山行記録帳(2019)
〜Yamazaki's Photo Diary 2019〜


 【山行・自然観察リスト】
 2019年最初の山〜皆神山  国指定文化財の「山」〜水戸市の愛宕山(愛宕神社)
 「樋知神社」とセットで〜聖山に2年ぶりの訪問  日本スキー発祥の地〜金谷山
 戊辰の役の悲劇を今に伝う〜白旗ヶ峰(二本松城址)  夕刻前の慌しい訪問〜弥彦山(弥彦神社御神廟)
 地域の歴史を刻む「山」〜八寸権現山  豪壮な中世城郭の石垣遺構〜金山(金山城址)
 上州赤城山麓の低山巡り@〜渋川市の城山(箱田城址)  上州赤城山麓の低山巡りA〜八幡山(橘神社等)
 上州赤城山麓の低山巡りB〜前橋市の九十九山  名城の「山」巡り@〜香川県の亀山(丸亀城)
 名城の「山」巡りA〜高知県の大高坂山(高知城)  秋山好古・真之兄弟の銅像が立つ〜愛媛県の見晴山
 名城の「山」巡りB〜広島県の常興寺山(福山城)


 2019年最初の山〜皆神山
 1/1、毎年元旦恒例の「皆神山」に訪問。
 「皆神神社」を中心とする、この山一帯の様子自体は、毎年のことゆえ、さすがに今更もう取り立てて述べるべきこともないが… 今年に関しては、飯縄山や戸隠連峰が良好に望まれたことが、強いて言えば昨年との違いであった。
 いつとはなしに習慣となってしまった、この日この山への訪問ではあるが… 帰宅後、これで果たして何年ほど、ここへの初詣を続けてきたろうか?、と気になり、本HPの山行記録帖をさかのぼってみたところ、何と、最初の訪問は2010年の元旦であり、今年ではや10年目だということがわかった。しかも、その始まりの2010年の訪問は、大雪のため他の山に行けず、やむなく容易にアプローチ可能なこの山を選定したという、全く偶然の訪問であったことを思い出した。
 ついこの間、始めたばかりかと思っていたら、はや10年… 全く、年をとるというのは長いようで早いものだ。







 国指定史跡の「山」〜水戸市の愛宕山(愛宕神社)
 3/17、たまたま茨城県水戸市に訪れ、「偕楽園」「回天神社」等を見て回るついでに、同市内愛宕町にある「愛宕神社」に立ち寄った。
 この神社、国指定史跡の「愛宕山古墳」の後円部の上に鎮座しているもので、現地案内看板によれば、同古墳は茨城県内で最大の前方後円墳で、6世紀初頭頃の造営と推定され、当時那珂川両岸におかれた仲国(なかのくに)の首長の墓であることが考えられるとのこと。
 かくも歴史性豊かな地であるが… 私は「山登り」の習性ゆえか、むしろ、その古墳の名称「愛宕
」の方がより気になった。この名称からすれば、この地は現地では「山」として認識されているということか?
 そんなことを思いながら、参拝後に御札や御守の授与所を訪れ、その窓口に展示されている御朱印の見本を見ると、中央の「奉拝 水戸 愛宕神社」の文字の上に捺された「愛宕坐古墳山上 愛宕神社 水戸市愛宕町鎮座」とある大きい朱印の右側に「国指定文化財 水戸
愛宕山鎮座」と明記され、さらにその下に「愛宕山 高きみいつは輝きて さちのみ神と仰がれにけり」との短歌まで添えられていた。これで確信。やはり、ここは現地では立派な「山」として認識されているのだ!
 私はふと、昨年訪れた新潟市の「日和山」(標高12.3メートル)を思い出した。ここ愛宕山も、標高は約40メートルと取るに足らないとはいえ(注:正確な標高データが見当たらないが、国土地理院の地形図を見ると、愛宕山古墳の近くに30.4メートルの三角点があり、麓から同古墳の後円部頂上までの比高は10メートル前後のようなので、ほぼ40メートルとして差し支えないだろう)、その雰囲気と豊かな歴史性たるや、日和山と同様、正に「山高きが故に貴からず」の見本の一つと言うべきだろう。本当に、世の中には様々な「山」があるものだ。






