山行記録帳(2020)
〜Yamazaki's Photo Diary 2020〜


 【山行・自然観察リスト】
 2020年最初の山〜皆神山  松本・安曇の里山巡り@〜松本市の千鹿頭山
 松本・安曇の里山巡りA〜安曇野市の押野山  「仙仁温泉」背後の山城址〜城山(仙仁城址)
 「押野山」と関わり深い山城址〜日岐城址  偶然知り得た歴史性豊かな地〜三崎山(三崎公園)
 「緊急事態宣言」下、人目を避けて〜聖山  ギンリョウソウが印象的〜森泉山
 単調な林道歩きで存外大汗〜離山  頂上のパンが「売り切れ」の悲劇〜横手山
 大先輩と偶然の出会い〜毛無山  小雨の下、コマクサに見惚れる〜三方ヶ峰(見晴岳)
 約20年振りの再訪〜津軽の名峰・岩木山  次男を送るついでに訪問〜真山神社と八望台


 2020年最初の山〜皆神山
 1/1、毎年元旦恒例の「皆神山」に訪問。
 この山への「初詣」を始めてから、昨年で10年目という区切りに達したが、昨年は令和元年ということで、奇しくも「御代替り」の節目の年でもあった。
 その間、毎年訪れていても、ある年は晴天、またある年は大雪と、その都度変化した情景を見てきたが… 令和2年、11年目の今日は、快晴とまではいかなかったものの、その分、穏やかな暖かみが感じられる晴天。境内にもまるで雪は見られず、それゆえにか、今年一年、今日のこの雰囲気のごとく、家庭も社会も平穏にありたいものだ… などと、ごく自然に感じられてきた一時であった。
 もっとも、そんな穏やかさとは裏返しに、巷では「雪不足」と騒いでいて、スキー場などは大変のようだし、また昨年には、思いがけずも台風による大災害がここ長野市にも襲い掛かり、今も不自由な生活を余儀なくされている方々が多い。いかに穏やかな空の下にあっても、それら厳然たる現実には思いを致さざるを得ず、それだけに… 今年の「初詣」では、どうかこの一年、災害もなく、平和な日々が続きますように… と、例年にもまして強く願わざるを得なかった次第。
 ともあれ… また新たなる年は幕を開けた。さて、今年一年、私には、どんな「山」との出逢いが巡ってくることだろうか…?







 松本・安曇の里山巡り@〜千鹿頭山
 1/12、この日は所用で松本市に訪れたついでに、以前からずっと気になっていながら、今日までなかなか訪れる機会のなかった「千鹿頭山(ちかとうやま)」に立ち寄ってみることにした。この山、標高は657m程度と高くはないが、頂上付近に祀られている「千鹿頭神社」は、諏訪信仰とも関連する古いいわれのある神社のようで(そもそも「千鹿頭」の名自体、かつては祭礼時に鹿の頭を供物としたという諏訪大社とのつながりを強く感じさせる)、歴史探訪趣味のある私としては、かねて興味津々であった。そこで、カーナビをセットして山麓に車を走らせると、じき鳥居が建つ場所の前に出た。見るからにそこが登拝口のようなので、手前の駐車場に車を置き、まずは鳥居の脇の案内看板を見ると、次のように記されている。
 「千鹿頭神社 創立の年月は詳らかでないが、延暦年間、田村将軍利仁の副将軍藤原緒継と林の里長六郎公が相図り、『うらこ』山より現在の地に諏訪洩矢神の御子神千鹿頭神を移し祀ったと伝えられている。その後、林城主小笠原氏を始め歴代松本藩主は、社殿の造営、御柱祭、例祭に際しては、金穀を寄進、また、御柱を献木し、近郷の村々に神役を賦課するなど尊崇厚く、近郷住民の崇敬も深く、隆昌を極めた。元和四年(1618)千鹿頭山の尾根を境として、その南側の松本領五千石が諏訪領になった。その後、それまで一社であったが、藩境に林側と神田側の二社の社殿が並べて建てられることになった。林側の現社殿は元文五年(1740)に建てられたものである。明治四十一年御符社祭神林の里長六郎公が合併祭祀された。平成五年三月 里山辺地区景観整備委員会」
 なるぼど、やはり諏訪と関わりが深い神社なのだと思いつつ、鳥居(林・大嵩崎(おおつき)側の鳥居)をくぐり、コンクリートの滑り止め舗装が施された、歩き易い道をしばし上がると、しばらくして「千鹿頭神社」前に到着。両脇に御柱が1本ずつ建つあたり、いかにも諏訪系統の神社らしい。拝殿は2つあり、その左から奥に進むと本殿がこれまた2つ。案内看板によれば、向かって左が松本側、右が諏訪側の社殿とのことで、いずれも松本市の重要文化財に指定(平成7年)されているようだが、それにしても同じ神様を祀るのに、社殿が2つ並んでいるというのは、何か妙な感じではある。
 ともあれ、両社殿に平等に参拝後、どことなく須坂市の臥龍山に似た雰囲気の尾根を西に少々進むと、三角点標石と四阿がある頂上に到着。この辺りは元々大己貴命(大国主命)を祭神とする「先ノ宮(まずのみや)」が祀られていたが、中世の戦乱により焼失するなどで規模縮小したそうで、今では小祠が一つ祀られるのみ。なおこの祠だけはなぜか松本と諏訪に分かれていないが、その理由は不明とのこと。
 しばしの憩いの後、私は駐車場に戻り、帰りがけには折角だから「千鹿頭池」脇にある神田(諏訪)側の赤鳥居も見た上で、次なる所用に向かった。







