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【山行・自然観察リスト】
2025年最初の山〜皆神山
「城址」として再認識〜松本市の城山(犬甘城址)
平安末期からの古城〜山梨県北杜市の城山(谷戸城址)
大型連休中の手軽な「山」気分〜聖山
幕末の老中堀田正睦公逝去の地〜佐倉城址(鹿島山)
千葉県内最大級の城址〜本佐倉城址(将門山)
2025年最初の山〜皆神山
1/1、私にとっては恒例となっている元旦の「山」・皆神山に、初詣を兼ねて訪問。
昨年の1/1は、この山への訪問後、例の「能登半島地震」が発生し、様々な意味で忘れ難い日となってしまったこともあり、今年はどうか、平穏な年の始まりでありますように… と祈念しながらの訪問であったが、今回は昨年末の天気予報が良い意味で的中しなかったせいもあってか、昨年同様の温暖な気候で皆神神社境内にはほとんど雪も見られず、また空模様も比較的良好で、頂上の「富士浅間神社」祠の裏手からは、昨年は曇り加減で見られなかった戸隠連峰や飯縄山方面の眺望が得られたのが嬉しかった。
もっとも、世の中の状況は、今回の皆神山の情景のように穏やかな様相ばかりではない。例えば昨年の「能登半島地震」の被災地では、その後、重ねて豪雨災害までが発生して復興は容易に進んでいないし、今年も東北の青森県などでは豪雪続きで、被害も発生しているという。青森県といえば、昨年まで次男が大学在学のため弘前市に居住しており、その間は私も年に数回は必ず訪れてきたので、今やカーナビ無しでも普通に行来できるほど馴染んだ地となっており、それだけに、豪雪のニュースは少なからず心配だ。さらには、いつ果てるとも知れない物価高とか、はたまた海外の諸情勢とか…
果たしてそれら諸々の事象が、今後どのように複雑に絡み合いながら、いかなる未来の姿を運命的に創造して行くのか… 無論、人智の到底及ぶところではない。となると、我が胸中に去来する想いは(毎年のことだが)ただ一つ… まずは令和の御代の弥栄を希いつつ… 今年一年、ここ皆神山の今日の穏やかな情景のごとく、どうか我が国にとって、また我が家にとって、平穏無事な日々でありますように…
「城址」として再認識〜松本市の城山(犬甘城址)
2/23、所用で松本市に訪れた帰途、若干時間があるので、同行していた長男の城巡り趣味へのサービスとして「城山公園」(犬甘城址)に訪問。
ここは文字通り「公園」だけに、私自身、これまであまり「城址」として意識的に見て来なかったのだが、今回改めて詳細に見てみると、存外、遺構が明瞭に残されていることに気付き、その歴史的価値について認識を新たにした次第。また、公園の南端にある展望台からは、松本平や周辺の山々が一望でき、ここが地理的に信州の「要」的位置にあることを、否応なしに実感できる。いずれにせよ、ここは松本市民にとって代表的な憩いの地の一つゆえ、今更改めて解説の必要もあるまいが… 折角だから本記録帳の最近の例により、現地案内看板の文言を参考までに次に引用記録しておく。
「犬甘(いぬかい)城山 古くから山城が築かれ、南北朝時代からは、信濃国守護となった小笠原氏が重要な支城として治めた。今も残る空堀は、山城当時の構造物の跡。江戸時代には、松本藩の管理下にあったが、天保14年(1843)、城主戸田光庸(みつつら)が、庶民の公園として開放、君民遊業の地とした。明治8年には松本市で最初の公園となる。風光明媚な園内には、松本市ゆかりの歌人による歌碑が数多く配置されている。〜(中略)〜平成22年7月 白板地区史跡研究会」
なお、この城址の山名については、『長野縣町村誌 南信篇』の「深志村」中「山」にはそもそも記載がなく、「公園」(「城山園」)、「古跡」(「犬飼城墟」)にも山名については触れられていない。また『日本山名事典』(三省堂刊)、『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』(長野県教育委員会編)、新人物往来社刊『日本城郭大系 8 長野・山梨』等にも山名については記載がなく、それゆえ私はこれまで当地の公園名から、単に「城山」と呼称するのだろうと思い、大して気に留めてこなかった。