山行記録帳(2024)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2024,@〜


 【山行・自然観察リスト】
 2024年最初の山〜皆神山  「小城」址の石積が圧巻〜小布施町の城山(雁田城址)
 2019年夏以来の訪問〜白旗ヶ峰(二本松城址)  伊達氏の旧本拠地〜高館山(桑折西山城址)
 石垣はなけれど規模は雄大〜神明山(久保田城址)  真田氏の重要拠点〜岩櫃城址(岩櫃山中腹)
 甲斐武田氏に永年抗した堅城〜箕輪城址(城山)  生憎の雨の中〜唐沢山城址(唐沢山)
 「壁石垣」が壮観〜仙台城址(青葉山)  三戸南部氏累代の居城〜三戸城址(城山)
 男鹿半島の知る人ぞ知る名城〜脇本城址(男山)  自落した小笠原氏の本拠〜林大城址(東城山)
 久々のプチ「山」気分〜糠塚山  自然観察を兼ねて訪問〜矢筒山(矢筒城址)


 2024年最初の山〜皆神山
 1/1、私にとっては恒例となっている元旦の「山」・皆神山に訪問。
 例年、初詣を兼ねてここに訪問するようになってから、いつしか十年以上にもなるが… 昨年は故あって元旦の訪問ができなかったので、久々に体感する元日の雰囲気とあって、私には何かしら感無量のものがあった。ただ今年の場合、昨年来の例年にない温暖な気候が持続しているせいか、頂上一帯にはまるで積雪が見られず、また空が曇り加減で、飯縄山や戸隠連峰など馴染の山々も見渡せなかったことなどのせいか、いつものこの山とは、また何か違った様子が感じられた。それはそれで、ある意味新鮮ではあったのだが… 今年一年の平穏無事を祈念するに際し、一抹の「胸騒ぎ」めいたものを感じたことも、また事実ではあった。然るにその「胸騒ぎ」が、後刻、はからずも的中することになろうとは…
 皆神山への訪問から数時間後、車を運転中、突然スマートフォンの地震速報がけたたましく鳴り響いた。幸か不幸か運転中とあって、私自身は揺れを全く感じることはなかったが、停車して改めてスマートフォンを見ると、石川県の能登半島で大きい揺れがあった旨。それで初めて大事に気付き、県内への影響が気掛かりで、急ぎ帰宅してTVを付けると、能登半島の輪島付近で最大震度7、街中には火災が発生し、津波も観測されたとのこと… 瞬間、私の脳裡には、以前の東日本大震災の際などの記憶がフラッシュバックして、暗澹たる気分となった。能登半島といえば、昨年の11/5に「七尾城址」に訪問したばかりじゃないか… それに今回大きく揺れたという輪島辺りは、私が少年時代、ほとんど唯一県外への長期家族旅行で訪れた思い出の地でもある。それらの地の現状は? そして何より、そこで暮らす多くの方々の安否や如何に? 大丈夫だろうか…!?
 私は、よりにもよって新年幕開けの1月1日から出来した思いがけない変事に直面し、動揺した心のうちにも、被災地の無事を祈った。







