山行記録帳(2021)
〜Yamazaki's Photo Diary 2021〜


 【山行・自然観察リスト】
 2021年最初の山〜皆神山  小春日和に〜飯田市上久堅の神之峰
 千本鳥居が圧巻〜高山稲荷神社(三王坊山)  寒風吹きすさぶ北辺の地〜津軽半島龍飛崎
 軽い「運動」を兼ねて〜佐久市臼田の稲荷山(稲荷山城址)  霧中に舞うアサギマダラ〜青森県下北半島の恐山
 雪中行軍の歴史に想いをはせて〜青森県の八甲田山  足腰の平癒を祈願〜三重県鈴鹿市の加佐登神社など
 敬宮様成年行事の日に〜筑北村の白山神社など


 2021年最初の山〜皆神山
 1/1、毎年元旦恒例の「皆神山」に訪問。
 今年は令和3年、はや「御代替り」から3年目にもなるのだが、何やら今ひとつ、そんなに「御代替り」から時が経ったという実感が湧いてこない今日この頃だ。それというのも、巷では例の「新形コロナ」禍が相変わらず収まらないどころが、ますます猛威を振るう気配を見せているし、また前年の暖冬からうって変わった昨年12月からの大雪は、これからも当分の間、先が思いやられる始末。こんな、日々漠然と不安を抱かざるを得ない状況下にあっては、我々些末な一国民など、あれやこれやと日々の生活の心配をしているうちに、気がつけばいつの間にか時が過ぎているというような有様で… 今日の皆神山も、いざ訪れて山上までしっかり除雪がされているのを確かめるまでは、果たして無事に訪れられるかどうかすら危ぶまれ… どうにか無事に頂上神社に参拝は果たせたものの、周囲は昨夜来の雪の名残のごとき雲に覆われ、当然、眺望もあまり得られなかった。
 それでも、今年の場合、新年の一般参賀中止に代えて、本日早朝に公開された天皇・皇后両陛下のビデオメッセージを拝聴して、年頭早々、例年になく非常に心が洗われ、癒される思いがした次第であり(殊に、雅子皇后陛下のおことばを久し振りにお聴きすることができたことが、一国民として誠に嬉しく)… そんな心持のままに、皆神山にも訪れることになったせいか、天候等のコンディションの割には空の曇りもさほど気にはならず、むしろ、両陛下のおことばを胸に、皆が心を合せて今しばらく粘り強く耐え忍んでいくならば、必ずやその先に、いつか空の曇りも晴れるがごとく、家庭にも社会にも明るいきざしが見えてくることだろう… といった希望が、わずかながらも、しかし、ごく自然に感じられてきた一時であった。
 本当に、一刻も早く「新形コロナ」禍が収束し、また再び平穏な日々が戻りますように、そして願わくば、令和の世が今後とも長く続きますように…






 小春日和に〜飯田市上久堅の神之峰(神之峰城址)
 令和3年も、はや2月下旬に入ったが、その間、世間では相変わらず「新形コロナ」禍が収束する様子もない上に、また何度かの寒波の襲来などもあって、元日の皆神山の後、全く山と縁のない日々が続いていた。しかし、こう心身共に寒く単調な日々が続くと、せめて短時間なりとも「暖かみ」を感じたくなる。そこで2/21、ちょっとしたドライブついでに、今年初の梅の花でも眺めてみたくなり… 早朝長野発。
 こんな場合、本来なら、越境して上州あたりにでも出てみたいところだが… さすがに「新形コロナ」禍の下、それも気がひけたので、最近感染者が減った県内ということで、とりあえず飯田市あたりを目指して南下。そこまで行くと、果たして狙い通り、そこかしこに梅花が見られ、まずは一応の目的は果たした。とはいえ、折角出てきたことでもあり、どうもそれだけでは物足りないので… ちょっと「山」の気分でも感じて来ようと、飯田市上久堅にある山城址「神之峰」に足を延ばしてみることに。
 この山、実は私は大学生時代に一度訪問したことがあって… 薄れかけた記憶の中に、頂上からの眺望はなかなかのものがあったようなイメージがあったことが、今回ここを目的地に選定した最大の理由であったが、いざ訪れてみると、記憶に違わず、頂上付近からは蛇垰山、大川入山、恵那山、風越山、摺古木山、安平路山、南駒ケ岳、等々の山々の眺めを楽しむことができた。
 また、この地は山城址でもあり、歴史という面からの興味も惹く。もっとも『長野縣町村誌 南信篇』中「久堅村」の「神峯城址」の項には「東西六十間、南北五十間、村の中央字柏原にあり。其形難稱、石壁保存し、今に至りては草木生す。往古六孫王源經基裔伊那眞人爲公が城郭を築き、其後弘治二年武田信玄の爲めに落城す。尤興廢舊記等無之、言傳を以て記之。」とあるのみで、いささか素っ気ないが、『定本 伊那谷の城』(郷土出版社刊)等によると、この城は当地域の有力豪族・知久氏の城であったが、天文23年(1554)に山本勘助ら甲斐武田勢の侵攻に遭い落城したとのこと。近隣には、落城した城では他でもよく聞く白米伝説も伝えられているようだ。
 また、山中には「矢立岩」「篝岩」「倉掛石」などの巨岩が多く、それらの中には武田氏と渡り合った知久氏の子孫である知久則直の述懐「かわりゆく世の色かへぬ松かぜのおとのみ残る神のみねかな」と詠んだ和歌が刻まれた岩があるなど、標高的には771mと平凡ながら、なかなか変化に富んだ楽しいエリアといえる。









