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【山行・自然観察リスト】
昨年に引き続き訪問〜矢筒山(矢筒城址)
国指定史跡の壮大な城郭〜古城山(宇陀松山城址)
松永久秀の一大拠点〜信貴山(信貴山城址)
明智光秀ゆかりの「山崎合戦」の地〜恵解山(古墳)など
仁科五郎盛信の勇戦が語り継がれる〜高遠城址(兜山)
戦国時代屈指の激戦地〜八王子城址(深沢山)
今年一年の締め括りに〜小諸市の飯綱山(富士見城址)
昨年に引き続き訪問〜矢筒山(矢筒城址)
10/25、所用で飯綱町(旧牟礼村)方面に出掛けた際、折角だからと「矢筒山」(矢筒城址)に立寄った。この山、私は昨年の10/14にも訪れているが、「飯綱病院」脇の登り口からなら、ほんの10〜15分で頂上という手軽さゆえ、ついでの訪問には重宝する場所だ。また今日は割と涼しい気候だったこともあり、私でも頂上を往復するのに、ほとんど汗をかくこともなかった。
山の模様については、昨年訪れた際と大同小異ゆえ、改めて記すほどのこともないが、この機会によく考えてみたら、私は案外この山に関し、これまで郷土史関連の文献をまともに調べてみたことがなかったことに気付いた。そこで、今回初めて『長野縣町村誌 北信篇』の「牟禮村」の箇所を参照してみると… 「山」の項には「無之」とあるが、「古跡」の項には「矢筒城墟」として若干の記述があるので、同書編纂当時はここが「山」として見られていなかったことが知れて興味深かった。なお、折角だから参考までに同書の「矢筒城墟」の記述を次に引用紹介しておく。
「矢筒城墟 本村未の方に當れる孤山にして村の中部に聳え、西は黒川村地内を堺し、南は字表町に隣し、東は字西前坂、古屋敷兩字に連り、北は瀧澤川を以て字久保田に界す。東西四町四十間、南北三町廿八間、周回十町廿三間三尺高さ二百廿間二尺六寸。登路二條一は本村東の方字備後澤より上る高四町四十九間五尺四寸、一は西の方黒川村界より上る、高二町二間三尺、箙の形をなす。依て矢筒の城と云ふ。峯嶺に至れば石壁猶存す、中段南の方空湟あり、下段に堀あと及び大手口と唱ふる所あり、此所の耕地を鑿つ者古金銀鍋の欠、陶器の片われ等を得るもの往々有之、永正の頃島津氏居城、天文の頃是れを毀つと云ふ。嶺に石祠あり、同氏を祭ると言傳ふ。」
国指定史跡の壮大な城郭〜古城山(宇陀松山城址)
11/13、この日は平日だが、家庭の所用で奈良方面に訪れたついでに、例によって同行した長男の趣味に付き合い「宇陀松山城址」に立寄った。
この城址、別称を「秋山城」ともいい、奇しくも令和8年のNHK大河ドラマに関わり深い豊臣秀長ゆかりの城址でもあるようで、実際歩いてみると、深い空堀や広大な郭、大石を積み上げた豪壮な石垣など、天下人の兄弟に似つかわしい壮大な規模に圧倒された次第。
そんな城の割に、ここが全国的に名が知られたのは比較的最近らしく… そのあたりの経緯も含め、現地案内看板の文言を次に引用紹介する。
「史跡 宇陀松山城跡 (平成18年7月28日 指定) 宇陀松山城は南北朝以来、宇陀郡の有力国人秋山氏の本城として築かれました。天正13年(1585)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴う秋山氏の退去後は、豊臣家配下の大名の居城として改修・整備が行われ、大和郡山城・高取城と並ぶ大和国支配の拠点となりました。しかし、関ヶ原合戦の後入封した福島高晴が、元和元年(1615)、「大坂の陣」直後に改易(領地・家屋敷を没取されること)されたことにより城は取り壊されました。この城割役を担ったのが小堀遠江守正一(遠州)と中坊左近秀政です。平成7年(1995)から行われた発掘調査の結果、大規模な石垣や本丸御殿跡などが見つかり、織豊期から江戸時代初期にかけての壮大な城郭の姿が明らかとなりました。このことにより、宇陀松山城跡は、平成18年7月に国の史跡に指定されました。また、平成29年4月6日(城の日)には、(公財)日本城郭協会から「続日本100名城」に選ばれています。城跡の中心である本丸や天守郭からは、遠く高見山から大峰山脈にかけての山々の眺望を楽しむことができ、「奈良県景観資産」四神ハ景・青龍に登録されています。平成30年3月 宇陀市教育委員会」