 「樋知神社」とセットで〜聖山に2年ぶりの訪問
 5/12、所用のついでに、少し「山」気分を味わってみたくなり… そんな場合の手っ取り早い目的地として馴染み(というより多分に食傷気味)の「聖山」に訪問。
 もっとも、ただ車で頂上近くまで駆け上り、景色のみ眺めてすぐ下りるのでは、どうも味気ないので、折角だからと、登頂前に山腹にある「樋知(ひじり)神社」に参拝。その境内は、幽玄な雰囲気の社叢の下に素朴な社殿が鎮座する、いかにも神の棲家といった雰囲気で、社殿のさらに右奥には、これまた神秘的な清水の湧く小池がある。その水は大変冷たく、しかも通年ほとんど水温が変わらないので、以前は夏によくスイカなどを冷やしていたと聞く。ただ、折しも春先の花の季節だったせいか、木々の花びら等が散って水面に夥しく浮かんでおり、文字通り清冽な水、という感じでなかったのが、些か残念ではあったが。
 その後は、いつものように林道を駆け上り、頂上直下に駐車して頂上に立ち、しばし周囲の展望を楽しんだが、今回の空模様は比較的良好で、北アルプス鹿島槍ヶ岳など間近い山々のみならず、妙高山など結構遠くの山々まで見渡せたのが嬉しかった。
 なお、帰宅後、この山行記録を書いていて、参考までに前回の模様はどうだったかと調べたら、意外、私はこの山に昨年一度も訪れていないことに気付いた。それまでは、つい最近訪れたばかりのような感覚でいたのだが… どうもここ数年、時間の経過がやたらと早いような気がする。公私共に身辺が何かと慌しいせいか、はたまた年を経て、昔よりワクワクする体験の機会が大幅に減ってしまったせいなのか…?







 日本スキー発祥の地〜金谷山
 8/5、所用で新潟県の上越市に訪れたついでに、以前から気になりながら、これまで訪れる機会のなかった「金谷山」に訪問。
 私、この山の名前だけは、以前から上信越市自動車道の「金谷山トンネル」により認識しており… 実は私はこれまでも、上信越自動車道の、山の名を付されたトンネル名に興味を惹かれて訪れた山がいくつかあり(例えば有明山、日暮山、大山、高岩など)、この「金谷山」も、長いこと気になっていたものだが、なぜか今日まで後回しになり残ってしまっていた。然るに最近、道路標識などで、この山が日本の「スキー発祥の地」であると知ったのを機に、より興味が増したところであり… このたび上越市に車で訪れた際、この山への案内標識を偶然目にしたので、これが良い機会と即刻決断、直ちに標識に従って車を走らせた。
 ほどなく「日本スキー発祥記念館」があるあたりに出ると、そのすぐ先の、土が露出した緩斜面の上に、何やらモニュメントのようなものが見える。そこで、付近の駐車場所に車を駐め、早速、その斜面を登っていってみると… 件のモニュメントは、スキーを着用した人物の銅像であることがわかった。また、土台部分の説明刻字を見ると、その人物は1911年1月、我が国に初めてスキー技術を伝えたオーストリアのテオドール・フォン・レルヒ少佐であり、1961年1月、その歴史を記念して、この銅像が全日本スキー連盟等により建立されたということも判明。
 レルヒ少佐といえば、上越市の御当地ゆるキャラのモデルになった人物ゆえに、私も一応の事前知識はあったものの、実のところ私自身はスキーをやらない(怖くてできない)ので、これまで殊更に彼を強く意識したこともなかったのだが… 今回、こうして彼と金谷山との関係をしっかり認識する機会が得られたとなれば、やはりここは何かの縁、折角だから近くにある「日本スキー発祥記念館」にも立ち寄ってみることにした。
 ちなみに、我が国へのスキー伝来に際し、当時その技術を学んで普及に努めた者の一人が、私と同じ長野県人である旧陸軍軍人・堀内文次郎氏(松代町出身、号「信水」、最終階級陸軍中将、1911年当時の高田歩兵第58聯隊長)であり、かつ当時は私の住む長野市が高田聯隊区の管轄で、兵役により多くの長野市民が高田聯隊に入営していたという事実をたまたま知っていたので、記念館の見学に際しては、少なからず親近感をおぼえた次第。もっとも、同館の展示自体はレルヒ少佐と、長岡外史第13師団長に関する内容が大部分で、13師団隷下の堀内第58聯隊長についての説明は特になかったが…