 松本・安曇の里山巡りA〜押野山
 1/12、先の「千鹿頭山」への訪問後、所用を済ませた私は、長野市に向けて戻り始めたが… いつになく時間的に余裕があるので、折角だから貴重な時間の有効活用にと、帰り道の途中、安曇野市にある「押野山」に寄り道していくことにする。
 この山は標高695m、梓川、高瀬川、穂高川合流地点のすぐ北に位置する里山だが、以前地図で頂上近くまで車道が延びているのを見た記憶があったため、ここならさほど時間を要さずに立ち寄れるだろうと期待しての訪問だったが… いざ行ってみたら、この山、頂上にテレビ中継塔があるせいか、本当に頂上まで車で上がれてしまったので、大いに拍子抜けしてしまった。もっとも、そんな楽な山の割には、山名を示す標識も設置されていないし、また三角点標石も冬枯れた薮の中… といった具合、展望も頂上からは樹木の障害などで今一つで、せいぜい南側に少し下った辺りから長峰山方面が望まれたくらいであった。
 というわけで… 先刻の「千鹿頭山」と比べると、さほど強烈な印象も残ることなく、帰途につくことになったが、ただ下る途中の左手に、沢で区切られた先に山城の遺構のような高地が見られる地点があったので、あるいはと思い、帰宅後に宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第7巻 安曇・木曽編』(戎光祥出版刊)『明科町史 上巻』等で調べてみると、思った通り、まさしくそこは「押野城」なる中世の山城址であるということがわかった。したり、事前知識があれば、もっとしっかり見てきたものを、と思ったが後の祭り。まあ、城址は頂上ではなく中腹に位置しているものでもあり、そのうち再訪してみることとして… その城址、『明科町史 上巻』の城館跡の考察によると「犀川をはさんで塔原氏に相対する仁科(日岐丸山)氏の最南端の出城であろう」とのこと。ちなみに塔原氏とは、小県郡海野庄を本拠としていた滋野氏分系の海野氏を源流とし、戦国時代には小笠原氏や武田氏の配下となって何とか命脈を保っていたが、武田氏滅亡後に再度小笠原氏が松本を支配した際、一旦は小笠原氏に降ったものの、間もなく反逆を企てたのが仇となり、あえなく滅亡してしまった。一方の丸山氏は北安曇の雄・仁科氏を源流とし、塔原氏と同様、戦国時代には小笠原氏や武田氏に従ったが、武田氏滅亡後に小笠原氏が松本地方を再支配時した際には(注:この頃、丸山氏を改めて日岐氏を名乗る)、日岐盛直・盛武の兄弟が上杉景勝の配下となり、弟の盛武は日岐大城に拠って小笠原氏の攻勢に対抗したが、ついに落城して兄の盛直を頼り敗走するに至った。それでも塔原氏のように滅亡することなく、兄の盛直は上杉氏の移封に従い米沢へ、また弟の盛武は結局小笠原氏に降り、同氏の関東移封に従って信濃を後にしたという。
 ともあれ、どんな山でも、調べると大体、何らかの歴史を伴っている場合が多いので、決して侮れないということを、今更ながら実感できた機会ではあった。






