山行記録帳(2023)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2023,@〜


 【山行・自然観察リスト】
 2023年最初の山〜臥龍山(須田城址)  今年初めて得られた好展望〜森将軍塚古墳
 訪問の契機は自身の失策〜一重山(屋代城址)  雨後に得られた意外な好展望〜旭山(旭山城址)
 「訓練」と割り切って訪問〜葛山(葛山城址)  ようやく訪問できた馴染みの山〜皆神山
 展望狙いで訪問〜富士ノ塔山(富士ノ塔砦址)  中世山城を見事に再現〜上山田の城山(荒砥城址)
 一寸「山」気分〜上田市半過の岩鼻(「千曲公園」)  「日本三大山城」の威容〜高取山(高取城址)
 今も継承される民間信仰の厚さを体感〜霊諍山  ちょっと立ち寄り〜中野市壁田の城山(壁田城址)
 ゴールデンウィークの混雑を避けて〜聖山  久々に味わう残雪の「山」気分〜坊主山
 爽快な山の一時〜志賀高原の東館山


 2023年最初の山〜臥龍山(須田城址)
 1/2、私にとって2023年の最初の山は、須坂市民の憩いの山である「臥龍山」となった。
 本来なら、1/1の元旦に、長野市松代の「皆神山」に初詣を兼ねて訪れるのが恒例なのだが、今年の場合、故あって訪れることができない状況であったため、元日は十数年振りに久々にインドアで終始した。それで、1/2を今年の「山」初めにするにあたり、訪問先をどこにするか思案の結果… 昨年の暮れ近くに腰が抜けたのが回復してから、さほど間が空いていないこと等を考慮し、ここは無理なく散歩気分で歩ける場所、ということで、私には少年時代から親しんだ馴染みの山でもある「臥龍山」に久々に訪れてみることにした。
 この日は、家族の大半が妻の実家に行き不在だったので、たまたま在宅した長男を誘い、昼頃に自宅発、午後1時過ぎ頃に「興国寺」脇の駐車場に到着。そこから徒歩で、とりあえずは鞍部の橋の上に出て、まずは北へ、三角点のある頂上の方向に進んだ。行くみちみち、須坂市天然記念物指定の「根上がりの松」や、歌人山口青邨の「囀りや三太刀七太刀剣の舞」の句碑、臥龍山古墳2号・1号、と見ながらノンビリ歩き、ほどなく達した頂上では、意外にも西側の木々が伐採され、松の苗木が植栽されていた。松林の再生中とのことだが、皮肉にもそのお陰で、眼下に拡がる須坂市街地の俯瞰はもとより、その背景の山々の展望が開けていた。もっとも今日の空は曇り加減で、昨年12/30の妻女山の時と同様、良好に望めたのは近隣の里山だけだった。
 眺めをしばし楽しんでから、往路を鞍部の橋上まで戻り、今度は戦国時代の山城址(須田城址)がある南の峰へ。途中、臥龍山観世音のお堂や、幕末の須坂藩主堀直虎公の霊廟を見つつ、わずかに急斜面を上がると城址着。こちらは、先刻の三角点頂上とは一転して比較的狭く、四阿と、その脇に城址の説明板や、屋根石だけの石祠などがある程度の寂れた雰囲気。周囲も樹木に囲まれ展望にも恵まれない地味な場所だが、私には少年時代に南の崖伝いに初めて登った想い出の場所だ。もっとも、さほど長居するほどの場所でもないので、しばらくすると、我々は往路を戻った。