 「小城」址の石積が圧巻〜小布施町の城山(雁田城址)
 今年は年度当初から地震に驚かされ、多少落ち着いてきたかと思えば豪雪… と、元日の皆神山以来、どうも「山」に訪れる気になれずにいたが… 2/17、ここ数日の暖かい気候で里山の雪が大分消えたのを機に、また長男の城址探訪趣味に付き合い、小布施町にある「雁田城址」に訪問。
 この城址、北斎の天井画で有名な「岩松院」の向かって左脇に張り出してきている雁田山の稜線上に位置する。ルートは、館址とされる「岩松院」から、まず物見の城といわれる「小城」へ、次いで岩も露出する険しい急登を乗り越えて本城の「大城」に至る。両城とも郭内には石祠が祀られ、西に北信五岳や北アルプス連峰などの眺めが素晴らしいが、城の遺構的には「小城」直下に見られる石積が圧巻。信州の山城には石積を伴う所が多いが、遺構の規模・迫力的には、信州でも上位の部類だろう。歴史については「大城」址の案内看板に端的に要約されている(参考までに次に引用掲載)。
 「大城(古城) 小城(物見城)と一体で、苅田城と呼ばれる。東西30間半(約55m)、南北15間(27m)、周囲には空堀や用水を引いた樋跡が見られる。築城年代、位置、名称等解明されていない部分も多く、伝説に満ちた謎の城といえよう。古くはアイヌ人の城「チヤシ」あるいは大和朝廷の東征時(3〜4世紀)に作られた柵という。また、東條庄狩田郷の領守職、苅田式部太夫繁雅(元暦元年、1184年の文献あり)の居城と伝えられる。室町時代の貞治6年(1367年)。荻野備後守常倫が築いた二十端城は、この苅田城を含んだものとも言われる。史実からすると、豪族高梨氏との関わりが深く、延徳元年(1489年)以降はその支配が確定した。永禄4年(1561年)武田信玄が高井地方を支配下とするまでの間、苅田城、二十端城、滝ノ入城(千僧坊の北峰、雁田山頂786.7m)等は、高梨氏支配地の南部における防衛線であったと推測される。」
 補足すると、この文中に登場する高梨氏は中野市内に本拠の館(高梨小館城址)を構えていたが、そちらについても県内で初めて確認されたの中世庭園の遺構など一見の価値がある。また萩野氏は、岩松院の開山や、丹羽から栗の苗木を取り寄せ、小布施栗の発祥に深く関係したとのこと。
 なお、最後にこの城址所在地の「山名」だが、『長野縣町村誌 北信篇』中「雁田村」の「古跡」の項を見ると、「古城墟」(大城)は「村の東方字
城山の嶺にあり」、また「苅田城址」(小城)も「本村の東方城山にあり」と明記しており、単純に「城山」と呼称すればよさそうだ。









 2019年夏以来の訪問〜白旗ヶ峰(二本松城址)
 3/21、所用で次男の在学地・青森県弘前市に向かう道すがら、戊辰の戦跡として名高い二本松城址に立寄った。この地、私にはもう3度目だが… 例によって同行者の一人である長男の城址探訪趣味に沿っての訪問。
 まあ… 腰や膝の調子ゆえに、山城址程度の軽い「山」でお茶を濁している最近の私には、まがりなりにも「山」と名の付く場所への訪問は決してやぶさかではない。その点、この城址が「白旗ヶ峰」なる、標高345メートルのれっきとした「山」であることは、前回の訪問時に確認済みだ。
 ルートは前回訪問時と同様、「二本松少年隊」の顕彰碑や「新城館(しんじょうたて)」の址等を見ながら、山腹を右側から回り込み、壮大な石垣を見上げつつ本丸址に達するコースをとった。訪問前の道中で結構雪が舞い、コンディションに一抹の懸念があったが、いざ行ってみると、積雪はほとんど見当たらず、難なく本丸址に到達。最高点の天守台の上に立つと… 二本松市周辺が一望の下の雄大な眺めはもとより、前回訪問時には曇天で拝めなかった吾妻連峰が、今回は姿を見せてくれていて嬉しかった。また、今回は季節的にも、前回の訪問時のように暑さで大汗をかくこともなく、至極快適に、期待通り「山」の雰囲気を味わえた。
 ただ、実はこの日、ここが2箇所目の城址への訪問で… (先に「白河小峰城」址を延々と歩いてきたのだ。そちらは流石に「山」とまでは言えないので、掲載してないが…) その影響による腰や膝へのダメージが、徐々にきいてきている感も禁じ得ず… 今日はこの後、さらに長男の希望により、まだ別の城址を歩かねばならないので、下りは殊更にゆっくり歩を進めつつ、駐車場所まで戻った。