 「仙仁温泉」背後の山城址〜城山(仙仁城址)
 今年は暖冬で、1月もはや下旬になるのに、長野市でも街中はおろか周囲の里山にすら雪が見当たらない。こんな時は、軽い陽だまり里山歩きでもするに限る… とて、1/25、須坂市にある「仙仁城址」に訪れてみることにする。この城址、須坂市から菅平に上がる道の途中で通過する仙仁集落と国道を隔てた向かい側にあり、その変わった名前から、かねて気になりながら、なかなか訪れる機会が得られずにいたものだ。
 もっとも、この城址については『長野縣町村誌 北信篇』等にはなぜか特段の記載がない。南原公平氏著『信州の城と古戦場』(令文社刊)によると「村上氏の臣・小出大隅守、武田氏に降り、のち東寺尾に移る。石ウスが発掘された。」とあるが、微妙な表現で、小出氏が城主だったとまでは記していない。おそらくこの記述は、先の『長野縣町村誌 北信篇』上高井郡仙仁村の項にある「千曲真砂に村上義清臣小出大隅守本村を領すとあり〜(中略)〜按に村上氏井上氏を攻て封地を取り、其臣小出氏に與へしならん」との記述部分に基づくものであろうが、一方で『須坂市史』を参照すると「上州と結ぶ菅平越え(大笹道)の関門仁礼については〜(中略)〜戦国時代には仁礼衆とよばれる地侍(地主)50人が小武士集団を形成し、井上氏の支配下に仁礼口の関守を勤めていた。仁礼方面の山間に散在する小さな城砦群は、こうした仁礼衆とも関係があるのではなかろうか。」としている。この点、私が実際に訪れてみた上での感想では、山城の遺構的にはさほど大規模なものは見られず、雰囲気的に「物見」とか「狼煙台」といった感が強く、『須坂市史』が指摘する通り、「仁礼衆」の持場であった小城砦の中の一つであるように思える。
 で… 今回の私の訪問では、事前に国土地理院の地形図を参照の上、「仙仁温泉」近くのバス展開所脇にある「延命地蔵」のすぐ上から山腹をトラバースしてゆく道に入り、ある程度進んだ所で右手の斜面を頂上本郭址まで登りつめるルートを採った。行きでは途中で送電線巡視路が右に分かれたが、それが一見城址と逆方向に延びてゆくように見えたので、そこを見送り(注:実は、この送電線巡視路に入るのが順路だったと帰りに判明)、さらに進んでトラバース道が尽きた地点から右手の斜面に取り付いたが、それが結構な急斜面で、かつ落葉の下にしばしば岩があり滑って登りにくく、存外な奮闘を余儀なくされるハメとなった。とにかく頭上に見える送電線鉄塔を目標に、這うように登り続けてどうにか突破、首尾よく標高907mの頂上本郭址に達すると、そこには素朴な鳥居の先に、3つの扉がある小祠が祀られていた。もっとも現地には案内看板もなかったので何神社か判らず、多分よくある山の神(大山祇神)の類だろうと思ったが… 帰宅後に宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第8巻 水内・高井・補遺編』(戎光祥出版刊)を見ると、祭神は中央が「風大神」、左が「三宝荒大神」、右が「福大神」の三社とのこと。周囲は樹木に遮られて展望は今一つで、先の送電線鉄塔の上部辺りで須坂市亀倉方面の俯瞰と、その背後に高井地方の名峰「高社山」が望まれた程度であったが、例の頂上の祠の前には割と新しい紙垂が下げられていて、今もなおここを大切に祀る人々の存在が知れ、寒気の中とはいえ、何やら心温まるような感慨をおぼえた一時であった。







 「押野山」と関わり深い山城址〜日岐城址
 2/2、この日、私は午前中に所用があったが、午後は時間が空いた。空を見ると正に日本晴れの快晴。しかも暖冬で雪もなし。そこで軽い陽だまり里山歩きでも… とて、にわかに生坂村の「日岐城址」に訪れてみることに。これまた先の仙仁城址と同様、私には気になりながら今日まで訪れられずにいた地だ。
 場所は「生坂ダム」近くの国道19号と犀川を隔てた対岸で、「水鳥公園」の脇に登り口がある。付近には生坂村指定文化財である日岐城主の墓(注:室町時代末期の五輪塔や宝篋印塔7〜8基)や屋敷跡があるが、この日岐氏とは、実は今年1/12に訪れた「押野山」の項にも記した丸山氏が改名したもので、往時の歴史は同山の項を参照されたい。それにしても… 私が今回、ここを目的地に選んだのは、実は全くの行きあたりばったりで、別に先の「押野山」への訪問を踏まえた上でのことではなく… 後で気付いて少なからず驚いたものである。何やら、目に見えぬものの「導き」めいたものを感じてしまった次第。
 それはともかく、訪問時の模様を簡単に記すと… 登り口の少し上には、動物除けの厳重な柵がある。何がいるのだろうと思いつつ、柵の扉を開け閉めして通過し、よく整備された道をのんびり上がっていくと、突如、私の背後に何者かが猛スピードで駆け抜ける気配。ぎょっとして振り返ると、ニホンジカが1頭、一目散に駆け去っていく後姿が目に映った。ははあ、悪さをするのはこの連中かと思いつつ、ほどなく稜線上に出ると、そこで南の犀川方面の眺めが開けた。すぐ上が三の郭址で、現地案内看板によると、そこは「かじ平」といい刀鍛冶がいたとのこと。それから二の郭址と本郭手前の大堀切を経て、頂上の本郭址まではほんの一投足だった。
 本郭址には四阿と1基の供養塔があり、現地案内看板によると、そこにはかつて城の守護神として八幡神社が祀られていたという。周囲は樹木に遮られて眺望は今一つだったが、一段高い土塁の上からは、樹間に北アルプス蓮華岳等がどうにか見渡せ… 地味なようで、割と明るい雰囲気が印象に残る場所だった。
 なお、道はさらに先、「棚の平公園」方面にも延びていたが、時間的にそちらに進むのはやめ、元来た道を駐車場所まで戻ったが、若干気になったので、帰りがけに逆方向から車で同公園方面に駆け上がってみると、意外、公園の手前辺りがビューポイントで、そこからの北アルプスや戸隠連峰等の眺めたるや、先刻の城址での樹木に遮られた物足りなさを補って余りあるほどの素晴らしさ。思わず快哉! 知る人ぞ知る絶景とは、こういうのをいうのであろう。しかも付近には卓ベンチなどもあり… これは是非、また春先にでも弁当持ちで再訪してみたいものだ。