 千本鳥居が圧巻〜高山稲荷神社(三王坊山)
 昨年以来、次男の大学進学を契機として、私はしばしば東北に訪れているが、今年の5月連休もその例にもれず。そんな折角のチャンスを利用して、5/3、これまで訪れる機会のなかった津軽半島に家族と共に訪れてみることにした。
 奥津軽の有名な観光スポットといえば、よくサスペンスドラマのロケ地として登場する全長300mの木製橋「鶴の舞橋」と、千本鳥居で知られる「高山稲荷神社」がまず頭に浮かぶ。で、我々も当然ながら、それらに立寄っていくことに。
 と… 「鶴の舞橋」はともかく「高山稲荷神社」の方は、いざ行ってみたら、登りの石段が想像以上に長く急で、存外汗をかかされるハメとなった。しかも、現地案内看板の由緒書によれば「江戸時代の古地図には
高山の地は三王(山王)坊山と記されており…」云々とあるところからして、一応「山」扱いらしいのだ(!)。事前にスマートフォンで情報検索した際には、住所が「青森県つがる市牛潟町鷲野沢147-1」とか表示されただけで「山」のヤの字もなかったので、これは「山登り」の私には実に「嬉しい誤算」だった。もっとも標高は海に近いこともあって22mと程度という低さだが… それでも「山」は「山」、折角だからここに掲載することとした次第。(なお、山名は「高山」「三王坊山」のどちらにしようか迷ったが、前者は山名というより単なる地名のようにも思えたことから、当面後者により記しておく。)
 なお、この日は天候は曇り加減で、その「山」の上からの眺めは残念ながらパッとしなかったが、例の千本鳥居は流石に圧巻だった。









 寒風吹きすさぶ北辺の地〜津軽半島龍飛崎
 高山稲荷神社への訪問後、我々は今回の津軽半島訪問の第一の狙い「龍飛崎」へ向かった。高倉健の主演映画『海峡』で有名になった「青函トンネル」工事の厳しさに想いをはせつつ、津軽半島の突端から北海道を望見してみたく… で、いざ現地に訪れてみると、車を降り立った途端、いきなり強烈な寒風に身体を叩かれた。それも悪いことに向かい風。しかも目的地の「龍飛崎灯台」は駐車場所から若干高台に上がった位置にあり、風圧に抗い寒さをこらえつつ、どうにか灯台の前に至るまでに、存外な苦労を余儀なくされた。さらには、灯台の先の岬の突端辺りは、周囲に特に遮るものもない、全くの吹きさらしとあって、そこでは結構体重のある私でさえ、時折よろめくほどの風が吹き抜け、首にかけたデジカメまでが横になびく有様。いやはや、これではまるで山登り…(!)、というわけで… 「山」というには少なからず語弊があるが「自然観察」兼ということで、あえてここに掲載することとした次第。
 ともあれ、狙い通りに北海道の陸地を薄く望見でき、まずは安堵したものの… こう風が強くては、本州も北辺の地で時季もまだ5月の初めとなると、どうにも寒くて仕方がない。それゆえ、さほど長居もできず、ほどなく車に逃げ帰るハメとなった。
 なお、この付近では、他にも是非見ておきたい場所がいくつかあり… そのうちの一つが、かの有名な「階段国道」339号。その入り口は案内看板があるので、すぐにわかったが、強風ゆえに、そこは入口から下を見下ろしたのみにて、次なる見所「義経寺」へ。
 この寺、その名からも判るとおり、源義経伝説の残る寺で、それによると何でも、奥州平泉の衣川にて自刃した義経は実は替え玉で、義経本人はからくも脱出し、逃避行の末にこの地に至り、観世音に祈りを捧げたところ、霊験により3頭の龍馬が出現し、海峡を渡ることができたとのこと。所謂プロの歴史家には一笑に付される話ではあろうが、義経が脱出したという話は他にも各所に残されており、火のないところに煙は立たず、あるいは… と信じたくもなる。実際、義経本人はともかく、少なくとも配下の者の幾許かは、この地まで来た可能性はないとはいえまい。
 いずれにせよ、こんな具合に、歴史のロマンに想いをはせたりしながら、少年時代のように新鮮な気持ちに短時間なりとも還ることができるのが「旅」のよいところであろう。