 戊辰の役の悲劇を今に伝う〜白旗ヶ峰(二本松城址)
 8/15、「盆」のこの日、昨年に引き続いての「夏休み家族サービス」で東北方面に旅立ち… 移動途中の余剰時間を利用して、福島県二本松市の「二本松城址」に立ち寄る。例によって、家族全員の都合が合うのが、盆の前後だけという近年の実情ゆえのことで… 内心、盆でこの世に戻っている祖先の霊に「彼岸にはしっかり墓参りに行くから、今日のところは勘弁…」と手を合わせながらの旅。
 この城址、麓の館と背後の山城とセットになって、全体としてはいわゆる「平山城」を形成している。実は私は以前(2012年)、一度訪れたことがあるのだが、その時は東日本大震災の後で、下部の復元城門と付櫓はともかく、上部の山城については、その時点で石垣が補修中とかで、残念ながら本丸址まで上がれなかった経過がある。あれから7年、今回はちゃんと行けるだろう、と思い、予定外ではあるが急遽、訪問を決意した次第。
 と… 狙い通り、今回は何の不安もなく、すんなりと本丸址まで訪れることができた。途中、著名な詩人・彫刻家である高村光太郎の「智恵子抄」詩碑や、戊辰戦争の悲劇の一つに数えられる「二本松少年隊」の顕彰碑、天正期には本城的機能を果たしていたという「新城館(しんじょうたて)」の址等を見つつ行くと、やがて頭上に本丸址の壮大な石垣が出現する。にわかに山上の城址とも思えぬほどの高さを誇る石垣の威容に圧倒されつつ、最後の石段を上がって本丸址の広場に達してほっと一息、汗を拭いつつ最高点の天守台の上に立つと… 何と雄大な眺め! 二本松市周辺が一望の下だ。
 「平山城」とはいえ、その意外な高度感に、私は初めてここを「山」として意識した。これほどの展望を誇る地なら、城址としてのみならず、必ず「山」として一定の地位を占める場所であるはず、と思った。もっとも訪問時点では、ここが戊辰戦争の戦跡であるという事実の方が重く胸にひっかかっており、山名を調べることまでは思いが及ばなかった。実際、天守台の脇には、慶応4年(1868年)7月29日、落城に際し自刃した城代・丹羽和左衛門と勘定奉行・安部井又之丞の供養碑が建てられているし… 有名な「二本松少年隊」の顛末(今でいえば高校生前後の若者が強大な官軍と交戦し、夥しい死傷者を出した)などの事前知識を有していれば、なおさら往時の悲劇に想いを馳せずにはいられなかったからだ。
 帰りは「霞ヶ城址」の碑や「搦手門」址経由で駐車場所まで戻り、下部に車を回して麓の復元城門と付櫓も見学の後、我々は次なる目的地に向かった。
 なお、山名の件については帰宅後に調べてみると、やはり「白旗ヶ峰」なる、標高は345メートルのれっきとした「山」であることがわかった。それにしても「白旗」とは… 戊辰の役で官軍に敗れたために、そんな名が付けられたのかと一瞬思ったが、調べてみるとそうではなく、元々そういう山の名であったらしい。







 夕刻前の慌しい訪問〜弥彦山(弥彦神社御神廟)
 8/24、この日は所用で長男と共に新潟市に訪れたが、帰りは折角なので、そこかしこを見物しながら日本海沿いに南下した。
 同市西蒲区峰岡で「米百俵」ゆかりの神社という「三根山神社」に立ち寄った時点で、既に時刻は16時少し前だったが、まだわずかに残り時間あり、そこで近くにある「弥彦山」への訪問を決意。この山、私は実は本HPの運営を始めるより少し前に、一度訪れたことがあり(もっとも、その時は日帰りでなかったので、本文執筆時点で「日帰りの旅」の山岳リストには載せていないが…)、確か頂上直下の駐車場から斜行エレベーターで「弥彦山ロープウェイ」の山頂駅まで上がれ、そこからなら頂上までさして時間は要さなかったはずなので、今からでも間に合うかもしれない、と思ったのだ。
 思うやいなや、直ちに車を弥彦山へと走らせ、くねくねの山道を可能な限り速やかに走行することしばし、駐車場に到着して売店に駆け付けると、まだ間に合いそうなので、前回訪問時と同様、斜行エレベーターでロープウェイ山頂駅へ。さらに速足で頂上を目指す。
 15〜20分程度の登りの末、標高634メートルの頂上に到着。斜行エレベーターの営業時間の都合上、午後5時までに駅まで戻らなければならないという強迫観念ゆえに、ついつい足早になった結果、短距離・短時間の割には存外な大汗をかかされるハメとなったが… それでも到着した頂上からは、眼下に寺泊辺りの日本海の海岸線や、蛇行する信濃川の流れなどが良好に俯瞰できたとともに、周囲に吹き抜ける微風も心地好く、爽快感は格別。また、ここは弥彦神社の「御神廟」(弥彦神社の奥宮)が鎮座し、同神社の祭神である「天香山命」が祀られている神域でもある。本来なら、麓の「弥彦神社」に参拝した上で訪れたかったところだが、時間に限りがあったので、今日のところはやむを得ぬ、麓の神社の方は別の機会に… と思いつつ、神前に拝礼。
 いずれにせよ、さほど長居はできないので、しばらく周囲の雰囲気を楽しむと、すぐに元来た道を戻り、どうにか時間内に駅まで戻れて一安心、ここでようやく強迫観念から解放され、後はノンビリした気分で家路についたが… こう慌しくては、やはり少し物足りない山歩きという感は否めなかった。次回はもっと余裕のある行程で、麓の弥彦神社に参拝することはもちろん、隣接する「多宝山」とも併せて訪れてみたいものだ。