 偶然知り得た歴史性豊かな地〜三崎山(三崎公園)
 この春は、長男の就職決定と、次男の大学進学という、我が家にとって大きい「区切り」の時となった。特に後者については、進学先が東北の青森県内であり、しかも同地で入学説明会があるとのことで… スケジュールもタイトゆえ、取るものもとりあえず、3/7、車で長駆「日本海東北道」伝いに現地に向かうこととなった。
 その帰りの3/8、また元来た道を長野へ戻る途中、「日本海東北道」未整備区間の国道7号線を通行している際、秋田県にかほ市と山形県飽海郡遊佐町の境付近で、右手に「三崎公園」なる意味あり気な看板が目についた。ちょうど休憩を考えていたところでもあり、天気も良いので駐車場に車を駐め、車外に出てみると、付近は海岸らしくタブの林に覆われ、なかなか長閑な雰囲気。思わず何の気なしに海岸の方へと歩いていくと、白い標柱があって「国指定名勝 おくのほそ道の風景地 三崎(大師崎)」とあり、その先の海岸を望める地に東屋が設置されている。また、件の標柱の別の面には「三崎山旧街道」とあり、散策できるように道が整備されていると知るに及び… 私の胸中には元来の歴史趣味がにわかに湧き上がり、少し歩いてみたくなった。それで早速、長時間運転で凝った身体をほぐしつつ、のんびり、ゆっくり歩き始めた。
 3月初旬にしては、汗ばむほど温暖な陽光の下、タブの林の中の道を行くことしばし、ほどなく「大師堂」(三崎神社)なる、いかにも古い歴史を感じさせる風流な雰囲気の場所に出た。現地の案内看板によれば、ここは今から約1,200年前の貞観年間、慈覚大師(円仁)がこの地に草庵を結んだ遺蹟であるという。また「大師堂」の脇に散在する五輪塔は、慈覚大師の当時のものも含み、石質から他所からのものが多いとのこと。
 「大師堂」に参拝後、さらに先へ若干足を延ばすと、そのあたりで最も高そうなあたりに「羽後三崎灯台」が設置されている。(ちなみに帰宅後に調べてみると、このあたりの標高は、国土地理院の地形図によれば、60m等高線の中にある。また三省堂『日本山名事典』を見ると「三崎峠」の標高は65mとあるが、同項の記述からすると、この標高は松尾芭蕉当時の旧道ではなく、後に開設された峠道の方のようだ。とすれば「三崎山旧街道」における「三崎山」とは、正しくこの灯台の辺りだとみなしてよいだろう。もっとも「三崎山」という呼称自体、特定のピークを指すものでもなさそうだが…)
 灯台からは、元来た道を駐車場まで戻ったが、その帰り、「大師堂」の脇に上がっている石段が気になったので上がってみると、そこには「戊辰之役三崎山古戦場戦没者供養寶塔」なるものが祀られていた。現地由来書によると、大正3年9月、山形県酒田市大字境興野護國殿堂守の芝田新左エ門こと慈深院日新上人が、下男一人と共に三崎山古戦場一帯に散在する粉骨を拾い集め(その量は4ダース入の大型ビール箱2箱、大型竹行覆1筒に及んだという)、酒田の妙法華山(蓮尚寺)において一年間懇ろに供養の上、翌大正4年に現地に寶塔を建立し埋葬したとのこと。私は、ここがかくも重い歴史を伴う地でもあったことに改めて気付かされ… 粛然とした心持と共に塔前に頭を垂れた次第。
 なお、帰宅後に調べてみると、この付近には、かつて歌枕で有名な「有耶無耶の関」(蝦夷の侵入に備えた関の一つ)もあったという(もっとも所在地については、三崎説以外にも諸説あるとか)。全く、思いがけず歴史性豊かな地を偶然知り得て幸運だったが、それも次男の進学がなければ、あるいは一生知らないまま終わったかもしれないのだ。そう思えば… 世の中の巡り合わせというのは、本当に計り知れないものだと感じざるを得ない。