さて、この城址の山名だが、現地本丸址の手製案内標識には「宇陀城山」とあったが、『日本山名事典』(三省堂刊)を見ると「城山(しろやま)」として掲載されており、本項記述時点で国土地理院のWEB版地形図にもこの名称が表示されている。ところが『日本城郭大系 10 三重・奈良・和歌山』(新人物往来社刊)には「秋山城は、松山の町の北にそびえる古城山にある。」とあり、漢字表記のゆれも含めて様々な呼称があるようだ。本項のタイトルは、宇陀市教育委員会による解説パンフレット『宇陀三将の城』にも記されている「古城山」(これで「しろやま」と読むらしい)としておく。
松永久秀の一大拠点〜信貴山(信貴山城址)
11/14、家庭の所用の2日目。奈良方面に訪れた折角の機会を有効活用すべく、戦国の梟雄・松永久秀ゆかりの「信貴山城址」に立寄った。
松永久秀といえば、いわゆる松永三悪(将軍暗殺、主家乗っ取り、東大寺大仏殿焼き討ち)の張本人としての悪名高さ(実際のところ、濡れ衣に近いものもあるらしいが…)に加え、その最期の華々しさたるや、かねて織田信長が所望していたという茶釜の名器「平蜘蛛」を粉々に叩き割った上、城に火を放って爆死したという(!)、豪快さに加え、ある種の潔さが感じられる人物像で、私のような単純な人間には大いに惹かれるものがある。それゆえ、ここは長男のみならず、実は私にとっても、いつか一度は訪れてみたかった城址の一つだった。
そして、実際に歩いてみると、「朝護孫子寺」から信貴山頂上の「空鉢護法堂」直下経由で更に進み、「立入(たてり)屋敷」から「松永屋敷」にかけての郭群に至ると、その規模の壮大さたるや… 前日に宇陀松山城を見てきたばかりの私にも、なお度肝を抜かれるほどのものがあった。実際、昼なお暗い樹林の中であってさえ、壮麗に屋敷が立ち並ぶ往時の模様が容易に想像できるほどだ。以下、歴史について現地案内看板の文言を引用紹介する。
「信貴山城 Shigisan Castle 信貴山城は東西550m、南北700mにわたって広がり、城域は雄嶽地区、雌嶽地区、北尾根地区の3つに分けること出来る。急峻な切岸を中心に防御し、要所には土塁や石積み、堀、複雑な出入口などを設けた奈良県最大級の山城である。天文5年(1536)、河内国の実力者であった木沢長政が信貴山城に入城した。その際、大規模な山城に改修され多くの家臣屋敷を抱え込む政治的な城郭となった。大和国において、軍事機能と政治機能を一体化した山城の先駆けであり、大和国の城郭に大きな影響を与えた極めて重要な城郭であった。永禄2年(1559)に三好長慶の重臣、松永久秀が入城した。木沢期と同様に多くの家臣が集住する大和国支配の拠点として機能した。天正5年(1577)、織田信長と対立した久秀は信貴山城に籠城したが、織田勢に攻撃され自害した。」
若干付け加えると、信貴山が落城した天正4年(1576)年10月10日は、奇しくも東大寺大仏殿が焼けた永禄10年(1567)10月10日から、ちょうど10年後であったという(!)。単なる偶然なのかどうか、まるで「10」という数に呪われているようなのも、何やら因縁めいていて興味深い。
なお、この城址の山名は、『日本山名事典』(三省堂刊)には城名と同様「信貴山(しぎさん(やま))」とあり、これで特に異論はないだろう。ちなみに同書には別称として「井上山(いのうえやま)」なる呼称も紹介されている。
明智光秀ゆかりの「山崎合戦」の地〜恵解山(古墳)など
11/15、家庭の所用の最終日。今日はただ帰るだけなので、若干時間に余裕がある午前中、明智光秀ゆかりの「山崎合戦」の地を訪ねることに。
具体的には、最近の某歴史特集番組で紹介されていた、山崎合戦時に光秀が本陣を置いたという「恵解山(いげのやま)古墳」と、そのすぐ近くにある「勝龍寺城」の址だ。特に前者については、平野部で古墳が「山」扱いされている散見例のごとく、ここも一応「山」と名が付くところから、あえて本サイトに掲載した次第。それらの詳しい歴史の解説については、誤りなきよう現地案内看板の文言を次に引用紹介して代えさせていただく。
