山行記録帳(2023)A
〜Yamazaki's Photo Diary 2023,A〜


 【山行・自然観察リスト】
 下界と大して変わらぬ暑さ〜三峯山  ここもまた三峯山と大差なし〜聖山
 雷雲近づく最中に〜三峯山に再訪  家族サービスの一環で〜志賀高原の横手山
 これもまた「山」!?〜一条小山(甲府城址)  「山」と思えぬ灼熱地獄!〜金山(金山城址)
 国破れて山河あり〜山梨県韮崎市の城山(新府城址)  怠慢の結果てきめん〜有明山将軍塚古墳
 2年ぶりの再訪〜高山稲荷神社(三王坊山)  奥津軽の静かな山城址〜唐川城址
 飛騨高山の「城山」〜高山城址(天神山)  飛騨高山もう一つの「城山」〜松倉城址(松倉山)
 正に山城の白眉!〜能登七尾の「城山」(七尾城址)  新たな発見〜小諸市の飯綱山(富士見城址)
 2023年最後の山〜信長ゆかりの金華山(岐阜城址)


 下界と大して変わらぬ暑さ〜三峯山
 8/11、この日は「山の日」だが、巷は例によって異常な暑さで、大汗をかいてまで山を歩くのは億劫。とはいえ、前週の東館山の例もあるし、ただ家に閉じこもっているよりは、多少涼しい思いもできるかも… と期待し、家族1人と共に昼過ぎに自宅発、馴染みの「三峯山」に駆け上がってみた。
 が… いざ頂上に立ってみれば、文字通りの炎天下で、下界と大して変わらない暑さ。また、この猛烈な暑さを嫌ったものか、周囲に舞う蝶の姿もまばらで、活発なのは、元々暖地性で近年生息地が北上しつつあるツマグロヒョウモンの♂とキアゲハくらいのもの。挙句は周囲の山々の眺めすら、強烈な紫外線のフィルターを通して望むせいか、どうも印象的にパッとしない有様で…
 これでは堪らない、かくなる上は、もう少し高い所へ… とて、今回ばかりは長居もできず、早々にその場を後にした。






 ここもまた三峯山と大差なし〜聖山
 あまりの暑さに、三峯山を早々に逃げ出した我々は、せめて少しだけでもと涼を求め、次いで今年2度目の「聖山」へ。
 こちらは三峯山より300メートルほどは高いから、もしかしたら… と淡い期待と共に頂上に上がってみたが… 結果は三峯山と大して変わらなかった上、周囲に舞う蝶の姿はさらに減り、ここではついにキアゲハしか目につかなかった。さらには、この山の頂上の最大の醍醐味ともいえる北アルプスの連嶺の眺めすら、稜線部に雲がかかって今一つ… という散々な状況。要するに、この酷暑の下、わざわざ一番暑い時間帯に訪れた我々が馬鹿だったのだ、と自ら認めざるを得ない体たらく。
 おまけに頂上直下ではアブの大群の攻撃を受け… かくて、ここでもその場に長居はできず、早々に帰宅の途につかざるを得なかった次第。
 まあ「山」といえど、常に良い条件ばかりとは限らず、たまにはこんなこともある。次はもう少し、標高の高い山に行きたいものだ。