 伊達氏の旧本拠地〜高舘山(桑折西山城址)
 先の二本松城址への訪問後、我々は次なる(本日3箇所目の)目的地「桑折(こおり)西山城」址に向かった。この城址、白河小峰城や二本松城に比べると、いささかマニアックな城址ではあるが、かの東北戦国大名の雄・伊達政宗より三代前の伊達氏第14代当主・稙宗(たてむね)が本拠とした地であり、歴史的に重要な意義を有する城址とのこと。その詳細については、正確を期するとともに備忘の意味も含め、現地案内看板の文言を次に引用紹介することをもって代えさせていただきたい。
 「史跡 桑折西山城跡 平成2年2月19日指定 桑折西山城跡は室町時代に築城され、奥州戦国大名、伊達稙宗・晴宗(奥州探題)の居城跡で、標高193メートルの高舘山を中心に位置し、本丸、中舘、西舘の三郭からなり東西880メートル、南北570メートルの自然の要害をなす中世山城です。陸奥国鎮護、伊達稙宗は西山城にあって天文5年(1536)伊達氏の分国法『塵芥集』を制定し、同11年には、稙宗と晴宗による『天文の乱』が起こり南奥羽諸大名と家臣を二分する大乱に発展し、西山城の攻防が繰り返されました。城跡には、空堀・石塁・土塁・井戸跡などの遺構が良好に保存され、よく戦国時代の大名居城の姿をとどめる重要な遺跡です。(後略)」
 さて、引用文中にあるとおり、ここは一応「高舘山」という「山」とのことで… 「山登り」の私としては、その地に立ち得て密かに自己満足感にひたったのは言うまでもないが… ただ、城址というのは、どこでも大概の場合、しっかり見て歩くとなると結構広くて歩行距離は相当なものだ。まして今日はここで3箇所目、若い長男はともかく、流石に足腰にガタがきている私には、少なからずキツいものがあり… 最後のあたりでは、ただただ「これも訓練だ」と自身に言い聞かせつつ、棒のようになった足を気力で前に歩ませる有様であった。







 石垣はなけれど規模は雄大〜神明山(久保田城址)
 3/22、この日は妻と次男が弘前市内で用事を足している間、私と長男は折角だからと、昨日に続いて「城址巡り」に出発。今日の当初予定は、男鹿半島の付根に位置する「脇本城」址だったが、いざ現地に車を走らせてみると、前夜の内に積雪があったとみえ、融けかけて湿り気を含んだ腐れ雪が結構深く積もっており、無理して行こうとすれば行けないこともなさそうだったが、代償として足許がびしょ濡れになるのが目に見えていた。そこで… しばし思案の末、今回は「脇本城」址への訪問は見送り、代りに秋田市内の「秋田城」址と「久保田城」址に訪問。うち前者は「山」ではないので掲載省略するが、後者は低いながらも一応「神明山」なる「山」に築かれたものゆえ(実のところ「山」というより「千秋公園」だが…)、あえて掲載する次第。なお、この城の歴史的経緯については、最近の例によって現地案内看板の文言を次に引用紹介することをもって代えさせていただく。
 「久保田城本丸跡 久保田城が築かれた神明山は、3つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山とも呼ばれていた。築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られた。東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ4〜6間半(約7.3メートル〜11.8メートル)の土塁を構築している。本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。また、土塁の上を多聞長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門、帯曲輪門の4門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。平成6年12月 秋田市」
 以上だが、若干補足すると、この城、名門佐竹氏の城址にしては、意外や、石垣も天守もなかったそうだが、広大な本丸址の規模は雄大そのもの。「日本百名城」に選定されているのもうべなるかな。なお、積雪はここではほとんど融けて消失しており、歩き易かったのは幸いだった。







 真田氏の重要拠点〜岩櫃城址(岩櫃山中腹)
 6/9、久々に長男の城巡り趣味に付き合い、早朝出立し、上州沼田方面へ。今回のテーマは、戦国時代、特に真田氏関連で重要な意義を有した城砦群、ということで、まずは東吾妻町にある「岩櫃(いわびつ)城」址に訪問(本来なら岩櫃山まで訪れたかったところだが、最近の私の足腰の調子や、時間的制約などから、今回は見送った)。この城の歴史的経緯については、例によって次に紹介する現地案内看板の引用文言に代弁していただく。
 「岩櫃城跡 東吾妻町指定史跡 岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらを中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在します。〜(中略)〜 戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄6年(1563)斉藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。幸綱の推挙により、武田信玄から岩櫃城代に海野長門守幸先が命ぜられ、真田の先兵となり17年の長きにわたり吾妻の地を守りました。天正9年の海野兄弟抹殺の後、岩櫃城は真田昌幸の嫡男信幸を城代とし、弟である信繁(幸村)がここで一時代を過ごしたとも言われています。武田氏の滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による『一国一城令』に伴い、慶長20年(1615)頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破却し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。東吾妻町」
 以上のような古い歴史を有する山城址で「続日本百名城」に選定されているだけに、道はしっかり整備されていて歩き易く、また曲輪や空堀の遺構も明瞭で見応えがあり、往時に想いをはせるには十分な迫力だった。殊に信州人の私にとって、同じ信州の英雄・真田昌幸や真田信繁(幸村)、さらには後に松代藩主となった信幸(信之)が、かつてこの地に立ち、同じ情景を眺めていたかと想うと、少なからず感慨深いものがあった次第。