 地域の歴史を刻む「山」〜八寸権現山
 9/15、この日私は所用で群馬県に訪れたが、たまたま伊勢崎市内を通りかかった際、カーナビに「権現山」という表示が現れ… さして時間もかからなそうなので、折角だから立ち寄っていくことに。
 麓に駐車し、まずは直下にある「蓮(はちす)神社」に参拝。次いでその裏の緩い斜面に歩を進めると、伊勢崎市指定史跡「権現山遺跡」(昭和41年4月12日指定)の案内看板があった。それによると、この山は赤城山斜面に形成された直径約200メートル、周辺部との比高20m(標高91m)の「流れ山」で、昭和25年に南面が市営住宅建設のため切り崩された際、約4万年前の石器(敲打器)が出土したそうだ。また、山麓から中腹にかけては30基程の円墳による古墳群となっていて、うち4基について昭和45年に発掘調査がされたところ、横穴式石室が確認され、出土遺物などから6世紀頃の築造と判定されるとのこと。
 なるほどと思いつつ、ほどなく頂上に達すると、今度はそこに1基の「宝塔」が置かれているのを見出した。これまた案内看板が設置されていて、見ると、伊勢崎市指定重要文化財「八寸権現山の宝塔」(昭和39年3月5日指定)とあり、粕川流域に多く分布する「赤城塔」と呼ばれる形態の供養塔で、南北朝時代(14世紀後半)の造立と考えられるという。
 やはり、このような身近な「山」は、その地域の人々との密接な関わりを有しているものだ(それも、古くは古墳時代から)。今年の3月に訪れた水戸市の「愛宕山」などと同様、ここもまた「山高きが故に貴からず」の一つの証といえるだろう。つまるところ、どんな「山」でも、行けば行っただけのことはあるものなので、今後とも、たとえ小さな山でもおろそかにせず、気になった場所は旅先でも時間が許す限り、こまめに訪れてみようなどと改めて感じた次第。なお、この山、現地では一般に頭に地名を冠し「八寸(はちす)権現山」と呼称されているようなので、本文の見出しにはそれで表示した。







 豪壮な中世城郭の石垣遺構〜金山(金山城址)
 9/22、この日は諸事情により前週に引き続き、再度、群馬県に訪問。折角の機会ゆえ、余剰時間を活用して、以前から気になっていた太田市の「金山城」址への訪問を思いつく。標高239mの金山に築造された中世の山城址で、豪壮な石垣などの遺構をよく残しているというので、私としても一度は訪れてみたかった場所だ。
 中腹の駐車場から「史跡金山城跡」の石碑に導かれて歩き始めると、すぐに明確に残る「西矢倉台西堀切」の遺構や、馬場下通路の石垣の遺構などが次々と現れる。感嘆しながら歩を進め、三角点のある「物見台」の上に立つと、上州の名峰・赤城山の眺望が良好。
 それから、馬場郭の脇を過ぎて、大手虎口前に達すると、そこできわめて規模の大きい石垣の遺構が全貌を現す。その豪壮な有様たるや、にわかに山城の遺構とは信じられないくらい。しかも、上部には円形の「日の池」なる池があり、さすがにこれは後世の築造物かと思いきや、実はこれまた当時の遺構で、城内の神聖な場所として、生活用水でなく儀式に用いられていたとのこと。まるで周囲の情景が現代でないかのような、一種不思議な感覚にとらわれつつ、さらに先に歩を進め、推定樹齢800年という「金山の大ケヤキ」を右に見て、最後の石段を登りつめると、「新田神社」と「御嶽神社」が鎮座する本丸址の頂上に到着。ここまで結構暑く一汗かかされたが、そんなことより胸中に湧き上がる充実感! 城郭遺構の規模たるや事前の予想以上で、あえて訪れてみただけの価値はあった。
 さて、かくも立派な山城の経歴は果たしてどのようなものだったか。以下、備忘の意味も含め、最後に現地案内看板の記述を一部引用しておきたい。
 「今に残る金山城跡は、岩松(新田)家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。その後、下剋上によって実質的な城主となった横瀬氏改め由良氏の時代に全盛となりました。上杉氏、武田氏、小田原北条氏、佐竹氏など戦国時代の雄に取り囲まれた中、その攻略によく耐え抜いてきましたが、天正12年(1584)小田原北条氏に捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、小田原北条氏の家臣が城番として配置されました。天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡と共に廃城となりました。江戸時代には金山「御林」として徳川幕府直轄地となり、現在に良好な城跡遺構を遺す結果となっています。昭和9年(1934)には、歴史的価値の高さと遺構の残存状況が良好なことから、県内では初めて城跡として「史跡」の指定を受けました。(後略)」