 雷雲近づく最中に〜三峯山に再訪
 昔は盆を過ぎれば、夏の暑さも一段落するといわれ、実際にそうだった記憶があるが、最近は「地球温暖化」だか、はたまた地軸がズレたのか、盆過ぎでもさほど涼しさを感じられた例がない。今年の8/19もその例にもれず… 余りの暑さに耐えかね、昼過ぎからちょっと自然観察を兼ねて標高の高い所に上がってみようと家を出たが、そんな時間からでは行ける範囲は限られ… 結果、8/11に訪れたばかりの「三峯山」に早くも再訪することになった。
 と… 今回は空模様が曇り加減で、陽射しがある程度遮られていたせいか、8/11に比べると多少は涼しく、そのせいか、頂上一帯に舞う蝶の姿も、普通種ばかりではあったが比較的多く目についた。ミヤマカラスアゲハ、クロアゲハ、キアゲハ、コミスジ、メスグロヒョウモン♀、ツマグロヒョウモン♂、ゴイシシジミ、ダイミョウセセリ、等々。中でも夏眠する種の一つであるメスグロヒョウモン♀に出逢えたことから、巷はまだまだ暑くても、山はもう秋も近いのだということを実感させられた次第。
 ただ、曇り加減の空模様は、どうやら夕立の前触れらしく、頂上滞在中から遠方に雷鳴が耳につき始め、しかもそれが段々近づいてくる様子。それで、さほど長居もできず、適当な時点で帰途についたが、途中、千曲市八幡あたりから車窓ごしに坂城町方面を見ると、その辺りが猛烈な雷雨に見舞われている様子が、まるで薄墨が空から流れ落ちているかのごとく明瞭に望見できた。こりゃあすごい、山であれに遭わなくてよかったわいと他人事のように思っていたら、千曲市街地に下ったあたりで、今度は自分たちまでがその真っ只中に突入してしまい、フロントガラスに飛び散る飛沫で運転に難渋させられるハメになった。まあ、これで多少涼しくなったのだけは幸いだったが… 後で聞いたら、この雨のせいで鉄道が運転見合わせになるなど、相当の影響があったものらしい。また、坂城町では落雷により火災まで発生したとかで… 全く、大自然の脅威というのは油断がならないものだ。







 家族サービスの一環で〜志賀高原の横手山
 8/27、この日は文字通りの「家族サービス」で、中野市や飯山市の各所を巡ったが(全て「食道楽」の類)、その帰途、時間があるので、折角だから数年ぶりに志賀高原の横手山に上がってみることにした。
 無論、限られた時間の中で、かつ家族同伴ゆえ、登りには「渋峠」からの夏山リフト利用という安直な手段を用いたが、足腰の調子があまり良くない最近の私には、こんな山こそ、本当に有難い存在と言わざるを得ない。とはいえ、せめて今少しは足腰の調子を元に復し、また自身の二本の脚を頼りに、心おきなく山を歩けるようになりたいものだが…
 ともあれ、ほどなく到着した頂上では、まずは三角点のある「横手山神社」に参拝し、周囲の展望をしばし堪能した上、とって返して有名なパン屋に立ち寄ってみたところ、案の定「売り切れ」だった。まあ、時間が時間だけに、殊更に期待もしていなかったが… 大体今回の「家族サービス」の主目的が「食道楽」ゆえ、これ以上太る原因物質を自身の体内に摂り込まなくて済んだのは不幸中の幸いだったというべきか(!?)。
 なお、参考までに、今回我々が「食道楽」を試みるに至った理由は、中野市や飯山市の「道の駅」に備えてある「北信州 甘味新書」なるパンフレットを偶然入手したのが始まりだった。しかも実際に訪れてみて、期待外れの場面は全くなく、実に良き週末の一時を過ごすことができた次第。私より痩身の皆様には、飯山市の「バナナボート」巡りなど、是非お薦めしたい。(ただし、後で健康や体重がどうなろうと、全て「自己責任」で願いたいが…)







 これもまた「山」!?〜一条小山(甲府城址)
 9/2、この日は長男の希望により、久々に信州から「越境」して、山梨県の某所に訪れ、その帰途、甲府市の「舞鶴城公園」(甲府城址)に立寄った。この城址、近年「稲荷櫓」や複数の城門が復元されたこともあり、実は私としても一度訪れてみたいと思っていた所だった。しかもこの地、私が学生時代に岩波文庫版で接して感銘を受けた真山青果作『元禄忠臣蔵』の中盤において、大変印象的に登場する徳川綱豊(後の第六代将軍家宣)の元居城でもあるのだ(第五編『御浜御殿綱豊卿』)。かく私としても密かな思い入れのある場所に、今回、長男のお陰で、はからずも訪問の機会が得られた次第。
 もっとも、公園近くの有料駐車場に駐車し「内松陰門」から入城した時点で、時刻は既に午後4時過ぎ。あまり時間的に余裕のない中、段差が広く登り難い石段を息をはずませつつ天守台まで上がると、そこは存外涼風が吹き抜け心地好く、また平山城らしく周囲の甲府市街地の眺めが良好で… 正に一寸した「山」気分を堪能できた。そこで、帰宅後に調べてみたら、やはりこの地、かつては「一条小山」と呼ばれ、一応「山」扱いだった地らしいので(!)、折角だからここに書き留めておくことにした。(とか言いつつ、実は最近諸事情でネタ不足ゆえ、無理矢理「山」にこじつけた感もあるが…)









