山行記録帳(2013)@
〜Yamazaki's Photo Diary 2013,@〜


 【山行・自然観察リスト】
 2013年最初の山〜皆神山  季節外れの羽化〜越年飼育のアオスジアゲハ
 富士山信仰の地探訪@〜埼玉県深谷市の仙元山  富士山信仰の地探訪A〜埼玉県小川町の富士山
 余剰時間にもう1峰〜埼玉県小川町の金勝山  徳川方に抗した勇戦敢闘で有名〜岩尾城址
 何と頂上で「仏舎利塔」に対面〜糠塚山  長閑な陽だまり里山歩き〜一重山(屋代城址)
 ゼフィルス類の越冬卵探索〜金井山(金井山城址)  良好な展望とカモシカとの出逢い〜妻女山
 春うららかな日の里山散歩〜光城山(光城址)  静寂さを保つ貴重な山域〜美ヶ原・物見石山
 レンゲツツジ群生地のすぐ上の寂峰〜袴越山  「世界の天井が抜けた」思いを実感〜美ヶ原・茶臼山


 2013年最初の山〜皆神山
 1/1、私にとって2013年初の「山」は、ここ数年恒例となっている「皆神山」で幕を開けた。このところ、何かと多忙で、山行に際しても、家族全員で訪れることのできる機会が減っている中、久々に家族全員揃っての「初詣」を兼ねての訪問。
 この山の頂上には県の重要文化財指定の「熊野出速雄神社」があるのはもちろん、最高点には富士浅間神社の石祠が祀られており、その背後の穴のあたりは最近はやりの「パワースポット」と言われている(!)など、年の初めに身を浄め、心機一転するには格好の場所ではあろう。実際、こんな雪の季節にもかかわらず、そこには結構多くの人々が「初詣」に訪れていた。
 ともあれ、我々も「皆神神社」の社前に拝礼した上、最高点まで上がってみると、薄曇りで展望は飯縄山が見渡せたくらいであったが、それでも所期の狙い通り、家族共々心機一転する(ような気がする)には十分の雰囲気であった。






 季節外れの羽化〜越年飼育のアオスジアゲハ
 昨年、10/14に、愛知県春日井市内で偶然、アオスジアゲハが街路樹のクスノキに産卵している現場に遭遇し、そのあたりを探したところ、幼虫を複数個体発見したので、長野ではほとんど見られない種類の蝶でもあり、持ち帰って飼育してみることにしたとは、昨年の「山行記録帳」に記したところであるが、今年1/5、無事蛹になっていた何個体かのうちの 1個体が、季節外れにもかかわらず、1/5に突然、羽化してしまった(!)。
 南方系の蝶であるため、気温の低下で死亡してしまわないよう、飼育容器を私の自室内に配置しておいたところ、どうも、年末年始の休みで、私もいつになく長時間自室内で年賀状書き等の作業に追われ、普段ならあまり使用しない石油ファンヒーターを、数日間にわたって長時間つけっぱなしにしておいたのが影響したらしい。元々、生態系の観点から、長野で放すわけにはいかず、標本化前提の飼育個体とはいえ、かくも季節外れに羽化するとは予想していなかったので、少なからず驚かされた。
 この種の翅の筋のブルーは、羽化直後に直射日光に当たらないと発色しないと聞いたことがあったので、あわてて陽光が射し込む廊下の窓際に持ち出したが(既にその時点で翅は十分伸びてしまっており、もう遅いとは思われたが…)、色はその時点でそれなりに青く、過去に私が遭遇した他の個体と比べても、さして遜色はないように見えたが、一応その場にしばらく放置、そのまま 2時間ほど経過したが、寒さゆえか動きが悪く、これなら外に持ち出しても逃亡される恐れはあるまいと判断し、陽が当たる庭木のアラカシの葉の上に載せ、デジタルカメラで画像撮影することに。と、首尾良く翅を全開にしてくれ… 思いがけず良好な画像を多く撮影することができた。もし、もっと温暖な時季に羽化していたら、敏捷な本種のこと、まず絶対にこれほどの画像を撮影することはできなかっであろうから… 予想外ではあったが、思いがけず好結果が得られた次第。