 「緊急事態宣言」下、人目を避けて〜聖山
 5/8、雪融けのこの季節によく訪れる馴染みの「聖山」に、空き時間を利用して訪問。
 折しも世の中では「新型コロナウイルス」なる新感染症の蔓延により、緊急事態宣言が発令され、人目がはばかられて外出自体が気がひけるが如き残念な状況と化してしまっているが… 要は人ごみなどの「密」を避ければよいのだろう、人がいない山なら別に悪いことはあるまい。それには、一般の人があまり目を向けない「里山」を目的地に選定するに限るが、かといって、あまりに人里近い山では、駐車中に近隣住民から石などぶつけられては堪らない… などと、普段なら考えられないような気をあれこれ回した挙句、人里からそこそこ離れていて、かつ、人出もまばらで「密」にならなそうな場所、ということで、たどりついた結論が「聖山」だっったというわけ。
 で… この季節、この山の上からは、特に午前中に天気さえ良ければ、雪をまとった北アルプスの大パノラマが楽しめるので、当然、それを期待しての訪問だったが、正しく期待に違わず、雲ひとつない快晴の空の下、白馬三山、後立山連峰、蓮華岳、餓鬼岳… さらには遠く、鉢盛山、木曽御嶽山、北信五岳… と、全く申し分のない贅沢な眺めを心ゆくまで味わうことができた。
 最近、歳のせいか、アプローチも含めて長時間を要する山への訪問が億劫になってきたが、その点、頂上近くまで容易に近付けるこの山は、今後とも私にとって、手軽に「山」の気分を味わえる山の一つとして、貴重な存在であり続けることだろう。







 ギンリョウソウが印象的〜森泉山
 7/12、この日は長女の希望により、ちょっと軽い「山」気分を味わおうと、特にあらかじめ目的地も定めないまま自宅を発。
 何とはなしに、東信方面に向けて車を走らせながら、烏帽子岳と湯ノ丸山あたりに訪れてみようか… などと考えながら、浅間サンラインにさしかかると、天気は無情にも霧雨模様。南無三…! と思っているうち、車は行くあてのないまま、いつか軽井沢の手前辺りまで進んだ。
 そこで、ふと思いついたのが「森泉山」。ここなら多少天気が悪くても、頂上近くまで車で行けて、大して時間も要しないから大丈夫だろうと考え、早速その方向に車を走らせると、意外や、登り口手前の駐車場所に到着した時には、大分天候が回復していた。いささか拍子抜けしたが、折角来たので、ともあれ頂上三角点に挨拶してくることに。もっとも、登り口から10分もしないうちに頂上着。そこは樹林に囲まれて展望ゼロ、三角点標石が埋設されている以外、他に特別見るものもない静寂な場所で、ここが別荘地の中にある山だということなど、まるで信じられないほどだが… 付近を歩き回ると、湿り加減の林床のそこかしこに「ギンリョウソウ」がちらほらと見られた。その白く妖しい花々の姿は、周囲の雰囲気が地味で静寂だったせいもあってか、何やら異様に印象的だった。
 なお、自宅に戻ってから調べてみると、この山への前回の訪問は、2007年の10/20のことだったと判明。今年は2020年だから、はや10年以上も前の話であり、時の流れの速さに、例によって一驚した次第。どうも最近、こんな感慨にとらわれる機会が多いようで…






 単調な林道歩きで存外大汗〜離山
 7/12、先の「森泉山」への訪問が、あまりに容易かつ短時間で済んでしまったせいか、長女から「不完全燃焼」との思わぬクレームがあり、仕方がないので、どこかもう一か所… と思案の上、思いついたのが、距離的にほど近い軽井沢にある「離山」。ここなら、そこそこ歩行距離もあるし、ある程度長女の期待に沿うことも可能だろう、というわけで、早速、同山の麓に車を走らせた。
 この山、先の「森泉山」と同様、私には以前訪れた経験があるので、その際の記憶をひもときつつ、東麓の別荘地から車を走らせると、やや進んだところで、別荘地関係者以外の車の通行は御遠慮願いたい旨の看板が目についた。一瞬躊躇したが、時計を見るとはや午後3時近く、あまり時間に余裕がない。そこで、心の中で頭を下げつつ、ここはあえて車で入らせていただくことに。
 しばし上がると、林道にゲートのある地点に達したので、その付近に邪魔にならないよう駐車、後は徒歩で林道を歩き出したが、林道歩きというのはどうも単調で退屈ゆえ、傾斜は緩いが気分的に疲労感が強い。また時間的に早足にならざるを得ない上に、蒸し暑さも手伝って、やたらと汗をかいた挙句、ようやく頂上直下の分岐点に達して、ほっと一息。そこからは「山」らしい道となり、ほどなく頂上着。時計を見ると午後4時近く。駐車場所からの所要時間は存外長く、約1時間程度を要していた。
 頂上からは、間近に浅間山の姿が望めることを期待していたが、残念ながら本日の天候加減ゆえ、雲がかかって頂上部は見られず。それでも、それまでの鬱陶しい林道歩きに比べれば、うって変わって開放的な雰囲気で、周囲を吹き抜ける涼風も心地好く、長女もようやく「不完全燃焼」から脱した様子で安心した次第。
 なお、例によって、この山への前回の訪問時期を自宅に戻ってから調べてみると、何と1999年の2/3のことと判明。となると、はや20年以上前、すなわち本サイト開設より前の話だから、当然、本サイトの「山行記録帳」にも未掲載。私にとっても当時の様子を確認するには紙ベースの手帳をひもとかなければならないわけだ。この事実を知って改めて思うに、私の「山」も随分長く続いてきたものだが、さすがの私も「歳」を感じる昨今、果たして今後、何年続けていけることやら…







