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【山行・自然観察リスト】
織田氏部将・金森氏が築城〜越前大野城址(亀山)
朝倉氏の栄華を今に伝える〜一乗城山(一乗谷城址)
数少ない現存木造天守の一つ〜丸岡城址(城山)
日本屈指の石垣で名高い山城〜岩村城址(城山)
山城ベストランキング第1位!〜苗木城址(城山)
日本最古級の現存木造天守〜犬山城址(城山)
天守台上に三角点〜松坂城址(四五百森)
藤堂高虎の「高石垣」が圧巻〜伊賀上野城址(阿閇山)
羽柴秀吉の甥・秀次の城〜近江八幡城址(鶴翼山)
織田氏部将・金森氏が築城〜越前大野城址(亀山)
10/27、私は最近の例のごとく、長男の城巡り趣味の希望に応え、未明に長野を出立。本日の目標は福井県にある2名城で… まずは「越前大野城」址。ここは、低標高ながらも一応「亀山」なる山にあり、頂上には復興天守が建つ。その一見「岐阜城」に似た大天守が脇に小天守を従えた雄姿たるや、なかなかどうして、結構な迫力だ。城の詳しい歴史は、例によって現地案内板に語ってもらおう。
「越前大野城跡(福井県指定史跡) 越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城跡にはみられなかった新しい方式の城でした。江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる『野面積み』といわれるものです。江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。」(天守閣直下の案内看板より)
以上のとおり、ここは特に派手な歴史ドラマの舞台ではないものの、金森長近という有名な戦国武将ゆかりの城ゆえ、歴史ファンには往時に想いをはせるに格好の地だが… 天守台上の復興天守前の平場には、しっかり三角点標石が埋設されていて、ここが「山」だということを思い出させてくれる。
朝倉氏の栄華を今に伝える〜一乗城山(一乗谷城址)
先の「越前大野城」址への訪問後、我々の次なる目標は、長年にわたり織田信長と対峙した名門・朝倉氏の本拠「一乗谷城」址。ここは、上城戸と下城戸で区画された一乗谷城下町の中央部に位置する「一乗谷朝倉氏館」址と、その背後に連なる山稜上「一乗城山」に築かれた山城址により構成される、正に朝倉氏の栄華を今に伝える壮大な一大城塞ゆえ、ここを一通り見て回ろうとすれば、相当な時間を要することは必然だ。されば、体力を温存しているうちに、大変な方から訪れてしまおう… というわけで、まずは林道美山線の途中の駐車場所から最短の「三万谷ルート」をたどり、「一乗城山」の踏査に挑戦。以下、同ルートの途中で目についた案内看板の文言を参考までに一つだけ引用紹介してみよう。
「一乗谷城について 一乗谷朝倉氏遺跡の東にそびえる一乗城山(標高473m)には、現在もなお戦国時代に朝倉氏が築いた遺構が山頂から山麓まで数多く残されており、城下町とともに昭和46年(1971)に特別史跡に指定されました。この尾根を登り下城戸ルートとの合流地点を経て、一乗城山頂上の一乗谷城に到着できます。」(「三万谷ルート」登り口直上の稜線上の案内看板より)
大分さらりとした紹介文だが、いざ行ってみると、これが意外と登り一辺倒で、途中に適当な休憩場所もない単調な道。そのせいか、最初のうちはともかく、次第に退屈感を覚え始めて心身両面から疲労がつのり、ようやく頂上の一角「一の丸」址に到着した時には、元々抱えていた膝の不調が前面に現れ始めた上、悪いことには腰まで痛み出し… 全身からは冷や汗混じりの汗が吹き出す有様。これは言うまでもなく、日頃の運動不足が最悪のタイミングで露呈した以外の何ものでもない。この夏の酷暑にかまけて、しばらく「山」らしい山を歩いてこなかったことの当然の帰結だ。
とはいえ、来てしまった以上、何とか決着をつけねばならぬ。で… どうにか主要な城址の遺構を見学した上、往路を亀のごとく駐車場所まで戻ったが… その後、山麓の「一乗谷朝倉氏館」址などを見て回る際も足が重く… 今更ながら、日頃の鍛錬の重要さを痛感させられた次第。
数少ない現存木造天守の一つ〜丸岡城址(城山)
一乗谷でのハードな城巡りの後、流石に疲れた我々は一旦石川県に向かい… 翌10/28は月曜日だが、私の休暇と長男の休暇が都合よく重なったのを幸い、適当な宿に入ってダウン。ここは折角の機会を有効活用すべく1泊し、明日もう少し付近の城などを巡って帰宅しよう、ということになった。
