宮平の城山(みやだいらのじょうやま/新山城址)
 〜地元の人も知らない地味な山城址〜標高720m〜
 長野市信更町にある、戦国時代の山城址(新山城址)の山。
 この城址、『長野縣町村誌 北信篇』中「山平林村」の「古跡」の項には記載があるにもかかわらず、長野県内の山城址探訪のバイブル的存在である長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』にはなぜか未収録という特異な存在の山城址で、『長野市誌』第12巻資料編の「第3編 城館跡・条里」の一覧表中に「新山城跡」の項にも「宮平集落南方の尾根にある。尾根頂部には堀切を画して土塁をともなう曲輪が並列する。尾根頂部から一段下がった北斜面に曲輪が配置する。」と、必要最低限の記事しかない。当然、地元でもそこが山城址であることを知る者は少ないらしく、実際、私が同城址の直下の「宮平」集落で地元の人に尋ねてみた際も、その方は近くの「須立城」は知っていたが、「新山城」はまるで知らないようだった。
 そんな、情報量僅少の山城址ゆえ、参考までに『長野縣町村誌』にある同城の記事を引用すると、「村の東の方山上にあり、東西二町十七間、南北二十五間、東北嶮峻にして、高さ一町許なり、平林氏これを築くと云ふ。築城年月及び事跡詳かならず。慶長三年同氏奥州へ移るの際これを毀つ。」とのこと。ちなみに同書によれば、この地域は往時、村上氏幕下の平林氏が領していたが、村上義清が甲斐の武田信玄との戦に敗れて越後に走った後、当時の領主平林蔵人正恒は武田氏に降ったとある。然るに南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)の上尾城跡の項を参照すると、布施の領主平林氏は「村上氏に従い、越後入りしたか。」とあり… どっちが本当なのか、素人の私にはよく判断し難い。
 いずれにせよ、そんな地味な山城址ゆえ、当然登り口も定かならず、結局は適当に登り易そうな所から見当をつけて行くしかないが、筆者は城址の直下(東)に通じている車道から、公共のテレビアンテナらしい無線施設に通じる小道をたどり、後は山城址らしく攻めるに難い急傾斜を登り切って頂上に達した。その場合、登り口からの所要時間は20〜30分ほど。頂上付近には石祠がみられたほか、特に標識などは見当たらなかったが、周辺の郭や空堀などの遺構はかなり顕著で、ここを地元の人が知らないのが少なからず意外に思われるほど。アプローチは「川中嶋カントリークラブ」から北へ、「十二」集落経由で車道をたどるのが最も判り易かろう。カントリークラブの入口から2kmほど進んだところで右に分かれる道に入ると、すぐ目に入る眼前の小峰がそれ。無線施設への道はすぐに見出される。
 なお、この山、この種の地味な山の多くの例のごとく、特に「山」としては地元呼称がない模様であるため、ここでは当面地名から「宮平の城山」と仮称紹介しておくことにした次第。無論、今後別の呼称等が判明した場合には、随時修正したい。(注:「新山」という地名が本文記述時点で文献上等から確認できないため、当面確認できる直近の地名である「宮平」によっていることを御了承願いたい。)

 ← 新山城址の峰を望む(宮平集落寄りの車道より)

【緯度】363530 【経度】1380456
(宮平集落のすぐ南東にある標高720m等高線の峰が、本項で紹介する新山城址です。)