 「山」と思えぬ灼熱地獄!〜金山(金山城址)
 9/18、この日も去る9/2に引き続き長男の希望により、また信州から「越境」して、群馬県太田市にある日本百名城の一つ「新田金山城」址に訪問。
 この城址、私は2019年のほぼ同時期(9/22)に一度訪れたことがあり、その際は山城の遺構とは信じられないくらい豪壮な石垣の遺構や、他ではあまり見られない円形の池(「日の池」)の遺構に度肝を抜かれたものだが… その時はまさか再度ここに訪れることがあるとは思ってもみなかった。それから約4年、まさか長男の口から、この城址を見たいなどという言葉が聞かれるとは、なおのこと予想もしていなかった。(もっとも、そのきっかけは「ゲーム」の類らしいが… 何にせよ、歴史に興味を持つのは悪いことではあるまい!?)
 で… 実際に訪れてみると、大手虎口前からの豪壮な石垣の迫力は相変わらずで、円形の「日の池」遺構の奇抜な景観から受ける印象も、先の訪問時と違わずフレッシュなものだった。また金山頂上(金山城本丸址)直下にある推定樹齢800年の「金山の大ケヤキ」も、相も変わらず緑豊かな樹枝を周囲に張り出し、木陰の広さに唖然とするほどだった。ただ誤算は… もう9月も下旬に近いのに、盛夏とまるで変わらぬ猛暑! それは正しく殺人的で、金山頂上の「新田神社」と「御嶽神社」に参拝し、社殿前のベンチに腰掛けて休んでいる間も、汗は全身から間断なく湧いて出て、全く収まる気配もない。
 これには、人一倍の汗かきと自覚している私も、さすがにいささか身の危険を覚え、長居は無用と、汗で湿ったタオルを絞りつつ駐車場まで戻ったが… 車にたどり着いた時には、全身まるで風呂上がりでのぼせたような状態になっていた。直ちにカーエアコンの全力稼働で全身を冷やし、どうにか事なきを得たが… これで今一歩進めば今年よく聞く「熱中症」の世界だったろう。いやはや、長年「山」を歩いてきたが、今回のような体験は初めてだった。全く、今年の夏の「危険な暑さ」は油断がならない。これでは、涼しい秋山歩きを気軽に楽しめるようになるまでに、まだ当分かかりそうだ。







 国破れて山河あり〜山梨県韮崎市の城山(新府城址)
 9/24、この日もまた例によって長男の希望により、山梨県韮崎市にある「新府城」址に訪問。
 ここは、甲斐の武田氏(勝頼)が最後に築いた城として、あまりにも有名な地だ。時は武田氏滅亡まで余すところ1年余という天正9年(1581)2月、甲斐盆地の北西、八ヶ岳火山の噴出物により形成された「七里岩」の台地上に、勝頼の命により築城開始。普請奉行は徳川の大軍を上田城に迎え撃ち二度までも撃退した知将・真田昌幸。夜を日に継いだ突貫工事の末、同年12月24日、勝頼はようやく躑躅ケ崎の館から、この新城へと移転したが… 時既に遅く、翌天正10年3月3日、織田軍の侵攻に際し、勝頼は在城僅か70日弱で、戦わずしてこの城を自焼し退去。そして3月11日、田野(現・山梨県甲州市大和町)において、勝頼は夫人や子の信勝と共に自害、ここに戦国の雄・武田氏は滅亡するに至った。
 そのような歴史を念頭に、いざこの城址に立つと… 正に昔の漢詩のごとく「国破れて山河あり」といった感が強い。せめてもの救いは、この地で信州の高遠城のように悲惨な実戦が繰り広げられることなく済んだことであろうか… それにしても、この城の本丸址の広大さたるや、名門・武田氏の威風を、今日に至るまでよく伝えていると言わざるを得ない。
 まあ、有名な城址ゆえ、私のごとき素人が、この上無用な解説を加える必要もあるまいから、その余の記述は略すが… ただ一点、この城址を「山」として見た場合の「山名」の検証のみ、備忘のため次に記しておこう…。この城址がある「山」の名は、国土地理院の地形図上にも記載はないが、『日本城郭大系 8 長野・山梨』(新人物往来社刊)によれば、この城址の所在地は「韮崎市中田町中条上野字
城山」、標高522mと明記されている。一方、韮崎市ホームページには「標高約524メートルの「西ノ森」と呼ばれた小山」とある。(本稿のタイトルは無難に「城山」としておいた。) なお、『三省堂 日本山名事典』(三省堂刊)には、この両者とも記載がなく、より広い範囲での『七里岩丘陵』が掲載されている。