 富士山信仰の地探訪@〜埼玉県深谷市の仙元山
 新年初の週末となる1/6、この日は雪のない埼玉方面で、これまで訪れたことのない里山巡りをしてみようと、自宅発、上信越自動車道〜関越自動車道、と南下。
 こんな場合、よく同行する長男・次男が、この日に限っては、年末年始休み中の宿題が終わっていないとかで不参加、珍しく、長女が同行することに。そうなると、新年早々、あまり猛烈な所に連れて行くわけにもいかず… とりあえずは関越自動車道「本庄児玉IC」で高速を下り、さらに南下していくと、深谷市内で「仙元山」という表示がカーナビゲーションの画面上に現れた。変わった名前の山でもあり、また長女同伴でも無理のなさそうな山に見えたので、早速、その方向に車を走らせてみた。
 すると、現地は「仙元山公園」という公園になっており、麓の駐車場に車を駐め、林間のよく整備された道を上がっていくと、難なく神社のある頂上に出た。その神社の名を見ると「富士浅間(せんげん)神社」とある。それで、ははあ、「仙元」とは「せんげん」と読ませるのだなとピンときた。おそらく、関東地方に多い富士山信仰に基づく「浅間神社」の分祀のうちの一つに違いない。また、柏書房刊『日本の神様読み解き事典』(川口謙二編著)によれば、富士講においては富士の神「仙元大日」を創造神として祀るとあるので、おそらく山名はそれに由来するのであろう。ともあれ長女と共に社前に拝礼し、然る後、しばし周辺を見て回ったが… その間、こんな季節でも訪れる人の数は結構多く、ここが近隣の人々にとって格好の憩いの場になっていることが容易に察せられた。
 なお、帰宅後に三省堂『日本山名事典』で調べてみたら、ごく近い小川町にも同名の山があることが判った。変わった表記の山だけに紛らわしいが、それだけにまた、この地方の富士浅間信仰の深さを改めて知ることができた。






 富士山信仰の地探訪A〜埼玉県小川町の富士山
 1/6、先に行き当たりばったりで「仙元山」に訪問後、私は長女と共に車に乗り込み、また走り出したが… そのうち、またカーナビゲーションの画面に、今度は「富士山」という表示が出てきた。私はそれを見て、さては先の仙元山と同様、例によって富士山信仰の山に違いない、地図上の様子からして、これまた長女同伴でも、登るのは簡単そうだし、それに考えてみれば、今年第一に訪れた長野市の皆神山の最高点にも、富士浅間神社の石祠があったから… これは案外、何かの「縁」か「導き」かもしれない…(?) などと手前勝手な発想をし、また行き当たりばったりで、その「富士山」への訪問を決意。
 早速、カーナビゲーションにルート設定して車を走らせると、そのうち比企郡小川町に入り、やがて頂上にアンテナのある山が見えてきた。予想以上に開発の進んでいる山のようだと思いつつ、山麓に最近開発されたらしい団地の間を抜けて高度を上げると、じきに道は配水場の入口に達して終わった。その脇の木の枝に、頂上への登り道を示した手書きの小さい標識があり、上に向けて急傾斜で細い踏み跡が続いていたので、道脇に駐車し、その踏み跡を一気に登りつめると、難なく下から見えたアンテナ施設に突き当り、右に回り込むと頂上。周囲を樹林に囲まれた、展望のない頂上であったが、そこには三角点標石が埋設されており、標高182mという低さながら、先刻の仙元山よりは「頂上」らしい場所であった。また、アンテナ施設の金網の手前には、昭和55年と比較的新しい年代の「富士仙元大菩薩」と彫られた石碑が建てられており、当初の予想通り、ここもまた富士山信仰の地であることが確認できた。なお、その石碑の背後の金網には、二つに割れた石碑が立てかけられており、碑面を見ると同じく「富士仙元大菩薩」と彫られていたので、昭和55年の石碑は、おそらく建て替えられたものであろう。
 先刻の仙元山と比べると、大分狭く地味な場所ゆえ、ここにはさすがに人は来るまいと思っていたら、私と長女が登頂後しばらくして、 5〜 6人の親子連れが登ってきたので驚いた。このような地味な山でも、長野よりはずっと開けた「都会」の人々にとっては、やはり貴重な「憩いの地」であるようだ。