 今年初めて得られた好展望〜森将軍塚古墳
 年末年始の休みも最後の一日となった1/3、この日は朝起きて空を見ると、結構明るい青空。となると、昨日の臥龍山が曇り加減だっただけに、今日こそはどこか別の山から良好な展望を楽しんでみたいという気になる。その場合、昨日の臥龍山よりは、多少足腰の運動になる場所がよいが、先日腰が抜けたばかりゆえ、あまり無理にならない程度で、どこか近所に適当な場所はないか… と思案の結果、千曲市の「森将軍塚古墳」が頭に浮かんだ。ここなら、車道を普通にたどる傾斜の緩いコースのみならず、車道をショートカットする、やや急な「近道」もあるので、実際に歩く際のコンディションにより、いずれかのコースを選択することが可能だ。また、前方後円墳の後円部にあたる頂上(「大穴山」)からは、古代の王の陵墓に相応しく、晴れていれば善光寺平の俯瞰をはじめとする、周囲に何も遮るもののない大展望を確実に得ることができる。そうなると… これはもう行くしかない。
 そこで、気温も大分上がった昼少し前頃に自宅を発、正午過ぎには無事登り口に到着。そこからは徒歩で古墳の頂上を目指したが、私は無理せずノンビリ歩きゆえ、本日の同行者である妻と次男は、早々に私を見捨てて、先にさっさと登って行ってしまった。まあ、ウェイトオーバーに加え、腰と膝に爆弾を抱える身とあっては、元々勝負にならないので、こちらはあくまでマイペースを保ちつつ、そうは言っても多少「訓練」の要素も加えたく、あえて「近道」の急登ショートカットコースをたどった。と… 多少汗はかいたものの、案外難なく森将軍塚古墳の基部まで登り切ることができた。
 かくて、まず前方部への階段を上がり、次いで後円部の頂上に立つと… 狙い通り、今日は比較的展望良好で、このところいつも雲に隠れていた飯縄山を、今日はようやく拝むことができたのをはじめ、頂上部に少し雲がかかっていたものの、戸隠連峰の最高峰・高妻山の鋭峰も何とか姿を見せてくれていた。その他、陣馬平山、斑尾山、三登山、高社山、鏡台山など、周辺の主だった山々も望まれ… 気分的には、これでようやく私の「山」も本当に「新年」を迎えた、といった感を強くした次第。さて、今年は、これからどのくらい、山に訪れることができるであろうか…? まあ、当面は身体と相談しながら、無理のない範囲で少しずつ、ということになるであろうが…







 訪問の契機は自身の失策〜一重山(屋代城址)
 1/7〜1/9の三連休は、こと「山」に関しては巡り合わせが悪く、初日と中日は所用で、山に行けそうなのは最終日のみ。ところが… たまたま数日前に自家用車に不具合があって修理に出した際、車の中に軽アイゼンを積んだまま出してしまうという失策をやらかしていたことに、当日になって気付いた(!)。これは、腰と膝に爆弾を抱える私にとっては実に痛いミスであったが、かといって無理して凍結路で下手に転倒でもして負傷するのも何より怖い。結果… 車が戻ってくるまでは、軽アイゼン着用不要でも行ける山で我慢せざるを得なくなった。
 然るにこの季節、近隣で雪が多少あっても凍結まではしていない山、となると、行先は大分限られる。どこか安全で、雰囲気が明るくて、そこそこ展望も得られそうな山はないか… と思案の末、千曲市の「一重山」(屋代城址)が頭に浮かんだ。ここなら標高も低いし、南側の道なら雪もほとんど消えているはずだ。となれば善(?)は急げ。早速、自宅発。
 この山の南側登り口までのアプローチは、昨年10/22に訪れた有明山の際と全く同じ。難なく登り口に至り、上に延びている道に踏み込むと、予想通り全く積雪はなく、また落葉も適当に吹き払われていて、ほとんど滑る心配がない快適な道。まるで春先の山のような陽だまりの道を何度かジグザグを繰り返すと、意外なほど早々に頂上に到着してしまった。まあ、先日訪れた近くの森将軍塚古墳よりも低いのだから当然ではあるが、こう楽過ぎると、いささか消化不良感を禁じ得ない。とはいえ、全ては自身の失策が原因なのだからと気を取り直し… しばし、頂上一帯を散策。
 屋代城址の郭の遺構である頂上の平地自体は明るいものの、周囲は樹木に囲まれ、展望がすっきり開けているのは篠山方面くらいだったが、樹枝の切れ目を注意深く探せば、冠着山や三峯山など、周囲の山々の姿はそこそこ眺めることができた。また、下りでは、やはり樹間に、先日訪れたばかりの森将軍塚古墳が望まれ… 近くの有明山古墳の存在なども考え合わせつつ、このあたり一帯の歴史の古さを改めて実感できた次第。







