平倉山(ひらくらやま/平倉城址)
 〜武田の猛攻に半年持ち堪えた山城址〜標高823m〜
 小谷村の国道148号「外沢トンネル」の南入口のすぐ東に位置する、戦国時代の山城(平倉城/小谷城ともいう)の址の山。近在の多くの山々がそうであるごとく、この山もまた急峻な山容をなし、いかにも山城にはもってこいの要害の地という感じを受けるが、実際、弘治3年(1557年)、一夜山(後掲)の飯森城主であった飯森春盛が、かの甲斐の武田氏の武将山県昌景の大軍を向こうにまわして籠城奮戦し、半年も持ちこたえたという事実は、この山の天然の要害ぶりを如実に表しているといえよう。が… 最終的には御多聞にもれず、武田の侵攻を受けた他の信州の多くの城の運命と同様、この城もまた同年7月に衆寡敵せず落城し、飯森春盛は討死、一族郎党の男は山麓の「切った屋敷」といわれているあたりで全員斬られたと伝えられている。しかも落城時、上杉の援軍は今一歩の所まで来ていたといい… 城兵の無念や推して知るべしであろう。
 そのような悲惨な歴史を残す山だけに、登るに際しては、やはり相応の心構えをした上で訪れるべきと考える。この山の登り口は国道148号から小谷温泉への道に入り、白岩集落から左に折れて少し行った黒倉集落付近にあるが、白岩の分岐の脇に案内看板があるので、参照してから行くとよい。登り口には標柱があり、まず迷うことはあるまい。付近に駐車して歩き出すと、すぐ「平倉神社」があるが、これは元々は山上の城址にあったものを、管理の都合上下ろして祀ったものだとか。道はそこから左にわずか下って木橋を渡り、後は適当に標識に導かれながら歩を進める。「秋葉様」の素朴な石祠などを見ながら行くと、やがて頂上直下の城址へ。比較的広い郭のすぐ上に、元の「平倉神社」の朽ちかけた社殿があり、頂上へはその裏手を登る。険しい堀切の縁を伝い登り切ると、南北に細長く樹林に囲まれた痩せ尾根の上の頂上に達する。「上杉の援軍」なる解説板が置かれているが、特に頂上を示す標識はない。登り口から頂上までは休憩込みでも1時間半程度みておけばよかろう。

 ← 霧の平倉山頂上(「上杉の援軍」なる案内板のみあり、山頂標識なし)

【緯度】364916 【経度】1375439