山行記録帳(2018)A
〜Yamazaki's Photo Diary 2018,A〜


 【山行・自然観察リスト】
 霧の中の静寂〜三笠山と御嶽奥宮遙拝所 「迷路」のよう〜高崎市下室田町の城山(鷹留城址)
 晴天下の再訪〜三笠山と御嶽奥宮遙拝所 旅の途中のプチ山歩き〜信夫山(羽黒山・熊野山)
 心身が洗われる修験道の「聖地」〜出羽三山の湯殿山 もう一つ出羽三山へ〜羽黒山(三神合祭殿)
 残暑の下、予定外の里山歩き〜桃山と鎌田山 単なる神社詣でのつもりが、とんだ大汗〜秩父御嶽神社
 「西」に行ったら「東」も行きたく…〜四阿山中腹の「東花童子」宮跡 余剰時間に寄り道〜真田本城址
 小雪舞う中、寒いが爽快な山歩き〜小桟敷山 冬枯れの中、軽い里山散策@〜八王子山
 冬枯れの中、軽い里山散策A〜鬢櫛山 冬枯れの中、軽い里山散策B〜自在山中腹の「自在神社」
 2018年最後の山〜男山(石清水八幡宮)


 霧の中の静寂〜三笠山と御嶽奥宮遙拝所
 6/30、この日は当初、蝶などの自然観察をするつもりで長男と共に家を出たが… どうした加減か、大した成果がないまま時間が経過し、いつしか午後になってしまった。ばかりか、挙句の果てに出くわしたものは、何と蝶ならぬ猪(!) 冗談じゃない。熊じゃなかったから、まだ良かったものの、これは、どうも今日は程々にして止めておけという、神様のお諭しかも知れない、などと考えるに及び… それなら、今日の我が身の不運をどこかで祓って行こう、というわけで、近くにある御嶽山の王滝口登山口「田ノ原」にある「三笠山」の神社などに参拝して帰ろうと思い立ち、早速、車をそちらに走らせる。
 と… 進むにしたがって、それまで炎天下だった周囲は、次第に雲の下の灰色がかった情景へと変化し、目指す「田ノ原」駐車場に着いた頃には、ついに小雨まで降り出す始末。したり、今日はどこまで行っても、こういう巡り合わせらしい、と最初のうちこそ臍をかんだものの、そのうち次第に胸の中の憤懣がオーバーフローし始め、最後には、ええい勝手にしろ、こうなったら、いくらでも降りやがれ!と開き直り… かくて一本しかない傘は長男に持たせ、自分は濡れるのを覚悟の上、傘もささずに鳥居をくぐって「三笠山」へ。
 もっとも、いざ歩き出してみると、樹林の中の道は小雨程度は適当にはじいてくれ、ほとんど濡れないまま頂上の「三笠山神社」着。天候ゆえに展望は望むべくもないが、その分、時折霧がかかっては抜ける中の境内の雰囲気はなかなか幽玄。自然、厳粛な気持ちのままに参拝し… 駐車場に戻った頃には、小雨は幸い止んでいた。まだ時間的にも若干余裕あり、それなら折角だから、ついでに御嶽奥宮の遙拝所と、その途中にある大黒天の祠も拝んで来ることに。
 その道は、本来、御嶽山への登山道入口にあたるのだが、例の噴火災害以来、奥宮遙拝所より先には閉鎖されていて立ち入れない。私は御嶽山には2度登っており、前回は母校(高校)の創立100周年記念登山のトレーニングを兼ねて、平成11年の同時期に登ったが、その時の記憶に照らせば、この季節この時間、本来ならまだ多くの登山者で賑わっているはずの道が、今日は我々の他にはほとんど出会う人もない… あまりの雰囲気の変貌に、先の噴火災害の影響がいかに深刻なものであるか、今更ながら思い知らされた次第。もっとも、神域に身を置く分には、皮肉にもそんな静けさが、かえって周囲の神々しさを増幅し、遙拝所でも肝心の御嶽山の姿自体は雲に隠れて拝めなかったものの、その前面に湧き起こる雲の有様たるや、正に神の仕業のごとく、世の常ならぬダイナミックさに、私はしばし目を奪われ… ふと気が付くと、先刻三笠山に登り始めた際の憤懣やるかたない気分など、いつしか全く消え去っていた。