 軽い「運動」を兼ねて〜佐久市臼田の稲荷山(稲荷山城址)
 実は最近の私、どうも長年の山歩きと基準超過した体重の負荷がたたってか、昨年の12月初め頃から腰痛と、それから派生する右膝痛に悩まされており… なかなか「山」らしい山に行く気になれないでいる。とはいえ、どこにも行かないままとあっては、脚力が落ちるばかりだ。で、脚力維持のための軽い運動を兼ねて、6/20、たまたま佐久地域に訪れた機会に、佐久市臼田の「稲荷山」に訪れてみることにする。
 この山、私は平成18年の3月に一度訪れたことがあるが、その際は「コスモタワー」のあたりまで車で上がっての楽々登山だった。今回は「運動」目的でもあり、下からしっかり歩いて登ることとし、「稲荷神社」の赤鳥居をくぐり、参道をゆっくり上がっていった。
 6月も半ばを過ぎると結構暑い。存外汗をかかされつつ、まずは「稲荷神社」前に至り、参拝。それからさらに歩を進め、殉国慰霊碑などのある稲荷山頂上へ。私にとっては十数年ぶりの訪問だが、前回訪問時は楽すぎたせいか、どうも記憶が薄く、むしろ今回の方が、まるで初めての訪問であるかのように印象がフレッシュだ。それは、おそらく下から歩いて登った分、前回には見ることのできなかった、この山のディテールをしっかり胸に刻み付けることができたためらしい。ともあれ、「軽い運動」をするという今回一番の目的は十分果たせた次第。






 霧中に舞うアサギマダラ〜青森県下北半島の恐山
 8/8、また例によって次男の進学先との関係で東北に訪れた機会を利用して、今度は下北半島の霊場「恐山」に訪れてみた。
 この山、私は平成21年の8月に一度訪れたことがあるが、その際は先に「大間崎」あたりに訪れての帰途だったこともあり、時間的に最高峰の「釜臥山」に訪れることができなかった。そこで今回は、有名な霊場もさることながら、まずは最高峰釜臥山への訪問を優先し、その後に霊場に訪れることとした。
 ちなみに、その釜臥山頂上には、航空自衛隊のレーダー施設が設置されているとのことで、そうなると当然ながら、頂上からは周囲の見通しもきき、さぞかし雄大な眺めが楽しめることだろう、と期待していたのだが… いざ現地に車を走らせてみると、何と恐山の山上は、麓からも暗さがはっきり判るほどの厚い雲に覆われ、結果、頂上直下の駐車場から念願の頂上を往復している間は、徹頭徹尾、周囲は霧に包まれたままで、眺望は全く得られずに終わってしまった。
 しかしその分、世間の俗塵から離隔した静寂な雰囲気の中、いつになく沈思黙考しながらの落ち着いた山歩きができたことも、また事実ではあった。そして、そんな私の傍らには、どこからともなく現れたアサギマダラが、あたかも私を先導するかのごとく、ゆったりと舞っており… 私は、そのスローモーションのような情景の中、何やら時間の流れまでが止まってしまったかのような感覚に、しばしとらわれていた。