 頂上のパンが「売り切れ」の悲劇〜横手山
 近年は、山に行くに際し、やたらと妙な「障害」が伴うことが多くなった。例えば… 昨年の場合「豚コレラ」(現在は「豚熱」と呼称)のイノシシへの蔓延が問題化し、発生地の山への訪問の自粛が呼び掛けられたため、山歩きの場所も未発生地域を求めて隣県への越境を余儀なくされた。そして今年は普通に山に訪れられるかと思いきや… 何と「新型コロナウイルス」なる新たな感染症の蔓延により、日本山岳会あたりからは緊急事態宣言下での山への訪問自粛が呼び掛けられることになった。もっとも、この場合の自粛すべき「山」とは、「○○名山」のような、多くの人が訪れる「密」な山の話で、私が好んで訪れるような静寂な里山に関しては、およそ「密」とは対極に位置する筈なのだが… と内心思いはするものの、どうも「人目」も気になるので、あまり大っぴらに外出もできず… 結局、緊急事態宣言発令から解除までの期間中には、わずかに5/8に「聖山」に訪れたのみ。それきり5月下旬の解除後も、7月半ばまで、ただ無為に時を過ごしてしまうことになった。
 もっとも、前週の7/12から、長女の希望を機に、久々に山へ訪れたのに続き、7/19、この日も長女の「また山に行きたい」との希望あり。そこで今度はどこか、ある程度の標高があって、雰囲気も明るく展望良好、かつ安全な場所へ… と思案の上、志賀高原の「横手山」への訪問を思いつく。この山、私は以前は2〜3年おきくらいに結構、訪れていたものだが、このところ大分御無沙汰しているし(後で調べたら、2004年7/26に訪れたのが最後、しかもこの頃は他に多くの山に登っていたせいか「山行記録帳」にも記録を付け忘れていた!)、あの有名な頂上のパン屋で、久々に昼食にパンを味わうのもよかろう、などと皮算用しての訪問。
 ところが… いざ「渋峠」からリフトで頂上直下へ上がってみると、「新形コロナ」の外出自粛も緊急事態宣言解除と共に忘れ去られたとみえ… 存外な人出の上、パン屋では何と肝心のパンが「売り切れ」! 大いに残念だったが、ないものは仕方がないので、諦めて「横手山神社」のある頂上へ。
 ともあれ、今日は前週とはうって変わって、比較的天候良好、やや雲は多めだったものの、周囲の眺望はそれなりに楽しめた次第。







 大先輩と偶然の出会い〜毛無山
 7/19、先の「横手山」への訪問後、あまりに楽だったせいか、長女から例によって「不完全燃焼」とのクレームあり。やれやれ、またかと思いつつ、次なる目的地を思案、旧小串鉱山近くの「毛無山」に数年ぶりに訪れてみることに。ちなみに前回の訪問は2016年の8/7だから、約4年ぶりとなる。感覚的にはつい最近訪れたばかりのような気がするのだが… 本当に、時の経つのは早いものだ。
 さて、この山、旧小串鉱山跡を眼下に見下ろす「毛無峠」から、ほんの20〜30分も上がれば頂上、という手軽さの割に、頂上部は存外樹林もなく明るく開け、周囲の展望も抜群という、正に今回のような場合の目的地としては最適な山だ。また近年、この山への登り口の「毛無峠」は、模型飛行機のメッカとして意外な賑わいを見せているものの、そこから目と鼻の先の「毛無山」は人影もまばらで、季節を選べば野生ブルーベリー(クロマメノキ)も味わえるという、家族でのノンビリとした山歩きには好適な地、というわけで、これまで幾度も訪れてきたものだ。もっとも今回の場合、にわか訪問でもあり、ブルーベリーの時季には早すぎたのが、いささか残念だったが。
 ともあれ、難なく頂上まで達し、心地好い汗を拭っていると、付近に見覚えのある人の姿が目についたので、よくよく見ると、何と私にとって職場と高校の大先輩にあたる小島治好氏。あわてて声を掛けると、小島氏も驚いた様子で「おう」と応えて近づいてきた。それからしばし談笑。
 ちなみに、この小島氏、ハイマツを食すハバチ類研究の権威者で、彼の名字が学名となっている種類が複数あるというほどの凄い人物。この日も、ここ毛無山には虫の観察で訪れていたという。大体、彼と会うとすれば飲み会が大多数で、山の頂上で会ったのは今回が初めてだったが… 折しも世の中は「新型コロナ」禍の真っ只中、飲み会の開催など考えられない状況だけに、今回の偶然の出会いは、私には思いがけず大変嬉しい貴重な機会であった。