 「迷路」のよう〜高崎市下室田町の城山(鷹留城址)
 7/1、この日は、今一つ中途半端に終わった前日の「験直し」とて、方向を変え、上州の榛名山あたりに訪れてみるつもりで家を出たが、いざ現地に到着してみると、榛名湖周辺は前夜の豪雨が嘘のような晴天の下、観光客で大賑わい。私はその光景を一目見て、そこで車を駐める気が失せた。昨日の御嶽田ノ原の雰囲気とはえらい違いだ。これでは仮に赤城山に行ったとしても、状況は一緒だろう。
 やむなく、中腹の「榛名神社」に立ち寄ったのみにて高崎側に下ったが… そうは言っても折角出てきて、ただドライブだけで帰るのもつまらないし、そもそも「験直し」にならない。どこか手っ取り早く行けそうな「山」はないかとカーナビを見ていたところ、下室田町あたりで「城山」という表示が出てきたのに目がとまった。そこは、これまで訪れたことのない中世の山城址「鷹留城址」のある場所。この季節、低山では少なからず暑そうだが、それでも榛名山の人混みの中よりはマシだろうと心を決め、山麓の「矢背負稲荷神社」前まで車を走らせて駐車、まずは稲荷神社に参拝の上(注:この神社、現地の説明板によれば、戦国時代に鷹留城が甲斐武田氏の攻撃を受けた際、この山に棲む狐が霧をかけて武田軍を惑わせたが、やがて流れ矢が当たって狐が霊力を失ったため城は落城、後に地元の人が狐を悼んで祀ったのが始まりという)、標識はないが神社の鳥居の左手に上がっている道をたどり出す。
 しばし登ると、唐突に句碑が建つ一角に出て、そのあたりから郭の遺構などが見られるようになったが、案内標識の類は相変わらず皆無で、適当に見当をつけて進む。が… この山城址、当初想像したよりは大規模で、切岸や空堀も結構急峻ゆえ、それを右に避けたり左に迂回したり、歩きやすそうな所を選んで進むしかなく、まるで迷路のごとし。夏の里山らしく、薮蚊の襲撃が鬱陶しいのにも閉口したが、そのうちようやく本郭址らしい高みを見出すに及び、これは多少苦労でもやむを得ないと、足下不安定な急傾斜の切岸を強引に乗り超えると、そこが狙い通り、頂上の本郭址。落城した山城の址らしく、一角に戦没者の慰霊碑や城主の霊神碑が祀られている平地だが、その意外なまでの広さには一驚。往時は、さぞかし大規模な館が建てられ、威容を誇っていたことであろうなどと思いつつ、辺りを歩き回っていると、何と、一段下の郭から、しっかりした階段道が通じているのを発見。したり、これを最初から見つけていたら、最後の登りで苦労する必要はなかったものを。
 もっとも、さすがに帰りは迷うことなく、例の句碑まで難なく戻れたので、そこで汗を拭いつつ、改めて碑面を見ると、「七曲り 城の迷路や 蝉時雨 三木外松」とある。「迷路」とは正に言い得て妙、先刻私が感じたそのままだったので、我が意を得たりと思いつつ、耳をすませると… 周囲はこれまた句にあるとおり、何とも長閑な蝉の合唱。然るに鈍感な私は、碑面を見るまで全くそれに気付いていなかった。やれやれ、やはり句を詠むほどの風流人と私とでは、所詮比較にはならないようだわいと思い知らされ… 私はまた別な汗をかきつつ、駐車場所に戻った。







 晴天下の再訪〜三笠山と御嶽奥宮遙拝所
 去る6/30、御嶽山の王滝口登山口「田ノ原」近辺にある「三笠山」と「御嶽奥宮遙拝所」に訪れたことは、既に上記の通りであるが、その際、現地が生憎の天気で、それなりに霊山らしい幽玄な雰囲気は体感できたものの、期待した御嶽山の雄姿を望めなかったことが、以来、どうも一抹の口惜しさと共に心の片隅にわだかまっていた。それが7/16、たまたま所用で木曽方面に訪れる機会があったが、今度は思いのほかの好天。となると、この際、折角だから、もう一度… という思いが、心の中に湧き上がってくるのを如何ともし難く、結果、余剰時間があるのを幸い、またしても「田ノ原」への長い山道を駆け上がった。
 と… 今度こそは正しく期待通り、「田ノ原」駐車場から我が双眸に飛び込んできたものは、申し分のない晴天の下、圧倒的なほどに私の眼前に迫り来る、かの御嶽山のボリュームあふれる威容! そう、これこそ、実に6/30以来、私が見たくてたまらなかった光景だったのだ! 以前、この山に訪れた際の記憶が、走馬灯のように我が胸中に駆け巡る。思えば、この山への初訪問は、まだ高校時代のことだった。また、再度の訪問は、平成11年(1999年)、母校(高校)の創立100周年記念登山(白馬岳)に先立ち、トレーニングを兼ねての訪問だった。そのいずれも、ここ王滝口登山口からの訪問だっただけに、懐かしさはひとしおだ。
 ともあれ、6/30と同じコースをたどり、まずは三笠山へ。頂上の三笠山神社に参拝し、戻る途中で眺めの開けた一角から周囲を見渡すと、見える、見える。東には中央アルプスの盟主・木曽駒ケ岳。また北には、面白い角度から望める乗鞍岳…
 久々に爽快な気分と共に、一旦「田ノ原」駐車場に下り、次いで「御嶽奥宮遙拝所」へ。車も通れるほどの広い道を大黒天経由で歩くことしばし、突き当りの御嶽山登山道の通行止めゲート前を右折して、難なく到着。鳥居をくぐり、階段を上って神像の前に立つと、その背後には当然ながら御嶽山が雄大。前回の雲の饗宴とは、余りに異なる雰囲気だったせいか、前回訪問時からほんの2週間ほどしか経っていない割に、印象的には実にフレッシュなものがあった。