 雨後に得られた意外な好展望〜旭山(旭山城址)
 去る1/9の山が、少なからず「消化不良」に終わった後、私は、次の土・日には是非、今少し「訓練」になる山を… と念じつつ数日を過ごし、ようやく待望の土曜日が翌日という晩、夜半にふと目覚めると、何と窓の外では無情な雨音。したり、これでは明日は山はダメだな… と思いつつ、また眠りについたが、翌朝、起床すると雨は止んでいる。そこでTVをつけて天気予報を見ると、午前中の降水確率が30%で、昼、午後と時間が進むにつれて確率が徐々に高まる予報。となると、無駄に濡れたくないから午前中が勝負、とて、にわかに身近にある旭山(旭山城址)への訪問を思いつき、早速自宅発。
 車を走らせながら周囲を見回すと、曇天の割には存外雲が高く、意外と好展望が得られそうな気配。どうか今しばらく雲が低くなりませぬように… と念じつつ、朝からちらほらと受験生らしい参拝客が訪れている「朝日山観世音」の脇を過ぎ、ほどなく南山腹の登り口に到着。そこから頂上城址までは徒歩でわずか500m、いつになく早足で頂上を目指し、まずは旭山城本郭址の最高点に手っ取り早く挨拶を済ませ、次いで待望の展望台へ。と… 見える、見える! まずは北西から、戸隠連峰の西岳と最高峰の高妻山。その右に飯縄山。また同山の右手前には間近く、順に葛山、大峰山、三登山。大峰山の右背後には斑尾山の頂上部が姿を見せている。さらにゆっくり右に目を転ずると、展望は北東の奥志賀あたりの山々へと移り、高標山、鳥甲山、竜王山、焼額山、岩菅山、志賀山、鉢山、笠岳、横手山、御飯岳、破風岳、土鍋山、と続き、やがて眺めはやや東南に、ひときわ目立つ菅平の根子岳へ… そして、眼下にはもちろん、南北に拡がる善光寺平が雄大に俯瞰されるが、今日のそれは、一面にうっすらと朝霞のヴェールをまとっており、何ともいえず神秘的だ。いやはや、とても雨が降り出しそうな曇り空の下とは思えない。実に期待以上の大展望!
 まさか、かくも間近な里山で、今日これほどの眺めが得られるとは、私は事前に想像もしていなかった。やはり、訪れれば訪れただけのことがあるのが「山」というもののようだ。









 「訓練」と割り切って訪問〜葛山(葛山城址)
 先に旭山展望台から北を眺めた際、戸隠連峰や志賀高原の山々などに加え、間近な里山も多く望まれたが、中でも特に距離的に近い葛山(葛山城址)あたりの山腹では、ほとんど積雪が消えているようだった。最近、冬にしては比較的温暖な気候が続いたせいらしいが、雪がなければ条件は秋山と大差なく、足腰の運動にはもってこいのフィールドだ。そこで翌1/15、今度はその葛山に久々に訪れてみたくなった。もっとも、今日も昨日に引き続き曇天、しかも雲が低く、さすがに展望の方はあまり期待できなさそうだったが、それでも少なくとも心身の「訓練」にはなるだろうと割り切り、自宅発。
 登り口は、昨年11/13に訪れた「頼朝山」の際と同じ。「いつくしみ観音」のやや先にある林道のゲート手前に慎重に駐車し、そこから徒歩わずかで「葛山」(左)と「頼朝山」(右)との道の交差地点へ。ここで1/13には雨が危ぶまれたため右の「頼朝山」を選択したが、今回は何とか天候がもちそうなので、左へ「葛山」を目指す。こちらは「頼朝山」よりずっと急登かつ距離的にも長いが、私の足腰も昨年「頼朝山」に訪れた際よりは、大分回復しているはずなので、さほど苦労することもあるまいと思っていたが… いざ歩いてみたら、道自体は全く積雪もなくて大変快適だった割には、当初の予想以上に汗をかいた。どうも気候自体も多少温暖気味だったせいらしいが、その点を除けば特に問題もなく、ほどよい「訓練」感覚のうちに頂上着。
 頂上からは、飯縄山など主要な山々はやはり雲の彼方で、展望的にはさほど優れなかったが、その分、昨日訪れたばかりの旭山(旭山城址)の姿が印象的に望まれ… 昨日、もし私があの山からここを見なければ、私は今日、ここに訪れなかったろう… などと、一寸した感慨を覚えた。なお、ここは川中島の戦いにおける激戦地の一つとして知られ、悲惨な落城の歴史を伴う場所でもある。それゆえ私の心持も、頂上に滞在する間は、どこか厳粛なものとならざるを得ず… 私は、そんな気分のままに傍らの四阿の椅子に腰を下ろし、汗がひくまでの間、周囲を眺めまわしつつ思索の刻を過ごした。







