山行記録帳(2018)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2018,@〜


 【山行・自然観察リスト】
 2018年最初の山〜皆神山 徳川家康公を祀る〜久能山(東照宮)
 パワースポット〜奥秩父の三峯山 一寸した「登山」気分〜金洞山中腹の中之嶽神社
 午後の散策で一汗〜戸隠神社奥社 これまた立派な「山」〜新潟市の日和山
 「ブランド薬師」の異名〜薬山(八櫛神社) ツツジが満開〜尾引城(横尾城)址
 石積遺構に見応えあり〜松尾古城址 縦走路の下りから大苦戦〜四阿山と根子岳
 短時間でも充実感大〜秩父長瀞の宝登山 知る人ぞ知る里山歩き〜愛宕社と剣石稲荷社
 雨天前の訪問〜四阿山中腹の「西花童子」 梅雨の中休みに存外な汗〜小菅神社奥宮


 2018年最初の山〜皆神山
 1/1、毎年元旦恒例の「皆神山」に訪問。
 この山については、もう毎年、色々と書いているので、今更あれこれと新たに付け加えることもないのだが、ただ今回の訪問で初めて知ったのは、この山、どうも今年あたりが「開山」1,300年という大きい節目の年にあたっているらしいということであった。
 もっとも、だからといって特別何かの催しをするというでもなく、今年もまた、ごく普通に例年どおりの新年を迎えているというあたりが、私にはむしろ好感が持てるところ。神道には「中今」という言葉があるが、正にその「中今」といったたたずまい… 私も最近は多忙と年齢ゆえか、もうあまり以前のように、何か義務感にとらわれたように「山」を追い求める気持ちはなくなってきているが、そんな日常もまた、この「中今」という言葉に照らして考えてみた場合、果たしてどうなのだろう…? などと、妙なことを考えさせられる機会ではあった。






 徳川家康公を祀る〜久能山(東照宮)
 2/4、たまたま所用で静岡県に行ったついでに、これまで名前だけは知りながら、なかなか訪れる機会のなかった「久能山」に立ち寄っていくことにする。この山、かの有名な江戸幕府の創始者・徳川家康公が薨去した後、遺言に従い最初に埋葬されたという地で、頂上部には「久能山東照宮」が鎮座する。しかもこの「東照宮」の建造物は国宝指定とかで、一度は参考のために見ておきたかったところ。
 で… 静岡市内から、登り口あたりに車を走らせたところ、折しも周辺は、これまた有名な「石垣イチゴ」の盛りで、イチゴ狩りやら駐車場やらの「客引き」で騒然としており、私はその光景を見ただけで、当初想定していた、正面の石段から登る気が一瞬にして失せた。やむなく、隣接する「日本平」から、高い金を払ってロープウェーで訪れる手段に変更したが… いざフタをあけてみれば、実のところ、そうしておいて正解だったことが後になってわかった。
 ロープウェーもまた行列ができていたが、それでも下の喧噪さよりは多少マシだった。東照宮の入り口では、これまた安くない拝観料を支払う必要があったが、門をくぐって段差の大きい石段を上がり、ひと汗かいて目指す社殿の前に達したときには、その豪華絢爛さに驚嘆させられ… まあこれは、支出に見合うだけの見応えあるものだと納得。さすがに規模や豪華さにおいて、日光東照宮ほどではないにしても、さすがは「天下人」を祀るだけのことはある。
 本殿に参拝後、さらに奥の、最初の家康公埋葬地という石塔まで訪れた後、帰途についたが… それにしても、段差の大きい石段ばかりは閉口した次第。いくら「天下人」でも、石段の段差まで大きくする必要もなかろうに… お陰で季節ゆえの寒気に加え、最近の運動不足と正月に増えた体重ゆえか、下りで足がつるハメとなり…(!) はからずも下から長い石段を登らなくてよかったと思った次第。