「山崎合戦と恵解山古墳 織田信長が明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した山崎合戦は、あまりにも有名ですが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった可能性があります。発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土しています。また、後円部にある現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、光秀方が恵解山古墳に陣を置いたさいの造作である可能性があります。」(「恵解山古墳」後方部上にある解説板より)
「山崎合戦と勝龍寺城 天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同6月13日に、山崎合戦で羽柴秀吉と戦います。主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い合う戦いではありませんでした。一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の二説があります。戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の坂本城(大津市)を目指したようです。しかし、途中の山科、上醍醐付近で落武者狩りに遭い命を落としたといいます。〜(後略)」(「勝龍寺城公園」内の西辺土塁上にある解説板より)
なお、「山」も流石にこのレベルになると、『日本山名事典』(三省堂刊)等には掲載がない。まあ、最近諸事情により、普通に「山」と名の付く場所への訪問が減ってネタ不足ゆえ、通常なら「山」扱いにしない地まで半ば無理矢理「山」にこじつけている面が多分にあり、無理もないが…
仁科五郎盛信の勇戦が語り継がれる〜高遠城址(兜山)
11/29、またしても城巡り趣味の長男に付き合い、伊那市(旧高遠町)の高遠城址に訪問。
この城址、甲斐の名門武田氏の最期をかざる信州の英傑・仁科五郎盛信の勇戦で知られる地で、その顛末は今更ここで改めて語る必要もあるまいが… 城の遺構的には、武田氏の部将・山本勘助の手になるといわれる縄張を基とした広い郭や深く迫力のある堀の他、若干の石垣や移築された城門等がある程度で、江戸期の終焉まで存続した高遠藩の本拠の割には、いささか物足りなさを禁じ得ず… それだけに、今やここは「城」というより、天下第一の桜ことタカトオコヒガンザクラで名高い「公園」のイメージの方が強いだろう。また、立地的には三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘上の一角に位置し、例えば宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第5巻 上伊那編』(戎光祥出版刊)には「高遠城は月蔵山の西側山麓の台地上にある。」とあるだけで、他の多くの文献資料にも大同小異の記述しかされておらず… 私もここを、これまで「山」としては全く意識してこなかった。
しかし、今回の訪問を機に、改めて手元の文献を見直してみると、篠田徳登氏著『伊那の古城』(伊那毎日新聞社刊)に「ここの山を、かぶと山というが、以前は神山といい、武田の家臣の山本勘助が縄張りをしてから、かぶと山城といいはじめたともいう。」との記述があるのに気付き(!)、さらに他の文献も参照してみたところ、『高白斎記』の天文16年(1547年)の条に「正月朔日 甲寅 七日立春、二月十七日義輝公任征夷大将軍、三月小九日節、八日 庚申 各出府、高遠山ノ城鍬立、〜(後略)」とあるのも見出すに至った。そこで… 今回、本城址をあえて「山」として掲載してみることとした次第。
なお、上記の3呼称中、「高遠山」は城名と重なり無難ではあるものの出典文献が古すぎ、「神山」も以前の呼び名とのことゆえ、他文献にも同種の呼称が見られる「かぶと山」を最大公約数的に本項のタイトルに採用した次第。また、これに当てる漢字については、『日本城郭大系 8 長野・山梨』(新人物往来社刊)が本城の別名として紹介する「兜山城・甲山城」、『長野縣町村誌 南信篇』の「東高遠町」中「古跡」の項にある「兜城址」等に拠り、当面は「兜山」としておきたい。実際これが、勇将仁科盛信のイメージに最も似つかわしいものではあるまいか。