 余剰時間にもう1峰〜埼玉県小川町の金勝山
 1/6、深谷市の「仙元山」に次いで小川町の「富士山」に訪問し、下山した私と長女は、そろそろ車の進行方向を北、すなわち帰りの方角に向けたが、その途中、国道254号線に入ってすぐ、またまたカーナビゲーションの画面に「金勝山」なる、ちょっと気になる名の山が姿を現した。時刻は15:30位で周囲はなお明るく、地図上の様子を見る限り、何とか行けそうなので、長女には「すまんが、もう1箇所、山に付き合ってちょうだい!」と了承を得るなり、直ちにその方向に車を走らせた。
 そのまま国道254号線を北西方向にしばらく進み、「金勝山トンネル」を抜けた先で左折、その先でさらに左折して「小川げんきプラザ」への道に入り、少し上がっていくと、そのうち許可車以外通行止めの地点に達したので、そこで駐車、さらに車道を「小川げんきプラザ」へ。そこは、この地方における主要な森林体験学習施設のうちの一つのようで、研修室はもちろん、プラネタリウムなども備えている、結構立派な施設だ。プラネタリウムがあるなら、同伴している長女に見せてやりたいとも思ったが、残念ながら上映時間に合わず不可。仕方なく、本来の目標の「金勝山」頂上を目指す。
 「小川げんきプラザ」から先は、車道も尽きて山らしい道となり、アップダウンを2度ほど繰り返しつつ、「裏金勝山」経由で標高253mの頂上に達した。253mといえば、私の住む長野市よりも低い標高なのではあるが、ここ小川町あたりだと平地の標高自体が100mほどしかないから、それとの比高の関係で、相応に登りごたえのある山というイメージであり、実際、今日訪れた山々の中では、ここが最も「山」らしい場所であった。樹間からの眺望も割と良く、北に上州の名峰・赤城山、南西に比企三山の堂平山や笠山など… 正に「山高きが故に貴からず」という諺を形にしたような山である。もっとも時間が時間のせいか、ここではさすがに他に登ってくる者は一人もなく、夕暮れ迫る薄赤い陽光の中、私と長女はしばしの頂上での憩いの後、帰途についた。







 徳川方に抗した勇戦敢闘で有名〜岩尾城址
 今年の冬は、週末の度にどうも天候が思わしくなく、なかなか外出する気になれない日々が続いていたが、2/3の空は久々にスカッと晴れた。そこで、折角の機会だからと、長男・次男を伴い、10時過ぎに自宅発、佐久平へ向かう。当初は、どこかそのあたりの里山でゼフィルスの卵の探索でもしてみようとの思惑であったが、この日はどうも適当なポイントに当たらず… 昼食後、蝶はやめて城址訪問でもしようという気になった。
 にわかに訪問先として思いついたのは、たまたまカーナビゲーションの画面に表示された「岩尾城址」。この城址、天正11年(1583年)、徳川家康の意に沿い降伏することを潔しとせず、寡兵にして果敢に立ち向かった城主・大井行吉らの奮戦で知られる。最終的には力尽きて開城のやむなきに至ったとはいえ、それまでに何と徳川方攻城軍の主将・依田(芦田)信蕃と、その弟までを鉄砲で撃ち倒すという力戦をやってのけたとか。そんな地だけに、私もこれまでずっと気になってはいたが、案外これまで訪れる機会がなかったのだ。
 カーナビに従って車を走らせると、そのうち城址のすぐ下の「岩尾城主大井一族祈願所 龍登山観音院高岩寺 再興予定地」なる看板の立つ所に出た(注:平成15年に建物を解体撤去したが、近時再興を期する旨)。その横のスペースに駐車し、矢竹の茂る脇に上がる小道を行くと、すぐに「伊豆箱根三島神社」の鳥居の前に出て、そこをくぐり、石段を上がるともう三の郭址。依田兄弟が戦死したのはこの付近という。神社の社殿の右手を回ると二の郭、さらにその奥の、祠がいくつか祀られた土塁の先が本郭址。「山城」というよりは「平山城」に近い城址で、麓からの比高はきわめて低く、本HPのテーマ「山」としては物足りない場所ながら、本郭址の千曲川側に切り立った急崖の縁に立った際には思わず足がすくみ… なるほどこれなら、たとえ比高は低くても攻めるに難く、寡兵よく勇戦敢闘できたというのもうなずける思いがした。またここからは、佐久の名峰・茂来山をはじめ、南八ヶ岳連峰、北八ツ天狗岳、蓼科山等の眺めも良く、にわか思いつきの訪問にしては思いがけず得をしたような気分を味わえた次第であった。