 パワースポット〜奥秩父の三峯山
 年が変わっても、多忙な日々は相変わらずで、なかなか「山」の時間が取れず、はや2月も下旬に入ってしまったが、こういう時は、とどのつまり可能な機会をとらえて、可能な時間内に行って来れそうな場所を探すより他にない。2/24に訪れた埼玉県奥秩父の「三峯山」は、正にそんな状況で、にわかに行き先に選定したもの。
 もっとも、この山、全く念頭になかったというわけでもなく… たまたま数年前、以前私が本サイトに掲載した、武甲山で山犬(?)の声を聴いたという記事がきっかけで知った「ニホンオオカミを探す会」代表の八木博氏が、この三峯山の博物館で客員研究員をされているとかで、もし機会があれば、訪れてみたいと思っていたところ。実際、八木氏にも「訪れる際には是非連絡を」と言われていたのだが… 今回、にわかに思いついた訪問とて、肝心の八木氏への連絡先電話番号も持ち合わせてなく、あるいは博物館に行けば逢えるのではと、ぶっつけ本番で訪れてみたら、大鳥居脇の博物館は何と休館中(!) 実に残念ではあったが、仕方がないので、今回は三峯神社の参拝のみに専念することに。
 参道を行くみちみち、何度も現れる狛犬が、いずれも山犬(狼)の姿をしているのが、いかにもこの地方の神社らしい。随身門をくぐり、少し歩いて達した本殿前には参拝客の行列ができていて、これまたいかにも首都圏に近い有名なパワースポットらしい。やむなく私も行列の後について並び、少々待ちくたびれたころに、ようやく参拝を果たしたが、あまりの混雑ぶりに、あえて長居する気にもならず、後は遙拝所から奥宮の岩峰を望んだのみにて帰途についた。







 一寸した「登山」気分〜金洞山中腹の中之嶽神社
 いくら「山」といえど、楽しめる山と、必ずしもそうでない山がある。私にとって「表妙義」は、実に「楽しめない」方のそれで… 以前(平成5年11月7日)、「相馬岳」「天狗岳」に、比較的安全な「タルワキ沢」上部から訪れたが、そのルートを採ってさえ、私にはスリル満点過ぎて、命が何年も縮んだのではないかと思われるくらい怖かった。今より身が軽い当時でさえ、そうだったから、言うまでもなく今など到底登れはしない。大体二度と登るつもりもないが… そうはいっても、時折この山の近くを通りかかって、特徴ある岩峰を眺めていると、上に登らないまでも、せめて近付いてみたいような気にはなることもある。
 3/4、私が、妙義連峰の一角、金洞山あたりの中腹に鎮座する「中之嶽神社」に参拝してみようと思ったのも、多少そんな気分があったからに他ならないのだが、実はそれ以上に訪問のきっかけとなった、とんだ「事件」があったので… というのは、折しも私の車が、この神社からほど近い、横川あたりの国道18号線でエンジントラブルで廃車となってしまい(!)、結果、その後始末に再度この近所に訪れる必要があったところ、折角だから、すぐ近くにあるこの神社に参拝して、せめて気分だけでも「お祓い」をしようなどと思ったことであった。
 この神社、一般には「金洞山鎮座」で通るが、昭文社の地形図で見ると、厳密には金洞山よりやや東にある中之岳の中腹、有名な妙義山の石門にもほど近い「轟岩」の基部にあたっている。そんな地だけに、私は以前からその名だけは知っていたものの、これまでなかなか訪れる機会がなく、今回が初めての訪問となった。駐車場から、妙義山の猛烈な岩峰を眺めながら鳥居をくぐると、すぐに金ピカの大国様の像に圧倒される。実はこの地、「中之嶽神社」の他に、大国主神を祀る「甲子大国神社」も鎮座しており、大国様の像はこれに由来するものだが、現地案内によると「日本一」とのこと。感嘆しつつ参道を進むと、ほどなく右に「中之嶽神社」への参拝路が分かれる。頭上の「轟岩」を仰ぎながら結構長い石段を登り切り、息を弾ませて「中之嶽神社」の前に出ると、そこは断崖絶壁の直下で、最早紛う方なき妙義連峰の山懐だ。その雰囲気たるや、ピークに立たないまでも一寸した「登山」気分、お陰で、先の廃車の災難で悶々としていた私の気分が、大分晴れたことは言うまでもない。
 なお蛇足ながら、帰宅後に、廃車になった愛車に長いこと載せていた各地の寺社の交通安全御守をクリーニングしている際、一つの御守がプラスチックの劣化のためか、パキッと音を立てて割れてしまった。しまった、力を入れすぎたかと残念に思いながら見ると… その御守、何と「妙義神社」のものだった。「妙義神社」は「中之嶽神社」にほど近く、件の御守は前述の「表妙義」訪問時に購入したものだったのだが、実は私、その「妙義神社」に今年1月27日に再訪したばかりであった(!)。さらに、今回私が「お祓い」と称して訪れた場所が、これまた同じ妙義山中の「中之嶽神社」という絶妙の巡り合わせ。たとえ偶然にしろ、私は少なからず驚くと共に、あるいはこの御守が「身代り」となってくれたから、我が愛車も大事故にならず、ただ静かに動かなくなるだけで済んだのかも知れない、などと思ってしまった次第であった。