が、今回の訪問を機に、改めて手元の文献を参照してみると、『新編 信濃史料叢書 第六巻』(信濃史料刊行会編)所収「信府統記(下)」第十八の「筑摩郡中古城地」の「庄内与」に「蟻ガ崎山ノ古城地」とあるのを新たに見出したが、同項にはまた「古城跡の山あり、久敷城山と言伝へて、誰人の築くといふことを知らず。犬飼氏の人在城せりとかや。」ともある。また、宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第4巻 松本・塩尻・筑摩編』(戎光祥出版刊)は、この城の別名を「蟻ヶ崎山城」とする。ただ、現在の当城址の住所表示は「松本市蟻ヶ崎城山」となり、国土地理院の地形図も城址近くの地名を同様に表示する。かくて、上記案内看板にある「犬甘城山」なる呼称も加えれば、「蟻ヶ崎山」「城山」「犬甘城山」の3種の候補が出てきたわけだが… 「蟻ヶ崎山」は文献の裏付けはあるが現呼称としては一般的でなさそうだし、逆に「犬甘城山」は最新の案内看板に表示があるので通称的には十分ながら、文献上の裏付けが取れない。で… 本稿では結局、実際の住所地名で、一応文献上にも見え、公園名ともなっている「城山」の呼称を(例によって味気ないが)あえて表題に採用しておきたい。
平安末期からの古城〜山梨県北杜市の城山(谷戸城址)
3/7、所用で諏訪市に訪れたが、午後に余剰時間が生じ、例によって同行していた長男に、どこか行きたい「城」は? と聞くと、隣県(山梨)北杜市の「谷戸城址」は城の遺構や資料館が整備され、見応えがありそうだとのこと。私には初耳の城址ゆえ、即訪問を決意、早速、中央道経由で越境。
目的地は、長坂ICから、さほど離れていない場所にあり、なるほど城址の登り口手前に「北杜市考古資料館」がある。城址自体はなだらかで、さほど時間を要しないようなので、まずは事前知識を得るべく資料館に入館。と… いきなり石器時代の見事な土器が次々と現れて度肝を抜かれた。それで、ここが信州の平出遺跡あたりから尖石遺跡など、日本有数の遺跡を含む、八ヶ岳南麓の遺跡群の一部であることに思い至った。してみると、この城址の歴史も、存外古いのではないかと思われたが、正しく然りのようだ。概略は例によって現地案内看板の文言を次に引用掲載して正確を期する。
「史跡谷戸城跡は、平安時代末期に逸見清光(1110〜1168)が築城したと伝えられている。逸見の地を本拠とした清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植したことから、次の代では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配することとなった。なかでも武田信義は平家討伐に功を上げ、後に戦国大名となる武田家の基礎を築いた。城は、流れ山とよばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。城内は山頂部の一の郭を中心に、二の郭から五の郭までを同心円状に配し、西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の郭が広がる。各郭の出入口は喰い違い虎口が多用され、空堀は等高線に沿うように掘る横堀が発達している。発掘調査による出土品は14〜15世紀のものが中心を占め、現代に伝わらなかった歴史をもつ城跡であることがわかってきている。」
以上のような事前知識を得た上、いよいよ実際に城址を歩いてみると… 古い城址ながら土塁や空堀の遺構の保存状態は良好で、整備も行き届いており、往時に想いをはせるには絶好の環境で好感が持てた。それに、樹間には八ヶ岳、南アルプス、そして富士山など、この近辺の名峰の数々を望めるのも「山」ファンとしては嬉しい限り。なお、この城址の山名だが、新人物往来社刊『日本城郭大系 8 長野・山梨』には、別称が「茶臼山」とあるほか、本文には「八ヶ岳南麓の中央からやや西寄りに位置する谷戸城は、従来『吾妻鑑』治承四年(1180)九月の条にみえる「逸見山」に比定され、また甲斐源氏の祖といわれる逸見清光の居城とみなされている。地元では「城山」とよぶ谷戸城のある山の頂からは〜(後略)」とあり、複数候補があるが、本稿では地元呼称という点を尊重し、当面「城山」としておきたい。(実際、ウェブ情報によれば、これが現在の一般的呼称のようなので…)
大型連休中の手軽な「山」気分〜聖山