で… 翌日訪れた城址等のうち一つが、日本の現存12木造天守中でも最古の建築様式を伝える「丸岡城」址。ここは、前日巡った2城に比べれば穏やかな平山城で、前日の疲労が残る身にも訪問は苦痛でない。歴史の解説については、例によって天守閣近くの碑文を次に引用紹介する。
「丸岡城天守閣 『重要文化財 別名霞ヶ城』 天正3年(1575)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在地の東方約4km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。天正4年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本多成重以下四代の居城となったが、元禄8年5月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(五代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。明治3年3月、版籍奉還後、同4年9月官有となり、さらに民有に移り、明治34年8月町有となる。その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。昭和9年1月30日、国宝に指定されたが、昭和23年6月28日、福井大震災により倒壊、昭和25年8月29日、国の重要文化財に指定され、昭和26年12月復元に着手、用材は80%近く古材を使用し、昭和30年3月30日修理復元され現在に至る。本城は2重3層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構架法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現存の天守閣の中で、最古の様式のものである。天守閣の高さ22m(72尺6寸) 面積1階137u(約41.44坪) 2階40u(約12.10坪) 3階40u(約12.10坪) 石瓦の枚数約6,000枚 総重量75トン」
なお、この城址、「山」というより「城」のイメージが強く、当初は「山」扱いを躊躇したが… 帰宅後に調べたら、最近、現地で計画のある同城の再整備計画等の情報を通じ、地元ではここを「城山(しろやま)」と呼称していることが判明。かくて、ここに掲載した次第
日本屈指の石垣で名高い山城〜岩村城址(城山)
「文化の日」の11/3、この日は私の経験上、天気の良い年が多いが、今年も然り、前夜までの豪雨が朝には嘘のように収まった。となると、折角の三連休の中日、どこかへ出掛けたいものだが… たまたま今日は長男も仕事が休みで在宅。となると… 当然のごとく「城巡り」と相成る。
今回の目標は、岐阜県にある日本屈指の石垣で名高い山城2箇所で… まずは「岩村城」址。歴史等は例により案内看板から次に引用紹介。
「岐阜県指定史跡 岩村城跡 岩村城は別名を霧ケ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、標高717mに位置し、江戸諸藩の府城の中で最も高所にあり日本三大山城の一つである。城の創建は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(1185年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まると伝わる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以来遠山氏が代々居城し、東濃地方から信州の一部まで勢力下とした。戦国動乱の時代に入り、天正元年(1573年)武田信玄の臣秋山虎繁(信友)が岩村城を奪取して入城したが、同3年に織田信長の軍に攻略されて、河尻秀隆が城主となった。その後は森長可、森忠政、田丸直昌と、城主は目まぐるしく交代した。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦以後は、大給松平本家の松平家乗が城主となり二代、丹羽氏五代のあと大給松平分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。城郭は中世城郭を近代城郭へと修築し、本丸二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が設けられ、丸と曲輪は石垣や堀切をもって区画され、要所に櫓、堀、門が構えられた。山城の建造物は明治6年(1873年)の廃城令を受けて競売に付され、すべて取り壊された。岐阜県教育委員会 恵那市教育委員会」(「出丸」址の案成看板より)