 何と頂上で白亜の仏塔に対面〜糠塚山
 2/3、先の「岩尾城址」への訪問後、まだ若干時間があるので、帰りのついでに、たまたまカーナビゲーションに山名が表示された「糠塚山」に訪れていくことにする。もっとも私はこの山について、その時点で全く事前知識はなく、本当に単なる思いつきでの訪問であり… それゆえ、いざカーナビの誘導に従って行ってみたら、ほとんど頂上まで車で上がれてしまった上、頂上では実に意外なものに接して、少なからず驚かされることになった。
 というのは、何とそこには、白亜の仏塔(注:釈迦の没後、火葬にした後の遺骨=「舎利」を納めた塔=ストゥーパ)が建てられていたのだ(!)。ともあれ正面に回り、近くまで行ってみると、向かって左側に「世界平和大本尊信濃佛舎利塔」と彫られた石碑が建ち、塔の中には立派な金色の釈迦如来坐像が安置されていた。(注:後で三省堂刊『日本山名事典』で調べたら、インドのネルー首相から贈られた舎利を祀ったものという。) 「土足厳禁」の看板に素直に従い、靴を脱いで階段を上がり一礼。それから塔の正面に向かって左手にある寺院のような建物に行ってみると、正面の額には「日本山妙法寺」と記されていた。(注:これも後で調べたら、世界各地で平和運動を推進している日蓮宗系の宗教団体「日本山妙法寺大僧伽」の寺であると判明。)
 さらに、付近には俳人小林一茶の句碑があった。これも割と新しそうなものだが、碑面には一茶直筆の複写を彫り込んだものか、なかなか味のある筆跡で「ことし七月既望夏の糠塚山に上る勝景はさておき麓の村々魂送り火焚てなこりをおしみ天も隈なく晴れて仏の帰路を照し給ふさなから別世界なりけらし 一茶 精霊は立ふる廻の月夜かな」とあった。この文言から推するに、丁度盆の時期に登った際の情景であろうか。いずれにせよ、一茶が訪れるくらいだから、案外昔から親しまれている山らしい。
 なお、帰宅後に小諸市観光協会ホームページを閲覧してみると、この山の付近から望む浅間山の眺めが「小諸眺望百選」に選定されているとのこと。頂上付近では残念ながら樹木に遮られ、眺望は今一つだったが、少なくともこの山のどこかからは浅間山を良好に望めるポイントがあるということのようだ。また機会があったら探してみたいものである。