 怠慢の結果てきめん〜有明山将軍塚古墳
 9/30、この日は午前中が野暮用でつぶれたが、午後に若干、余剰時間が取れたので、軽く身体を動かしに行こうと、千曲市にある有明山に向かった。
 この山、私にとっては昨年も「脚力回復訓練」で訪れた馴染みの山だが、今年は夏があまりの暑さゆえ、こと「山」に関しては、しばらく大分怠けてしまったので、ここらで多少「訓練」しておこうとの腹積もりであったが… いざ訪れてみたら、最近の「訓練不足」はてきめんに表出した。
 まずもって、登り口を見た瞬間からして「あれ、この山、こんなに道が急だったっけ…?」と思った。首を傾げつつ足を踏み入れ、当面の目標「有明山将軍塚古墳」に向けてジグザグに高度を上げていったが、そのうち「おや、この道の『踏み応え』、こんなに固かったっけ…?」と思った。実際、路面は昨年の訪問時とは違ってカラカラで、今年の降水量の少なさが実感される。それに路面に落葉があまり見当たらないのも妙だ。あるいは最近「清掃」されたものか? しかし、路面が固いというのは、私には(殊に膝にガタが来つつある最近の私にとっては…)アスファルト道路を歩くのと似たようなもので、どうも山の「暖かみ」が感じられず、何より脚の疲れが増進される。おまけに断続的に続く蚊の襲来までもが鬱陶しいときた。
 こうなると、今度は「あれ、古墳までの道、こんなに長かったっけ…?」と思い始め… こうなると最早「負の連鎖」は止めようもなく、そのうち発汗がやたらと促進され始め、ようやく古墳にたどり着いた時には、首にかけたタオルが絞れば音を立てて水が迸るほどに湿り切っていた始末であった。気候は数週間前よりも大分涼しくなりつつあるはずなのに…? 身体能力の遺憾なき発揮には、精神的要素が多分に影響を及ぼすことを、今更ながら実感させられた次第であり… かくて今回ばかりはこの時点で、さらに先(頂上)まで進む元気が失せてしまった。
 それで、古墳の周囲を一回り眺めた後、下山に移ったが、今の私には下りの方が膝にかかる負担も重く、登りよりかえって汗を大量に絞られるハメとなり… 全くもって、ふんだりけったりの結果に終わったのであるが、それでも「訓練」という見地からは、あまり楽すぎても意味をなさないし、実際、このところの自身の怠慢を再認識できたので… 少なくともこの点に関しては、短時間ながら多少の役には立ったようだ。






 2年ぶりの再訪〜高山稲荷神社(三王坊山)
 10/7から、私は3日間の日程で、次男が通う大学の所在地(青森県弘前市)に、その次男に関する所用で訪れたが、所用の大部分は初日で一段落したので、翌10/8、少し近辺を家族と共に巡ってみようということになった。となると問題は目的地だが… 今回は長男が初めて同行していたので、彼がまだ見ていない有名な観光スポットということで、思いがけず2年数か月前に参拝した「高山稲荷神社」に再訪する機会を得た。と… 今回は前回訪問時とはうって変わって空はきれいに晴れ渡り、「三王坊山」上の樹間からは、日本海が青く鮮やかに見渡せたのが嬉しかった。
 他の情景は前回と大同小異だったので、ここでは措くが… 代りに折角だから当神社の案内看板の由緒書を次に転記しておきたい。
 「当社の御創建の年代は詳らかではないが、鎌倉時代から室町期にかけて此のあたりを統治していた豪族安藤安東(藤)氏の創建と伝えられる。
 江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社伝には、十三湊(とさみなと)東方に山王日吉神社を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)氏の祈願所として栄えるも一四四三年(嘉吉三)[または一四三二年(永享四)]頃に南部勢の焼き討ちにより焼失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まられた、と伝えられる。
 稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(一七〇一)播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の江戸城中での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉戴し、流浪の果て津軽の弘前城下に寓し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し醸造業を営み栄える。その子孫が渡島に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は他にも諸説あるが、何れも江戸時代に入ってからのものである。
 これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し元々の山王神社が後退したものと考えられている。」