 旅の途中のプチ山歩き〜信夫山(羽黒山・熊野山)
 8/15、この日は言うまでもなく「盆」、祖先の霊が年に一度、あの世から家に戻ってくるという日だ。本来なら、暑い盛りでもあり、家でゆっくりして仏壇に線香でもあげて過ごすべきところなのだろうが… ここ数年、子供たちの成長と共に、学校行事やらPTAやら何やら、やたらと日程に制約が多く、家族全員の都合を合わせるのが、きわめて困難となっている。今年もその例にもれず… 最終的に家族の予定を合わせることができたのが、他ならぬ「盆」のこの日を含むわずか数日、というわけで、祖先の霊には申し訳ないと謝しつつ、せめてもの夏休み家族サービスとて東北方面に旅立った。
 途中、福島県福島市を通過したが、その際、この地で有名な「信夫山公園」に立ち寄っていくことにする。まずは山麓の「福島縣護國神社」と延喜式内社の「黒沼神社」に参拝し、それから細い車道を上がって、信夫山上にある「羽黒神社」へ。
 信夫山には、実は三つの峰があり、これらを総称して「信夫三山」と呼称している。「羽黒神社」は、それらのうち「羽黒山」の頂上に鎮座しているもので、日本一という大わらじが奉納されることで知られている(実はそれを一目見たいということもあって訪問した次第)。頂上直下の駐車場から、思いのほか岩が露出してごつごつした道をしばし登って、頂上の「羽黒神社」境内へ。件の大わらじは、左手にすぐに目についた。まずは社前に参拝の上、改めて見ると、唖然とするほど大きいわらじの前に「信夫三山 暁詣り大わらじ」と書かれた札が取り付けられていた。それにしても本当に大きい。確かにこれは「日本一」かもしれない、来てよかったと思ったが、難を言えば丈が長すぎ、「草鞋」というよりは「簾」のようにも感じてしまったが…
 なお、旅の途中ゆえ、さすがに三山全てを訪れていくほどの時間的余裕はなかったが、それでも信夫三山最高点(268m)の「熊野山」だけは、折角だから訪問していくことにする。もっとも、こちらは羽黒山のように特別な見どころもなく、頂上は三角点標石が埋設されているのと、脇に「熊野大神」と彫られた石碑がある程度の静寂な場所だったが、「山」の雰囲気としては、それがまた良いところ。ただ、標高が低いだけに、さすがに暑く、そうそう長居もできないまま、再びの旅路についた。







 心身が洗われる修験道の「聖地」〜出羽三山の湯殿山
 夏休み家族サービスとして企画した東北方面への旅も、あっという間に時は過ぎ去り、はや最終日の8/18となった。この日は、前夜宿泊した山形市内から鶴岡市に抜け、そこから日本海沿いに南下し、長野の自宅に戻る予定であったが、その途中、出羽三山の山麓を通過する。
 私は、出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)のうち、月山と羽黒山には既に訪れたことがあったが、残る湯殿山については、その名は以前から知っており、長いこと気にはかかっていたものの、他の2山と違い、特別「頂上」といった場所がないことや、また修験道のいわば「奥の院」的聖地で、即身仏(ミイラ)修行の地でもあったという一種の「重苦しさ」もあり、これまでなかなか訪れる機会がなかった。そこで、今日は旅の最終日ということで、比較的時間に余裕を持たせた行程計画としてあるのを有効活用し、折角だからこの際、湯殿山にも訪れてみよう… ということで、「湯殿山神社」入口に向けて車を走らせた。
 やがて駐車場に到着し、車を降りてみると、そこには赤い巨大な鳥居が威圧的な体で建ち、その背後には豪雪地特有の雪崩に削られた独特な山肌の山稜が連なっていて、いかにも「聖地」入口といった雰囲気。参道入口へは、そこからさらにシャトルバスで「仙人澤」の谷を奥深くへと進み、終点からは、いよいよ徒歩で、目指す「湯殿山神社本宮」に向けて一歩を踏み出す。すると、すぐに立て看板があり、これより先は神域のため撮影禁止とのこと。残念だが「聖地」だけに、やむを得ない。これから先の光景は、しっかり自分自身の目に焼き付けて来よう、と心に期し、歩を進める。
 沢沿いの斜面に付けられた道を緩く上がることしばし、登りが一段落すると道は一転、沢底に向けて下り、右に回り込むと建物に入る。と、そこは下足置き場で、以後の参拝は素足でとのこと。少なからず驚いたが、それも「聖地」ゆえのことなのだろうと思い、指示の通り履物を脱いで先へ進むと、そこで初めて「御神体」が姿を現した。一目見て、これまた少なからず驚かされた。何とそれは、温泉成分のせいか赤味がかった色に染まった、いわゆる「噴湯丘」で、その上からは湯気を立てて、いかにも熱そうな湯が間断なく流れ落ちている。その前に一心に祈りを捧げる白衣の信者たちが群集している有様は、正しく「奥の院」といった雰囲気。そして、その場に控える神職から教導された参拝の「作法」とは、御神体の左手の、湯が流れ落ちている急な岩肌を上がって拝礼するのだとの旨(!)。なるほど、これで先刻、素足になった理由がわかった。が、温泉の湯が常時流れているような急な岩肌を上がって、湯垢で滑らないのだろうか、また湯は熱過ぎないだろうか… と内心、不安を覚えつつ、恐る恐る足を踏み出すと、意外、岩肌はしっかりグリップがきき、まるで滑る心配はない上に、流れる湯も適温で実に心地好いので、またまた驚いた次第。これは、本当に神の力のなせる業かもしれない、しかし、御神体を素足で踏みつけてもよいのだろうか? などと一抹の疑問を抱きつつ、最上部に上がって参拝。さらにその先で、道が行きどまりになっているあたりで展望の良い柵の縁で、再度拝礼。すると… 不思議、何ともいえず、心身が洗われるような思い。この、一種澄み切ったような感覚は一体何なのだろう? かつて、古代の人々が大自然の脅威を崇拝していた際の「想い」とは、正にこんな感覚のことをいうのであろうか…
 ともあれ、下りも滑ることなく、難なく御神体から下って無事に参拝を終え、帰りの順路を行くと、今度はそこに「足湯」があった。ズボンの裾をまくり上げて、ゆっくり足をつけると、これまた実に心地好い。全くもって「湯殿山」とは実に言い得て妙、などと思いつつ、私は、今日ここに立ち寄って、短時間ながら普段は滅多にできないような体験ができたことを、心底嬉しく思った。