 午後の散策で一汗〜戸隠神社奥社
 今年もはや5月連休の序盤に。世では「ゴールデンウィーク」などと騒いでいるが、私はこの時期は、少なくとも有名な観光地の類はどこへ出掛けても大混雑ゆえ、例年、あまり遠出はせず、比較的近所を訪れることにしている。
 4/28は、たまたま午前中が所用でつぶれたが、午後は時間が空いたので… にわかに思いついたのが、我が家のある長野市街地からも、比較的手軽に訪れられる、戸隠神社の奥社。この地、何年前だったか、某女優が出演したTVCMが話題となり、人気の「パワースポット」として渋滞すら引き起こす大混雑ぶりを来していたが、さすがにもうそろそろ、ほとぼりが冷めた頃だろうと思い、どんな様子か見てきてみようというわけ。
 で… 行ってみたら、何と駐車場は有料化されているわ、新しい施設もできているわ、人も相変わらず多いわで、以前の雰囲気とは余りに変貌しているのに驚いたが、それでも折角来たのだからと、入口の大鳥居をくぐって歩き出すと、時折路傍に目につくカタクリの花などは以前と変わらず美しく、多少安心した次第。ともあれ、別にピークに立つわけでもない「山」の割には、結構充実した一時を楽しめた。
 随身門をくぐり、鬱蒼とした杉並木をしばし、最後の坂道では予想以上に汗をかいて、ようやく目指す奥社の前に達した。その社殿は、岩窟に接して建てられているせいか、参拝時に打ち鳴らした柏手の音に神々しいエコーがかかり、美しく社殿内に反響したのが大変印象的だった。







 これまた立派な「山」〜新潟市の日和山
 5/4、連休後半のこの日は、「プチ観光」のつもりで久々に新潟市までドライブに訪れ、適当にあちらこちらと回っているうち、たまたま入手した観光チラシの類から「日和山」なる「山」の情報を入手し、参考までに訪れてみた。
 この山、私のような外部者から見ると、「山」というよりは「住吉神社」と言った方が余程適当と思うが… いざ現地に行ってみると、しっかり「山」として標識まで建てられている。特に驚くべきは、その標高で、標識によれば何と12.3メートル(!)。決してケタの誤りにあらず。しかも登り口から「頂上」までの所要時間は1分もかからないにもかかわらず、「5合目」(喫茶店あり)まであるという念の入りよう。
 最初は冗談半分かとも思ったが、現地案内板やパンフレットを見ると、実はこの地、かつては新潟で最も高い場所で、ここで水先案内をしていた歴史を有するとのこと。そもそも現在「山頂」にある住吉神社(海上の神)は、水先案内人であった伊藤仁太郎が自宅の守護神を勧請したのが始まりなのだそうで、付近には明治24年に奉納されたという方角石などもある。
 私はこれらの事実を知って、大いに驚くとともに、ここが「山」として扱われている理由に、自分なりに得心がいった。今も昔も海に近く「港町」である新潟の人々にとって、古くから船の安全を守る水先案内をしていたこの地は、私のように海なし県に育った人間には想像もつかないくらい、大切で神聖な場所なのだろう。
 ともあれ、私は、今更ながら「山高きが故に貴からず」と認識を新たにした次第。世の中には本当に様々な「山」があるものだ。