 奥津軽の静かな山城址〜唐川城址
 先の高山稲荷神社への訪問後、我々は「十三湖」畔へ。たまたま見出した案内看板を見ると、ほど近い山上に「唐川城」なる城址があるのを発見した。たまたま「城ファン」の長男も同行しており、車道も結構上まで通じているようだったので、当初予定にはなかったが、参考までに訪れてみることに。
 山麓では牛がノンビリ憩う長閑な牧場の情景を見つつ、城址の標柱と東屋がある展望台まで車を走らせると、そこからは眼下に「十三湖」や、さらにその背景には津軽の名峰・岩木山の眺めが良好。現地案内看板によれば、城の遺構は、そこから背後(北側)に延びており、500m余り先が最高点の「中央郭」である旨だが、付近を見ても、そこに向かう道らしい道が見当たらない。あえて行こうとするなら薮の中を進む以外になさそうだったが、少し足を踏み入れてみたら、周囲にたちまち蚊が集まり出す始末。これでは堪らないので「中央郭」への訪問は断念、今回は展望台からの眺望を堪能するのみにとどめたが… 例によって備忘のため、現地看板の文言の一部を、次に転記しておく。
 「唐川城跡は十三湖北岸の標高140〜160mの独立丘陵上にあります。唐川城跡の中腹にある展望台からは、岩木山や日本海、十三湖の絶景を眺めることができます。ここからの景観は中世に西浜と呼ばれた地域を一望でき、岩木川水系や日本海の水上交通を押さえる要衝にあったことが分かります。唐川城跡は展望台裏の高い平場にあり、土塁と堀跡などが現在も良く残されています。
 これまで唐川城跡は伝承に従って、安藤氏に関わる中世城館と理解されてきました。南部氏に追われた安藤氏が居館であった福島城跡を捨て、最後に立てこもった詰城と理解されてきました。いよいよ落ち延びる際に、今も残る井戸跡に宝物を隠して、北海道へ渡っていったという興味深い伝承があります。
 平成11〜13年度に富山大学がその実態解明のため発掘調査を行いました。その結果、安藤氏時代よりも古い平安時代後期(10世紀後半〜11世紀代)に築城されたことが判明しました。高地性環濠集落と呼ばれる性格のものであり、その後、安藤氏時代(15世紀)に一部が再利用されていることが判明しています。唐川城跡は南北700m、東西200mの規模を持ち、他の環濠集落を圧倒する大規模なものです。山頂の平坦面には土塁と堀によって、大きく3つの郭(北郭・中央郭・南郭)が設けられ、その東側には帯郭状の堀を巡らす比較的単純な構造になっています。さらに、北郭と南郭には現在でも大きな井戸跡が残っており、南郭の井戸跡周辺には竪穴住居跡と考えられる窪地が多数確認されています。発掘調査では主に南郭の井戸跡と周辺の竪穴住居跡群の調査が行われています。(後略)」
 なお、この後、折角だから上記文中に出てくる安藤氏の居館「福島城」址にも訪問。そこでは館を取り囲む土塁と堀の遺構が明瞭で興味深かった。