 もう一つ出羽三山へ〜羽黒山(三神合祭殿)
 湯殿山への訪問後、我々はまた車で鶴岡市方面を目指して走り始めたが、驚きの連続だった湯殿山での体験の数々の印象はきわめて強烈で、興奮さめやらぬ感じのまま、鶴岡市に入った。時計を見ると、その時点で時刻はまだ午前中。まだ時間はある。それで、これまた折角だからと、ついでに出羽三山の一峰である「羽黒山」に訪れていくことにした。
 この山、私はこれまで数回訪れたことがあるが、最後に訪れたのが平成17年(2005年)の7/16だから、数えると実に13年ぶりの訪問となる。私自身の感覚では、ついこの間訪れたばかりのように思っていたのだが… 時の経過というのは意外と早いものだ。
 時間があるとはいっても、今日中に長野に戻らねばならないので、そうそう時間もない。それゆえ、特別天然記念物の杉並木を通過する有名な長い石段道からのルートは採らず、前回と同様、頂上の付近の駐車場まで車で上がり、まずは頂上にある「出羽三山神社三神合祭殿」を参拝の上、しばし付近を散策。
 「出羽三山神社三神合祭殿」とは、その名の如く、出羽三山の「月山」「羽黒山」「湯殿山」の各神社の祭神を併せ祀ったもので、ここに参拝すれば、出羽三山を全て参拝したことになるのだそうだ。もっとも我々は、先刻出羽三山信仰の「奥の院」ともいうへき「湯殿山」に訪れてきたばかりである上、3日前の8/15には福島市の信夫山で「羽黒山神社」に参拝してきたばかりなので、何やら妙な感じも多少はしたのだが、それでも、同じ祭神の神様に何度も参拝して悪いということもなかろうから、そのあたりは割り切って、素直に訪れることにした次第。
 ともあれ、現地の雰囲気自体は、13年前の訪問時と、さほど変わってはいなかったが、「三神合祭殿」の巨大で豪壮な建物には、改めて感心させられた。また、折角なので付近にある「出羽三山歴史博物館」も見学したが、そこでは実に見応えのある巨大な天狗の面が、相変わらず階段の上に展示されていたのが嬉しかった。というのは、実はこの天狗の面、13年前の訪問時に、次男が見て真っ青になって逃げ出したという思い出の代物で、私は当時の泣きそうな次男の顔を思い出し、現在の次男の顔と見比べながら、思いがけず愉快な一時を過ごすことができた。







 残暑の下、予定外の里山歩き〜桃山と鎌田山
 9/17、この日は、久々に須坂市近辺の「歴史巡り」をしてみようということで、長男と共に自宅発。どうせなら、これまで見たことのない歴史スポットに訪れてみよう、ということで、まず向かったのが、須坂市街地の東に横たわる「鎌田山」の山麓にある市指定史跡「吉向焼窯跡」。
 「吉向焼」とは、現地の案内看板によれば、旧須坂藩の第十一代藩主・堀直格(なおただ)が、当時の著名な陶工であった吉向行阿父子を招聘し、弘化2年(1845)9月に「お庭焼」(今でいう地場産の焼物)として創始したもので、陶器から磁器まで多彩な焼物が製作されたという。もっとも、それらは存外売れ行きが悪く、多額の赤字を出したため、嘉永6年(1853)、すなわち浦賀にペリーの黒船が来航した頃までの、わずか約9年間をもって製造は打ち切られてしまった。ただ、紅翠軒窯(こうすいけんよう)と名付けられた当時の「登り窯」が近年現地に復元され、わずかに往時を偲ぶことができる。
 我々は、鎌田山麓にある、その復元窯を見学したのであるが、そうしているうち、窯の前を横切って、遊歩道が延びているので、あるいはこの先にも何かあるのか… と思いつつ、何の気なしに歩いていくと、やがて道は登り坂になった。こうなると、ついつい上に行ってみたくなる。かくて、残暑の下、結構な汗をかきながら山稜上に飛び出て、左へ行くと「桃山」なる案内看板があった。もっとも、その最高点らしき地点もただ道は通過しているだけで、およそ頂上らしくないので、そのままノンストップで鞍部に下ると、そこに「坂田山尾根縦走コース 桃山(ももやま)登り口」なる案内看板があって、この山の名の由来が明確になった。それによれば、天保6年(1835)2月に、薬問屋の山城屋八右衛門(五代目茂明、現山下薬局)が、須坂藩主堀直格の命により、桃苗(杏)を819本、この山に植えたという。もっとも、今ではなくなってしまったのか、はたまた私の目が確かでなかったせいなのか、杏らしき木は特に見当たらなかったが。
 それはともかく、この鞍部からは、左折すれば吉向焼の窯跡に戻る道、直進すれば鎌田山に行けると判明。となると当然、鎌田山にも登ってみたいもの。それで、もう一汗かきつつ登り切り、490mの頂上に飛び出ると、そこからは眼下の須坂市街地をはじめとした善光寺平、さらにはその背後に連なる斑尾山、飯縄山、虫倉山などが雄大に見渡され… 暑い最中の、それも予定外の低山にしては、思いがけず爽快な気分をしばし味わうことができた次第。