 雪中行軍の歴史に想いをはせて〜青森県の八甲田山
 8/16、またしても例によって大学生の次男に関する所用で東北に訪れた際、折角だからと、同行した家族と共に、青森県の八甲田山方面に訪れた。
 私、八甲田山近辺には何度か訪れたことがあるが、最後に訪れたのは平成22年の8月だから、それ以来はや10年以上も経過していることになる。「光陰矢の如し」とはよくぞ言ったもので、全く、時の経つのは早いものだ。
 もっとも、今回の訪問では、昨年来の腰と膝のコンディションもあり… 長時間の山歩きは断念し、十和田湖畔を神社に参拝したりしながら散策の後、奥入瀬渓流を遡り、馬立場の雪中行軍記念碑(歩兵第五聯隊雪中行軍隊の遭難時の生還者・後藤伍長の銅像)に立ち寄った後、歩兵第五聯隊雪中行軍隊の往路を逆に下る、という行程を採った。このうち、私の中での最大の目的地は、やはり、八甲田山中の一つの「頂上」である馬立場の雪中行軍記念碑であった。無論、こことても私にとって初めての訪問というわけではなく、過去に幾度か訪れてはいるのだが… (雪中行軍隊の遭難現場付近という)場所が場所だけに、件の雪中行軍記念碑を前にしては、自然、厳粛な心境でもって頭を垂れざるを得ない。以下、備忘の意味も含め、記念碑の刻字を参考までに記しておきたい。
 「歩兵第五聯隊第二大隊遭難記念碑
 軍隊の野外における演習は、主とするところ、岨嶮を跋し、もって戦術を講じ、寒暑を冒し、もって筋骨を錬るにあり。
 この如くならざれば、戦時の用に供するに足らず。青森衛戌の如き毎冬雪中行軍の挙あるは、其の一なり。
 去歳一月二三日、第二大隊将卒二百余人田代に赴く。たまたま大風雪三昼夜に連なり、全隊路を失い飢凍して斃者相つぐ、営中の将士その期を過ぐるも還らざるを怪しみ、卒を発してこれを遂う。天地陰晦、漠として踪跡を知らず。一人積雪中に凝立し有るを見る。近づけば伍長後藤某なり、始めて、その隊の動静を詳にするを得たり。
 遂に大いに捜索を行い、堀りて大尉神成文吉以下一九九人の屍を得たり。その幸にして生を得る者、大隊長少佐、山口ユ等十有一人のみ、事、皇上に聞す、震悼して、待臣を特派せられ弔慰優渥なり。また有司に勅して厚くその家恤まる。
 中外の官民亦貨二〇余万を捐て、もって賑恤の資となす。死者また瞑すべし。
 然りといえども均しく之の死するや、砲煙弾雨の下に斃れずして、風饕雪虐の間に殞す。豈に悼まざらんや、是において有志の諸将校と相謀り碑を八甲田山麓馬立場の邱に建て、もってその事を紀し、且つ、後日行軍する者の標識となすという。
 明治三六年 歳は発卯に在り六月 陸軍大臣陸軍中将 正四位勲一等功三級 寺内正毅撰」







 足腰の平癒を祈願〜三重県鈴鹿市の加佐登神社など
 10/10、所用で三重県に訪れた帰り、日本武尊(倭建命)にゆかりの「加佐登神社」と「能褒野神社」に立ち寄ってみた。
 これらの神社、前者は、明治時代に教部省により日本武尊の陵墓に比定された「白鳥塚」古墳の傍に鎮座し、日本武尊を祀る。また後者は、その後に宮内省が教部省の比定を覆し、改めて日本武尊の陵墓に比定した能褒野陵(「丁字塚」古墳)の傍に鎮座し、これまた日本武尊を祀る。すなわち、同じ人物の陵墓とされる古墳が複数存在するという、どうもすっきりしない状況で… 現在のところ、一応、「丁字塚」古墳の方が公式には日本武尊の陵墓とされているものの、その実、「白鳥塚」古墳の方は古くから日本武尊の陵墓として信仰を集め、本居宣長や平田篤胤らも同地を日本武尊の陵墓とみなしていること等から、私のような素人が見れば、どうも前者の方がそれらしく見えてしまう。無論、皇室関連の陵墓が発掘調査すらできない現状では、今後とも真実は謎のままでいくしかないわけだが…
 いずれにせよ、どちらが本当か判らないとなると、とどのつまりは両方訪れてみる他なく… まず最初に訪れたのは、前者の「加佐登神社」。折しも小雨の降りしきる中、登り口から鳥居をくぐり、両側に石灯篭が立ち並ぶ参道を、雨に濡れて滑り易い玉石を気にしながら登りつめ、結構汗をかいた頃、無事、社殿の前に立ち参拝。社殿内部を覗くと、結構立派な日本武尊の木像が安置されている。
 参拝後、社務所を訪れ、宮司さんに話を聞くと、ここは何と、足腰の病に効験のある神社であるとのこと(!)。というのも、日本武尊が伊吹山で悪神の祟りにふれて病み付き、この近辺まで至った際、「脚が三重に曲がるほど」疲れ(それで、この一帯を「三重」という)、ほどなく能褒野で崩御したという伝説と関連付けて、特に足の不調を訴える人の参拝が絶えないのだとか。となると、最近、足腰が今一つ不調の私にとっては、偶然にも、願ったり適ったりの神社というわけで(!)、これは、案外、神様の導きなのかもしれない、などと、大いに嬉しく思い、改めて自身の足腰の平癒を心の内で願った次第。
 次いで、近くにある教部省比定の日本武尊陵墓「白鳥塚」にも訪問。比定の当否はともかく、ここは少なくとも歴史的には一定の意義を有する地のようで、三重県指定史跡となっている。またその名は、日本武尊が崩御し葬られた後、尊の魂が白鳥となって飛び立っていったという伝説にちなみ命名されたものであるとのこと。なお、この古墳は別称を「丸山」「白鳥山」等といい、一応「山」扱いでもあるというので… 先の神社が単なる参拝にとどまらず「登拝」の域であったことも勘案し、あえてここに掲載することとした次第。
 その後、もう一つの日本武尊陵墓比定地の傍の「能褒野神社」にも訪問。こちらはこちらで、結構荘厳な雰囲気の森の中に鎮座しており、いかにも神の領域といった雰囲気ゆえ、自然、厳粛な心持と共に参拝。ただ、神社の創建自体は先の加佐登神社よりずっと新しく、明治以降のことゆえ、歴史の「重み」といったものが、さほど感じられなかったのは、先入観ゆえであろうか?。
 ともあれ、以上2箇所の日本武尊陵墓比定地に実際に訪れてみて、私が得た当面の結論は、要は、この辺り一帯を広く日本武尊ゆかりの地と考えておけばよい、ということであった。それならば、仮にどちらが真実の陵墓であろうが、特に差し障りはないのではないかと… (あるいは、そう考えておくしかない、と言った方が、より正確か…)