 ようやく訪問できた馴染みの山〜皆神山
 1/22、この日は生憎の所用で長野市内を駆け回っており、その途中で、どこか軽い山でも… などと漠然と考えていたところ、たまたま松代町辺りに車でさしかかったところで、ふと私の視界に皆神山の姿がよぎった。そういえばこの山、最近ずっと元旦に初詣を兼ねて訪問するのが恒例だったのに、今年は故あって元旦の訪問ができなかった。となると、遅ればせながらこの山に2023年の「挨拶」に訪れてみたく、今日は案外そのよい機会… と思うや否や、私は早速、車を同山へと向けて走らせた。
 最近の降雪の少なさのせいか、頂上直下の「皆神神社」前まで通じる車道はおろか、神社境内にもまるで雪が見られず、まるで晩秋のような雰囲気の中で社前に参拝し、富士浅間神社の祠がある頂上に上がると、そこからは戸隠連峰や飯縄山などの山々の眺めが良かったが… 何故か、それら山々の姿の「見え方」が、これまでとは微妙に異なっているように感じられたのは、単なる気のせい? それとも例年とは異なる形での訪問だったがゆえの感慨? はたまた昨年元旦にこの山への訪問後、わずか数日後に我が家に出来した「変事」を経た後の心機一転、再出発といった先入観のなせるわざか…?
 もっとも、ここで自然と胸中に湧いた想いは毎年同様… 今年一年、我が家にも、またこの国にも、どうか平穏無事な日々でありますように…









 展望狙いで訪問〜富士ノ塔山(富士ノ塔砦址)
 先の皆神山への訪問後、私はさらに所用を済ませ、昼過ぎに一旦自宅に戻ったが… しかし、天候は午後に入っても相変わらず良く、周囲の眺めもむしろ午前中より良さそうな気配、時間的にも暗くなるまで後2〜3時間ある。となると、折角の機会、今日もう一度どこかの山の上から、周囲の山々などの眺めを楽しみたいという衝動にかられた。そんな中、頭に浮かんだのが、先日訪れた旭山の南に連なる「富士ノ塔山」。ここなら、手っ取り早く頂上直下まで車で上がれるし、頂上にはお誂え向きに展望デッキまで設置されている。となれば、例によって善(?)は急げ。早速、自宅を車で飛び出し、「旭山林道」から富士ノ塔山直下の登り口へ。そこから徒歩ほんの5分程度で頂上に飛び出ると… そこで周囲に拡がった情景は、正に当初の狙い通り!
 まずは南側の展望デッキから。四阿山、根子岳、浅間山、黒斑山、烏帽子岳、北八ヶ岳連峰、蓼科山… 等々。次いで北側の展望デッキに移ると、今度は先の皆神山からも拝んだ戸隠連峰や飯縄山の姿が、また違った角度から、より近くに望まれ… なかなかの迫力に内心快哉。来てよかった!
 やはり、多少の労を厭わず、あえて出てくれば、出てきただけのことはある。それが「山」というものなのだと、改めて感銘を受けた次第。









 中世山城を見事に再現〜城山(荒砥城址)
 比較的温暖な日々が続いてきた今冬も、1月下旬の寒波到来で一変し、先に皆神山と富士ノ塔山に訪問した週の翌週は、あまりの寒気に家を出るのも億劫となり、当然「山」もおあずけとなったが、さらにその翌週になったら、また大分寒気も和らいできた。そこで2/4、所用のついでに軽く「山」気分を味わおうとて、千曲市の上山田温泉の背後にある城山(荒砥城址)に久々に訪れてみることにした。
 この山城址、中世戦国時代の信州の山城の往時の模様を追体験できる櫓や館、石垣を巡らした郭や防塁などが見事に再現され、さながら森将軍塚古墳の山城版といった感がある。またそんな場所だけに、NHK大河ドラマ「風林火山」をはじめ、サスペンスドラマ等各種番組のロケにも使用され、今や全国的にも認知度が高い場所となっているようだ。そのため、実際「山」というよりは「史跡公園」として一般には認知されていることだろうが、武田・上杉の一連の戦いの過程で、幾度か城主交代や落城を経た実戦場でもある要衝の山城址に相応しく、その頂上(本郭址)からの周囲の眺望は抜群であり、それゆえ私としても、手軽に訪問できて「山」気分を味わえる場所の一つとして重宝してきたところだ。もっとも入場は有料だが、それでも歴史体験と頂上からの素晴らしい展望をダブルで楽しめることからすれば、大人1名300円(さらにJAF会員なら50円割引)程度なら、さほどの負担感はない。
 で… 2/4、実際に訪れてみると、先日の寒波の名残の雪は日陰を除けばほとんど消えていて、歩行には全く支障はなかった。そして頂上本郭址からは、北に飯縄山、戸隠連峰、陣馬平山、虫倉山など、東に千曲川を隔てて五里ケ峰、南に太郎山や虚空蔵山、さらに西に大林山など、周辺の主要な山々はもとより、眼下には南北に流れる千曲川の蛇行が、さながらこの山城址がたどった歴史の「大河」を象徴するかのごとくに見渡せた。いつもながら変わらぬこの眺めの雄大さ! 今後もこの地には、足腰が続く限り、折にふれて訪れることになりそうだ。