 単なる神社詣でのつもりが、とんだ大汗〜秩父御嶽神社
 10/28、この日は夏季休暇以来、久々に「越境」しての「プチ旅行」を企画、群馬〜埼玉あたりの「寺社巡り」をしてみたく、早朝、家族数人と共に自宅発。まずは、以前から一度、訪れてみたいと思っていた、埼玉県飯能市の「秩父御嶽神社」へと向かう。もっとも、ここは一般の認知度的には、同神社の直下にあって、参拝時には自動的にその中を通過する「東郷公園」の名の方が通りがよいかも知れない。
 「東郷公園」。その名のとおり、日露戦争の日本海海戦において、有名な「丁字戦法」でロシアバルチック艦隊を壊滅させ、大勝利に導いた聯合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥ゆかりの公園で、現地における明治38年木曽御嶽山の行者であった鴨下清八氏が整備したものとのこと。園内には、上部の「東郷神社」辺りまで、当時の記念物がそこかしこに展示されているが、それらの中でも特に貴重なのは、日本海海戦当時に東郷元帥が座乗していた聯合艦隊旗艦「三笠」の、被弾して破孔の開いた甲板の展示であろう。私は、以前これと同様の展示を、横須賀の記念艦「三笠」艦上で見て驚いたことがあるが、改めて、あの堅い鋼鉄の甲板が、一度砲弾の破片を受ければ、かくも紙の如くに破れてしまうのか… と、往時の戦闘の模様に想像を巡らせ、感慨深いものがあった。
 他にも、東郷元帥の生前唯一の建立という銅像とか、「東郷神社」(扁額は東郷元帥の筆跡によるもの)などを見ながら行くのは、飽きず興味深いが、ただこの公園、結構急な山の斜面に設けられているので、道は当然ながら、ずっと登りゆえ、存外キツい。それでも「東郷神社」まで達し、やれやれ、これで目指す「秩父御嶽神社」まで、あとわずかだろう、と思ったが、甘かった。本当に大変なのはそれからで… それからしばらくして始まった石段上りには大いに閉口した。下から見上げて、それほどでもないと思った石段は意外と長く、3分の2くらい上ったと思われる頃には、すっかり息が上がってしまい、汗も額から目に入るほど流れ落ちる始末。下手な山より余程手強い。やっとのことで上り切ったが、到底すぐに社殿に参拝する元気はなく、脇のベンチに腰を下ろして深呼吸。
 しばし、そのまま半ば放心状態のまま一時を過ごしたが、やがて息が整ってくると、考えるとはなしに、次のようなことに想いを巡らせていた… ここの神社の名前は「秩父御嶽神社」。名からして、御嶽信仰の神社だが、そういえば私は今年、2度も木曽御嶽山王滝口の奥宮遥拝所や「三笠山」を訪れていた。然るによく考えると、木曽御嶽山の王滝口を開山した普寛上人は、ここ秩父御嶽神社にほど近い埼玉県秩父郡の出身であった。彼は御嶽山のほか、群馬県の三笠山なども開いたそうだが、ここ秩父御嶽神社と関係の深い東郷元帥が座乗した聯合艦隊旗艦の名は奇しくも「三笠」… と、ここまで考えて、あまりの偶然の符合に、我ながら驚いてしまった。しかも、今回私がここを訪れようと思ったのは、全くの思い付きであって、別に御嶽山ゆかりの地だからと意図して訪れたわけではなく、また私自身、御嶽教の信者というわけでもないのだ(!)。となると、あるいは、私が今日ここに訪れることになったのは、本当に何か「導き」か、あるいは「縁」とでもいうべきものなのか… ともあれ、そんな新鮮な驚きと、山登りまがいのとんだアルバイトを強いられたことによる印象の強烈さから、単なる寺社巡りの一つとして扱うに惜しく、あえて「山」に準じる記録として、ここに書き記してみた次第。







 「西」に行ったら「東」も行きたく…〜四阿山中腹の「東花童子」宮跡
 先に記した秩父御嶽神社もそうだが、今年はどうも「縁」というか「導き」というか、何か見えないものに引かれて訪れる「山」が多いような気がする。例えば、3/4に愛車が故障し廃車となった後に「お祓い」のつもりで訪れた「中之嶽神社」、5/6にたまたま「尾引城(横尾城)址」に訪れたのがきっかけで、翌週5/12に訪問することになった「松尾古城址」、四阿山頂上の祠(「山家神社」奥宮)が建て直されると聞いて、その前に一度、と5/26に訪れた同山、またその頂上で偶然、「山家神社」の押森宮司さんに出会ったのがきっかけで、6/23に訪れることになった「山家神社」中宮の「西花童子」… といった具合。そして今回、11/25に訪れた「東花童子」については、先に「西花童子」に訪問した後、実は「山家神社」の中宮は「西花童子」の他にもう一つあって、それは上信国境の「鳥居峠」から登る道の途中にあって「東花童子」と呼ばれている、ということを知り、それなら折角だから、是非その「東」の方も… ということで訪れることになった次第。これまた、先の経過から奇妙につながる「縁」のなせる帰結といえようか。
 もっとも、今回は「西花童子」の際(次男が同行)と違い、長男が同行。また山の雰囲気も、「西」の際には緑したたる牧柵沿いの緩い道を、足元の野草の花々に目を惹かれながらの登りだったが、今回は既に冬枯れて陽射しが明るい樹林の下、いくらか急斜面も含む登り。それでも目指す「東花童子」直下で展望が開けると、間近に烏帽子岳や浅間山、また西方に白馬連峰や、鹿島槍ヶ岳など後立山の連嶺が雄大に望める点は「西」の際と同様。ただ、今回は「的岩」の特徴ある露岩が、北アルプスの前景にいかにも意味あり気に見えていたのが印象的。
 かくて到着した「東花童子」には、3基の石祠が祀られており、その奥には、ちょっとした石垣に囲われた四角い平地があった。一見して昔、建物があった跡だと知れる。また、石垣のすぐ下の道脇には、嬬恋村で設置した案内看板があり、次のとおり記されている。
 「華童子の宮跡 古く吾妻山は、修験道の霊山で山頂には、白山権現が祀られていた。その信仰が高まると里宮との間に『中社』が祀られるようになった。その中社を『華童子の宮』と呼び、修験者(山伏)たちが加持祈祷などを行う場所となった。標高約1,800mの厳しい自然環境の中、この宮が吾妻山信仰の拠点であった事を物語っている。」
 要するに、以前は「中社」の建物があったということだが、その建物はいつごろ消滅して「宮跡」となってしまったのだろう? この点、案内看板には何も記されてなく、また、下山後にひもといた『長野縣町村誌』や『小縣郡史』などの文献にも、まるで記述が見当たらなかった。わからないとなると、どうも気になって仕方がない。私の調べ方が悪いだけなのかもしれないが…