4/27、私はふと思い立ち、手軽に「山」の気分を味わいたい場合の「切り札」的存在の山である「聖山」に訪問。
数年前の膝の故障以来、どうも長時間の山が億劫になっている私にとって、この山は天候にさえ恵まれれば、北アルプスをはじめとする名峰の数々の眺めを容易にほしいままにできる得難い場所の一つであるが、期待と共に駆け上がった頂上では、若干霞み気味ではあったものの、後立山連峰をはじめとする北アルプスの連嶺はもとより、北信五岳の山々、志賀高原、菅平、浅間山、さらには遠く八ヶ岳、中央アルプス、鉢盛山など、文句なしに素晴らしい眺望が私を出迎えてくれた。
ただ、この日はゴールデンウィーク前半の一日であったせいか、私の他にも10人前後の者が入れ代り立ち代り、この頂上に訪れていたことが、些か意外ではあった。例年、同時期でも、あまり人で賑わった記憶がない場所なのだが… となると、一抹の不安が心をよぎる。実際、旧小串鉱山近くの毛無峠のように、以前は本当に静かで落ち着く場所だったのに、ここ十数年の間に、突然、多くの人で賑わう場所と化してしまったような例もあるし… まさか、ここ聖山も、近い将来、それと同様の状況と化してしまうのでは…?
無論、山は私一人だけのものではないから、そうなったらそうなったで、結果を甘受するしかないが… 私としては、今回のこの山の意外な賑わいは、最近やたらと目につくインバウンドの雑踏を避けて来た向きもあるのでは?(要は一過性の状況ではないか)と思いたいが…
幕末の老中堀田正睦公逝去の地〜佐倉城址(鹿島山)
5/3、大型連休後半のこの日、私はかねて二女を東京池袋サンシャインで開催される展示会だかイベントだかに送り迎えする約束をしていたが… どうせ行くなら余剰時間に近くの城址を観ないかと長男に誘いをかけたところ、千葉県の「佐倉城」なるリクエストがあった。この城、「日本百名城」の一つで、幕末の世情混迷期、日米修好通商条約の締結問題打開等に苦慮奔走した堀田正睦公の居城かつ逝去の地として知られ(元治元年(1864)3月、同城三の丸御殿(松山御殿)で没)、「国立歴史民俗博物館」とも隣接する。私としてもまだ未訪の場所ゆえ、二つ返事でそこへの訪問を決意。
で… いざ現地に訪れてみると、そこは今は「佐倉城址公園」となっており、建物は城内薬医門と伝えられる遺構がわずかに1つ移築保存されているのみであったが、土塁や堀の保存状態は比較的良好で見応えがあった。ただ城址エリアは存外広く、一通り見て回るだけで相当な時間を要し、残念ながら博物館まで立ち寄る暇はなかった。なお、この城に関する歴史等の概略は、例によって現地案内看板の文言を次に引用紹介し代えさせていただく。
「下総国 佐倉城(鹿島城) 市指定史跡 佐倉城跡 日本百名城 佐倉城の歴史 佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532〜1552)に鹿島幹胤が築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610)に佐倉に封ぜられた土井利勝(1573〜1644)によって翌慶長16年(1611)から元和3年(1617)頃までの間に築城された平山城です。徳川家康により、江戸の東を守る要として重要視されました。北に印旛沼、西と南に川が流れる低地に西向きに突き出した「馬の背」と呼ばれる台地の先端に位置しています。佐倉城は、こうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋、仏閣を配して城下町の守りを固めました。歴代佐倉城主(佐倉藩主)のうち9人が老中となっています。これは全国最多で「老中の城」と呼ばれています。なかでも、幕末期の城主堀田正睦(1810〜1864)は、財政難に苦しむ佐倉藩の改革に成功するとともに日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。明治維新後より終戦までは陸軍歩兵第2連隊、後歩兵第57連隊(通称 佐倉連隊)が置かれました。〜(中略)〜平成28年3月 佐倉市公園緑地課」