 長閑な陽だまり里山歩き〜一重山(屋代城址)
 2/17、千曲市にある中世の山城址(屋代城址)の山「一重山」に長男と共に訪問。
 屋代の街の東の背景をなすこの山は、「有明山」から北に延びる稜線の末端部に位置し、子供でも安心して遊び場にできるのではないかと思える程度の優しい容姿を見せて長閑に横たわっており、それだけに、地元の人々にとっては長野市の旭山や須坂市の臥龍山などと同様、朝な夕なに親しまれている身近な山であるようだ。それが証拠に、四季を通じていつ訪れても、必ずと言って良いほど頂上や途中の道で人に出会うし、「矢代神社」など神様仏様の類も多く祀られていることから、かなり以前からこの山域が地元の人々によって大切にされてきたことがわかる。もっとも標高的にはきわめて平凡ゆえ、「山城」の立地としては防御性にいささか疑問がなきにしもあらず。頂上には結構立派な往時の石積の遺構が見られるのだが…
 それはともかく、今回の我々の訪問の目的は「山城址」巡りにあらず、「雑木林」のこの山で、陽だまりの中の長閑な里山歩きを楽しみつつ、ゼフィルス類の越冬卵でも探してみようという趣向。結果、さして珍しい種類というわけではないものの、いくつかの卵を見出すことができたが、期待したほどにはその数は多くなかった。探し方が悪かったのか、はたまた人里近すぎることが災いしているのか…?






 ゼフィルス類の越冬卵探索〜金井山(金井山城址)
 3/3、長野市松代町にある「金井山」に長男と共に訪問。
 この山、中世の山城址(金井山城址)の山であるとともに、古くから各種石材用として珍重されてきた「柴石」の産地としても名高く、西面には見事な節理を見せる急崖が威圧的に露出していて、「里山」といえど、なかなかの風格をも兼ね備えている。
 もっとも今回の訪問目的は、そうしたこの山の「風格」に接するというだけでなく… ここ数年、この時期に恒例的に行っている、ゼフィルス類の越冬卵探索も目的の一つ。
 と… 2/17の一重山訪問時と同様、特に珍しい種類というわけではないものの、首尾良く複数の卵を見出すことができた。
 ただ、時間の経過と共に、山中の地面は霜柱が融けてぬかるみ、滑りやすく足場が悪い状態となり… 本郭址手前の空堀から頂稜左手の急崖の縁を巻くルートは長男同伴では危険と判断し、今回はその手前で引き返さざるを得なかった。






 良好な展望とカモシカとの出逢い〜妻女山
 3/9、心なしか厳しい冬の寒さも緩んできたかと感じられる日、私は勝手知った妻女山に訪れ、展望台から白銀の北アルプス連嶺や戸隠連峰、飯縄山等の遠望、またその周囲の雑木林での自然観察をしばし楽しんだ。
 その際、たまたま駐車場所の近くにひょっこり顔を出したのが、これまたこの山域ではすっかりお馴染みになっているニホンカモシカ。例によって、一定の距離をおいている限りは、特にあわてて逃げるでもなく、しばらくはその場に立ち止まったまま、じっとこちらを凝視していたので、私は、デジカメにこの日たまたま持参していたテレコンバーターを装着して、望遠撮影を試みた。
 と… 相手はその様子に何か不穏なものでも感じたか、別にこちらから近づいたわけでもないのに、いつになく早めに逃げ去るそぶりを見せたので(注:結局、また立ち止まってこちらを見たが…)、あわててシャッターを切った中に、カモシカがあたかも後足だけで爪先立ちしているかのような面白い姿勢で撮れた画像があったのが、今回の訪問の収穫と言えば収穫であった。
 無論、この山には今回のみならず、今年も主に自然観察目的で既に何度となく訪れており、半ば「日常」化しているため、最近はそれら訪問の全てについて本山行記録に記すことは割愛しているのだが… そんな中でも今回は、比較的良好だった展望や、また件のカモシカ君との出逢いもあり、割と印象的だったことから、特に一筆した次第。