 一寸「山」気分〜上田市半過の岩鼻(「千曲公園」)
 2/6、私用で上田市方面に訪れた帰り、天気が良いので、一寸「山」気分を味わおうと、坂城町との境に近い上田市半過にある「岩鼻」に訪問。ここは実際その名の通り、上田市側の下から見上げると鼻の形をしており(それも、太陽光線の当たり具合による陰影の加減によっては鼻孔まで現れるというリアルさ!)、その突端の切り立った崖が結構な迫力を呈するが、そんな外見に似合わず、頂上一帯は「千曲公園」として整備されていて、近隣の人々の憩いの場となっている。崖の縁だけに展望は良好で、これまた「千曲公園」の名に恥じず、特に千曲川の流れの俯瞰が圧巻だ。当然、そんな絶景に魅せられた風流人も多かったと見え、公園内には「千曲之清流」の碑をはじめ、「月雪の外に花よし紅葉よし千代にうごかぬ岩鼻の上 愛徳」とか「萬國に名ほぞ流れし千曲川ひやく景十分此処ぞ第一」といった歌が刻まれた碑などが多く建てられている。さらには自然や歴史の観点からも、極めて興味深い場所であって… 以下、参考までに上田市で設置した現地案内看板の文言を、備忘の意味も含めて引用掲載しておく。
 「千曲公園 上田盆地から千曲の清流にそって川中島まで見渡せ日本百景に数えられている、この岩山を千曲公園とよび天然記念物『モイワナズナ・イワナデシコ』の自生地、又『チョウゲンボウ』の生息地としても知られている。この公園の下、千曲川に向っての絶壁を『半過岩鼻』とよぶ。遠い昔、対岸の『塩尻岩鼻』と続いており、一面の湖だった。その湖の西をねずみがはびこり田畑を荒したので、唐猫を集めて追わせた。逃げ場を失ったねずみは岩山を食い破り、湖の水は千曲川となって流れ出し、一帯は陸地となったといわれている。上田市」
 なお、本HPのテーマである「山」という観点からは、烏帽子岳、太郎山、虚空蔵山、五里ヶ峰、富士嶽山、独鈷山など、近くの主だった山々はもとより、遠くは北アルプスや戸隠連峰、荒船山、蓼科山などまでが望まれ… ごく短時間ながら、例によって「来てよかった」感を味わえた一時だった。