 「ブランド薬師」の異名〜薬山(八櫛神社)
 5/6、連休もはや終わりという日。天候も良好ゆえ、私は、ちょっと「山」の気分を味わってみようと家を出た。
 まず足を向けたのは、長野市「浅川ダム」近くにある「薬山」。この山、山腹の岩場に張り出すように危うい様子で建てられている「ブランド薬師」(八櫛神社)で有名だが、身近にありすぎて案外訪れる機会がなく、最後に訪れたのが2005年の6月下旬なので、それ以来、実に十数年ぶりの訪問だ。もっともこのあたりでは、つい最近まで、何かと話題になった「浅川ダム」工事が数年にわたって続いており、どうも「山」として訪れるような雰囲気ではなかったのではあったが…
 その工事にも、やっと区切りがつき、また近辺には以前のような静けさが戻った感がある。鳥居をくぐり、急な石段から始まる参道の様子も、以前の訪問時とはあまり変わりはなかった。ただ、強いて言えば、参道に一定区間ごとに安置されている石仏の数が、どうも以前より1体、少ないような気がしたのだが…? 気のせいだろうか?
 それはともあれ、例の「ブランド薬師」(八櫛神社)で感じられるスリルは、私のような体重のある者にとっては相変わらずで、どうも社殿内では足下が抜けそうで落ち着かず… 心ならずも長居は無用。簡単に参拝だけ済ませて、下山。
 なお、下った後、付近の路傍で、キツネを何と2度も目撃。いずれも車中からで、写真撮影の暇もなかったが、ダム工事が終わって間もないのに、はや野生動物が身近に現れるとは、このあたり、想像以上に自然は豊からしい。







 ツツジが満開〜尾引城(横尾城)址
 先の薬山に訪問後、登り口近くの駐車場所に戻った時点で、時刻はまだ正午前、まだ十分時間がある。そこで、折角の貴重な時間でもあり、できるだけ有効活用をと、近年の私の山歩きのテーマの一つ(自然観察と並ぶ)である「戦国時代の山城址」のうち、まだ訪れていない場所、ということで、にわかに検討の上、旧真田町(現上田市)の「尾引城址(横尾城址)」に訪れてみることに。
 で、早速現地に行ってみると、登り口には立派な案内看板が建っていたが、付近に駐車場らしいスペースがなかったので、他車の邪魔にならないよう慎重に道の脇に寄せて駐車。下車して案内看板を見ると、「尾引城は横尾城または三日城とも呼ばれ、宝永年間(1704〜10)の『信濃國絵図』には横尾采女正の城跡と記されている。横尾氏は、応永七年(1400)の大塔合戦に実田(真田)氏、曲尾氏とともに参戦したと『大塔物語』に記されている人物である。」とある。また、「城の特徴は、連続する腰郭が築かれていることである。本郭南面の斜面に小さな折れが連続する城道を設け、その左右に帯状の削平地を交互に設けている。このような遺構は真田地域の山城では本遺構のみである。」ともある。私はこれを一読して、ここを身近に、かつ意外に感じた。「身近」とは、私の住む長野市にも、大塔合戦に参加した地元豪族が複数いたといわれているところから、また「意外」とは、私は当初、単純にここを真田氏の支城程度に考えていたが、他に類似の遺構が周辺にないとなれば、単純に真田系の城と割り切れないというだけでなく「謎の城郭」ということにもなるように思われたことである。全く、歴史とは奥が深い。
 ともあれ、軽く屈伸運動をして登り出す。もっとも、道は歩きやすく、また長くも急でもなく、ほどなく段郭の遺構が現れると、美しい満開のツツジを見て気分爽快。石鳥居をくぐって最後の段を上がり、本郭址へ。「秋葉社」の祠が、吹き抜けの拝殿の奥に素朴に祀られている、静かで落ち着いた場所。周囲も比較的明るく、吹き抜ける微風が心地好かった。