 小雨の下、コマクサに見惚れる〜三方ヶ峰(見晴岳)
 8/1、この日もまた、長女の希望により、どこか山に訪れてみようと自宅発。今回は去る7/12に「森泉山」などに訪れた際、当初目的地として念頭にあった烏帽子岳と湯ノ丸山を改めて目的地に設定、山麓の東御市から登り口の「地蔵峠」に向けて上がっていったところ… 峠の手前あたりから天候は何と無情の小雨模様… したり、今年はどうもこの両山に行こうと考えると、不思議と巡り合わせが悪いようだ。
 こういう場合は、スパッと諦めてゲンを直すに限る。烏帽子・湯ノ丸がダメなら、この近くで、多少天候が悪くても歩けそうな場所は… と、しばし思案の上、頭に浮かんだのが、籠ノ登山の向かいの「三方ヶ峰」。そう、ここなら、道もさほど険しくないし、運が良ければ山上で貴重な高山植物の女王・コマクサの群落にも出逢えるかも知れない、歩行時間的にも長女のクレームはつかないだろうし、場合によったら傘をさして歩けばよい… と心に決めると、早速、その登り口の「兎平」駐車場へと車を走らせた。
 「兎平」は、「緊急事態宣言」解除で皆、安心したのか、天候の割には人が多かった。もっとも、単純に見積もれば、ここにいる者のうち、約半数は隣の籠ノ登山の方に向かうと思われ… 実際、目指す「三方ヶ峰」方面に向けて一歩踏み出すと、人気はにわかに少なくなった。左下の樹間に「池ノ平湿原」を時折見下ろし、ナデシコやハクサンフウロの花々を足許に見ながら、比較的傾斜の緩やかな道を「村界の丘」「雷の丘」「雲上の丘」と経由して徐々に高度を上げていくと、そのうち、それまで霧雨模様だった雨滴が少しずつ大きさを増し、挙句ぽつぽつと音をたてて周囲に降り注ぐまでになった。やれやれ、今日はもう、ずっとこんな天気の下で仕方がないか… と、半ばやけになって歩を進めていったが、幸いなことには、雨滴が大きくなった間は樹林の下にいることが多く、やがて「見晴岳」の直下に出た頃には、また元の霧雨模様に戻っていた。おかげで、実際に傘をさすまでには至らず、目指すコマクサ群落の地点に到達。
 一息ついて、植物防護の柵の外側から、付近の砂礫上を見ると… ある、ある。若干、花の盛りは過ぎたようながら、まだ十分美しさを保つ「高山植物の女王」コマクサなど可憐な花々の姿! 曇天でどんよりした天候の下、それら花々の鮮やかな色彩は、まるでそれらが咲く場所にのみスポットライトが照らされているかのごとく、灰色イメージの背景の前に明るく浮かび上がって見え… 実際、私は決して誇張でなく、思わず息をのんで見惚れてしまった次第。
 かくて、デジカメのシャッターを切ったりしながら、しばし時を忘れて過ごしているうち、何やら付近の茂みの背後に不穏な動物の気配、さては熊か? と一瞬ヒヤリとしたが、恐る恐る茂みの裏側に回ってみると、熊ではなくてカモシカの後姿が目に映った。何だ、カモシカかと安堵し、それを機に植物観察を切り上げ、すぐ上の「見晴岳」頂上に上がって昼食。その付近からは、今日、天気さえ良ければ訪れるはずだった烏帽子岳と湯ノ丸山が間近に見渡せたが、空模様は依然として快方に向かうでもなく、またいつ周囲に雨滴が落ちてくるかも知れず… それで今回はあえて「池ノ平湿原」への周回コースはとらず、我々は昼食を終えると、元来た道を駐車場まで戻った。