 「日本三大山城」の威容〜高取山(高取城址)
 2/11から家庭の所用により、私は一泊二日で関西に訪れることとなり、未明に長野を車で発。途中タイミング悪く「カミ雪」の影響を被り(高速道路が一部通行止め)、安曇野市から岐阜県中津川市までは下道(国道19号線)をたどることを余儀なくされたが、どうにか昼前に京都市にたどり着くことができ、その日の所用を果たした。ついては折角の機会、午後の余剰時間を有効活用すべく、同行した長男の発案で、奈良県にある「日本三大山城」の一つ「高取城址」に訪れてみることにした。そこはもちろん、れっきとした「山」(高取山)でもあり… 歴史と併せて正に一石二鳥の場所だ。
 とはいえ「日本三大山城」となると、やはり第一の関心は「歴史」の観点ということになるのが自然な流れであろう。これについては正確性の観点から、あえて現地案内看板の文言をそのまま次に引用掲載するので、参考にされたい。
 「史跡高取城跡 高取城跡は、奈良盆地の南端、標高五八四mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や喰違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は四〇〇m以上を測る。十四世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。織田信長の一国破城により、天正八年(一五八〇年)に一旦は廃城となるが、天正一二年(一五八四年)の筒井順慶による復興をへて、豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃(十六世紀末〜十七世紀初頭)に近世城郭として完成した。その後江戸時代に入り、寛永一四年(一六四〇年)に譜代の植村氏が入部して二万五千石の居城とした。以後明治維新まで、植村氏が一四代に渡って城主となった。山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪を含んだ範囲が「郭内」とよばれている。現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。 指定年月日 昭和二八年三月三一日 平成二三年三月 奈良県教育委員会」
 さて、今回の訪問では、我々は時間の制約もあり、上記引用文中にある「壺坂口門」から大手門経由で二の丸、本丸と上がった。その間、行手に次々と現れる石垣の遺構の豪壮さは筆舌に尽くし難く、中でも二の丸上の新櫓址あたりから見上げる本丸石垣の迫力たるや、文字通り圧倒的だ。ちなみにこの城、明治20年頃までは当時の建物が残っていたが、その後取り壊されてしまったとのこと。現在の我々の感覚からすれば、全く持って「惜しい!」の一語だ。石垣が山城のそれとは思えぬほど、あまりに世の常ならざる威容を誇っているだけに、なおさらそんな感が強い。
 そんな感慨を覚えつつ、登り着いた本丸の天守台石垣の上には、些かその場に似つかわしくない三等三角点標石が埋設されていて… そこが紛れもない「高取山」の頂上であることを実感できた。そして本丸周囲の樹間からは、南には大台ケ原や大峰山系など紀伊半島の名峰、また北には飛鳥の里と、その中に点在する大和三山の耳成山や畝傍山などが望まれ… いずれも信州人の私には真新しい光景ゆえ、大変興味深い機会であった。









 今も継承される民間信仰の厚さを体感〜霊諍山
 2月半ばから約1ヶ月の間、私は週末の度に何やかやとあって、山に訪れることができずにいたが、3/11、ようやく時間が取れる状況になった。とはいえ、折から時季は花粉飛散のピーク、花粉症持ちの私としては、あまり外気に目鼻を曝すのも億劫だ。そこで、まずは手軽な所で様子を見よう、ということで… 千曲市の「霊諍山(れいしょうざん)」を選定。
 午前10時少し前に自宅発、周囲を見回すと、案の定、空は黄色く霞んで如何にも花粉の飛散を彷彿させ、見るだに鬱陶しいが、ともあれ登り口まで車を走らせ、近隣の方々の迷惑にならないように注意して駐車し、マスク姿のまま歩き始めた。進むにつれて、冬の眠りから目覚めたテングチョウやタテハ類、またスプリングエフェメラルのミヤマセセリが舞う様子が見られ、もう春だなとの感を強くした。道はよく整備され、案内看板も適当に設置されていて、地元の人々のこの山への愛着の強さがうかがえたが、花粉の時季のせいか、山中では誰一人としてすれ違うこともなし。
 やがて到着した頂上には「天神地祇、八百万の神と大国主命」が祀られるという社が鎮座し、さらにその周囲を多くの石祠や石像が取り巻いて、今も継承される民間信仰の厚さを体感できる場所だ。もっともここが開山されたのは明治の中頃ということで、歴史的にはさほど古いわけではないようだが、周囲の石像物の中には、奪衣婆、鬼、摩利支天、はたまたユーモラスな猫の石像など、他ではあまり見かけない独特なデザインの石像が多くみられて興味深い。どことなく筑北村「修那羅峠」の石像物群を連想させられるほどだが、現地案内看板によれば、この山を開山した千曲市八幡の北川原権兵衛氏と共にここで神事を行ったという和田辰五郎氏は「修那羅峠」近くにある「安宮神社」の修那羅の大天武の高弟であったとあるので、実際に「修那羅峠」と何らかの関わりがあったとしても決して不思議ではない。
 さて… 私は頂上で、それら石造物を一つ一つ見て回ったりしながら、しばし長閑な雰囲気を楽しんでいたが… そのうち、恐れていた通り、にわかに鼻の奥がむずむずし始めたので(!)、私はそれを機に、元来た道を慌しく駐車場所まで戻った。