 余剰時間に寄り道〜真田本城址
 先の「東花童子」宮跡から下山後、私は旧真田町経由で上田市街地方面へと向かったが、予想外に時間が余ったので、どうも勿体なく… 途中、折角だからと、旧真田町にある「真田本城址」に立ち寄っていくことに。
 この城址は『長野縣町村誌 東信篇』中「長村」の「古跡」の項中「眞田山古城」「村の未の方にあり」と記述されているもので、規模的に真田氏の本拠地とされている山城の址なのだが、その割には格別険しいわけでもなく、存外容易に本郭の上に立つことができる。ちなみにこの地を「山」としてとらえた場合、「頂上」は本郭背後の土塁の上、ということになるが、それよりも、眼下に拡がる真田の里の眺めの方に心を惹かれる。数年前のNHK大河ドラマ『真田丸』がまだ記憶に新しいせいもあってか、往時は真田昌幸や真田信繁(幸村)が、ここから領地を見渡したものだろうか… などと、つい想像してしまう。
 ところで、私のような「山登り」としては、この地を単に「真田本城址」とだけ呼称するには飽き足らず、折角だから、併せてここの「山名」を知りたいものだと思ってしまうのだが… それについては、先の『長野縣町村誌 東信篇』中「長村」の「山」の項に「眞田山」「本村未の方にあり」「未の方重林寺より登る」とあるので、これを素直に読むと、この城址の所在山名は「眞田山」であると思われる。然るに宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第3巻 上田・小県編』(戎光祥出版刊)の「真田本城」を見ると「十林寺城山」という別称が掲載されている。おそらく、どちらも当時実際に呼称されていたものであろう。では、今日あえて呼称するとしたら、いずれが適当かであるが、私としては、真田氏の本城址の山なのだから、やはり「眞田山」と呼びたいところではある。もっとも、一般には「真田本城址」という地名で通っている地でもあり、特に必要がない限り、あえて山名にこだわる必要などないのかも知れないが…







 小雪舞う中、寒いが爽快な山歩き〜小桟敷山
 先々週の11/25、四阿山中宮の「東花童子」宮跡への訪問時に、長男が同行したことは前述の通りであるが、その際は大して長時間の山歩きではなかったのに拘らず、帰宅後に「疲れた」「頭が痛い」とかいって寝てしまった。明らかに常日頃の運動不足のせいである。まだ若いのに、私より弱いとは情けない、このところ、休日というと自宅に籠りがちでゲームばかりしているからだ、これは、もう少し身体を動かさなければならぬ、というわけで、12/9、「長男鍛錬計画登山」(を口実として体よく長男を山登りに巻き込む作戦)の第一弾として、上信国境の「籠ノ登山」への訪問を思いつく。
 ところが… 湯ノ丸高原に車で駆け上がり、さらに「籠ノ登山」の登り口へと通じる林道を上がろうとしたところ、少し進んだら何とゲートが閉まっているではないか。したり、これでは行けない、さてどうするか… としばし考え、にわかに思いついたのは、湯ノ丸高原から群馬県側に少し越境した辺りにある「桟敷山」。ここなら行けるだろう、というので、早速、登山口へ車を走らせ、いざ登ろうとしたところ、にわかに周囲がかき曇り、挙句に小雪が周囲に舞い始めた。降り方からして本降りではないし、陽の光も適当に射し込んでくるので、さして心配はあるまいと思ったものの、微風に当たると結構寒い。しかも私一人ならともかく、今日は長男同伴だ。途中で寒くていやだなどと言われてはたまらない。では、どうしようか… と、また思案、しばらくして思いついたのが、「桟敷山」の隣の「小桟敷山」。こちらなら、「桟敷山」に行くよりは、若干所要時間が短くて済むし、また考えてみると、私は以前「桟敷山」には登ったことがあるが、「小桟敷山」の方には訪れたことがなかった。それなら、折角だから初訪問の山の方へ… とて、長男に意思確認したところ、彼も寒い中、できるだけ短時間の山歩きを望んでいたとみえ、かくて利害一致。そこで目的地を「小桟敷山」に定め、早速、歩き始めた。
 ところが、しばらく歩くと、意外、小雪はいつしか止んで、また周囲は明るくなり始めた。陽が射すと、先刻までの寒気は和らぐ。こうなると、やっぱり「桟敷山」にしようか… などという気も起こりそうになるが、ここはあえて気持ちを抑え、先の決定通り「小桟敷山」を目指す。行手には、その「小桟敷山」の丸く鈍重な姿が手に取るように見上げられ、その右側背景には、本来なら今日、訪れるはずだった「籠ノ登山」の、これまた丸く鈍重な姿。そんな光景を、一抹の口惜しさと共に見やりつつ、道はいつしか「小桟敷山」への最後の登りにかかる。足元にイワカガミの紅葉などを見つつ、ゆっくり登ることしばし、出発前に心配した割には、存外あっけなく頂上に飛び出た。想像した以上に広い、笹原の中の明るい頂上だ。広いだけに、明るい割には周囲の展望は樹木に遮られて、さほど雄大とは言えなかったが、それでも例の「籠ノ登山」の姿だけは、笹原と樹林の向こうに相変わらず良好に見渡せた。また、そんな光景を眺めているうち、空をよく見ると、ちらちらとダイヤモンドダストのような微小な煌きが舞っていた。やはり今日は結構、寒気が厳しいらしい。
 帰りは、元来た道を山麓の「せんべい平」まで下り、そこから左下の車道に下りて、駐車場まで戻ったが、車に帰り着いた頃にはまた風が吹き出し、小雪が舞い出した。やれやれ、今日はずっとこんな天気らしい、と思いつつ、自身の汗拭きタオルを見ると、何と寒気で凍って棒のようになっているではないか(!)、いやはや、これはたまらない、と車の中に避難し、しばし暖機運転の後、東御市側へと下った。