 春うららかな日の里山散歩〜光城山(光城址)
 一口に「山」といっても種々あり、麓から大汗をかいて頂上まで登る「大変な」山から、頂上近くまで車などの交通機関利用で登れてしまう「楽な」山まで様々だが、安曇野市にある「光城山」は「楽な」山の代表例の一つで、頂上直下まで車で行けてしまう。世の中にはこんな山を「山」と認めない向きが往々にしてあるが、私が思うに、世の中のあらゆる事象にはピンからキリまであるので、あえて「楽な」山を「山」から排除する必要は全くなく、むしろ、そのような「山」があるお陰で、世間一般の人々が等しく大自然の「良さ」を享受することができるといえよう。
 春うららかな4月中旬のある日、私が「光城山」に訪れたのは、例によって「楽」な方法によってであったが… 樹間から望む常念岳をはじめとする北アルプスの連嶺や、頂上の「光城址」にある神社の厳粛なたたずまい、そして頂上付近に舞う越冬明けのヒオドシチョウの可憐な姿など… やはり訪れれば訪れただけのことはある「里山」の良さを改めて実感できた次第であった。






 静寂さを保つ貴重な山域〜美ヶ原・物見石山
 5/26、この日は珍しく、皆で山歩きをしようということで、家族全員の意見が一致した。このところ、私が山へ行こうと言っても、なかなか家族(特に女房)が同意してくれない傾向にあったので、これは私にとっては実に貴重な機会。
 で、どこへ行くかについては… 折角家族が久々に山に目を向けてくれたところでもあり、あまり猛烈な所へ連れて行って、また家族にそっぽを向かれてはたまらないし、低学年の小学生同伴でも体力的・技術的に無理がなく、かつ山上からの眺めも良好な場所、ということで、すぐに頭に浮かんだのが「美ヶ原」。それも、「王ヶ頭」や「牛伏山」のように俗化しておらず、かつこれまで家族で訪れたことのない場所ということで「物見石山」を選定。
 ここは、美ヶ原の中では「茶臼山」や「武石峰」などと並び、かろうじて静寂さを保っている貴重な山域の一つ。特に、頂上までの間の草原では、「美ヶ原高原美術館」あたりの様々なオブジェが立ち並ぶ「山」らしからぬ光景から完全に隔絶されるスポットもあり、そこでは思わず大の字に寝転んで空を眺めてみたいという衝動に駆られる。さらに進んで達した頂上は、八ヶ岳連峰や霧ヶ峰方面等の展望良好な好ピーク。ちなみに宮坂武男氏著『縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 信濃の山城と館 第3巻 上田・小県編』(戎光祥出版刊)によれば、「物見石」という山名や、そこからの眺望の良さ等から、中世の物見台あるいは狼煙台が設けられていた可能があるとのこと。
 このように、自然環境的にも歴史性的にも豊かなフィールドの中で、我が家族も相応にその雰囲気を満喫していたようだった。さて、これを機に、また我が家族が積極的に山歩きに足を向けてくれるようになるかどうか…