 ちょっと立ち寄り〜中野市壁田の城山(壁田城址)
 3/19、中野市の壁田にある城山(壁田城址)に訪問。折しも花粉飛散の真っ最中ではあるが、そうは言っても多少「山」の気分も味わいたく… 所用で中野市に訪れたついでに、ちょっと立ち寄ってみた。この山、「山」としてはやや物足りないが、『長野縣町村誌 北信篇』の「壁田村」中「山」の項には「古城山」とあるとおり、戦国時代の当地方の主要な山城址の一つとして、歴史的な価値が高い地なのだ。ちなみに同書中「古跡」の項を参照すると、「壁田城墟」として次のような記述があるので、参考までに、そのまま次に転記紹介しておこう。
 「本村中央より西の方山林の絶頂にあり。本丸東西十二間、南北二十四間餘、西は嶄巖にして山麓に千曲川を繞らし、東は嶮にして直ちに昇降しがたし。因て石階を設く。今に猶存す。其長凡一町、村より距離五町四十三間。又本丸より三間低下し、南の方に二ノ丸あり。東西十八間三尺、南北八間三尺。西の方堀切長十間、幅三間、深さ九尺。南方堀切長八間、幅三間、深さ九尺。夫より南方厚貝村境に至り堀切あり。長三十間、幅十間。深さ一丈。本丸より北の方に三ノ丸あり、東西六間三尺、南北十二間。北の方に堀切三ケ所、皆長三十間、幅三間餘、深さ九尺、最も深き所なり。里俗の傳に年歴不詳、山田豊前守之に築き居城す
高梨氏の幕下なり と。永禄二年武田晴信、高梨政頼を攻撃し、當城も武田氏の所有となり、其幕下小幡上總介信眞等交代して之を守り 信眞父尾張守憲重は上杉憲政の幕下上州國峯、宮崎、兩城主なり、憲政逃走せし後武田晴信に降る 天正十年三月武田氏亡び、信眞北條氏政に降り、遂に廢城に至りしならん。」
 以上のとおり、明確な記録には乏しい城址のようながら、山城址の遺構は結構明瞭ゆえ、大変興味深い。また、山中からは樹間に間近な高社山をはじめ、志賀高原や北信五岳の眺めも得られる。今回は午後の訪問だったので、空は結構霞んだものの晴天下で、それらの眺めは良好だった。が… そのうち例の花粉症の症状が出てきたため、ほどなく帰途についた。やはり私には、この時期の山にはさほど長居はできないようだ…







 ゴールデンウィークの混雑を避けて〜聖山
 5/3、いよいよゴールデンウィークも佳境という日。折しも新型コロナ禍の混乱が収束しつつある中とあって、信州には多くの観光客が押し寄せるであろうことは容易に想像がつく。こうなると、「山」にその雑踏を避けようにも、名の知れた山だと混雑しそうで、人混み嫌いの私にはどうも気が乗らない。そこで、道の渋滞の影響をさほど被らずに済む程度に近隣に所在し、「山」としてさほどメジャーでなく、しかも晴れれば展望の良さそうな場所、となると… 今の私に思いつく場所といえば「聖山」しかない!
 そこで、早速、車を同山の上まで走らせると… 折しも空は申し分のない晴天、そして、手軽に立てる頂上からは、期待通り、北アルプスをはじめとする雄大な眺めが周囲に展開!
 本当に、この山は今の私にとって、いつ訪れても期待を裏切らない、珠玉のような存在となっている。特に昨年は膝を故障し、一時は内心「引退」を覚悟したほどだったが、そこから徐々に回復してきた頃から、再起を期した回復訓練に努めている時期にかけて、計3回も訪れ、その都度、新たな「元気」をもらったところであった。おまけに今年はどうも花粉症がひどく、4月中を全く棒に振ってしまい、私もこと「山」に関しては、少なからず欲求不満を抱えていたところでもあり… 今回、久々に立てた「山」の頂上における開放的な爽快感は、また格別であった。
 そんなこんなで、最近の私、本当にこの山には「感謝」しかない次第。これからも折にふれて訪れたいものだ。