 甲斐武田氏に永年抗した堅城〜箕輪城址(城山)
 「岩櫃城」址への訪問後、我々は「沼田城」「名胡桃城」と、2つの城址を順次訪問(注:それらはいずれも段丘崖上に築かれたもので、「山」と言うには語弊があるので掲載割愛)、本日の当初予定目的地は全てクリアしたが、まだ若干時間があるので、折角だからもう1城、「日本100名城」の一つ「箕輪城」址にも訪れることに。これで本日4城目、足腰不調の私には多少不安もあったが、いざ訪れてみると流石は100名城、城域は綺麗に整備されていて歩き易く、全くの杞憂。また、名城たる所以は、次の歴史的経緯(本丸址に設置されている石碑文言の引用紹介)を知れば、誰しも異存はあるまい。
 「箕輪城 歴史 箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野業尚(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが、頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月27日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は、春風にうめも桜も散りはてて 名のみぞ残る箕輪の山里 という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年である。武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。天正18(1590)年、北条氏滅亡後徳川家康は、重臣井伊直政を12万石でここに封じて関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約一世紀にわたる歴史を閉じた。〜(中略)〜 昭和57年1月 箕輪城跡保存会」
 なお、この城址の山名だが、後で諸文献を見たが不詳ゆえ… 当面、麓のバス停の名称(「
城山入口」)に従い、「城山」としておく。







 生憎の雨の中〜唐沢山城址(唐沢山)
 7/12から、私は所用で2泊3日行程で次男の進学先(青森県弘前市)に訪れることとなり、そのための「作業人足」に長男を動員したが… その代わり、長男への「交換条件」として、彼の希望を容れ、「城跡巡り」を行程中に組み込むことになった。
 行先はほぼ長男の希望任せで… まず訪れたのが、栃木県佐野市にある「唐沢山城址」。城マニアでない限り、認知度はさほどでないかもしれないが、実は本丸址周辺に意外なほど見事な石垣の遺構が見られる「隠れたる名城」なのだ。また、現在神社のある本丸址が「唐沢山」の頂上という点、「山登り」の私の趣味に合っており一石二鳥。城址の詳しい由来については、例によって現地案内看板の文言の引用紹介をもって代える。
 「史跡『唐沢山城』沿革 唐沢山城は、佐野市の北、高さ240メートルの山全体をいい、往時の広さ550町歩と云われ、周囲を急崖にかこまれ、眺望は、関東平野を一望に、遠く北より日光連山、西に群馬連山、秩父、南アルプス、秀峰冨士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。当社御祭神 秀郷公(筆者注:藤原(俵藤太)秀郷)により一千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に、天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、その功により鎮守府将軍として、関東はもとより奥州方面にまで威勢を張られた。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として16世紀中ごろに現在の形を整えたとされている。関東七名城の一つに数えられ、中世山城の典型としての旧態をよく今に残し、代々の変遷の跡も見られ近世初期にまで下る整備の跡もうかがわれる。江戸初期、山城禁止令により、佐野市の城山公園の地に城換となって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地となり、県立自然公園にも指定され四季おりおりの風景の中に、秀郷公以来の歴史が偲ばれる。〜(中略)〜 唐沢山神社」
 さて、現地訪問時は生憎の雨で、眺望も得られずじまいだったが、例の高石垣の威容たるや、期待に違わず迫力満点! また、帰途には路傍の幟旗の中に「舟木一夫」氏の名を偶然見出し… 短時間ながら興味深い一時だった。