若干補足すると、ここは奇しくも武田勝頼が織田方の滝川一益隊の追撃に遭い自刃した当日の天正10年(1582)3月11日、織田信長が入城宿営した地で、信長は翌々日の13日にここで武田氏滅亡の報を受けたといい… そんな場所に実際に立つ感慨たるや、いつにもまして深いものがある。
なお、この城址がある「山」の名については、『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社刊)によれば、所在地が「恵那郡岩村町字城山」、解説文にも「岩村城は〜(中略)〜標高721mの城山山頂に位置する。」と明記されているので、これに従い表記しておく。
山城ベストランキング第1位!〜苗木城址(城山)
岩村城址への訪問後、我々は次なる目標「苗木城」址へ。ここもまた岩村城址と同様、豪快な石垣に度肝を抜かれること請け合い、文句なしの名城だ。歴史等については、例によって正確性等の見地から、私の下手な解説よりも、案内看板からの引用紹介をもって代えたい。
「城データ 築城 1526年 廃城 1871年 主な城主 遠山友政 標高 432m 形式 山城 昭和56年4月22日 国指定史跡 平成29年4月6日 続日本100名城 平成29年9月30日 岐阜の宝もの(東美濃の山城) 解説 苗木城は、中津川市内を東西に貫流する木曽川の右岸に一段と高くそびえる城山に築かれていました。木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあります。岩山の上で利用できる土地の確保が困難であったため、建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、自然の地形を有効に生かして築かれた山城です。大永年間(16世紀前期)に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの地に移り住みました。その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われますが、関ヶ原の戦いに先立ち遠山友政が城を奪還し、以後江戸時代を通じ12代にわたり遠山氏が城主として治めました。」(「足軽長屋」址直下の案内看板より)
ちなみに、ここは晋遊舎発行『日本の城ベストランキング』の山城部門で第1位に輝いたこともあるそうだが、実際「足軽長屋」址から望む、自然の巨岩と人工の石垣とが絶妙に一体化した天守址の峰が、青天の下に傲然と屹立する有様たるや、正しく第1位の名に恥じない、「天空の城」とでも呼ぶに相応しい迫力だ。私など、そのあまりに現実離れした奇観に、思わず遠く南米ペルーのマチュピチュ遺跡の情景すら連想してしまったほどだ。
なお、この城址がある「山」の名は、上記現地案内看板引用文中に「城山」とあるほか、『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社刊)にも「苗木城は恵那峡口北岸、木曾川に絶壁をさらす城山の頂上に位置している。」とあるので、これに素直に従う他なさそうだ。先の岩村城址同様、城址自体の壮観とは裏腹に、どこにでもある代わり映えしない呼称で、少なからず味気ない感が否めないが…
日本最古級の現存木造天守〜犬山城址(城山)
今年もあと1月弱、公務もようやく一段落がついた貴重な機会に、私は長男の休みと合わせて休暇を取得し、12/8から3日間、城址探訪の旅に出た。
まず初日に訪れたのは、愛知県犬山市にある「犬山城」址。その天守閣は、日本の現存12木造天守の中でも最古の形式を有するといい(昭和27年(1952)国宝指定)、あまりに有名な城ゆえ、あえて解説の必要もあるまいが… 最近の例に従い一応、現地案内看板の文言を次に転記しておこう。