 久々に味わう残雪の「山」気分〜坊主山
 5/6、ゴールデンウィークも終盤、帰省ラッシュも始まったこの日は、午後から天候が崩れる見込み。然るに貴重な連休を先の「聖山」だけで終えてしまうのでは、どうにも惜しい気がする。そこで、我が家から比較的近く、午前中でもどこか適当に登って来れそうな志賀高原辺り、それも、どうせ行くなら残雪のある場所で、久々にピッケルでも持ち出して遊んでみるか… と心に決めると、慌しく自宅発。
 行くみちみち、私の脳裡に浮かんだのは万座温泉近くの「御飯岳」。この山、以前は私のお気に入りの山の一つで、残雪期に何度か訪れたものだが、このところ御無沙汰しているので、参考までに最近の様子を見てみたい… などと心躍らせながら頂上直下まで車を走らせると、何と、残雪は既に途切れ途切れで、到底頂上まで楽に登れそうな状況ではない。したり、今年は融雪が早いとかTVで言っていたが、ここまで早いとは!
 やむなく目標変更、次に念頭に浮かんだのは草津白根山辺り。が… 白根山本体は噴火警戒レベルの関係で立入禁止。となれば、残るは白根山の「代替山」として時折訪れる馴染みの「坊主山」しかない。それで登り口の「山田峠」の駐車スペースまで行き駐車。同山を見上げてみると、ここも山腹の雪は大分消えかけてはいるが、頂上までの間にある程度まとまった残雪がある。いささか物足りないが、天候も心配ゆえ、今日はここで妥協。手早く登山靴に履き替え、軽アイゼンとピッケルを携帯して歩き出した。
 最初の残雪の末端から、早速ピッケル片手に雪上へ。一歩一歩、キックステップの感覚を思い出す。本当に久し振りだ。雪質は固く脚は潜らないが、表面は既に腐り加減で柔らかく、アイゼンは着用するまでもない。実のところ、ピッケルもあえて必要はなさそうだったが… 折角の道具を、ただ美術品みたく家に飾っておくだけでは宝の持ち腐れというもの。これからも時折、こんな具合に気軽に持ち出してみたいものだ。
 なお、曇り加減の空の下ながら、周囲には上信越の山々が比較的良好に見渡せ… 短時間ながら実に爽快な一時であった。







 爽快な山の一時〜志賀高原の東館山
 8/6、久々に「山」気分を味わいたく、志賀高原の「東館山」に訪問。
 5月上旬に、同じ志賀高原の「坊主山」に訪れて以来、私の山は当分の間「山菜採り」三昧と化し、それが一段落ついた6月中旬頃からは、鬱陶しい梅雨空にたたられ、それから少しずつ脱却して7月に入ったと思ったら、今度は災害級の猛暑の連続に加え、公私共に多忙な日々が続いて山に訪れる元気が湧かず… といった具合に、何やかやとモタモタしていたら、いつの間にか8月に入ってしまった。
 このあたり、どうも昨年も似たような経過をたどったような感が強い。もっとも昨年は脚の故障が原因ゆえ、今年よりは問題が深刻だったが… どうにか歩けるようになった今も、長距離・長時間の「山」には躊躇をおぼえる状況。とはいえ、それにかまけて行動を起こさなければ、貴重な時間をただ徒過するだけだ。そこで、約3か月のブランクを考慮し、あまり身体に負荷がかからず、かつ適度な涼を求めることができそうな山、ということで、思いついたのが「東館山」だったわけだが… 2007年の同時期に訪れて以来、実に16年ぶりの訪問となった。
 今回は家族数人が同伴していたので、ゴンドラリフトを利用して山上へ。ゴンドラ駅から一歩踏み出すと、周囲には心地好い風が吹き抜け、下界と比べたらまるで別天地のような涼しさだ。ゆっくり「東館山神社」のある頂上を往復する間、路傍には、ハクサンフウロ、オオバギボウシ、ヤナギラン、ヤマオダマキ、タカネナデシコ、ヨツバヒヨドリ… といった花々が次々と目についた。それらの中、特にヨツバヒヨドリには、久々にお目にかかるクジャクチョウの麗姿が! また、それらの中に混じって、マツムシソウやアキノキリンソウなど秋の花々が早くも見られ… そうか、もう山には秋が近づきつつあるのだな… などと、今更ながら時の経過の早さを実感させられた次第。
 ともあれ、空は若干曇り加減だったものの、間近な岩菅山をはじめ、鳥甲山、寺小屋峰、志賀山、横手山、笠岳など、周囲の山々も適当に望まれ、短時間ながら爽快な山の一時を過ごすことができた。