 「壁石垣」が壮観〜仙台城址(青葉山)
 先の「唐沢山城址」への訪問後、我々はさらに「宇都宮城址」と「飛山城址」を歩き(共に栃木県宇都宮市、両者とも「山」ではないので掲載割愛)、初日は宮城県仙台市内で泊。翌7/13、いよいよ青森県弘前市に向かうに先立ち、折角だから青葉山の仙台城址に立寄った。ここは平成28年度に日本遺産に選定される等、最早紹介の必要もないほど有名ゆえ、今更とも思うが… 一応最近の例に従い、本丸址の案内看板文言を次に引用紹介しておく。
 「政宗が育んだ“伊達”な文化 仙台城跡 伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場であった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張りが行われ、翌年1月から普請に着手。工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。〜(中略)〜 仙台城を築いた伊達政宗については、戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていったのです。そして、その文化は政宗だけに留まらず、時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、武士から庶民にまで、さまざまな方面に広がり、定着し、熟成されてゆきました。」
 さて、ここの見所は、本丸址の有名な伊達政宗公の像もさることながら、それ以上に必見なのは、やはり、かの壮大な「壁石垣」の威容であろう。東日本大震災の際、この城址でも各所が被災する中、ここ本丸北塁石垣はびくともしなかったというから、当時の土木技術の高さには全く脱帽だ。







 三戸南部氏累代の居城〜三戸城址(城山)
 「仙台城址」への訪問後、我々は岩手県まで一路北上、途中、長男の希望で二戸市の国指定史跡「九戸城址」に立寄ったが(「山」ではないので掲載割愛)、その後、折角来たのだからと、ついでに近くにある、これまた国指定史跡の「三戸城址」(青森県三戸郡三戸町)にも立ち寄った。(結果、弘前市到着が夜となり、後で妻から大分怒られた(!)。) 同城址の詳しい由来は、例によって現地案内看板の文言を次に複数引用紹介して代える。
 「三戸南部氏の本城 三戸城本丸跡 ここ城山公園(三戸城跡)は、戦国時代の城跡で、三戸南部氏が領国支配をするために築いたところと伝えられています。当城跡は、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上にあり、低地との標高差が90メートルを測る天然の要害です。城内は、頂上に位置する本丸を中心に、重臣たちの屋敷が配置される構造となっています。江戸時代に描かれた当城の絵図に、本丸の様子が詳しく描かれています。これによると、本丸への入口は西側の通路から続き、御主殿の手前は広場となっています。この広場には、御白洲(白砂)が敷かれ、正面玄関には唐破風の門が建っていました。玄関を過ぎると御主殿の中へと至り、その先には御広間・御居間へとつながります。南側には、御書院・御数寄屋・御末・大奥などの建物があり、北側の御居間の奥には姫御殿(中野吉兵衛の室)もあったと言われています。平成27年 三戸町教育委員会」(注:公園駐車場の案内看板より)
 「三戸城は、三戸南部氏累代の居城で、第26代太守大膳大夫信直公のとき、天正18年(1590年)、豊臣秀吉公より糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、和賀、稗貫にわたる南部七郡の地を安堵された本城である。この年7月秀吉公が小田原役の後、奥州仕置の軍を起した際に、信直公は、宇都宮大森の本営で秀吉公に謁し、小田原参陣の功に依って本領安堵の朱印状を賜わり、南部氏は近世大名として強固なる地位と南部二十万石の基礎を確立した。〜(中略)〜 昭和45年8月21日」(注:本丸址にある「糠部神社」の碑文より)
 なお、ここは明瞭に「山」だが、肝心の山名は文献上からも判然とせず… 当面、現地の一般的呼称(「
城山公園」)に従い「城山」としておく。