戦国時代屈指の激戦地〜八王子城址(深沢山)
12/20、この日はまた去る5/3と同様、二女が東京で開催される某アニメの展示会だかイベントだかに行きたいというので、その送り迎えのついでに、例によって長男と共に、同じ東京都内の八王子市にある「日本百名城」の一つで国指定史跡でもある「八王子城」に訪問。
この城址、豊臣秀吉の小田原攻めの過程で、豊臣方の猛攻により落城し、麓の「御主殿」近くの城山川の滝の上流では城将の妻子を中心に多くの者が投身して、川水が三日三晩血の色に染まったとの悲惨な伝承が残る。また、この城には城主の北条氏照により八王子権現が祀られ、それが八王子の地名の由来といわれる。城址自体の歴史の詳細については、次に現地解説板の文言の一部を引用紹介する。
「八王子城の概要 八王子城の築城と落城 八王子城は、北条氏照によって築城された山城です。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいました。氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12年(1569年)武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。天正16年(1588年)には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。 天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。〜(後略)」(城址管理棟付近の解説板より)
以上だが、実際に本丸址まで登ってみての感想では、これほど要害堅固な城がわずか1日で陥ちたとは、いささか話を盛っているのではないかという気がしたが… また、山麓の「御主殿」址の虎口周りを中心とする豪壮な石垣は、正に「日本百名城」に相応しい規模を誇り、山上の要害部以上に一見の価値がある。なお補足すると、落城時に不在だった城主の北条氏照は、小田原城開城後に秀吉から切腹を命ぜられ、戦死城兵の後を追っている。
最後に、この城の山名については、私の手元の文献には特に記載がないが、城址管理棟付近にある「八王子城の縄張」の解説板には「八王子城の構造 八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。〜(後略)」とある。本項のタイトルは「城山」では味気ないので「深沢山」としておく。
今年一年の締め括りに〜小諸市の飯綱山(富士見城址)
2025年もいつの間にか終わりに近づいた。去る12/20の八王子城址は、それなりに登り応えもあり良い「山」だったが、これで今年も終わりかと思った時… どんよりとした空の下、悲惨な落城をした城址で一年を締め括るというのも、どうも… たとえ軽い「山」にしろ、晴天の下でスカッとした「山」気分を味わいたい、という感じがしてきた。それで、12/29、特に目的地を定めないまま、早朝自宅発、何とはなしに東信方面へ車を走らせた。
と… 小諸市に差し掛かった際、ふと白銀に輝く浅間山の鮮やかな山肌が視界をよぎった。瞬間、私は、この姿を是非ともカメラに収めたい、それなら小諸市の飯綱山(富士見城址)からに限る! とて、すぐさま「小諸高原美術館」の脇の登り口まで駆け上がった。
デジカメを手に歩き出すと、すぐに可愛いトラツグミの出迎えを受けた。これは来て正解だったなと思いつつ、頂上近くの撮影ポイントに至り、まずは狙い通り鮮やかな浅間山の画像をゲット。次いで頂上三角点の前からは、八ヶ岳連峰や蓼科山、茂来山など佐久の名峰の数々、さらに「三の郭」の縁からは、北アルプス槍・穂高連峰や餓鬼岳など… と次から次へと眼前に展開される大パノラマ!
なお、この山、私は2023年の11月にも長男と共に訪れており、その際は本丸直下の「三の郭」との境の石積の積直しの工事中だったが、今回はそれも完工していて、前回訪問時の残念な気分を拭い去ることができた。しかも空はほとんど雲のない快晴… というわけで、あらゆる意味で、どうやら最高の形で今年の「山」の締め括りとすることがてきたようだ。