 上州赤城山麓の低山巡り@〜渋川市の城山(箱田城址)
 12/15、この日はまた所用で群馬県に訪れる機会があり、鳥居峠越えで前橋市方面へと向かったが、渋川市にかかった頃、カーナビに「城山」の表示が出たのに興味を惹かれた。最近、どうもそんなきっかけで訪れる山が多いが… 例によってさほど時間もかからなそうゆえ、立ち寄っていくことに。
 それで、早速その方向に車を走らせると、間もなく「城山」の案内標識も出てきたので、この辺りでは結構知られた山城址らしい。ともあれ標識に導かれるままに進むと、車道は案外上まで延びており、頂上直下らしい駐車場まで入ることができた。その上には、何やら城の櫓に似た建物があったが、別段売店等の観光施設ではなさそうで、周囲に人気もない。首をかしげながら調べてみると「天守閣の宿 たちばなの郷 城山」なる宿泊施設であることがわかった。また、その施設の脇に案内看板があったので、見ると「渋川市指定史跡 箱田城跡」として、山城の縄張図と共に次のような内容が記されていた。
 「この城は戦国時代、上野国の守護代白井長尾氏の出城として、箱田地衆によって築かれたと考えられる。城の形式は丘城で、長裾140m、横幅75mと西北−東南にやや長い。山頂を内郭としてその周囲に土居、土居の外側に濠、更にその外側に土を盛った高土居となっている。城の東北に追手(おうて)虎口、西南に搦手(からめて)虎口が開き、両虎口ともに内桝形様の構造をもっている。搦手の内側には武者屯(むしゃだまり)、北角には櫓台址があり、中世末期城郭の築城法がわかる好遺構である。昭和47年12月7日指定 渋川市教育委員会」
 そして、その背景には榛名山の眺めが良好であったが、そうはいっても、これだけでは所詮単なる宿泊施設、余りに味気なさすぎる。せめて、どこか「山」らしい雰囲気の場所はないかと、宿泊施設の左側にある小道をたどって奥に進んでみると、そのうち「喰違虎口」なる白い木標が立つ土塁の遺構が出てきて、その奥に一段高い箇所がある。さればここが最高点かと上がってみると、傍の樹木に「城山」という山名表示板を見出した。すぐ近くに宿泊施設の建物があるとはいえ、ここは落葉散り敷く樹林の中の平地で、一応それなりに「頂上」らしい場所だったので、多少ほっとした次第。(帰宅後に調べたら、標高は208m程度となっていた。) まあ「山」としてはともかく、少なくとも歴史的には、市も史跡としての価値を認めるほどの場所であったということで、十分参考にはなった。







 上州赤城山麓の低山巡りA〜八幡山(橘神社等)
 先の城山(箱田城址)への訪問後、私はまた車を発進させたが、少し走ると、またカーナビに「八幡山」なる表示が出てきて、それが何となく気になった。見ると、これまたさほど時間は必要としなさそうな「山」だし、さて、どうしたものかと一瞬思案したが… 私の性格からして、今回あえて見送っても、後々まで気にかかってすっきりしないことは目に見えている。されば、多少の手間は厭わず、立ち寄っていくことに。
 駐車場に車を置き、「橘神社」の石鳥居をくぐって石段を上がると、すぐに脇に公会堂のある「橘神社」前に出た。とりあえず参拝してから調べると、この神社の主祭神は「誉田別尊」とある。ハテ、「八幡山」なのに、鎮座する神社には八幡様(応神天皇)を祀っていないのか…? と多少疑問に思いつつ、社殿の右手に延びる小道をさらに上がると、今度は「三社神社」の祠の前に出た。手前の案内看板を見ると、その名の通り「水分神社」「雷電神社」「福守神社」の三社を合祀する神社で、「水分神社」は用水堰の守護と農業の神、「雷電神社」は火雷神を主祭神とし雷の災難除や雨乞い、五穀豊穣祈願の神、そして「福守神社」は子宝授与と子孫繁栄の神、といった具合に、それぞれ御利益もうまく棲み分けられており、祭日はいずれも4月28日とある。また、社殿内部には馬の草鞋の供え物などが見られ、この地域の人々の根強い信仰を物語っていたが、さて、ここにもまた八幡様(応神天皇)が祀られている様子はない。何故なのだろう? あるいは「三社神社」の奥に多く設置されている石祠などの石造物群の中に八幡様の祠があるのだろうか…? もっとも、試みにそれらも見て回ったものの、この件については結局、最後までよく判らずに終わった。
 なお、「三社神社」の背後がこの「山」の最高点になるようなので、参考までに行ってみると、そこは藪の中で(帰宅後に調べたら、標高は180m程度)、先刻の城山のような山名表示板すら設置されていない。しかも、最高点を越えた先の斜面には、何とソーラーパネルが設置されていて… その背景には榛名山や、先刻訪れた城山などが見渡せたものの、「山」としての雰囲気は著しく損なわれていたので、長居せず、また「三社神社」の前に舞い戻り、気分を落ち着かせてから、駐車場所に戻った。