 石積遺構に見応えあり〜松尾古城址
 5/12、思い立ち、旧真田町(現上田市)にある「松尾古城址」に訪問。
 訪問の動機は、たまたま前週に同じ真田町にある「尾引城址」に訪れたのがきっかけで、これまで気になりながら、なかなか訪れる機会のなかった「松尾古城址」にも訪れてみたいと思ったことからであった。「古城」というのは、要するに「新城」より前からある城という意味で… 「新城」とは今の「真田本城址」のことをさす。そして私はこれまで「新城」の方には何度か訪れたことがあったが、「古城」の方には訪れたことがなく、ずっと胸にひっかかっていたので、この際、そんなもやもやした気分を一気に払拭してしまおう、というわけ。
 この城址への登り口は、真田氏の初期居館址という「日向畑遺跡」のすぐ脇。標識に導かれ、しばし山腹を左に巻き、ほどなく露岩がそこかしこに見られる尾根筋に出ると、そこから目指す城址までは、ほぼ一直線に登りつめるのみ。途中、秋葉社の祠を過ぎ、さらに登ると、ほどなく結構立派な石積の遺構が前途に現れ、思わずはっとさせられる。「古城」という割に、なかなかしっかりした遺構だ。その石積の一角の、岩陰にふと目をやると、まるでこの城の主ででもあるかのように、悠然と身を休めているアオダイショウが目についた。まださほど太くなく、比較的若い個体と見受けたが、そのつぶらな瞳はなかなか凜々しく、思わず真田の若武者を連想させられてしまった。
 最後の急登を登り切り、本郭址へ。そこは背後に高く土塁が築かれた、よく松本地方で見る小笠原氏系の山城址に近い単純な造りだが、周囲はこんな山の中には、およそ不釣り合いな風格すらただよわせる石積が巡らされ、さすがは真田氏だと、歴史の重みを実感できるような場所だ。
 登り口からここまで、周囲は樹林に覆われ、展望的には今一つであったものの、それでも、これまでずっと気にかかっていた地に、ようやく訪問を果たすことができ、私には短時間ながら充実感を味わえた一時となった次第。