 敬宮様成年行事の日に〜筑北村の白山神社など
 12/5、この日は、天皇家の長女、敬宮愛子内親王殿下の成年行事の日。この良き日に、ただ家にいるというのも、何か申し訳ないような気がして… 軽い「山」歩きの意味もこめ、地域の神社巡りをしてみようと思い立つ。
 思い起こせば私、平成5年6月に、当時の皇太子殿下と雅子様(現在の天皇・皇后両陛下)の結婚の儀の当日に、小雨の降る中、大町市の「鍬ノ峰」に訪れたことがあった。ただでさえ、天皇陛下は山好きで日本山岳会の会員でもあり、新型コロナ禍の前までは、毎年那須の御用邸に訪れられていたことなどのイメージが強いせいか、天皇ご一家の行事というと、自然と「山」を連想してしまう。然るに今の私は足腰不調とあって、あまり長時間の山歩きは億劫だが、「登拝」が必要な神社ということなら、今日の良き日を寿ぐと同時に、軽い運動にもなるので一石二鳥、というわけで… 筑北村にある「西條神社」と「白山神社」に訪れてみることにする。
 まずは西條神社に登拝。この神社、周辺各所に祀られていた「手塚神社」など多くの神社を、以前からここに鎮座していた「秋葉神社」と合祀されたものとのことで、筑北村役場のすぐ北の標高700m程度の小高い丘上にある。登拝口から社前までの標高差はほんの40m程度ながら、下から上までずっと石段が続くもので、腰痛・膝痛に悩む今の私には、なかなかどうして、結構キツかった。存外の大汗をかかされた挙句、ようやく社前に立ち、呼吸を整え参拝。
 次に登拝した白山神社は、四阿屋神社(筑北の名峰・四阿屋山の頂上に祭られている神社)の里宮とのことで、私としては平成20年の3月に「東条城址」に訪れた際、一度立ち寄ったことがある場所なのだが、以来10年余の時を経て、今回改めて訪れるに際し、私の胸に去来した想いとは… ただただ、歳はとりたくないもの、ということに尽きた(!)。実際、以前の訪問時には、特に苦にもならなかった程度の登りも、今の私にとっては、油断して滑ったり、たたらを踏んだりしては後が大変だから、一歩一歩、慎重に歩を進めなくてはならず、何とも情けない限り。もっとも、こちらの神社は、最初こそ石段だが、じき通常の山道となるので、先刻の西條神社よりは、案外登り易くて助かった。しばしの登りの後、岩壁を背にして結構立派な社殿の前に到着し、参拝。
 なお、この日は他にも「刈谷澤神明宮」や「麻績神明宮」など、さらに幾つかの(「山」とまではいかない)神社にも参拝し、冒頭に記したとおり、今日の良き日を寿ぐことはもちろん、新型コロナ禍のせいで最近なかなかできなかった自身の趣味の一つ「寺社巡り」を久々にすることができ、心なしか自身の身体の調子も少し良くなった(ような気がした)次第。