 飛騨高山の「城山」〜高山城址(天神山)
 10/29、例によって長男の「城攻め」に付き合い、岐阜県高山市の市街地の東にある「高山城」址に訪問。
 この城址の山名は、『三省堂 日本山名事典』(三省堂刊)には「
城山」(しろやま)と掲載されており、また現地も「城山公園」と呼ばれて整備されているので、特に問題はなさそうだが、『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社刊)によれば、この城址の所在地は「天神山」で、「城山」は現在の通称とのこと。まあ、どちらも正しそうだから、本稿のタイトルには両者を組み込み記した次第。
 それはともかく、私はこれまで、この山の山麓(高山城三之丸址)にある「飛騨護國神社」や、その上の「城山公園」駐車場までは訪れたことがあったのだが、本丸址である頂上まで訪れる機会を得たのは今回が初めてで… もし、長男の「城攻め」趣味がなければ、あるいは一生、訪れることなく終わったかも知れない。全く、人生の「巡り合わせ」というものは不思議なものだ。
 さて、この城にまつわる歴史については、例によって備忘の意味も含め、本丸址の案内看板の文面に「代弁」していただく。(最近このパターンが多く、私が「手抜き」しているように思われるかも知れないが、実は看板の写真から文字に起こすのも結構な手数なのだ。どうか御容赦の程を…)
 「標高686.6メートル、通称城山、別名を臥牛山、巴山ともいう。金森入国以前は『天神山城』とも呼ばれた。飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって、文安年中
1444〜49 に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれた。
 永正年間
1504〜21 には高山外記が在城していた。
 天正十三年
1585 七月、金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜わった。城地として、最初は鍋山城(現漆垣内町)を考えたが、後、この天神山古城跡を選定した。飛騨の中央にあり、東西南北の街道が交差する最も適所と考えたのである。
 築城は天正十六年
1588 から始め、慶長五年 1600 までの十三年で本丸、二之丸が完成し、以後可重(ありしげ)によって更に三年で三之丸が築かれた。高山城は、信長の安土城構築直後に築かれ、大きな影響を受けている。軍事的機能を最優先させた城ではなく、御殿風の古い城郭形式をもち、外観二層、内部三階の構造をもつ天守をそなえているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置付けられる。
 本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。南の大手方面には南之出丸、北の搦手方面には東北曲輪、中段屋形が配置される。
 昭和三十一年九月七日 岐阜県指定史跡」
 案内看板の文面は以上だが、若干補足すると、この城はその後、元禄5年に金森氏が出羽国(現・山形県)に移封されてから、しばらくの間は金沢藩が城番を勤めていたが、元禄8年に至り、幕府の命により廃城となったそうだ。要は存外「短命」な城であったわけで… おそらくはこの事実が、最近流行りの「日本百名城」とか「続・日本百名城」にこの城が選定されていない一因なのであろう。







 飛騨高山もう一つの「城山」〜松倉城址(松倉山)
 先の高山城址への訪問後、我々は本日第二の目的地にして、今回の「城攻め」で長男の第一の目当てである「松倉城址」へ。
 この城址、高山市街の南西にある標高856.7メートルの山上に位置する、岐阜県指定史跡の山城址だが… 私は実は、今回長男に教えられるまで、その存在すら知らなかった。実際、公園として大々的に整備されている先の高山城址と比べると、いささかマイナーな感は否めないし、また高山城址と同様、例の「日本百名城」や「続・日本百名城」にも選定されていないのだが、いざ訪れてみると、いきなり山上に現れる石垣の壮大さに度肝を抜かれる。その迫力たるや、全く高山城址の比ではない。いやはや、世の中、まだまだ私などには未知の隠れた仰天スポットが、案外身近な所でも探せば数限りなくありそうなものだということを、この機会に改めて再認識させられた次第。
 さて、この城址には、歴史を記した案内看板の類が見当たらなかったので、『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社刊)等を参考に概略のみ記すと… この城は天正7年(1579年)に三木自綱(みつきよりつな)が築城して桜洞(さくらぼら)城から移り、飛騨一円平定の拠点としたが、それからほどなくして、三木氏は越中の佐々成政に与して羽柴秀吉と対立し、天正13年(1585)、秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受けた。この時、松倉城には自綱の二男秀綱が在城し、自綱は高堂城に在ったが、まず自綱が守り切れずに開城して京都に脱出、松倉城も数日間の激戦によく耐えたが、内応者の出現をきっかけに、閏8月6日ついに落城。秀綱一党は逃亡途中で土民の襲撃に遭い自害、松倉城はそのまま廃城となったという。
 なお、この山城址がある山の名について、住所は「高山市松倉町(あるいは西之一色町)字
城山」となっているが、『日本城郭大系 9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社刊)等を見ると「松倉山」と明記されている。ただし『三省堂 日本山名事典』(三省堂刊)には両者とも未掲載だ。そこで、本稿のタイトルには当面、両者を組み込んで記しておくこととする。