「犬山城の歴史 犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関ケ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から12万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和3年(1617年)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。明治4年(1871年)九代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。明治24年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。その後、伊勢湾台風などでも被害をうけましたが、昭和36年(1961年)から40年まで4年間をかけて解体修理をおこないました。望楼型の独立天守で、高さは24メートルです。国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城、松江城のなかでも、最も古い城であります。平成16年4月、財団法人 犬山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法人になりました。」(天守閣前の案内看板より)
ちなみに私は、この城への登城は今回で3度目だが、「山」と意識して訪れたのは、実のところ今回が初めてだ。となると山名が気になるが… これについては、城址入口の別の案内看板に「(前略)〜犬山城は、木曽川に面した通称『城山』を中心に、西側にある三光寺山も城郭範囲とする平山城です。〜(後略)」と明記され、手持ちの参考文献にも「(前略)〜犬山の街の北に城山があり、その頂に白亜の天守が深ぶかとした樹林に護られるかのように建っている。〜(後略)」(鳥羽正雄監修/秋田書店刊『日本名城100選』)等… 最近訪れた他の城と代わり映えしないが、これに従うしかあるまい。
天守台上に三角点〜松坂城址(四五百森)
城址探訪2日目の12/9、この日はまず、三重県松阪市にある「松坂城」址に訪問。
ここは、城の種類でいえば「平山城」に属するとはいえ、前日に訪れた犬山城址に比べると比較的平坦で、あまり「山」らしくないので、私も訪問前の時点では本サイトへの掲載を省略するつもりだった。ところが… いざ訪れてみたら、何と天守台の遺構の上に、しっかり三角点標石が据えられており(!) それを見て気が変わった。どうも私、長年山で三角点標石を数知れず見てきたせいか、三角点がある場所には「山」を強く意識してしまうのだ。また、当地の古地名「四五百森(よいほのもり)」も、東北地方などに「○○森」という「山」が多くみられることなどから、山名としてさほど不自然ではないし、それに何より「よいほのもり」という語感が何とも雅で気に入った。で… 今回あえて「山」として掲載することとした次第。
この城址には現存建物はないが、今も残る豪壮な石垣が往時の模様を物語る。歴史の解説は例によって案内看板の文言転記に代弁して頂く。
「国史跡 松坂城跡 指定 平成23年2月7日 面積 47,337.30u 松坂城は、蒲生氏郷が天正16年(1588)この四五百森(よいほのもり)に築城した平山城である。蒲生氏郷が陸奥黒川(現在の福島県会津若松市)へ移封後、天正19年(1591)に服部一忠、文禄4年(1595)に古田重勝と城主が変わり、元和5年(1619)に徳川頼宣が和歌山藩主となると同時に和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領(松坂・田丸・白子等)18万石を統轄する城代が置かれてきた。城は北を大手、南を搦手とし、本丸・ニノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、本丸・ニノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の台風で天守は倒壊したと伝えられている。また、ニノ丸には寛政6年(1794)に着工された御殿(別名徳川陣屋)があった。明治14年(1881)松阪公園となり、現在に至っている。平成24年3月9日 松阪市教育委員会」(松阪公園入口の案内看板より)
藤堂高虎の「高石垣」が圧巻〜伊賀上野城址(阿閇山)
松坂城址への訪問後、我々は同じ三重県の上野市にある「伊賀上野城」址に訪問。
この城、一番の見所は何と言っても築城名人の藤堂高虎による「高石垣」であろう。その上から下の堀を覗き込む際の高度感たるや、なかなか他の城址では味わえない、実にスリル満点だ。(ばかりか、私、石垣の縁の近くで写真撮影中に足元の木の根につまづき(!)、大いに胆を冷やすハメになった…) また、現地に建つ天守閣は模擬復興天守ながら、他の城によくみられる鉄筋コンクリート造ではなく、伝統的な木造建築で、今やこれ自体が貴重な文化遺産になりつつある。その余の歴史の解説は、例によって正確を期し、現地案内看板の文言を次に転記紹介して代える。