 約20年振りの再訪〜津軽の名峰・岩木山
 先に別項でもふれた通り、今年は我が家にとって、長男の就職と次男の大学進学という節目の年となったが、それとタイミングを合わせるように襲来した「新形コロナ」禍の影響により、特に次男の進学先との往来に必要以上の配慮を余儀なくされることとなった。というのも、もし、進学先の青森県との間を鉄道利用で往来するとすれば、特に感染者数の多い首都圏を否応なしに通過せざるを得ず、そうなると時節柄、夏休みの帰省自体の可否を考えざるを得なくなるからだ。
 となると、最も安全なのは、私が車で直接、長野〜青森間を次男の送り迎えをする、という手だが、いかに長距離運転になれているとはいえ、それはそれで結構大変ではある。で… 家族と色々相談の末、今年の場合、次男の送り迎えに、そのまま夏休み時期の旅行を兼ねさせてしまうような形をとるしかあるまい… との結論になり、まずは次男帰省の迎えに行ったついでに、津軽の名峰にして日本百名山の1峰でもある「岩木山」に家族で訪れてみよう、ということで話がまとまった。
 というわけで… 8/8未明、午前3時ちょっと過ぎに車で長野発、「日本海東北道」を一路北上し、昼前には無事、青森県弘前市内に到着。そこで次男と合流の上、「津軽岩木スカイライン」経由で8合目駐車場へ、そこからさらにリフトで頂上直下の「鳥ノ海噴火口」まで一気に上がった。
 ここから頂上までは、徒歩で1時間弱で到達できるが、火山らしく岩がごろごろしており、かつ結構な急傾斜を乗り越える必要がある。ちなみにこの山、私にとっては今回が2度目の訪問で… 前回の訪問は約20年前の2000年7月、まだ次男出生前のこととなる。そんなことを改めて確認すると、私も歳をとったものだと異様に実感されるが、そんな感慨に拍車をかけたのが、当時の感覚とは比べ物にならないほどの自身の身体の「重さ」だ。長時間運転の疲れや、また私の体重自体の物理的な増加を差し引いても、なお当時に比べて大分体力が落ちているような気がする。まあ年齢が年齢だけに、当然といえば当然なのだろうが… それでも、常人にはおよそ考えられないような日帰り山行を毎週のように平気でこなしていた当時の自分自身に比較すれば、どうしても、少なからず寂寥感を禁じ得ない。
 それでも、身が重ければ重いなりに、歩くコツを身につけていれば、適当に登れるのが「山」というもの。結構な大汗をかきながら、ようやく頂上の一角に立ち、呼吸を整えてから、改めて辺りを見廻すと… そこは岩木山神社奥宮の社務所がなくなっていることを除けば、周囲に霧がかかっていたことも含めて、全く当時の雰囲気のままだった。ともあれ奥宮に参拝し、巨岩が重なる上の最高点とおぼしき場所に立つと、どうした加減か、どこからともなくオニヤンマが飛来して、私の服にとまったきり、そのまま長いこと離れずにいた。周囲は霧で、存外の涼しさゆえ、私の身体の熱で暖を取っていたものか…?
 なお、ここはまがりなりにも日本百名山の1峰、訪問前は登山者の集中による「密」を心配していたのだが、いざ訪れてみると、案外人気が少なく、比較的静かな山歩きを楽しむことができた。私にとってこの状況は、もちろん歓迎すべきことではあったが… あるいはこれは「新形コロナ」禍がもたらした副産物的な状況なのかも知れないと考えると、多少複雑な思いではあった。









 次男を送るついでに訪問〜真山神社と八望台
 8/29、この日は、先に進学先の学校所在地からの帰省で迎えに行った次男を、今度はまた進学先の学校所在地に送り届けるため、未明に長野発、「日本海東北道」伝いに青森県を目指して北上した。その途中、折角長距離を来ているのだし、どこか普段行けない所へ… というわけで、ちょうど車が燃料切れで高速から降りたのを機に、昼食休憩を兼ねて、そこからほど近い秋田県の男鹿半島方面に車を走らせた。
 まず立ち寄ったのが、「なまはげ伝承館」の近くにある「真山(しんざん)神社」。この神社、現地案内看板によれば、起源は景行天皇の御代にさかのぼるという古い歴史を有するとかで、平安時代以降は神仏習合が進み「光飯寺」として繁栄したが、明治維新以降に神仏分離により「真山神社」となったという。まずは社前に参拝の後、案内看板に導かれて社殿の手前の小道を少々歩くと、神仏習合時代の「光飯寺」の伽藍跡があって、そこには慈覚大師(円仁)のお手植えになる樹齢千百年以上という榧の御神木が青々と繁っていた。これがまた相当な大木で、私はかくも太い榧の樹を見たことがなかった。思わず嘆声を発しつつ、樹の周囲を巡ることしばし、ややあって神社側に戻ると、社務所で駅病退散の祈りをこめた「アマビエ」の護符をいただく。「新形コロナ」禍の折から参拝者に無料配布しているとのことで、思わぬ贈り物に大感激。
 参拝後、次に向かったのが「八望台」。ここは特徴的な火口湖(水蒸気爆発の痕跡である火口=「マール」地形)である「一ノ目潟」「二ノ目潟」を俯瞰するのに絶好の展望台で、私は以前(2005年)、同じ男鹿半島にある寒風山に訪れた際、一度立ち寄ったことがあるが、その時には残念ながら周囲が霧に覆われ、肝心の「マール」地形は今一つ良好に拝めずに終わっていた。今回こそは、と車を走らせると、期待に違わず、やがて丸い火口湖の水面が視界に入ってきた。駐車場からデジカメを手に「八望台」の展望台に上がり、ようやく珍しい「マール」の全貌を、クリアな状態で心ゆくまで目に焼き付けることができた。特に「二ノ目潟」など、明らかに火口湖だと判るくらい、本当に丸くて興味深い。別に丸いから「マール」というわけでもなかろうが…