 正に山城の白眉!〜能登七尾の「城山」(七尾城址)
 11/5、またしても長男の「城攻め」に付き合い、石川県七尾市にある山城「七尾城址」に訪問。この城址、これまで見てきた幾つかの山城址に勝るとも劣らない、豪壮な石垣の遺構が見られるのみならず、越後の上杉謙信がこの城の攻略に際し月下に詠じたという次の漢詩によっても名高い。
 「霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷懐遠征」
 
(霜(しも)は軍営(ぐんえい)に満(み)ちて秋気(しゅうき)清(きよ)し 数行(すうこう)の過雁(かがん)月(つき)三更(さんこう) 越山(えつざん)併(あわ)せ得(え)たり能州(のうしゅう)の景(けい) 遮莫(さもあらばあれ)家郷(かきょう)の遠征(えんせい)を懐(おも)うを)
 (公財)日本城郭協会選定「日本百名城」にも名を連ね、現地案内看板も「戦国の名城・七尾城」と鼻高々(!)。以下、その文言を転記紹介する。
 「七尾城は室町幕府三管領の一つ、畠山氏から分かれた能登畠山氏の居城である。
 石動山山系の北端に位置し、標高約三百米の尾根に長屋敷(長殿丸)・本丸・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配置、この尾根から枝分かれする幾筋もの尾根にも大小無数の砦を配置している。それ故に、七尾という地名は、七つの尾根に由来するという。
 築城年代は明らかではないが、戦国期に入ってから逐次拡張・増強されたとみられる。永正・天文(一五〇〇年代前半)の時代は最も政治的にも安定し、文化が栄えた。大永六年(一五二六)当代一流の歌人冷泉為広・為和父子が七尾城に来訪し、天文十三年(一五四四)の記録では、城山山麓に城下町『千門万戸』が一里余りも連なったと見える。
 天正五年(一五七七)、越後の上杉謙信の攻略にあって落城、能登畠山氏は滅亡した。
 本丸から三の丸にかけての一帯は、地形を巧みに利用した規模雄大な縄張と、石垣・土塁・空堀、それらを備えた曲輪の保存状態が良いというので、昭和九年十二月二十八日国の指定史跡となった。(七尾市)」
 で… 実際に歩いてみての感想は、決して誇張にあらず、これぞ正に山城の白眉! 未訪の方には、是非、一度訪れてみていただきたい。
 なお、最後に例によって、この城址の所在地の山名検証を記しておこう。まず『三省堂 日本山名事典』(三省堂刊)には単純に「
城山」(じょうやま)とあり、国土地理院の地形図も同名で表示されている。一方で井上宗和氏著『日本の名城 知識と鑑賞の旅』(雄山閣刊)には「城地は海抜300メートルの松尾山と呼ぶ高地〜」云々とあり、あるいは西ヶ谷恭弘氏著『日本の城 ポケット図鑑』(主婦の友社刊)には「海抜310mの七尾山の山城〜」云々ともある。私の心情的には、前者は余りにありふれた呼称ゆえ、後者のいずれかを優先したいところではあるが… どちらにすべきか決めかねたので、本稿のタイトルは結局無難な「城山」としておいた次第。