 上州赤城山麓の低山巡りB〜前橋市の九十九山
 八幡山への訪問後、私はまた車を走らせ始めたが… わずか走ったら、またまた、今度は進路の右手に、形のそこそこ良い小さい独立丘が目についた。カーナビの表示を見ると「九十九山」なる面白い山名が表示されている。私はそれを見て、またしてもそこに立ち寄ってみたい衝動にかられた。いかに短時間とはいえ、塵も積もれば何とやら、無暗に時間を浪費することは禁物ゆえ、今日の寄り道はこれ限りにしよう… と心に決めた上で、あえて訪れていくことに。
 で… その丘の方に車を走らせると、すぐ麓に駐車スペースを見出したので駐車。付近には自然観察ガイドの案内看板があり、それを見て、ここが存外豊かな生物相の見られる山であるということを知ると同時に、この山の名が「九十九山」と書いてツクモヤマと読むことを知った。登り路の入口には石鳥居があり、道はほぼ直線に頂上まで延びている。私は何となく、さてはこの山、今年3月に訪れた水戸市の「愛宕山」のような古墳ではあるまいか… などと思いつつ、石鳥居をくぐり、樹間から明るい陽光が射し込む長閑な道を登っていくと、ほどなく数基の石祠が祀られている頂上に到着。然るに、頂上の割にはなぜか案内看板もなく(帰宅後に調べたら、標高172.1mとのこと)、石祠もそれぞれ何神社なのか不詳。先刻くぐった石鳥居には「八幡宮」とおぼしき文字が刻まれていたが…?
 首を傾げつつ、反対側の斜面を見下ろすと、そこにようやく案内看板とおぼしきものを見出したので、下りて見てみると「九十九山古墳」なる古墳の解説板で、「本古墳は、通称九十九山の丘陵に構築された、全長約60mの前方後円墳である。自然石積、横穴式石室の規模は、長さ8.3m(右壁)、幅1.95m(奥壁)、0.9m(前部)、高さ1.46m(奥)、0.79m(前)である。円筒埴輪列の存在、馬型埴輪や金環の出土が伝えられている。前橋市教育委員会」とあった。また、この看板の近くにはもう一つ「富士見かるためぐり」のNo.16「れ 歴史を語る九十九山古墳」なる看板があり、先の教育委員会解説板と大同小異の内容に加え、この古墳は当地域唯一の前方後円墳である旨が記されていた。いずれにせよ、私が先刻抱いた予感は半分正しかった(山自体は古墳ではなかったが、少なくとも山中に古墳はあった)わけだ。なお、横穴式石室の入口も見ることができたが、周囲は柵に囲まれていて、中に入ることはできないようだった。
 ともあれ… これをもって本日の3つの寄り道低山巡りは終了したが、改めて振り返れば、山城址、神社、古墳、と、それぞれ違った特徴を有する地で、なかなか興味深かった。今後も、こんなふうに気を惹かれた「山」があれば、億劫がらず、こまめに訪れてみたいものだ。さすれば、必ずまた何か新たな「発見」があるに違いない。







 名城の「山」巡り@〜香川県の亀山(丸亀城)
 令和最初の年末に向けては、私にとって一つ、密かに心に期していたことがあった。というのは、先に東北の二本松城址などに訪れて気がついたことだが、戦国時代のいわゆる「山城」までいかない「平山城」の部類でも、結構「山」として楽しめそうな場所がありそうなので… 平山城の場合、高い山の上の城よりも豪壮な城郭建築を誇る、すなわち世間一般に「名城」として知られる場所が多く、それはまた同時に「山」としてのみならず、私の本来の歴史趣味をも充足してくれることでもある。何かと時間に追われがちな昨今、こんな贅沢な「一石二鳥」はない。だから、年末年始の休みを利用して、そのような場所を幾つか訪れてみたいと考えていたのだ。
 というわけで… 12/29、まずその最初の訪問地に選択したのが、香川県丸亀市の「亀山」(標高66.2m)に築かれた、昭和28年国史跡指定の名城「丸亀城」。3層の天守閣は日本でも数少ない現存木造天守の一つで、昭和18年に国の重要文化財に指定されているが、もう一つ、この城で忘れてはならないのは、相当の規模を誇る石垣の美しさだろう。特に三の丸北側のそれは当城内で最も高く「扇の勾配」と呼ばれる曲線美を有し、よくTVの名城特集番組などで紹介されているほどだ。
 もっとも、私の住む長野から、四国の香川県といえば相当な長距離ゆえ、年末年始のように、まとまった休みの際でなければ、なかなか訪問できない。しかもこの年末は、土壇場で公私共にゴタゴタがあり、一時は訪問が危ぶまれたのだが… 結果的にはそれらもどうにかクリアし、晴れて訪れることができた次第。
 駐車場から「大手門」を経て、「見返り坂」と呼ばれる坂を、例の「扇の勾配」の石垣に感嘆しながら登っていくと、やがて天守閣のある本丸の亀山頂上に到着。この天守、実は日本にある現存木造天守の中で規模的には最小(高さ約15m)なのだが、小さいなりに気品があり、青空をバックに凛々しく建つ美しい姿は見飽きることがない。ちなみに、この天守は四国で最も古いもので、万治3年(1660年)に竣工したとのこと。
 この日は天守閣内部も公開されていたので見学、また帰りには、大手門の「一の門」内部が無料公開されていたので、折角だからそこも見学した上、駐車場に戻った。現地は長野に比べると相当温暖で、気がつくと全身に大分汗をかいていたが、短時間ながら充実度は高く気分爽快。やはり「一石二鳥」の効果は満点のようだ。