 縦走路の下りから大苦戦〜四阿山と根子岳
 私にとって「山」というのは、ちょっとした「きっかけ」が連鎖して、次に訪れたくなる場所が決まっていくことが、往々にしてある。今回、私が久々に「山」らしい山となる、菅平高原のシンボル「四阿山」と「根子岳」に訪れてみようと思ったのも、正にその類で… たまたま二週連続で上田市真田町の山城址の山に訪れているうち、否応なしに目についた、四阿山の特徴ある容姿に心を奪われたことや、また最近得た情報で、真田町にある延喜式内社「山家神社」の奥宮の祠が、四阿山の頂上に祀られているが、それが老朽化のため近々建て直されるということを知り、それなら折角だから、取り壊される前の祠に挨拶して来ようか、と思ったことなどからであった。
 そこで、5/26、次男と共に早朝自宅発、菅平牧場の管理事務所付近の駐車場から登行開始。ルートは中尾根伝いに、まず四阿山へ、次いで根子岳に縦走し、駐車場に戻る周回コースを採った。空模様は晴天ながら薄雲がかかり、さほど暑くもなければ寒くもない、絶好のコンディション。もっとも、このような長時間の山は久々なので、殊更にペースをセーブしながらノンビリ歩を進め、「小四阿」とか「中四阿」といった岩稜上から、浅間山近辺の山々や北アルプスなど、周囲の展望を楽しみつつ、それでも3時間半ほどの後には、目指す第一目標・四阿山の直下の木階段道まで達した。
 と… このあたりから、結構多くの登山者の集団と遭遇し始めたが、それらを見ていると、どうも背中に木材を背負っている人が複数いるではないか。私は、これは妙だ、まさか…? と思い、あわてて頂上に立ってみると、何と「山家神社」奥宮の祠は既に取り払われ、残っているのは土台のみ(!)。そして、例の運搬されていた木材とは、正にその建替用の材であった。何たる偶然… たまたま思いついての訪問が、よりによって建替のその日であったとは(!)
 あまりのことに、私は多少呆然としたが、気を取り直して、人混みを避けて上州側の岩稜上に腰を下ろした。私にとって2度目の登頂だが、前回が平成2年(1990)の7/14だから、ほぼ28年ぶりの訪問というわけだ。そう思うと、さすがに少なからず感慨深いものがある。
 さて、頂上でしばしの憩いの後、次なる目標の根子岳に向かうべく、腰を上げて行きかけたところ… 思いがけず声を掛けられたので、見ると、何とこれまた偶然にも知った顔(!)、真田町「山家神社」の押森宮司さん。まさか、ここでお目にかかるとは思ってもみなかったが、建替当日となれば、いらっしゃっても全然不思議ではない。聞くと、明日もここに来られるとのこと。また、本日限定の御朱印を授与してくれるとのことなので、折角だから後日改めて山家神社にお伺いして拝受することを約し、その場を辞した。
 と… ここまでは至極、順調に推移してきたのであるが… ここから先が、私にとって、とんでもない「試練」の始まりだった。根子岳への縦走路に入り、「大隙間」の鞍部に向けて下降する急傾斜面の下部で、ついに増えた体重と日頃の運動不足とがたたってか、突然、足に痛みが走り始めたのだ。したり、よりによって、こんな所で足がつるとは…(!)、さすがにヤバいと思ったが、もう遅い。しかも所もあろうに、現場は四阿山と根子岳との中間点近く。進むにしろ戻るにしろ、この場を脱するには登りは避けられない。やむなく適当なところで小休止を取りつつ、しばし善後策に頭を巡らせたが… とどのつまり、所期の目標どおり、根子岳を経由して駐車場所に戻るのが、最短で唯一の道であることは論を俟たない。結果、以後の進行は、少し進んでは、足がつって小休止、また進んでは小休止、の連続で… 11時半頃に四阿山頂上を発ったのに、どうにか根子岳の頂上に達した時には、既に14時半過ぎとなっており、当初予想の2倍以上の時間を要していた。そして根子岳頂上から、最後の下りに重い腰を上げたのが15時過ぎ。もっとも、ここからは傾斜も緩いし、先刻の四阿山からの下りみたいなことはないだろうと期待して下っていったが… 実際にはその緩い下りでさえ、一度つり始めた足のコンディションは元に戻らず… 以前ならノンストップで駐車場所まで下れたと思われる程度のところを、何と4〜5回の小休止を余儀なくされるという大苦戦。
 かくて、ようやく駐車場所に戻れた時には、既に17時半頃となっていたが、そこの自販機で衝動的に買って飲んだ清涼飲料水の、何と美味かったことか(!)。全くもって、日頃の怠惰の報いが身にしみた機会ではあったが、これまでの経験上、一度こういう派手な目に遭うと、それから当分の間は体力を維持できるものなので、折角のこの試練を無駄にしないよう、普段の運動に心掛けたいと思った次第であった。









 短時間でも充実感大〜秩父長瀞の宝登山
 6/2、たまたま所用で埼玉方面に訪れたついでに、道中から比較的近い「宝登山」に立ち寄っていく。
 この山、私は以前から存在だけは知っており、その面白い山名から、ずっと気にはかかっていたが、これまでなかなか訪れる機会もなく、また積極的にその名の由来を調べるでもなく、そもそもその名をどう読むのかさえも分からず(!)、時を経過してしまっていたが… 今回、現地で入手した「宝登山神社」のパンフレットによると、山名は「ほどさん」と読み、その名の由来は、昔、日本武尊がこの山に訪れて山火事に遇った際、この山に棲む山犬達が大挙して飛び出し、火を消し止めたことから「火止山」と呼ばれたのが始まりだとか。そういえば、私は前週、これまた日本武尊の話と関わりのある「四阿山」に訪れたばかりであり(嵐を鎮めるため海に投身した弟橘媛を偲び、尊が「吾妻はや」と嘆かれたのが、今の四阿山のあたりだという。)… 何やら奇妙な「縁」あるいは「巡り合わせ」を感じてしまった次第。
 この山、舟下りの客で賑わう埼玉県秩父郡長瀞にあり、さすがは有名な観光地だけあって、山麓からロープウェーが通じている。麓の「宝登山神社」から歩いても1時間弱とのことだったが、余剰時間での立ち寄りゆえ、今回は迷うことなくロープウェーを利用。眼下に走り去る野兎を眺める間もなく、わずか5分程度で頂上直下まで達し、そこからは、時季ならば美しそうなロウバイ園の中の道をたどることしばしで、標高497メートルの頂上着。三角点周辺は樹林の中で展望はないが、それでも結構大勢の登山客で賑わっているのには驚いた。やはり、首都圏に近い山の人気は、単に標高だけでは計れない。
 また、折角だから頂上近くの「宝登山神社奥宮」にも参拝したが、社前に立って両脇を見ると、このあたりの多くの神社と同様、ここもまた狛犬が山犬(狼)となっており… その彫刻の見事さに、しばし見惚れてしまった。
 下りでは、登りの際には気が付かなかったビューポイントがあり、そこからは間近に武甲山や両神山、さらに甲武信岳など奥秩父の山々などが望まれたのも嬉しかった。なお、この日はどういう加減か、あたり一帯にはテングチョウが大発生しており、下山後も車に連続して当たって落ちるほどだった。こんな情景は初めて見たが、数年前に大発生したマイマイガと同様、この蝶にも発生周期があるのだろうか?







