大姥山(おおばやま/左右前山城址)
 〜山姥伝説と姨捨伝説が共に存在〜標高1,006m〜
 信州新町の南西、左右(そう)の集落の裏山的な山。その、いわくあり気な山名の由来は、北信エリアの虫倉山に見られるような山姥伝説によるものらしく、左右と反対側の八坂村側では、山姥に育てられたという「金太郎」の伝説にちなむ「金時山」という別称も存在する。さらにまた、ものの本によれば、この山、やはり北信エリアの冠着山と同様、姨捨伝説の山だともいい… それら伝説の下地により、最終的に「大姥山」という、そのものずばりの山名が形成されたのだろう。
 この山、北の信州新町側からも、南の旧八坂村(現:大町市)側からも登れるが、筆者は信州新町側から登った。左右高原の「信州新町青少年旅行村」あたりから、適当に踏み跡を拾って登り出す。稜線上に出たら、左へ行くとNHKの無線設備のあるピークで、右へ行くと三角点。折角だから両方訪れるとよい。通常は前者が大姥山の頂上とみなされているようだが、後者の方が標高的には高い。もっともこちらは樹林に覆われて展望はないが、実はこの峰、「左右前山城」という中世の山城の址であるとのこと。然るにこの城址に関し『長野縣町村誌 南信篇』の「八坂村」の「古跡」の項には「前山城址」として掲載されているものの、その歴史等については「山の頂上に僅なる平地の有るのみにして、何某の城又何某の住せしと云こと知れず。唯城跡なりと申傳ふのみ。」とあるだけである。そのせいなのかどうか、長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』にはなぜか城名すら掲載されておらず、つい最近まで筆者の手元の参考文献中には、わずかに南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)中に「雷電城の出城か」としている記事、及び新人物往来社刊『日本城郭大系 8 長野・山梨』中にはより具体的に「仁科氏の臣小菅五郎兵衛の要害と伝えられる」(注:雷電城と同様)としている記事が見出された程度であった。その後、2013年に発刊された宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』(戎光祥出版刊)により、ようやくしっかりした現地遺構の実測調査図が紹介されたが、歴史の方に関しては「左右の殿屋敷に居館を持った土豪の砦」としているのみであり… 要するにこれまでのところ、この城に関する歴史について、はっきりしたことは不明というのが現状のようだ。
 なお、南の旧八坂村側からの道は、信州新町側とは対照的に険しい道で、洞窟などもあると聞くが、筆者はまだそちらからは訪問の機会を得ていない。近日、訪れてみようと思っている。

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【緯度】363105 【経度】1375600