 冬枯れの中、軽い里山散策@〜八王子山
 今年はこれまで比較的雪が少なく、こんな季節になっても、前週あたりまでは2,000m近い山にも容易に訪れられるほどだったが、その後、ついに長野市周辺の山に雪が到来し、寒くて多少外出が億劫になってしまった。とはいえ、本当に外出しないで、ただ家にいるだけでは身体がなまってしまう。そこで12/16、せめて軽い里山散策くらいでも… とて、特に行き先は定めないまま車で自宅発。
 しばらくは、ただ何となく、国道18号沿いに南下しているうち、見るとはなしに千曲川対岸の上山田あたりを見て、ふと頭に浮かんだのが「佐良志奈神社」の脇から登る「八王子山」。ここなら雪もなく、至極気楽に歩けるだろう、と考え、早速、登り口に車を走らせる。
 この山の中腹には「八王子宮」の祠があり、そこまでは道も細いながら車が入る。その先にも林道は延びているが、落葉の季節、さすがにFF車では立往生の危険があるため無理もできず、後は徒歩で林道を八王子山の裏手まで上がり、そこから回り込んで、ほどなく樹林の中の狭い頂上に到着。もっともそこには、標識も何もなく、ただ、山城址の郭の遺構とおぼしき狭い削平地が何段か見られる程度の地味な場所。ここは宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第2巻 更埴・長野編』(戎光祥出版刊)に「八王子山砦」として紹介されているものだが、同書によれば、かつて山頂にお宮があったのを麓に移したらしく、だから砦ではないと地元の人は言っているとか。しかし宮坂氏の見解によれば「非常に目立つ山であると同時に、この山上に立てば、更埴地方は余す所なく見ることが可能である。これ程狼煙台や砦に向いた山はやたらにない。」としており、この点、私も同感である。
 そして、そのことを裏付けるかのように、山中のそこかしこからは、周辺の眺望が素晴らしく、殊に千曲川沿いに拡がる上山田、戸倉、坂城方面の俯瞰や、千曲川対岸に鎮座する「五里ヶ峰」、そして北には高妻山をはじめとする戸隠連峰の白雪をまとった豪快な姿などが、大いに目を楽しませてくれた。







 冬枯れの中、軽い里山散策A〜鬢櫛山
 先の八王子山から下山後、我々は上山田の街中で足湯につかったり、昼食を摂ったりしていたが、それでもまだ若干時間が余っている。そして天気も至極良好ときている。となると、折角だから、もう少し里山気分を味わってみたくなる。先刻足湯につかったせいか、心なしか足も軽くなったので、さればもう一箇所… というわけで、にわかに思いついたのが坂城町の「鬢櫛山」。ここは一帯が「びんぐしの里公園」として整備されており、頂上直下には温泉施設の「びんぐし湯さん館」があるので、そのあたりまでは主として入浴客で結構にぎわっている。然るにそこの駐車場から、「びんぐし湯さん館」の向かって左手から、頂上まで延びている道に少し入ると、先刻までのにぎわいが、まるで嘘であるかのように人気がなく、静かな雰囲気となる。冬枯れた山道には、よく陽が射し込んで明るく、また心なしか暖かい。樹間に太郎山の西にある虚空蔵山あたりの少し険しい山稜や、また狐落城址から三水城址に至る山稜(殊に狐落城址あたりの稜線は、連続する空堀と郭の遺構が遠目にも明瞭で興味深い)などを眺めつつ、のんびり歩くこと10〜15分で、難なく頂上着。お稲荷様の祠(カーナビの表示には「飯縄神社」とある)が鎮座する、落ち着いた風情ある場所で、そこからは先刻の八王子山と同様、北に戸隠連峰最高峰・高妻山などの白銀の姿が遠く望まれる。
 しばし、その場の雰囲気を楽しんだ後、元来た道を駐車場まで戻ったが、その帰途、今度は進路の右方、ごく間近に三角錐型の端正な山(自在山=岩井堂山)が目についた。私はその、まるでピラミッドのように目を惹く山容を眺めながら… なお若干残されている時間の使い道について、またしても新たなアイデアを胸に抱きつつあった。