 名城の「山」巡りA〜高知県の大高坂山(高知城)
 先の「亀山」(丸亀城)への訪問後、次に向かったのは高知県高知市、土佐藩山内氏の名城「高知城」。これまた先の丸亀城と同様、日本に数少ない往時の現存木造天守が残る城の一つで、「大高坂山」(おおたかさかやま/標高50m程度)なる「山」の上に優美な姿を見せている。ちなみに現在残る城は、火災焼失後に伴い延享4年(1747年)に再建されたものだが、この地に所在した「城」の歴史は存外古く、南北朝時代に築かれたのが最初であったという。当初は山の名そのまま「大高坂山城」と呼ばれていたようで、大高坂山松王丸なる者が拠り、後醍醐天皇の第七皇子満良親王を奉じて北朝方と争ったが敗北し、興国4年(1343)に一旦廃城となってしまった。以後、この地方は四国の雄・長曾我部氏により長いこと支配されることになるが、その間、天正16年(1588年)に長曾我部元親が一度はこの山に築城しようとしたものの、なぜかすぐに断念してしまい、結果的に当初の城が廃されてから、慶長6年(1601年)に山内一豊がこの山への築城を再度手掛けるまでに、何と250年余もの時が経過していたとか。そして慶長16年(1611年)にほぼ竣工を見たものの、享保12年(1727年)に火災焼失したため、その後再建された。現存天守は前記の通り再建されたものだが、天守と本丸御殿が両方現存しているのは、日本全国でもこの城のみという貴重なものだ。
 さて、そんな城だが、こちらは丸亀城と違い、年末の休館期間に入ってしまっていたため、当初から外観見学のみを目的に訪れたが、それでも城内は結構大勢の人で賑わっていた。天守閣の周辺には、年越しイベントか何かの準備だろうか、スピーカーや照明など、場違いな設備もいささか目についたものの、それでも壮麗さとスマートさを兼ね備えた絶妙な意匠の天守閣の美しさや、また三の丸から見る、天守閣の前面に詰門や廊下門、西多聞等がどっしり連なる情景などは大いに見応えがあった。天候は午前中の丸亀城の際の青空とは打って変わって下り加減で、今にも泣き出しそうな空の下ではあったが、それでもなお私の故郷信州と比べたら格段に温暖で、結果として丸亀城訪問の際と同様、本丸までの登りでは結構汗をかかされるハメになった。それでも、私にとっては初めての訪問でもあり、汗をかいただけの価値はある、大変貴重な歴史探訪の機会であった。