 男鹿半島の知る人ぞ知る名城〜脇本城址(男山)
 今回の2泊3日行程での所用も、いよいよ最終日の7/14。今日は一気に長野まで戻らねばならぬが… 前夜は遅くはなったが一応予定の所用を果たすことができ、心は軽い。で… 帰途、去る3/22に積雪で訪問を断念した男鹿半島の国指定史跡「脇本城址」にリベンジの「攻城」をかけることにした。
 結果、今回は思う存分、中世城館址の魅力を満喫することができたが… 現地の状況は低標高地の上、良く整備された広大な草原ゆえ、酷暑の炎天下では存外汗をかかされ閉口した次第。歴史等の詳細は、例により現地案内看板から次に引用紹介しておく。
 「脇本城跡 天正5年(1577)下国(しものくに)安東愛季(ちかすえ)が大規模に修築し居城とした城として知られる。愛季はもと檜山(ひやま)城主であり、元亀元年(1570)秋田湊(みなと)城を統合して、小鹿島(おがしま)をも直轄地とし、ひのもと(蝦夷)将軍として蝦夷管轄をも担い、織田信長との交渉のさなか、脇本城を居城とした。盛時の縄張りは茶臼館や岩倉館まで含む。もともと14世紀頃から城館が営まれていたとみられ、愛季の後の城主は脇本五郎修季(ながすえ)の伝承を伴っている。天正17年湊合戦で戦場となり、豊臣大名実季(さねすえ)の時代には本格的修築は許されなかった。近世には大平(おおだいら)城跡、生鼻(おいばな)城跡の通称でも伝えられたが、文化7年(1810)大地震のさい生鼻岬700メートル余が海中に没し、現在は本丸とみられる地域に郭、土塁、空堀、井戸等が残り、黄瀬戸(きせと)、青磁(せいじ)、珠洲陶(すずとう)等が出土する。」(注:登り口の案内看板より)
 若干補足すると、城内にある複数の曲輪群中、「内館」と「馬乗り場」(古館)あたりが中心部だった模様。城内には城下町の脇本本郷集落と船川・北浦方面とをつなぐ「天下道」が通じ、それを境に城址が「内館」エリア(北)と「生鼻崎」エリア(南)に大きく分かれる。ここを「山」として見た場合、北エリアに残る「内館」の大土塁あたりを「頂上」とみなしてよさそうだが、問題は山名で、例のごとく文献上からも判然としない。ただ、現地案内看板によれば、南エリアの一角に「
男山」なる表示がある。城の中心部でないのが多少気になるが… 他に情報もないので、当面これを採用しておく。







 自落した小笠原氏の本拠〜林大城址(東城山)
 7/23、この日私はたまたま夏季休暇で、これまた仕事が休みの長男の希望により、県天然記念物のクジラの化石を見学すべく、松本市(旧四賀村)に向かった。その「四賀の県天然記念物のクジラ化石」とは実は2つあり、一つは穴沢の出土状態のまま保存されている化石、もう一つは「四賀化石館」に展示されている「シガマッコウクジラ」の化石だ(詳細は「山」ではないので割愛)。これらを両方見れば、そこそこの時間になるだろうと思っていたが、いざ行ってみたら、早朝出発したおかげで、全部見終わってもなお余剰時間が生じた。となると自然、折角だから、どこか城址でも… という話になる。そこで、戦国時代、甲斐の武田氏が侵攻するまで松本平の盟主だった、小笠原氏の山城(林大城址)に久々に訪れてみることにした。
 昨年以上に酷暑の夏の炎天下、通常ならこんな時季の低山など敬遠だが、この城址の場合、副郭直下まで車で入れ、また先日の脇本城址と違い樹林の中なので、さほど汗はかくまいと期待して行ってみたら、予想に違わず、木陰の中の道は意外と涼しく一安心。ほどなく本丸址に達し、往時の石積の遺構などを見ながらしばし散策。城址の歴史等の解説については、例によって現地案内看板の文言を次に引用紹介することで代えさせていただく。
 「史跡 小笠原氏城跡 井川城跡 林城跡 建武元年(1334)に小笠原貞宗が信濃守護に任命され、府中(当時の松本の呼称)に入って井川に館を構えました。文安3年(1446)に府中と飯田の小笠原氏の間で家督相続の争いが起こり、府中小笠原氏は井川館から束に四キロメートルほど離れたこの林の地に館を移し、要害として林城を築きました。尾根づたいに多数の曲輪や堀切と竪堀が設けられた強固な守りの林城ですが、その後、天文19年(1550)、信濃に侵攻した武田晴信(信玄)に攻められて自落しました。林城跡と井川城跡は保存伏態が良く、室町時代から戦国時代にかけての我が国における城郭のうつりかわりの典型をみることができます。また、信濃の歴史を知るうえで欠くことのできない重要な遺跡です。その保護を図るため、二つの城跡があわせて国の史跡に指定されました。松本市教育委員会」