以上に加え、山名検証を兼ねて若干補足すると、『日本の名城 知識と鑑賞の旅』(井上宗和著/雄山閣刊)の解説には、「佐倉の地は古くから千葉氏の領地で、文明16年(1484)、千葉輔胤が印旛郡本佐倉将門山に城を築き千葉より移住したのが初めといわれる。その後邦胤(北条氏政の聟)の時、北条氏政の命により鹿島山に築城を初めたが邦胤は若年にして死去し完成しなかった。子重胤は六歳で家を継ぎ天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに北条氏に応じ、佐倉城は徳川家康の軍に攻められ開城、未完成の鹿島山の城も焼払われてしまった。その後、この地を家康が領したのち〜(中略)〜(慶長)14年(1609)、土井利勝が封ぜられ、家康の命によりかつて未完成であった鹿島山に同16年(1611)築城をはじめて、元和3年(1617)完成した。〜(後略)」とある。
これによれば、当城址の山名は「鹿島山」のようだが、文献によっては「山」でなく「台」(「鹿島台」)とするものもある(『日本の城 ポケット図鑑』(西ヶ谷恭弘著/主婦の友社刊)など)。実際、どちらの呼称も存在するようだが、本稿では単純に「山」呼称を尊重し「鹿島山」としておく。
千葉県内最大級の城址〜本佐倉城址(将門山)
先の佐倉城址への訪問後、我々は二女の迎えに東京池袋へ戻ろうとしていたところ、二女から、終了時刻が若干伸びた旨の連絡が入った。となると、「国立歴史民俗博物館」を観るほどの時間はないが、近くのちょっとした城なら、もう一箇所くらい観れそうなので、長男と相談の結果、佐倉城址からほど近い「本佐倉城址」に立寄っていこうと話が決まった。で… いざ現地に行ってみると、そこは国指定史跡で、一見して事前の予想より広大そうだったが、城址エリア内はよく整備されていそうだし、早めに歩けば何とか観て来れるだろうと腹をくくって歩き始めた。
で… 「東山虎口」「東山」「大堀切」「城山(T郭)」「奥ノ山(U郭)」「倉跡」… と順次巡ったが、結論から言えばこの城址、昨年訪れた青森県の「九戸城址」なみに広かった(!)。かつて当地方で一大勢力を有した千葉氏の居城だったのだから、当然と言えば当然だが… 膝痛にかまけて日頃運動不足がちの私には、ただでさえ先刻広大な佐倉城址を歩いてきたばかりでもあり、ある時点から足が棒になってしまい閉口した。が… これからも山を歩き続けたい私としては、これも「訓練」と思い、どうにか耐えて歩き切った。城の歴史の概略は、いつもと同様、現地案内看板の文言を次に引用紹介する。
「国指定史跡 本佐倉城跡 本佐倉城は、下総守護千葉氏が文明年間(1469〜1486年)に築城し、天正18年(1590年)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。当時水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。県内最大級である面積約35万uの規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群は城主のための郭、広大な外郭群は家臣の屋敷地と考えられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。本佐倉城は「土の城」です。すべて土の造成によって構築された大規模な空堀や土塁、櫓台に守られた郭群や虎ロは、現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城の迫力と息吹を感じさせます。平成28年3月 酒々井町教育委員会」
なお、この城址の山名については、現地では上記のとおり「東山虎口」付近で物見台のある土塁が「東山」、T郭址は「城山」、U郭址は「奥ノ山」等、ポイント毎に個別名称が付されているが、先の佐倉城址の項にも引用した『日本の名城 知識と鑑賞の旅』(井上宗和著/雄山閣刊)には「佐倉の地は古くから千葉氏の領地で、文明16年(1484)、千葉輔胤が印旛郡本佐倉将門山に城を築き千葉より移住したのが初めといわれる。〜(後略)」とある。(この点、新人物往来社刊『日本城郭大系 6 千葉・神奈川』でも、当城址の別称を「将門山城」としている。) こちらが当城域の総称と思われるので、本稿のタイトルは「将門山」とした。(読み方は、ウェブ情報によれば「まさかどやま」のようだ。当地方は平将門ゆかりの地であり、違和感はない。)