 知る人ぞ知る里山歩き〜愛宕社と剣石稲荷社
 6/17、たまたま所用で上田市を訪れた際、若干時間に余裕があったので、少し旧真田町に寄り道し、軽い里山歩きを兼ねて、知る人ぞ知る幾つかの「神社」に訪れてみることにした。まずは「長谷寺」近くの峰上にある「愛宕社」、次いで、国道を隔てて反対側の急斜面に露出する奇岩「剣石(けんいわ)」の中腹に祀られている「剣石稲荷社」。
 これらは、最近、連続して旧真田町(現上田市)の山城址を訪れたりしている過程で、たまたまその存在を知り得たもので… いずれも近くにある「山家(やまが)神社」の宮司さんの兼務社であり、小さい祠ながら、ちゃんと祭祀も執り行われているのだ。実際、今回訪れてみた二つの社は、案内標識すらない細い道を登った所に鎮座する社の割には、意外なくらい手入れされ、活き活きとした雰囲気が発散されていた。このように、古くからの伝統が今もなお地元の人々によって大切にされ、継承されていることは、現代のような社会の下であればあるほど、大変貴重かつ嬉しいことだと感じずにはいられない。
 地元の人々の敬虔な心に敬意を表しつつ、これら二社に訪れた後、折角だからともう一社、剣石の近くにある「白山宮」にも参拝していくことに。この社は、元々は権現岩の岩陰にあったが、現地が崩れて参拝不能になったため、山麓に移転されたとのことだが、現地に訪れてみると、ここもまた周囲はきれいに手入れされており、またつい最近祭祀が行われたばかりと見え、祓いに用いられたと思われる榊の緑色の葉が目に鮮やかであった。







 雨天前の訪問〜四阿山中腹の「西花童子」
 先に四阿山への山行記録を記した際、ちょっとした「きっかけ」の連鎖により次の訪問先が決まるという話に言及したが、今ここに記す6/23の山歩きも、実はそんな「きっかけ」あるいは「出会い」がもたらしたものであった。
 というのは… 先の四阿山訪問がたまたま「山家神社」奥宮の建替日にあたっていて、知り合いの同神社の宮司さんに偶然にも頂上でお会いした縁で、その日に同山に訪れた者にのみ限定授与されるという御朱印を頂けることとなり、後日、上田市真田町にある「山家神社」を訪れて拝受したのであるが… その過程で、四阿山の中腹に「西花童子」(にしげどうじ)と呼ばれる同神社の「中宮」が祀られていることを知り(注:前回採った菅平牧場の管理事務所付近からの周回ルートは「中宮」を通過しない)、「西花童子」という変わった名にも心を惹かれ、折角だから、そこにも訪れてみたいと思ったことからであった。
 そこで、先の四阿山訪問から一月近く経った6/23、この日は天気予報で午後が雨天とのことであったが、その代り前回と違って涼しそうだし、時間的にも午前中一杯天気が保ちさえすれば、「中宮」までなら十分往復して来れるだろうと計算して、次男と共に早朝自宅発、8時半頃に林道終点のゲートから歩き始めた。
 しばし傾斜の緩い樹林の中の道を歩くと、ほどなく牧柵のある明るい一角に出たが、ここからは西方に白馬連峰や、鹿島槍ヶ岳を中心とする後立山連峰、さらには槍・穂高連峰など、北アルプスの連嶺が雲に隠れもせず雄大に見渡せた。間もなく雨天という割には、いやにすっきりした空ゆえ、これならあるいは今年二度目の四阿山登頂も… などと皮算用しつつ、さらに牧柵沿いに登り、やがて牧場から離れて、路傍にコケモモやベニバナイチヤクソウなどの可憐な花々を見つつ進むことしばしで、目指す「中宮」に到着。大岩の陰に祀られている、木造の小さい祠ながら、そこから発散されている風格には、さすがに長い歴史からくる「重み」を感じずにはいられない。
 もっとも、この日はやはりここまでが天候の限界で… そのうち辺りにぽつぽつと当たり始めた雨滴を気にしながら、駐車場所に戻ることを余儀なくされたが、幸い雨具を引っ張り出すまでには至らず、また涼しさゆえか、携行した水分もほとんど消費せずに終わり、前回の苦しさとはえらい違いだと半ば拍子抜けしつつ、帰途についた。