 秋山好古・真之兄弟の銅像が立つ〜愛媛県の見晴山
 このたびの名城の「山」巡りの旅では、12/29は愛媛県松山市泊まりで、翌12/30は、まず有名な「伊予松山城」に訪れてみるつもりだった。ところが… 朝起きると、空模様は無情の雨。これでは、あえて訪れても鬱陶しいだけなので、やむなく中止、本州の広島県に向かうこととしたが… 折角来ているのだから、松山市内の梅津寺(ばいしんじ)駅近くにある秋山好古・真之兄弟(歴史小説の大家として有名な司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公)の銅像を見物していくことにする。
 司馬遼太郎の歴史小説には、本人の一方的な思い込みや、執筆当時の資料不足等に起因する事実誤認が散見され、内容的には問題が多いが… それでも、この秋山兄弟はじめ、新選組の土方歳三などに対する世間一般の関心を開いたという点に係る功績は、やはり無視できない。
 現地に車を走らせ、場所を探すのに多少手間取ったが、どうにか案内看板を発見し、早速行ってみたところ… 思いがけなくもそこは「見晴山」なる「山」扱いの場所であることがわかった(!)。帰宅後に調べたら、標高わずか10m程度の低山であり、また生憎の雨天ゆえ「見晴山」という割に見晴は良くなく、せいぜい付近の松山港が見られた程度だったのだが、それでも「山」は「山」、折角だから、この地の記事も参考までに掲載することとした次第。
 もっとも、そんな場所ゆえ、他に書くことはあまりないので、以下、備忘の意味も含め、現地案内看板の解説文面をそのまま引用転記しておくにとどめたい。
 「秋山好古 安政6年1月7日〜昭和5年11月4日(1859〜1930) 松山藩士秋山久敬の三男として松山市中歩行町に生まれる。海軍軍人秋山真之の実兄。明治10年陸軍士官学校、16年陸軍大学を経て騎兵科を志す。20年フランスヘ留学。日清戦争では騎兵第一大隊長、後に騎兵学校長となり、明治陸軍の騎兵科を『戦略機動集団の騎兵』として強化発展させ、騎兵の父と仰がれた。日露戦争では騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵と奉天会戦等で戦い、敵の退路をおさえる陸戦最後のダメ押しに大功があった。第一及び近衛師団長を経て、大正5年大将となった。朝鮮軍司令官、教育総監、軍事参議官と陸軍の要職をつとめた。その後乞われて北予中学(現松山北高)の校長となり、後進の育英に尽力した。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』に弟真之とその親友正岡子規の三人が主人公となり、それぞれの人間と人生が語られている。この像は昭和45年1月に再建されたもので、日露戦争の主戦場であった満州方面(北)を向いている。」
 「秋山真之 明治元年3月20日〜大正7年2月4日(1868〜1918) 松山藩士秋山久敬の五男として市内歩行町に生まれる。好古は実兄。15歳で上京し、親友の正岡子規と下宿した。その後、明治19年海軍兵学校に入学し、同校を首席卒業。日清戦争を経て米国に留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。日露戦争で連合艦隊司令長官東郷平ハ郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え、伊予水軍伝来ともいわれる『丁字戦法』を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅し、戦局の大勢を決した。なお、この時掲げたZ旗の『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努カセヨ』の文は、真之の作である。大正6年中将に進んだが、翌年病死。この像は、石手寺境内にあったものを昭和43年に当地に移転したもので、日本海海戦が行われた対馬海峡方面(西北西)を向いている。」







 名城の「山」巡りB〜広島県の常興寺山(福山城)
 愛媛県松山市で秋山好古・真之兄弟の銅像を小雨の下に見学後、我々は四国から島伝いで本州(広島県)に渡った。そこまで行くとどうやら雨も止んだので、それから大阪方面に向かう途中、福山市の「福山城」に立ち寄っていくことにする。というのは… ここもまた「常興寺山」なる「山」であり(帰宅後に調べたところ標高40m程度)、今回の旅のコンセプト「名城の『山』巡り」に合致する地であったからだ。もっとも、私にとって、ここへの訪問動機はそれだけではなく… 私は以前新幹線で九州方面に向かう際、福山駅の手前で一瞬目に入る壮麗なこの城の姿の撮影を車中から何度か試みたが、悉くタイミングが合わず失敗したという苦い経験があり… いつか必ず直接ここに訪れ、心ゆくまでその美しい姿をカメラに収めたいと思っていたので、今日こそは、正にその希望を晴らす貴重な機会というわけ。
 ただ、この城、これまで訪れてきた丸亀城や高知城とは違い、今建つ建造物の多くは戦後の外観復興によるものである。それも、戦前までは元和8年(1622年)建築という古く貴重な木造天守が現存していたのに、先の大戦末期の戦災で惜しくも焼失してしまったのだ。全く、惜しみても余りあるが… そんな状況は、私のように静かな雰囲気を好む者にとっては、ある意味、むしろ有利に働く。というのも、ここ福山城の場合、先の高知城(現存天守ゆえ、外観だけでも見たい人も多かろう)のように年末年始の閉館期間中でも結構な賑わいを見せているようなことはなく、存外人影がまばらで、写真撮影もしやすく、落ち着いて往時の歴史を偲ぶことができたからだ。
 とはいえ、この城は別段、華々しい実戦の舞台になったわけでもなく… 元和6年(1620年)、水野勝成により築かれたが、同家はその後嗣子なく断絶し、宝永7年(1710年)、阿部正邦が入城、以後阿部氏のまま明治維新に至っている。その間、歴史上特筆すべきことといえば、ペリー来航時の幕府筆頭老中・阿部正弘がこの城の10代にあたる城主であったということが、まず第一に挙げられようか。ちなみに、この城に隣接する岡山縣護國神社には、その阿部正弘公の石像が安置されている。また、天守は先に戦災で焼失したと書いたが、城内の建物が全て灰燼に帰したわけではなく、「鐘櫓」だけは幸運にも残存し、現在、福山市の重要文化財に指定されている。(昭和54年10月26日指定) それも、現地案内看板によれば、城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に例がなく、貴重なものであるとのこと。
 というわけで… 今回の名城の「山」巡りの旅は、ここ福山城をもって終了。同時にそれは、私にとって令和元年最後の「山」となったが… いずれにせよ実に豪華な舞台装置で、私にとっては大変満足な機会であった。