上ノ山(うえのやま/上ノ山城址)
 〜今は秋葉神社が祀られ地元の人々の憩いの場〜標高919m〜
 塩尻市高出の交差点から、伊那谷方面へと向かう道に車を走らせていくあたりで、前面にちょっと気になる小山が目につく。それが「上ノ山」。付近がちょうど松本、木曽、伊那、諏訪の各方面への分岐点にあたる交通の要衝に位置していることから、中世、ここに山城(上ノ山城)が設けられたのは至極当然であろう。
 現在、頂上から東に派生する稜線上の峰にある上ノ山城本郭址は「上ノ山展望広場」として地元の人々の憩いの場となっており、一角には地元の人々によって祀られた秋葉神社の祠や、またTVの中継施設も設けられ、新旧入り混じって一風変わった雰囲気を醸し出しているが、注意して見れば空堀や土塁など、山城当時の遺構も結構顕著に見出すことができる。筆者訪問時には秋葉神社の祠の脇に、地元でこしらえた手書きの案内看板が取り付けられていた。以下、参考までにその内容をそのまま引用紹介してみよう。(注:極力原文のまま/引用文中「■」は判読できなかった文字を示す。)
 「址蹟上野山城
 時はちょうど戦国時代に入ろうとする宝徳年間(西暦一四五〇年)頃おりから物情騒然としていた時代松本の小笠原長持は、交通上、兵備上の重要地点である塩尻の地を諏訪勢と伊那勢から守るため西条城を築いて次男宗則を城主とした。この上野山城は嵐城(中西条)、飯綱城(上西条)と共に西条城の支城と推定される 前後に三重の壕、本丸、二の丸等の址が認められる 東西四十二間南北十八間の広さをもち東西傾斜面に無数の平■址が見られる 城主の館は現在の西福寺の場所にあったものと推定される
 廃城後は西条の里人此所に秋葉神社を祀り毎年九月十五日を以って例祭と定め下西条区民の祭典を執り行い郷土の鎮火・繁栄を祈願してきた。
 昭和五拾壱年下西条区建之」
 もっとも、この城址の来歴に関し、『長野縣町村誌 南信篇』の「鹽尻村」の「古跡」の項中「下西條上ノ山城址」には「東西四十二間、南北十八間、本村より未の方下西條洞山にあり。南北二重の堀切あり、今此平地に小祠あり、安曇筑摩を一目するの要害たり、何人の居住せしや不知。」としかない。上に紹介した現地看板の記述の出典は寡聞にして私は現時点で知り得ていないが、しかしこの城の位置的に、案内看板の記述の通り、往時は小笠原氏の防衛拠点の一つとして築かれたと見るのが最も適当であろう。
 この山に訪れるには、とにかく南寄りの山麓へ車を走らせ、尾根の末端部あたりを探索すれば、難なく登り口を見出せる。筆者訪問時には「上ノ山展望広場登り口」の標柱が設けられており、すぐに判った。ただ付近は駐車スペースに乏しいので、地元の人の迷惑にならないよう留意が必要。そこから存外明るい尾根通しの道を登れば、ほどなく傾斜が緩み、じき車道に合流する。(注:この車道を使えば、実のところ上ノ山城址までは車で上がれてしまう。) 付近に不動明王の石像などが祀られている場所があり、その脇には素人目にも判る深い空堀の遺構がある。本郭址はそのすぐ先にあり、鳥居をくぐって登頂すると、そこに前述の通り、秋葉神社の祠が祀られている。ここまで登り口から、ほんの20〜30分程度。本郭址では主として東側に展望が開け、周辺には低い土塁の遺構が結構顕著にみられて興味深い。
 さて、「山城址」としての上ノ山は、この本郭址が中心なので、歴史巡りファンとか特に最高点にこだわらない向きには、ここで引き返してもよかろうが、「山」としての上ノ山頂上にこだわるのであれば、さらに西へ今しばらく山稜を登りつめてみよう。さすがにこちらはあまり人が訪れないとみえ、最初のうちは茨の棘が若干鬱陶しい上、頂上直下では存外の急登となるが、それでも20〜30分ほども登れば、平坦で広い頂上の一角に飛び出ることができる。もっともそこは周囲を樹林に覆われ展望不良、また筆者訪問時には頂上を示す標識も見当たらず、ただ三角点標石だけが出迎えてくれたのみという地味な場所であった。
 なお、時間があれば、北側山麓にある「西福寺」に訪れてみるのもよいだろう。そこは往時、平時居住用の館が設けられていたところだというが、詳細は定かでないようだ。

 ← 上ノ山を望む(山麓の中西条付近より)

【緯度】360606 【経度】1375740
(「西福寺」のすぐ南東にある神社の峰が上ノ山城址、その西の三角点峰が上ノ山頂上です。)