 久々のプチ「山」気分〜糠塚山
 今年の夏は、昨年にもまして酷暑の日々が続き、休日に折角の晴天でも、そもそもアウトドアを楽しもうという気にもなれない有様。昔はこんなことはなかったのに… 一体、最近の気候はどうなってしまったのだろうか?
 というわけで、8月にはとうとう、一度も「山」と名の付くものは歩かずじまいに終わってしまい… 9月に入っても、相変わらずの暑さに閉口する日々が続き… もういい加減「山」というものへの意欲を忘れかけた頃、9月も中旬過ぎになったら、やっと少し、外出しようという気力が出る程度には涼しくなってきた。で… はや9月も下旬の9/28、所用で佐久方面に訪れたついでに、手っ取り早く「山」に近い開放感を味わえそうな場所、というので、昨年も訪れた「糠塚山」に立ち寄ってみることにした。
 もっとも、空模様は曇り加減で、期待したほどの開放感という訳でもなく、また、薄暗くて涼しい草原では、動きがあるものとしてはキアゲハやアキアカネなどが時折舞うのを見る程度で、仏塔の脇の草むらの中では、シータテハが枯葉と見紛うような姿で大人しく翅を休めているなど、いつになく静寂感に満ちた雰囲気だったのが少々意外だった。
 ともあれ、狙い通り久々に「山」的な気分を味わうことはできた次第であるが… しばらくして私がその場を後にしようとした時には、先刻まで舞っていたキアゲハさえも、草の上に静かに翅を休めていた。こうなると、先刻のシータテハといい… どうやら、皆さんお休みのところを邪魔してしまったみたいで、私は何やら申し訳ないみたいな不思議な感慨にとらわれつつ、帰途についた。






 自然観察を兼ねて訪問〜矢筒山(矢筒城址)
 最近はコロナ禍明けに加え、秋で気候も比較的冷涼となってきたせいか、下界はどこも人出で賑わい気味で、人混み嫌いの私など、土日には買物の外出さえ鬱陶しく感じられる有様。そんな中、10/14の空模様は朝から晴天ゆえ、軽く「山」でも歩いてみたくなった。もっとも、まだ夏バテが抜けきらない中、あまり汗もかきたくないし、膝の調子も不安ゆえ、手軽に静寂な林間の気分を味わえそうな場所として、飯綱町(旧牟礼村)にある「矢筒山」(矢筒城址)を目的地に選定、周辺の自然観察も兼ねて訪れてみることにした。
 「飯綱病院」脇の登り口は、季節的にまだ訪れる人が少ないせいか、少々薮がちで、いざ踏み込んだら、途端に夥しいヌスビトハギなどの洗礼を受けた。まあ仕方ない、後で払い落とせばいいやと割り切り、樹間でやや薄暗い道に入ると薮はなくなり、山城の郭の遺構を左に見つつ行く快適な道となった。アブラチャンの実などを路傍に見ながら進み、ほどなく「平和観音」や「忠魂碑」がある本郭址の頂上に到着すると、周囲は明るくなるとともに、またしても薮がちとなった。以前の訪問時には、もっとすっきりした印象だったのだが… 静寂な代り、長居する雰囲気でもないので、「平和観音」に一礼すると、すぐ元来た道を戻った。(後で調べたら、前回訪問したのは平成18年(2006年)の3月下旬だったことが判明。それなら当然、植物も成長していなくて明るかったわけだ。この山に訪れるなら、どうもその時季の方がよさそうだ。)
 というわけで、「自然観察」的には、矢筒山の山中よりも、むしろ山麓の方が、より明るく爽やかで印象に残った。飯縄山を背景にした里山地域に、キタテハなどの蝶が舞う情景は何とも長閑であった。