 梅雨の中休みに存外な汗〜小菅神社奥宮
 6/24、この日は前日の涼しさとはうって変わって、汗ばむほどの陽射し。梅雨の中休みの折角の好天、この機会を無駄にするのも惜しく、トレーニングを兼ねて、前日の四阿山「西花童子」(山家神社中宮)に引き続いての「霊山」、飯山市にある「小菅山」に訪れてみることに。
 この山、私は実は以前一度訪れたことがあったのだが、帰宅後に記録を調べてみると、前回の訪問は何と平成10年の5月であった。ということは、それからはや20年も経過していることになる。20年前といえば、まだ本サイトを開設するよりも前の話だ。それにしては前回訪問時の印象も妙にフレッシュなまま脳裡に刻み付けられていたのだが… 時の経過というものは実に不可思議で、かつ早いものだと、いささか空恐ろしい気分を味わうことになった次第。
 それはともかく、今日は長女が同行。神仏混淆時代の名残をとどめる「元骼寰j跡」付近に駐車し、荘厳な雰囲気の鳥居をくぐって歩き出す。石段の道は、まともに登ると疲労を増すので、足の運びに注意しながら歩を進める。行くみちみち「鐙(あぶみ)石」(神馬の鐙の痕が残る)、「隠石」(川中島合戦の際、武田軍に追われた上杉謙信が隠れた)、「加耶吉利堂跡」(最初の観音堂跡)、「御座石」(弘法大師が座った)、「船石」、「賽の河原」… と、数々の奇岩や遺跡を路傍に見ながら行く、適度に飽きない道をゆっくり上がり、やがて「愛染岩」に達すると、そこには巨岩の縁に木製の小祠が祀られていて、昨日訪れた山家神社中宮「西花童子」を彷彿させるような情景。周囲は樹林に囲まれ、林間に吹き抜ける微風が心地好く、静かで落ち着いた雰囲気で、自然に心が安らぐ場所だ。それゆえ私は、しばしここで瞑想の刻を過ごしてみたいような誘惑にかられたが… 長女同伴とあってはそうもいかず、小休止のみにて先を急ぐ。
 その後も「蝦蟇石」、「不動岩」(弘法大師が筆を投げた)、「鏡石」、「築根石」(上杉氏がここで千灯を献じた)、「比丘尼石」… と奇岩は続き、道自体は相変わらず変化に富んで飽きないが、そのあたりでは道は結構急となり(場所によっては鎖まであり)、存外な大汗をかいた末、ようやく目指す小菅神社奥宮に到着。
 豪雪地帯のこんな山の中に、よくぞ倒壊せず今日まで残っているものだと驚かされるほど立派な懸崖造りの社殿の前に、まずは頭を垂れ、それから社殿の裏手に回り、そこに流れ落ちている清水に喉を潤す。と… 水を受けたペットボトルの表面が瞬時に結露するほどの冷水で、しかも美味! 汗をかいた身には大変嬉しい贈り物。これぞ正に「御神水」、生き返る思いとは実にこのこと。それほどの爽快さに、それまでの疲れが一気に吹っ飛んだ一時であった。