 新たな発見〜小諸市の飯綱山(富士見城址)
 11/19、この日は、例によって長男の希望により、小諸市の「小諸城址」に訪れ、まずは大手門の遺構を見た後、「懐古園」内をじっくりと見て回ったが… その後、若干時間があったので、長男が近くにある「富士見城址」(飯綱山)に立寄っていきたいと言い出した。
 私は無論、二つ返事で同地へと車を走らせた。それというのも、この城址、私にはかねて山城址というよりは「飯綱山」という名の「山」として馴染みの場所で(実は昨年11/26にも訪れたばかりだ)、晴天なら間近に迫る浅間山や八ヶ岳連峰等の雄姿に圧倒されるのはもとより、その名のごとく、遠く富士山までも望めるという展望良好の地であり… 今日の空模様は正しく絶好の晴天であったからだ。
 そんな地ゆえ、私は勝手知ったる場所のこととて、特に深く考えもせず、気軽に訪れたわけだが… いざ現地に訪れてみると、頂上本丸址より西側の「三の郭」との境の石積が、崩れたのか何やら積直しの工事を行っている最中。それで、いささか残念に思っていると、長男が、三の郭の右下から、南側をぐるりと周回して駐車場に戻るルートを歩きたいとのこと。そういえば私、いつも三の郭から元来た道を戻っており、これまで周回コースを歩いたことがなかったので、折角の機会だからと言われるままに歩き出してみると…
 少し進んだら、何と、まるで欧州の古城の城壁のごとく大規模な石積が行く手に出現したので驚いた。まさか、三の郭より下部の周囲を取り巻く石積が、かくも壮大で立派なものだったとは! 私はこれまで幾度もこの地に訪れていながら、これを目にしたことがなかった。最近、長男のお陰で、しばしば、これまで未知であった情景を目にしてきているが、今回もまた然り。それも、自身がこれまで馴染みだった地で、かくも新たな発見があるとは!(もっとも後で調べると、ここは廃城後、長く耕作地として活用されていたため、全ての石積が中世城郭の遺構とは限らないらしいが…)
 なお、富士山はじめ周囲の山々の展望が良かったのは言うまでもなく、短時間ながら思いもかけず充実した一時を過ごすことができた。







 2023年最後の山〜信長ゆかりの岐阜城址(金華山)
 2023年もあとわずかとなった12/28〜29、私は長男の「城攻め」に付き合い、愛知県〜三重県〜岐阜県と諸城を巡ったが、その過程で(2日目の12/29)、岐阜県岐阜市にある「岐阜城」址に訪問。これが私にとって、はからずも2023年の最後の「山」となった。
 この城址、古くは鎌倉時代に築かれた古城が最初とのことで、「稲葉山」城と呼ばれたが、その後100年ほどの間は廃城状態となっていたらしく、次に歴史の表舞台に登場するのは戦国期、下剋上の代名詞的武将として知られる斎藤道三がここを修築してからのことである。以来この城は斎藤家三代(道三・義竜・竜興)が居城としたが、永禄年間に織田信長に奪われ、以後城名は「岐阜城」、また山名は「金華山」と改められたという。その後、信長の安土城築城・移転と共に子の信忠が入城したが、本能寺の変で信長共々自刃、代わって城主となった信長の三男信孝も兄信雄等と争いの末に死亡。次いで豊臣秀吉の命で入城した池田信輝の長男元助は長久手の戦で父と共に討死し、次男輝政が6年ほど在城したが、その後に入った秀吉の養子秀勝は文禄の役で朝鮮に出征中に病没、さらには次に入城した織田信忠の子・秀信は関ケ原の戦で西方に与したばかりに東軍に攻められ開城降伏… といった具合に、どうもこの城に拠った者には、かなりの確率で後に悲運が訪れている(戦国期最初の城主斎藤道三すら、後に子の義竜と争い討死しているのだ(!))。
 しかし、それらの事実はまた、この城が確かに当時、歴史の中で重要な地位を占めていたという証左でもある。そして今日、私のような歴史ファンにとっては、ここがかの有名な織田氏や斎藤氏の城だったというだけで、何か他の城址とはまた違った感慨を禁じ得ない。
 もっとも今回の旅は、膝や腰が不調な最近の私には少なからずオーバーワークで、12/28には「名古屋城」「清洲城」「亀山城」「津城」と、4城も暗くなるまで歩き回った挙句、12/29も午前中にあの広い伊勢神宮(内宮)に参拝し、その後に訪れたのがここ「岐阜城」であったものだから、実のところ現地では足が棒のようで結構ツラかったが… それでも何とか復興天守の最上階に辿り着き、山麓の長良川の悠久の流れなどを見下ろすにつけ、自然、杜甫の漢詩の一節「国破れて山河あり」が頭に浮かび… この城にまつわる往時の歴史へと想いをはせつつ感慨深い一時を過ごすことができた。