があるようだ。頂上の周囲は樹木に囲まれ展望は得られないが、その代わり、一帯には確かに『長野縣町村誌』の記述通りの郭の遺構が見られる。なお、筆者の訪問時には、最高点の石祠がなぜか倒壊していた。(注:『定本 北信濃の城』に、倒壊前の情景写真が掲載されている。)
 以上、「山」としては少なからず物足りない地ではあるが、前述の「明徳寺」や「瘡守稲荷神社」等とセットで訪れれば、郷土の歴史探訪としては大変興味深いエリアといえ、里山ファンには十分楽しめるのではないかと思う。

 ← 中世の館址であるという「明徳寺」(背景は堂城山)

【緯度】362954 【経度】1380635