 レンゲツツジ群生地のすぐ上の寂峰〜袴越山
 5/26、美ヶ原の「物見石山」への訪問後、我々は松本方面に向かったが、まだ若干時間が残っており、いささか食い足りない気分を抱いていたところ… 松本に向けて下り始めた道の左手に、「袴越レンゲツツジ群生地」なる看板が目についた。何の気なしにカーナビの画面を見ると、すぐ近くに「袴越山」なる山の表示がある。
 そこで私の頭にピンとひらめくものがあり、すぐ路傍に停車して、件の看板の前まで行ってみると、それは松本市と本郷財産区で設置したもので、このあたりのレンゲツツジは6月下旬から7月上旬にかけてが見頃との旨、及びその観賞のための遊歩道の地図が表示されていた。もっとも「袴越山」への道は示されてなかったが、私はこれを見て、この遊歩道をたどって上へ行けば、楽に稜線上に出られるはず、そうすれば、稜線上には確実に「袴越山」頂上へと続く踏跡があるはずだと見当をつけた。
 それで私は車に戻り、家族に同行者を募ったが… 昼下がりの時間帯のせいか、皆眠そうで誰も話に乗って来なかったので、家族は車に待たせておくこととし、私一人で遊歩道を上へと駆け上がってみた。
 行くほどに、確かにレンゲツツジの株がいくつも目についたが、時季的に花の開花にはまだ早すぎ、狂い咲きの花すら見ることはできなかったが、その代わり、林床には小さく可憐なスミレの花がわずかに目を楽しませてくれる程度であった。
 遊歩道は予想通り、稜線のすぐ脇まで付けられており、適当な所で遊歩道を外れて稜線上まで上がると、これまた思った通り明瞭な踏跡があり、頂上はそれを南へ、わずか上がった所にあった。そこは南北に長く平坦な場所で、周囲を樹林に囲まれ展望のない、静かで地味な頂上であった。駐車場所から距離的・時間的には短かかったが、速足で上がって来たので、少なからず汗をかいたが、息を整えながら見回すと、最高点とおぼしき辺りに三角点標石が埋設されているのと、それより手前(つまり北)に、手書きマジックで「袴越山」の頂上であることを示す黄色いビニールテープが貼られている木柱が設置されている以外、特に目立った人工物は認められなかった。それでも、まがりなりにも頂上の表示がある以上、そこに登って来る私のような物好きが多少はあるものらしい。
 ちなみに「袴越」とは変わった山名だが、帰宅後に調べてみると、どうも袴の背後の腰にあたる部分=「袴腰」と似た形状をしていることが名の由来であろうと想像された。もっとも、「越」と「腰」で字が異なっていることが若干気になることと、『長野縣町村誌 南信篇』には山名すら記されておらず、三省堂刊『日本山名事典』にも掲載はされているものの山名の由来は記されていないことなどから、確信の限りではないが…






 「世界の天井が抜けた」思いを実感〜美ヶ原・茶臼山
 6/9、先に家族で美ヶ原の「物見石山」に訪れた際、私はその頂上から「茶臼山」方面を望み… 久々に同山に訪れてみたいという衝動にかられた。というのは、開発が進行した美ヶ原一帯の中にあって、わずかに残された往時のままの自然を保つ山域の中でも、同山は観光地「美ヶ原高原」の中心部からやや外れた位置にあるがゆえに、特に静けさを保っているエリアであるからで… 私は二十数年前に一度そこに訪れたことがあるが、その時の雰囲気を思い出し、是非もう一度、その雰囲気を味わってみたいと思ったのだ。
 そこで、6/9、私は、今度は単独で同山を目指すこととした。なお、二十数年前の訪問時には、美ヶ原高原の「山本小屋」あたりから、なだらかで牧歌的な草原の中の道を往復したが、今回はあえて下から、「美ヶ原県民の森」あたりからのコースを選択。
 と… 頂上近くに達するまでの樹林中の道は存外急坂かつ薄暗く単調で、台上の平坦な草原の情景がまるで信じられないほどであったが、それだけに、ようやく目指す茶臼山の頂上付近の明るく開放的な空の下に飛び出て、まず西に雄大な北アルプスの連嶺の威容を目の当たりにした瞬間には、かつて尾崎喜八が美ヶ原に訪れた際に感じたという「世界の天井が抜けたかと思ふ」気分を、初めて私自身、実感として味わえた次第。
 天候はやや曇りがちではあったものの、まずまず良好で、そのせいもあってか頂上には意外にも5〜6人の先客がおり、静寂そうな山の割には存外賑やかな印象を受けた。もっとも、「山本小屋」を中心とした美ヶ原中心部のあの喧騒さに比べたら雲泥の差ではあったが。ともあれ適当な大きさの石に腰掛け、適度な涼風に額の汗を拭って、周囲の眺めを楽しみながら、ほっと息をついた次の瞬間、何かが飛ぶ気配に、ふと脇の繁みを見ると… そこにはキアゲハの可憐な姿あり。その名の通り鮮やかな黄色の蝶が、青空の下、優雅に憩っている様子は何とも言えず長閑であった。