「藩祖、藤堂高虎は、慶長13年(1608)8月、伊予国から伊賀国10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内2万石に移封となった。(のち32万3,954石余となる) 高虎は徳川家康の信任が厚く築城の名手でもあった。前城主、筒井定次が築いた上野城の本丸を慶長16年(1611)に豊臣方に備えて西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらした。5層の天守閣は建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風雨のため倒壊した。しかし、慶長19年(1614)の大阪冬の陣と翌年の夏の陣で徳川方が勝利し、幕府は諸大名の城普請を禁じたためこの城では天守閣が再建されないまま城代家老が置かれて伊賀国の城として幕末まで存続した。現在の天守閣は、当地出身の政治家、川崎克氏が文化産業振興の城として復興を志し、熊野の山林家、奥川吉三郎氏らの協力を得て私財を投じて資金を調達し、昭和10年(1935)10月18日に落成した。「伊賀文化産業城」と名付けられ、その優雅な娑から「白鳳城」とも呼ばれ親しまれている。」(天守閣前の案内看板より)
なお、この城址を「山」として見た場合、次に気になる山名については、参考文献によれば「忍者の里で有名な伊賀国(三重県)北伊賀の中心、小高い丘の上に白亜の天守閣が聳えている。この台地の北端は、昔、阿閇山と呼ばれて、西側の丘陵には伊賀国の守護、仁木右京太夫義視の館があった。〜(後略)」(鳥羽正雄監修/秋田書店刊『日本名城100選』)とか「(前略)〜街の北側の丘《阿閇山》には白亜三層の上野城が聳え、別名を《白鳳城》と呼んだ。〜(後略)」(大類伸監修/新人物往来社刊『日本の名城』)等とあるので、当面これに従っておく。なお、この山名をどう読むかについては、これらの書にルビが付されていないので不詳だが、いろいろ調べてみると、どうも「あべやま」と読むらしい。(もし違っていたら、後日修正したい。)
羽柴秀吉の甥・秀次の城〜近江八幡城址(鶴翼山)
城址探訪もはや3日目、最終日となった12/10。この日の主目的地は、滋賀県近江八幡市にある「近江八幡城」址。ここは羽柴(豊臣)秀吉の甥(秀吉の姉・瑞龍寺殿日秀尼公の長男)の秀次が、秀吉の指図により天正13年(1585)から築いた城で、有名な織田信長の「安土城」址から距離的に近い。そのためか、それより先立つこと3年前(天正10年/1582)に本能寺の変で焼亡した同城の残存建物が一部移築されたらしく、城下町の住人も多くは安土からの移住者とのこと。往時の建造物の屋根には信長の安土城や秀吉の大坂城などと同様、金箔瓦が用いられて燦然たるものだったと伝えられ、現在も残る石垣の遺構も山城としては壮大な規模を誇る。特に出丸の石垣は山麓からも明瞭に望見されるほどだが、この城、峻険に過ぎる山上にあったことが一種の欠点で、それゆえ秀次本人も通常は山麓(稲荷山)の居館で執務していたようだ。ただ、それも長くは続かず… その後秀次は、小田原攻め後の織田信勝改易に伴い、かつての信長の居城・清洲城に移り(天正19年/1591)、それからわずか数年後の文禄4年(1595)、突如謀反の疑いをかけられ切腹(豊臣秀頼が誕生したため邪魔となり陥れられたらしい)、同時期に彼が手掛けた近江八幡城も廃城となってしまった。現在、この城の本丸址には、前述の瑞龍寺殿日秀尼公が秀次の菩提を弔うため開山した「村雲御所瑞龍寺」が京都から移築され(昭和37年/1962)、閑静な中にも風雅なたたずまいを見せているが… もし、かの安土城の遺構も含む城の当時の建物が破却されずに現存していれば、大変貴重な遺産となったろうにと惜しまれてならない。
なお、この城址の山名については、『日本の城 ポケット図鑑』(西ヶ谷恭弘著/主婦の友社刊)には「比牟礼(ひむれ)山」という名が見えるが、『日本山名事典』(三省堂刊)には「鶴翼(かくよく)山(八幡山)」とある(鶴が翼を広げたような山容がその名の由来という)。山麓に「日牟禮八幡宮」や「比牟礼山願成就寺」があるところからすると、前者が旧来の呼称なのだろうが、私の手元の参考文献の多くは後者の呼称を記しており… 現在では後者が一般的呼称のようなので、本稿では当面こちらを表題として採用しておく。