 冬枯れの中、軽い里山散策B〜自在山中腹の「自在神社」
 千曲市上山田の八王子山に続いて、坂城町の鬢櫛山に訪れた後も、周囲はまだ明るく、時間もまだ少し残されている。となると、日の短い時期ではあるが、どうせなら時間の有効活用をしたいもの。まして、このところ何かと多忙で、こういう連続訪問がなかなかできない身の上であってみれば、なおさらだ。
 そこで、にわかに訪れてみようと思い立ったのが、先刻、鬢櫛山からの下りで間近に目にして心惹かれた「自在山」(「岩井堂山」)の中腹にある「自在神社」。この神社、一般の知名度はさほどでないが、いざ訪れてみると、険しい岩の直下の見晴らしの良い場所に建てられていて、なかなか見応えのある景観ゆえ、たとえ短時間でも、あえて訪れてみる価値は十分あると思ったのだ。というのは、私は以前、そこに一度訪れたことがあって、それが短時間ながら印象に残る情景であると知っていたからで… 以来、いつか再訪してみたいと、ずっと心の片隅にひっかかっていたところ、今回たまたま、鬢櫛山からこの山を望んだことが、再訪を決意するきっかけとなったというわけ。
 もっとも、以前の訪問は、帰宅後に調べてみたら、平成7年(1995年)の2/5と、もう23年以上も前の話であった(!)。どうも今年は、先の四阿山・根子岳をはじめ、そんな「山」が多いように思うが、その都度、時の経過のあまりの速さに驚かされてしまう。それも、脳裡に今も焼き付いている前回訪問時の記憶が鮮やかであるだけに、なおさらだ。この種の、時間感覚と現実の時間経過とのギャップを表現した話といえば、かの「浦島伝説」を連想するが、案外、そんな伝説が残るくらいだから、今回の私のような驚きを感じる人というのは多いのかもしれない。ただ… 浦島の場合は楽しく時を過ごしているうち、いつしか時が経過していたという話だが、それにひきかえ私の方はといえば、ただ、公私共に、目先の慌ただしさに追いまくられているうち、ただ時間ばかりが過ぎてしまったようにも思える。だとすると、果たして私のこれまでの人生とは、一体どれほど有意義であったのか、多くの時をただ無為に過ごしてしまっただけではなかったのか…
 それはともかく、目指す「自在神社」登り口までは、近距離ゆえ、さして時間はかからない。そこから神社までは、500段以上もある石段を上がらなければならないが、一段当りの段差はさほど大きくないので、10/28に訪れた「秩父御嶽神社」ほどキツくはない。それでも一汗はかかされた末、神社前の広場に到着。23年前の記憶に違わず、険しい岩の下に社殿が祀られている情景は、いかにも「神の棲家」といった感じで迫力がある。まずは社前に参拝の上、振り返ってみると、先刻訪れた「鬢櫛山」あたりが間近に望まれた他、先刻「鬢櫛山」からも眺めたばかりの、虚空蔵山あたりの特徴ある山稜の眺めが、夕刻迫る神社の背景をなしているのが、また何ともいえず趣のある情景であった。







 2018年最後の山〜男山(石清水八幡宮)
 今年も、はや知らず知らずのうちに時が流れ、とうとう年末近くになってしまった。何かと慌ただしい中、今年はもう山に行くこともあるまいと思っていたが… 思いがけなく「山」と名の付く場所に訪れる機会が、もう一度巡ってきた。
 それは、たまたま所用で近畿方面に訪れている際のこと。京都府八幡市近辺を通過する際、折角だから、この地に鎮座する「石清水八幡宮」に参拝していこうかと思いついたことによる。それで早速アクセスを調べてみたところが、この有名な神社の境内一帯が「男山」あるいは「八幡山」と呼ばれている「山」であるということが判明したのだ(!)。どうも私、何でも「山」と名がつけば、何となく嬉しい因果な性格ゆえ… 一も二もなく、そこへの訪問を決意。
 登るには、東麓の摂社「石清水社」から歩いて行くか、又は京阪本線「八幡市駅」から「男山ケーブル」で上がる方法があるが、所用の途中で時間限定の中とあっては、迷うことなく後者を選択。徒歩なら1時間近くを要するはずのところ、ケーブル利用わずか5分で「男山」の上へ。案内標識に従い、境内を右側から回り込むように歩いて参道へ。ここで行手に見える山門の先に、国宝指定の本殿が出現。端正な中にも威厳あふれる立派な社殿の手前両側に設置された、巨大な破魔矢に一驚しつつ、参拝。
 この神社の祭神は、八幡神である応神天皇の他、神功皇后、比淘蜷_(=「宗像(むなかた)三神」=多紀理毘賣命・市寸島姫命・多岐津毘賣命)も併せ祀られているとのこと。私はこのことを知り、何とはなしに親しみをおぼえた。というのは、私が幼少期に過ごした信州諏訪にある「諏訪大社」の祭神は「健御名方(タケミナカタ)神」だが、この「健御名方」と「宗像」が同一という説があり(確かに「ミナカタ」「ムナカタ」と、読み方は近い)、さらに諏訪と八幡と住吉は同体という伝承もあるとかで、もしこれらの説が本当なら、私の出身県である長野県を代表する神社の一つ「諏訪大社」と、ここ「石清水八幡宮」の祭神はかなり重なるからだ。
 いずれにせよ、平安時代初期の創建以来、京の都の西南(裏鬼門)を守護する重要な位置を占め、伊勢の神宮と並び尊崇されてきたという格式の高い宮だけに、青空の下、堂々と鎮座する端正な社殿を仰げば、文字通り神々しく、圧倒される思い。私は、2018年の終わりにあたり、ここを訪れることができたことは、何かの導き、あるいは「縁」かもしれないなどと思いつつ… 願わくば来年も、平穏無事な年でありますように、と、ごく自然な気持ちで社前に願っていた。